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古い昔からごく最近まで日本の経済の屋台骨を支え続けた鉱業,我々はもっと鉱業に感謝し,懐古してもいいのではないだろうか。

懐古には記憶を刺激する画像が必要である。

一般人なら尚更であるが,坑道内で撮影された写真を見る機会はまずない。今ならばデジカメで簡単に撮影できても,昭和30〜40年代といえば写真撮影は一種のイベントと見なされている時代であり,撮影にはそれ相応な理由が必要な時代である。
確かに各鉱山社史には坑内作業中の写真などが掲載されているが,その枚数は僅かで,さらにプロによってお膳立てされている感が強く,生々しさが伝わらない。スナップ的に撮影された写真を探していたが,聞いた話によると坑道内は温度と湿度が高く,カメラのようなデリケートな精密機械を持ち込むには憚られる環境にあるらしい。撮影機材がダメージを受けることが予想される坑内では撮影を行うのに相応しいイベントレベルが要求され,日常的な作業風景が写真に残る可能性は極めて低いだろう。故に作業者によって撮影された写真というのは正に”Live”であり一際貴重であるといえる。

まず最初に提示した写真はかつて釈迦内鉱山で測量技師として勤務されていた岩手県北上市在住の五十嵐敬一氏から提供していただいたものである。氏の長男である五十嵐育弘氏は私の同級生,このHPの制作に必要な情報の収集を手伝って頂いている。一般の人達は決して見ることができなかった稼働中の釈迦内鉱山の坑内,ご覧あれ。

以下の画像の版権は五十嵐敬一氏に属しており,許可なく転載を禁じます。

坑道だけを収めた写真。坑道のどの地点かは不明。カラー写真であることをみると昭和40年代後半の可能性が高いが不明。坑道を支えるアーチ状の鉄骨とそれを支える割木の状態がよく分かる。坑内を照らすランプの貧弱な光が坑道の闇の深さを語る。
写真の類似性から見て,上の写真と同じ時に撮影されたものと思われる。画像の下半分に坑内機器の一部と思われる部分が写っている。ローダーのバケット先端,あるいはベルトコンベアーの先端のように見える。
開山早期の写真。萩長森に置かれた第1立坑と第1鉱体を埋蔵する長面地区に掘削された第2立坑を結ぶ横坑の貫通点での記念写真。写っている人物は当時の測量主任である土田軍次郎氏両立坑の完成が昭和40年(1965年)2月であることを考えると,同年に撮影された写真の可能性が高いと思われる。
昭和42年,1ヶ月間で18度の斜坑を216m掘削するという日本記録を達成した時の記念写真。日本鉱業社史には「昭和43年4月,坑内斜坑コンベアー 1,803m等完成,3万トン体制に増強」とあり,その斜坑ではないかと推察している。写真所有者の五十嵐敬一氏は後列向かって右から2番目の人物。地上の人間には知る由もない,地の底の男達の情熱が伝わる写真。
坑道の貫通点での万歳風景。作業の装備や服装が明瞭に分かる貴重な写真。このような貫通点で祝賀イベントは頻繁にあり,どの場所なのか五十嵐氏の記憶は定かでない。左側の緑色の作業服が五十嵐氏。写真右下の「FUJICOLOR 12 72」の刻印がこの写真が1972年(昭和47年)12月のものであることを示している。この写真撮影の翌月,別会社に移行する予定が労組に提示され,同年6月,日本鉱業釈迦内鉱業所は釈迦内鉱山という別会社となった。

 

次に2010年8月秋田県鹿角市在住の高橋さんから戴いた写真を紹介します。

勤務されていたのは高橋春男氏,写真の提供はご子息から。

以下2枚の写真は昭和40年11月25日〜12月24日までの1ヶ月間における斜坑掘削新日本記録(日本新記録ではないのが面白い)達成時の記念写真。この出来事については日本鉱業社史および大館市史では確認することができなかった。私の想像だが,このようなイベントは専ら従業者らの士気を高めるために行われていて,記録自体が持つ重要性はさほど大きくなかったのではなかろうかと。もし記録自体が重要ならば社史にも記載されていたはずだと思うのである。

 

大勢の従業員らの記念写真。マゼンダに偏った色調は経年変化によるものだろうか。昭和40年頃のカラー写真ということはおそらく写真屋に依頼して撮影したもので,当時としてはかなり高額な費用がかかったものだと推察される。
左の写真は高橋さんと12名の仲間の写真,高橋春夫氏は向かって右から5番目の人物。高橋氏が所属する班のものだろうか。ブーツの生々しい汚れは彼らがどのような場所でどのような作業をしていたのかをリアルに想像させてくれる。

 


釈迦内鉱山の写真をお持ちの方,このサイトで紹介させて頂きますのでご一報下さい。