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写真撮影2006年9月24日,10月1日
写真はクリックで拡大します
実相寺墓所の傍,釈迦内新道からの道と松木からの道の合流点,ここはかつての合流点よりも坂の下側(松木側)に移動している。ブロック塀の前の一見歩道に見えるスペースは実はかつての道,中央の電柱がかつての分岐点である。旧道が折れ線のように分岐していたことが分かる。
旧分岐点の前に立つとガードレールの 後ろに旧道の遺構を確認できる。旧道は釈迦内新道側からの勾配を緩くするため盛土して建造され,このカーブより釈迦内新道側では周囲が相対的に低地になっていた。この分岐部に接して釈迦内新道側と松木側の道に挟まれた低地に古い大きな屋敷(通称カクトラ)があったが,その建物は現釈迦内公民館脇に移設されている。
坂の途中,明治7年(1874年)6月26日日景弁吉によって創立された向陽学校が置かれた実相寺の入口付近。向陽学校は釈迦内小学校の前身。実相寺は長い歴史を持つ名刹。唐糸伝説で有名な釈迦堂が明治初頭に移設されている。

実相寺の写真
さらに上り釈迦内神明社側(南東)を望む。この道は かつて獅子ヶ森方面の生徒が短絡路として利用した道,この坂は菅江真澄の『にえのしがらみ』に『微妙山実正寺の東なる小坂』と記されており,この坂を上りきったところの左手に後述する泉屋の屋敷があったことから『曾兵衛坂』と呼ばれていた。ここを下ると髪垂橋と いう小さな橋が乱川に架されていた。

参考文献:『火内』6号 昭和49年 日景健氏の記述より
200年余り前,江戸時代の紀行家菅江真澄は 上の写真の位置から釈迦内を図絵に収めている。画像は秋田県立博物館から特別に許可を受け掲載しており,転載を禁じます。

図絵をクリックして拡大してみると分かる が,釈迦内神明社の位置にはかつて釈迦堂がおかれており,杜の高い所に内外御神が祀られていた。遠方には獅子ヶ森も描かれている。尚,明治4年に釈迦堂は実相寺に移されている。

橋の位置関係をみると,鳥居の近傍に橋があり,旧釈迦内橋よりも上流側に架設されていたようである。印象としては旧髪垂橋の位置そのものという感じもしなくはない。

橋のすぐ上流で乱川の2本の川筋が合流しているが,このような川筋の名残を現在では確認することはできない。
坂を上り道が平らになる辺り,釈迦内のバス停付近,釈迦内のメインストリートである。この位置の丁度右手は旧公民館跡地,そこはかつて釈迦内村肝煎(江戸時代の村役人)であった日景八右衛門という大館屈指の豪農の屋敷跡で,家は酒造業を営んでいたという。(大館市史 第4巻219頁)

 私が子供の頃,そのすぐ隣はかつて自転車屋がありで,主人は「大将」と呼ばれ,いつも酔っぱらって仕事をしていた。
釈迦内バス停を通り過ぎると左手に家屋のないスペースがあり,その奥に旧釈迦内庁舎跡がある。近代国家の自治体としての釈迦内村は明治22年(1889年)に生まれ,昭和26年(1951年)大館町との合併によって消えた。この建物は合併時に建設されたと隣の酒田酒店(昭和30年創業)の主人が教えてくれた。今は大館市釈迦内土地改良区事務所になっている。

朽ち具合をアップで見る
   

釈迦内村の歴史

釈迦内村の歴史につい ては,『1591年1月17日 秋田家文書 出羽国秋田郡知行方御朱印写, 豊臣秀吉,安 倍(安東)実季(さねすえ)に知行を宛行い,実季を蔵入所代官とする。しやかない村 691石2斗8升4合(大館市史年表より)』と ある。安倍(安東)実季は今の秋田市と能代市近辺を治めた大名で,当時大館市近辺を治めていた浅利勝頼を和睦と称して能代の檜山城で暗殺し,その子浅利頼平は津軽に身を寄せた。その後,津軽氏の計らいで頼平は大館に戻 り,釈迦内など任されていたという(『大館の歴 史』より)遅くとも16世紀には 釈迦内村が存在していたこ とが分かる。

釈迦内地区の『日景』と『木村』

釈迦内地区は日景姓が圧倒的に多く,
木村姓がその次に続く。2006年6月15日現在のデータによる電話帳では大館市に205名の日景さんが登録されており,うち釈迦内学区居住者は140名,大館市全体の日景姓に対する占有率は140/205×100= 68%,木村姓は全体で279名,釈迦内学区にはは97名が居住,市全体に対する木村姓の占有率は97/279×100=34%である。大館市の日景さんの3人に2人,木村さんの3人に1人が釈迦内地区の人だということになる。2006年10月1日時点の大館市の人口は83,856人,世帯数は 30,906,1世帯当たり の人口は2.7人,単純に計算すると釈迦内には140×2.7=378名の日景さんと97×2.7=262名の木村さんが住んでいることになる。日景姓の大館市への集中は特に強く,同じ電話帳でみると北秋田市では8名,小坂町3名,鹿角市1 名の登録しかない。

松峰方面に向かうT字路がある辺り,左手前角はかつての履物屋。かつてここにはバスを安全に旋回させる ために誘導員が配置されていた。緑のオーニングの日景スミヨ商店(明治43年創業)の向こうには郵便局。かつての釈迦内村の中心であるこの辺りが古い釈迦内の雰囲気を最も残しているのではないだろうか。

左奥角の茶色い屋根が釈迦内村村長を5期17年間勤め た故泉清氏の家。古くは泉屋と名乗った。

1803年6月江戸時代の紀行家菅江真澄は紀行『にえのしがらみ』に次のように記している。

「十八日,松峯という山にのぼろうと,朝早く,昨 夜泊まった酒殿の主人作右衛門のもとを出立して……」

泉家は代々「曾兵衛」または「作右衛門」を称し,旅館を営み,明治期には酒造も行っていた。酒造を行っていた時期を江戸時代まで遡る資料はないが,その可能性が高く,登場する作右衛門は文政9年(1826年)に没した泉屋作右衛門であるという。

参考文献:『火内』6号 昭和49年 日景健氏の記述より
さらに進み中通り,手前は旧酒田土建,奥の三階建ての家屋は地元で「サンスケ」 という屋号で呼ばれていた木村弘文堂文具店(閉店)。寿司屋の看板の位置には「大館飲料」という清涼飲料製造会社があり,さらに進むと左手には 「桜田スーパー」という雑貨食料があった。

弘文堂の向かいから左に小道を50mほど入ると稲荷神社が あり,昭和45年頃まではその境内で奉納相撲大会が行われていた。私も出場したことがあるが,苦し紛れのプロレス技で反則負けを喫している。
上通り地区に進む, この付近の西側には家屋がなく,広く花岡方面を見渡すことができる。かつて田畑があった下内川流域は叢化し鬱蒼とした原野となり,遠くに見えるかつての修験者の山である大山(375.6m)だけが昔と変わらぬ姿を見せている(大山の頂上から見 た萩長森の写真

大館市史第3巻(下)902頁の地図と照らし合わせると,丁度この写真に見える範囲,つまり大森川下内川の合流点付近が最も地盤沈下の激しかった地域だということが分かる。昭和48年時点で最大沈下量は336.9cmを記録してい る(最終的な最大沈下量は9mもあったというが現時点では手元に資料なし)。この上通り地区も地盤沈下の影響から40戸中15戸が移転している。
この付近は30年以上前と殆ど変わっていない。右手にみえる「たばこ」とある店は木村商店(閉店), その手前には伊藤商店(閉店)。伊藤商店はかつて釈迦内地区の駄菓子屋の王者として君臨し,この店の前にはいつも自転車が所狭しと並んでいた。誰も「伊藤商店」とは呼ばず,「ケンジ」とか「ケンジのめへっこ(店っこ)」と呼んでいた。「ケンジ」はこの店の長男の名前に由来していると記憶している,確か「ケンイチ」が訛って「ケンジ」になったらしい。

小学校に向かう左の道が旧羽州街道で,右の道は明治時代にできた新道である。『釈迦内郷土誌』には『明治二十一年頃釈迦内白沢間ニ新道ヲ通ジタリ,路傍ノ 松並木ハ当時植付ケタルモノナリ』とある。「日本奥地紀行」のイザベラ・バードが通過した約10年後のこと。しかしその松並木は残っていない。

参考文献:『釈迦内村郷土誌』大正7年(平成元年復刻版)荒谷武三郎著
ここに昭和2年陸測部(現在の国土地理院に相当)発行の地形図があ る。

この道の両側に樹木を表す小さなドットが橋桁方面へと続いているのが分かる。やはりこの道は並木道だったのである。

尚,昭和32年発行の国土地理院地形図に おいてもこのドットを確認することができたが,少なくとも私が釈迦内に移り住んだ昭和44年にはすでにその並木は消えていた。

この道が松並木だった時代,道から望む萩長森や城ヶ森はさぞ絵になっていたことだろう。
三叉路を左に入る。母校はすぐ目の前。学校敷地の手前の筋を左にはいると学校の裏に回ることができる。

学校裏に回ってみる

校庭を囲む堤の前に立つ。旧小田医院が右手にある,小田けい先生は私たちが生徒だった頃から長年母校の校医を勤められていて平成12年(90歳)まで外来診療をされていました。

2011年8月6日逝去されました。享年102歳,明治43 年(1910年)生まれ(マザーテレサと同じ)。ご冥福をお祈り申し上げます。


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