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写真撮影2006年9月24日,10月1日
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獅子ヶ森バス停付近からスタートする。長木小学校学区との境界に近い。この近辺にある市営住宅も市内の他の市営住宅同様にかなり古い。

ここから南に数百メートルほどの地点に「樹海ドーム」 という日本最大級の木造多目的ドームが平成9年に完成している。
北に進み,大館郷土博物館(旧大館東高校)前交差点。大館東高校は昭和49年4月1日に開校し,平成4年,旧大館南高校と統合し大館高校となり閉校した。旧校舎は殆ど変わりない形で平成8年から博物館舎として再利用されている。

博物館員の方々は私の度重なる質問メールにも嫌がらずに答えてくれる。実は相当鬱陶しがられているかもしれない。

100mほど進んだ地点,大館家具木工協同組合の大きな屋根はケヤキの並木に沿ってなかなか風情のある構図を造る。ここはかつて道を隔てて向かい側にあった秋田県林業指導所の用地であった。
さらに進む,左の筋に入るとかつては大葛産業株式会社角東製材所(大正10年創業)という大きな製材所があった。同期生の野球部H君の御実家である。古くは小坂線代野駅から引込み線が敷設されていた。平成10 年まで操業していたが今は分譲住宅地となっている。
さらに進み台野道上のバス停付近,右手のかなり古い床屋はタカハシ理容,見覚えありませんか。
もう少し進んだ付近,左の筋に入るとかつて日鉱獅 子ヶ森住宅があった地区。今は当時の面影はなく,一般的な住宅地になっている。進行方向右手には鉄筋コンクリート造の市営住宅があり,さらに先には釈迦内体育館がある。
かつての日鉱獅子ヶ森住宅(昭和50年の航空写真)は残っているだろうか。道路は大方当時のものが利用されている様子。かつての鉱山住宅の家屋はもうないだろうと思ったら,ありました。数棟程度残っていて今も現役の住居として使用されている。妻壁の最高部付近に棟番号が残っている。写真の家屋は棟番号100番台。
尚, 日鉱獅子ヶ森という名称は日鉱が大館から消えて30年以上経過した現在(2006年10月時点)でも行政で用いられる地区の名称として使われている。写真の家屋は棟番号120番台。
もとの道に戻り進む。公園入口バス停付近で振り返る。獅子ヶ森公園は昭和27年9月5日,市制記念として開園,現在は実質的に消滅している。どこにどんな公園があったのか,今は全く分からない。バス停の名前と石碑だけがかつてこの周辺に公園が存在したことを示している。
公園の入り口を示す石碑。ゴミ収集の金網ボックスの影に半分隠れた姿がこの公園の哀れな運命を物語っている。
獅子ヶ森跨線橋の手前,歩道が増築されたのはいつだったか私には記憶にない。
跨線橋の上から萩長森を望む。跨線橋の上から滑らかに伸びていく線路を眺めるのはなかなか気持ちがよい。北に延びる奥羽本線を越えて萩長森の釈迦内鉱山選鉱場跡が見える。
跨線橋を越えて向羽立付近の下り坂,バスとすれちがう,古い釈迦内しか知らない人はバスのデザインが変わったことに驚かれるかもしれない。新型の車両だけデザインが変更されており,昔の色のバスもまだ運行されている。昔と違ってバスに乗っている人の数は少なく運行路線も整理され運行本数も大幅に減った。バス時代の終焉はすなわち大町を中心とした市街地集権時代の終焉でもあった。
昭和44年1月10日に供用が開始された7号線バイパスとの交差点,当初はこの近辺で唯一の押しボタン信号が設置され,面白半分に何度も横断を繰り返したことを思い出す。100mほど北に進むと自動車専用道路である大館西道路との合流点がある。
7号線を横断し釈迦内神明社前に至る。北を見るとかつては7号線バイパスに通じていた旧国道(昭和40年3月23日供用開始)は大館西道路の建築に伴い閉鎖されている。
写真の正面に見える道,かつては実相寺前の坂に通じていた細い道だった。乱川には小さな橋が架されその名を髪垂橋といった。なんと文学的で妖艶な橋名だろう。

釈迦堂にまつわる唐糸御前伝説で,御前の形見のの髪が包みからこぼれて橋の下に落ちたが,流れもせず沈みもせず垂れひたって留まっていたというのがこの橋の名の由来だという。

大館西道路の工事に伴い開削され,同名の無機質な新橋に変わり,歩行者と自転車だけが通行可能。


旧髪垂橋,架設年次を市に問い合わせたが不明。親柱には「最明寺時頼公旧蹟」と刻まれていた。

羽州街道が釈迦内神明社前と実相寺前を通っていたことと菅江真澄の図絵から推察すると,この道が旧羽州街道である可能性が高い。

参考文献:
大館市を知る雑誌『火内』2号 昭和47年

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