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写真撮影2006年9月24日,10月9日
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松峰地区から釈迦内までの通学路は短いので,松峰地区の歴史的な経緯を中心に書かせて頂く。

黒鉱が残した最大の爪痕,それは地盤沈下である。地下に張り巡らされた坑道と汲み上げられた地下水の影響で地盤が弱い地区の沈下が起こり,集落全体(約100戸)が移転を余儀なくされた,それが松峰地区である


黒鉱は鉱石自体の強度はしっかりとしているが鉱床の周囲を軟弱な粘土質岩石で囲まれているため盤圧の維持に苦労したという。人工天盤式下向充填採掘法・コンクリート二重リング枠支保などの盤圧対策も結局は功を奏さなかった。移転は同和鉱業の補償により昭和48年秋頃から行われた。同時期の最大沈下量は336.9cmを記録してい る(最終的な最大沈下量は9mもあったというが現時点では手元に資料なし)。

<写真>昭和50年,東に荒廃した旧松峰地区,西に整然と家が並ぶ移転後の松峰地区
「国 土画像情報 国土交通省」より
松峰橋からスタートする。この松峰橋は平成 17年10月に竣工した新橋である。かつて地盤沈下が進行する中,倒壊の危険があるコンクリート製 の橋からより軽い木造橋へと掛け替えが行われたのである。この時代を逆行する橋の架け替えで橋幅員が減少し,松峰橋は車がすれ違うことのできない不便な橋になった。同時に橋材の変更はスリップによる転落死亡事故を誘発し「魔の橋」 という不名誉な名で呼ばれることになる。

釈迦内に向かわずに大山に登る
旧橋の橋脚は新橋のすぐ北側に残っている。橋の上部構造は木造だったが,橋脚はごらんのようにコンクリート製。
橋の袂からかつての集落があった場所を俯瞰する。一見,全く何もない。かつて集落があったこと自体が信じられない。古くは渡橋直後に 左下に降りる分岐があり,松峰町内を抜け大山方面に向かっていた。

菅江真澄の 旅行記にもその名が登場する歴史ある松峰地区,古くから住み慣れた先祖代々の土地から離れる住民の気持ちはどんなものだったのだろうか。

当時の市議,畠山勝蔵氏はその時の心境を次のように述べている。『なぜ私たちだけがそのための犠牲者とならなければならないのか』『私たちが生まれ,育ってきた土地を捨て去る気持ちはなかなか分かってもらえないのではないだろうか』

参考文献;毎日新聞 昭和45年5月9日付『われら秋田人(29)』
集落があった部分に降りてみる。道路の一部と思しきアスファルトを発見。旧橋の位置から考えると集落内を通っていた道の可能性が高いように思うが,かつて の住民に意見を聞きたい。
旧集落内を通過していた道と思しき遺 構を松峰橋に向かって撮影。かつて集落内を通っていた道の一部なのだろうか。
釈迦内に向かう道路は幅員が増され歩道も確保されきれいに整備されている。釈迦内に上る坂の右手前(写真のプレハブ小屋付近)には大館工業高校のラグビー部 のグラウンドがあり。さらに坂に近い部分には最近ドッグランが完成し休日には愛犬家達が集まっている。
釈迦内の旧道(羽州街道)にぶつかるT字路,ここはかつての姿と殆ど変わりない。道幅ぎりぎりまで家が迫る古い集落にありがちな傾向。右手の白い家はかつて履物屋,正面の緑のオーニングは日景(スミヨ)商店,左の家は釈迦内村村長を 5期17年間勤め た故泉清氏の家。

参考文献:達子勝蔵著 増補改訂「桂城文化と人物」昭和36年大館市文化顕彰会発行

実相寺〜学校へ

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