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利井常見寺四代半法話

 

明朗興隆興弘明弘

        


 

  利井 明朗

 本願寺第二十世広如上人によって得度す。
 幼にして父をうしない、八才にして利井常見寺の住職となる。
 安政元年(一八五四)二十三才にして、本山惣会所詰合を命ぜられる。
 元治慶応年間(一八六四−一八六七)京阪を往来して、南溪、超然、月性、宏遠等の先輩と議して、一派の宗是を定む。
 明治元年(一八六八)本山朝命を奉じて、御所を守護するに当りて、其の人数の乏しきを憂え、帰国して数十人の同志を募り、一隊を整えて長となり、岩倉具視、大原重徳、両卿の命により猿ヶ辻御警備の任に当る。
 明治四年(一八七一)頃より、一宗の基礎は有為の英才を育成するにありとし、連枝日野沢依(明如上人の御実弟にて富田本照寺に住す)を動かし三島郡に於ける東西両派の僧侶を集めて、「練学場」と名付け富田本照寺におく。
 明治十三年(一八八〇)五月広島に出張し、二十万円の教学資金を募り崇徳教社を建て進徳教校を設く。
 明治十五年(一八八二)本照寺境内に行信教校を設く。
 明治十九年(一八八六)一月八日本願寺派執行長に任ぜらる。
 大正三年(一九一四)六月大谷家嗣子照君(前光照門主)の保輔役を命ぜらる。
 同年六月老齢八十三才にして再度執行長となる。
 大正四年(一九一五)七月大正天皇御即位記念行事として日曜学校創設を発布す。
 大正七年(一九一八)十一月十九日、八十七才にて往生す。

明朗法語22KB
『よすみ法語』三代法語より

御遠忌所感7KB
宗祖六百五十回忌大遠忌法要にあたって

 


 

利井 

 安政六年(一八五九)十二月二十四日本願寺第二十世広如上人によって得度す。この頃、美濃の行照勧学に従って宗学をおさめ、次いで肥後の僧亮勧学について宗学を学ぶ。
 明治四年(一八七一)一月、兄明朗に子なき故、利井常見寺住職となる。この頃、京都に出て松島善譲勧学の提嘶を受く。
 明治十五年(一八八二)四月、兄明朗と共に行信教校を設立して、生涯真正なる僧侶を育英するを任とする。
 明治十九年(一八八六)四月、行信教校を常見寺境内に新築移転す。
 明治二十九年(一八九六)一月、勧学となる。時に六十二才。  明治三十九年(一九〇六)二月を以て住職を嗣子興隆に譲る。然れども学徒を教養して倦むことなく、身を以て範を垂る。化を受けし学生二千を超ゆ。先輩の勉学の道を開き、専精舎を開く。
 大正三年(一九一四)一月一日、往生す。行年八十才。法諡して専精院という。








妙法語90KB
『よすみ法語』三代法語より

利井師語録90KB

利井和上法話集・下

通俗『歎異鈔法話』

僧侶訓戒26KB

十二光讃法話

 



 利井 興隆 

 明治二十六年(一八九三)明如上人によって得度す。
 明治三十七年(一九〇四)第三仏教中学を卒業後、行信教校にてに宗学を学ぶ。
 大正七年(一九一八)行信教校々長の職につく。 大正十三年(一九二四)より、外、思想の頽廃と、内、異解の興起とをなげき、専精会を創立し、全国にその趣旨を宣布し、その支部約五十、会員一万に達せんとする。
 昭和二年(一九二七)七月、行信教校事務所並びに食堂二階等の改築を起工し、同六年、講堂並びに寄宿舎、専精会館等を改築す。
 昭和九年(一九三四)門信徒の教化に尽しおりしも、軍部の力とみに強くなり、仏典中の「勅命」の文字の使用を禁止し、訂正を強いられたり。そのさい単身大阪府庁におもむき了承せしむ。次で「お聖教問題」が起こり、『御本典』『御伝鈔』の文字改正を迫られしも、「聖教は祖師のみことぞ末弟の一加一減すべきにあらず」と孤軍奮闘、余生のすべてを生命をかけて戦った。
 昭和二十一年(一九四六)一月十五日、厳護法城の為に命をけずり、六十四才にて往生す。その朝本願寺より、「聖教の字句訂正旧に復す」と発令あり。不思議の因縁と云うべし。






興隆法語26KB
『よすみ法語』三代法語より

 




利井 興弘

常見寺(二十一世)

昭和二十一年 南方戦線より復員。
同年 行信教校々長に就任。
同年 専精舎主となる。
同年 専精会々長に就任
昭和三十三年 行信仏教学院長に就任

主著 『仏のいのちはわがいのち』 『愛情の表現』
    『道を求める人々のために』 『光と花』
    『味の歳時記』 その他




興弘法味


『よすみ法語』四代集より


 

利井 明弘

  左は常見寺二十二世住職釈明弘(ハンドルネーム・和風漏居)の成瀬国晴氏による似顔絵です。賛は藤本義一氏の落書きです。それにしても、「色即是空」の反語なら「色即是有」ではないでしょうか。西鶴には堪能でも、義一氏は仏教にはウトイようです。
 未だ法話集一冊も出していません。法話を読んで下さったお方は是非感想をお寄せ下さい。それによって法話集を出版するかどうか、決めようかと、厚かましいことを考えています。
 まず最初は、「十二光讃」の法話です。これは、北御堂の機関誌に九年ほど前に三年ほど毎月連載していた法話の一部です。今回こゝに上げるために、少し加筆したところもあります。本を出してしまうとこれが出来ないのがイヤなのです。和讃ノートも丁度十二光讃のところまで上げましたので、ノートともどもお使い下さい。






十二光讃法話

餐法録

土のぬくもり

 

 

ブラジル日記