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昭和36年2月,釈迦内鉱山開山のきっかけとなった推定埋蔵量150万トンの第1鉱体がこの地区で発見されている。
昭和37年7月竣工の長面橋からスタート,かつて釈迦内鉱山が稼働していた最盛期にはこの橋周辺は川魚を捕る子供らの自転車で溢れていた。今は季節も秋ということもあるが,たとえ盛夏であっても閑散とした風景は同じ,強者どもが夢の跡。
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橋梁上から旧釈迦内鉱山の萩長森を望む。頂上付近にコンクリートの遺構が見える。下内川の水は澄んでいて,橋上から覗くと20cmほどの鮠(ハ
ヤ)と思しき魚影を確認できる。
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橋を渡り坂を上る,子供の頃は激坂だったが,今はなんてことはない。釈迦内地区は下内川による浸食でできた河岸段丘の上に広がっており,周囲の地区よりも高くなっているので,北部を除き周囲の地区へ移動するときにはこのような坂道を通る必要がある。 |
坂の頂上付近から上ってきた坂を見下ろす。勾配や距離の感覚が子供の頃と大きく違う。2/3のミニチュアという感じだ。
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坂を上り切ってぶつかる道が旧羽州街道である。子供の頃は全く意識すらしなかった
が,釈迦内小学校の通学路の本幹は旧羽州街道である。
かつての幹線道路であり,我々が歩いた通学路を遠いに昔は草鞋(わらじ)履いた数多くの人々が往来していたと思うとなんとも不思議な気分である。
しかし,
なぜ萩長森の西側の山肌を削ってまでこちらに街道を通したのだろう。おそらく萩長森の東側は芝谷地のような低湿地が広がっていて,近代工法なしには街道を通せるような状態ではなかったのだろう。
萩長森は火成岩でできている。山肌の岩を削った道は狭くても頑丈で気候の変化には強かったと推定される。雨が降ったら通られなくなるような道よりも狭くて落石の危険が多少あろうとも安定して通行できることが重要だったのだろう。萩長森東側の新道は明治20年頃の完成した松並木道だったという(『釈迦内郷土誌』荒井武三郎著より)。通学路は右折して南に向かう。
萩長森に道草をする
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| 数百メートル進んだ道路の左手(東側),ここはかつて釈迦内鉱山で働く人達のアパートがあった場所。かつてのこの地区の活気の象徴と言ってもいいだろう。砂利道の向こうにある草地と右手に見える生け垣の向こうにある建物がある周辺がその場所。左手奥の林の付近に遊び場があった。釈迦内鉱山の歴史を知る立石商店店主によると最初に建ったのは一番南側の棟(A-3棟)で昭和39年11月のことだったという。 |
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少し進んでA団地敷地の南西の角の辺
り,ササキ理容室。今でも営業している。隣の小松商店(昭和39年創業)はすでに店をたたんでいて,宅急便の取り扱いのみを行っている。
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| 上の位置からA団地敷地側を振り返る。正面の電柱の後ろ付近には平屋建ての集会所があった。ブロック垣と鉄網フェンスがアパート時代の遺構だと思われる。 |
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