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釈迦内鉱山の第1立坑と選鉱場が置かれた萩長森。山肌にカサブタのように第1立坑の基礎部分が残っている。ここに本部が置かれた理由は定かではないが, すぐ西の長面地区にある第1鉱体へのアクセスの良さと,東をかすめる国道7号線が 搬出路として利用しやすいこと,立坑を支える地盤の安定性を重要視したのだろう。



旧羽州街道が萩長森の西に吸い込まれていく辺りに萩長森登山口がある。登山口というより『参道口』とでも言うべきか。開山に至って関係者は山の神に相当気を遣ったに違いない。

秋田叢書第一巻460頁,柞山峯之嵐巻之二 のセクションに次のようにある。
大館釈迦内村古戦場
昔,最明寺時頼公此の村に釈迦仏を納む,故に寺を建はしめ七日山と號あり。最明寺,奥州津軽へ通り給う。白沢村の辺に鎌倉街道と云ふて古き道形あり。釈迦内村南に古館あり。母衣絹御前の住所と云。同村に乱川と云有り。津軽と比内との故戦場なり。津軽の勢は陣場台村を陣営になし,寄合沢(右村の近くなり)諸将と合,軍評議す。比内勢は萩長森へ物見勢より後を隔て切れ,猶 々敗れ長く敗兵の走る処を今長走村と云ふ。陣場台の辺に釼ケ台と云 あり。津軽勢鍔を割,切羽を碎き,刀槍を打落されて悉く死亡したる所なり。今に刀槍の折朽たるなと出ると云ふ。

つまり,津軽藩との合戦の際,萩長森から偵察が行われていたということである。出典によると萩長森頂上から長走を見通せたともとれるが,私が確認した範囲では,頂上からはせいぜい白沢集落までしか見えない。

右の写真は昭和23年の萩長森の航空写真。南に面した山肌の中央だけ綺麗に刈りとられている。スキー場として利用されていたのだろうか。後日確認したい。

参道入口にある鳥居。ここから見上げる坂は相当に急。参道はほとんど最短距離で頂上に着くように造られている。
上 り始めて間もなく振り返ってみるといかに急な上りであるかが改めて分かる。足を滑らせたら鳥居の下まで転がり落ちそう。
上を見上げても勾配はすごく,見上げると頸が疲れるほど。松の間を縫う参道は根が露出していて,尖った岩が突き出ている。
その岩塊をよく見ると,鉱石を含むことで有名なグリーンタフ(緑色凝灰岩)。かなり広い範囲で見ることが でき,萩長森の少なくとも一部はグリータフで構成されているようだ。足腰の弱い人にはちょっと危険な坂。
途中右側に鉱山の遺構を見ることができる。何百年も経てばこの無機質なコンクリートの遺構も「遺跡」となることだろう。
ものの10分も経たないうちに頂上(169.4m)に到着する。頂上には石材でできた祠があり,祠の北面には『明治42年7月17日』と記さ れている。ここに祠を建てた人々は,将来この萩長森が鉱山として掘削されるとは思いも寄らなかったであろう。
頂上からは南側に開けた大館盆地を広 く見渡すことができる。麓がみえないのがちょっと悔しいが開けた視野が爽快である。(登頂日2006.10.9)