| むずかしいっすね、これ。いえ、何も私が宣教するわけではないんですが。
一応カトリカ(カトリック教徒)としてですね、それなりの信仰というか、生活態度というか、人生に対する姿勢というか、 そういうものをしっかり持たないと、と思ってはいるんですが。 洗礼を受けた契機については、話せば長いので省略。
「善き羊飼い」のたとえばなしにあてはめるなら、私は彼の羊の群れから少々距離ができてしまった・・・が、まだ迷子になるほど遠くには来ていない、という感じでしょうか。いつでも戻れる、という安心感は一応あります。
けたぴんに見せるためにいろいろ子供用のテレビ番組やビデオを見ていますが、最初はあまりにも「つくられた大人の笑顔と、小突いてやろうかと思うほど無邪気でお人よしのキャラと、世間とあまりにも隔絶したユートピア」にアレルギーを起こしそうになりました。こういうものばかり見て、いきなりハードな世の中に接するから、子供が大人に不信感を抱いて反発するんじゃないか、と。 が、だんだん、「やっぱり大人は子供にこうあってほしいと願う世界を見せるものなんだ」と思いつつあります。それは実際に幸福に到る道への地ならしでもあります。「蛇のように賢く」なるには、社会に出ればいやでも経験によって知恵を身につけさせられますが、「鳩のように素直に」なるのは、人間に対する根本的な信頼がなければ難しいでしょう。「まずは他者に対する根本的な信頼」という教育は、間違っていないと思うのです。 が、特に真面目なカトリックの信者に対して感じるのですが、あまりにも素直に育ちすぎたために、社会に適応しきれずに悩むケースが少なくないように思います。
「鳩のように素直に」なりすぎた信者を叱ったり脅かしたりして、ますます内に引きこもらせるような指導者がいたら、私は怒りを覚えます。素直すぎる信者にさらなる素直さを強要してはいけません。そういう人に必要なのは、暖かい思いやりと慰めの言葉と、頼るべき人を見分ける知恵です。純真な人が、傷つくばかりの人生を送るのは、聖人に至る道と言えるかもしれないですが、耐えがたい苦しみを味わっている人には、むしろ知恵を授けるべきではないでしょうか。 けたぴんにはまだ早いですが、「ベイブ都会へ行く」というビデオを一緒に見ました。ベイブみたいに生きられたら理想的なんだけどなあ。 2000.11.16
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| 「恨みと赦しについて」
「モンテ・クリスト伯」の中で、伯爵が育ちのいい若者を連れてイタリアのどこかを見物する場面があります。
現在はもちろん、公開処刑は行われていません。が、もし行われていたら、伯爵のように、「人生とは何か、死とは何なのか」を知ろうと考えて処刑を見に行く人もきっといるのではないでしょうか。
モンテ・クリスト伯が復讐した相手のうち一人は自殺し、一人は目の前で妻が幼い息子を連れて心中したのを見て発狂してしまいます。それを見て初めて伯爵は自らの行為に良心の呵責を覚え、「最後の一人は赦してやろう」と決心するのですが、最後の一人も、赦されたとはいえ、死とおなじくらいの恐怖を経験させられるのです。
恨みとは、「不幸のプレゼントをもらったお返しをしたいという望み」といっていいでしょう。
が、残念ながら、「不幸のプレゼントをお返しすること」は、精神的に次元の高いこととはみなしてもらえないのです。
「私もね、イエスさま、どうしてですか、どうしてですかって心の中で叫んだことが何度もありましたよ」と言われた神父さんの言葉が忘れられません。
2000.12.3
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「天国泥棒」
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(マルコ10.31)」
実際のところ、悪事をはたらくことはそれほど大きな罪ではない…もっと罪深いのは神を恐れない傲慢である。とモリーナは言いたいのでしょうか。読んでいないのに感想を述べるのも何だか変ですが。いずれ読みたいとは思ってるんですよ。ただ、邦訳がないんで。 が、悪いことをやりたいだけやっておいて、最後に告解すればいいや、と思っているドン・フアンのような人物にもモリーナは鉄拳を加えています。ものには限度がある、てことか? どっちにしても、16,7世紀頃の人にとって、天国はそうやすやすと行ける場所ではなかったようです。
天国泥棒とは、言うまでもなく、「いよいよ死ぬというときに洗礼を受けるという人」のことです。
「地獄も天国もない」と、淡々と死を受け入れられる人は素晴らしいと思います。「神が信じられないから天国に行きたいとも思わない」と言って死ねる人も立派だと思います。
2000.12.9
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