お御堂

*願わくはマルチネモンタ(マルティネス・モンタニェース、彫刻家)の磔刑像がほしい。


「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ10.16)」

むずかしいっすね、これ。いえ、何も私が宣教するわけではないんですが。
一応カトリカ(カトリック教徒)としてですね、それなりの信仰というか、生活態度というか、人生に対する姿勢というか、
そういうものをしっかり持たないと、と思ってはいるんですが。

洗礼を受けた契機については、話せば長いので省略。
独身の頃は毎週日曜にはミサに行ってたんですが、けたぴんを産んでから忙しくなり、パパとの会話も比較的少なくなってきたので
週末くらい家族で過ごしたいという気持ちが強くなり、誘っても教会には行こうとしない(パパはカトリコではありません)パパに合わせて私も最近行かなくなってしまいました。・・・というのは言い訳かも。単に面倒くさくなったのか。

「善き羊飼い」のたとえばなしにあてはめるなら、私は彼の羊の群れから少々距離ができてしまった・・・が、まだ迷子になるほど遠くには来ていない、という感じでしょうか。いつでも戻れる、という安心感は一応あります。
が、羊飼いはおそらく少々心配げに私を見ていることでしょう。「あんまり遠くに行くなよ」と。
彼を喜ばせるために私はたまには群れの中に戻らなければならない、と感じているのであります。

けたぴんに見せるためにいろいろ子供用のテレビ番組やビデオを見ていますが、最初はあまりにも「つくられた大人の笑顔と、小突いてやろうかと思うほど無邪気でお人よしのキャラと、世間とあまりにも隔絶したユートピア」にアレルギーを起こしそうになりました。こういうものばかり見て、いきなりハードな世の中に接するから、子供が大人に不信感を抱いて反発するんじゃないか、と。

が、だんだん、「やっぱり大人は子供にこうあってほしいと願う世界を見せるものなんだ」と思いつつあります。それは実際に幸福に到る道への地ならしでもあります。「蛇のように賢く」なるには、社会に出ればいやでも経験によって知恵を身につけさせられますが、「鳩のように素直に」なるのは、人間に対する根本的な信頼がなければ難しいでしょう。「まずは他者に対する根本的な信頼」という教育は、間違っていないと思うのです。

が、特に真面目なカトリックの信者に対して感じるのですが、あまりにも素直に育ちすぎたために、社会に適応しきれずに悩むケースが少なくないように思います。
教会関係のホームページなどを見ますと、一般人にはとるにたらないと思われるようなことで、深刻に悩んでいる人がたくさんいることに驚かされます。やはり現代のカトリックの教義に、時代に即しない部分があることによるのでしょうか?「地獄に落ちるかもしれない」などと本気で恐れている人を見ると、かわいそうなほどです。
今の時代、地獄に落ちる人がもしあるとすれば、それは自ら地獄を選んだ人ぐらいだろうと私は思いますし、地獄が存在すると考えること自体、あまり健康的な考えだとは思えません。

「鳩のように素直に」なりすぎた信者を叱ったり脅かしたりして、ますます内に引きこもらせるような指導者がいたら、私は怒りを覚えます。素直すぎる信者にさらなる素直さを強要してはいけません。そういう人に必要なのは、暖かい思いやりと慰めの言葉と、頼るべき人を見分ける知恵です。純真な人が、傷つくばかりの人生を送るのは、聖人に至る道と言えるかもしれないですが、耐えがたい苦しみを味わっている人には、むしろ知恵を授けるべきではないでしょうか。

けたぴんにはまだ早いですが、「ベイブ都会へ行く」というビデオを一緒に見ました。ベイブみたいに生きられたら理想的なんだけどなあ。

2000.11.16


 
「恨みと赦しについて」

「モンテ・クリスト伯」の中で、伯爵が育ちのいい若者を連れてイタリアのどこかを見物する場面があります。
この若者は、実は彼の宿敵の息子です。この若者を伯爵は公開処刑の見物に誘います。
「死というものは非常に興味深いものですよ。これを見ないという手はありません」というようなことを言って、伯爵は愉快そうに笑います。
何十年もの幽閉生活という屈辱を味わったモンテ・クリスト伯の、複雑で陰影に富んだキャラクターをうかがわせるシーンだと思います。

現在はもちろん、公開処刑は行われていません。が、もし行われていたら、伯爵のように、「人生とは何か、死とは何なのか」を知ろうと考えて処刑を見に行く人もきっといるのではないでしょうか。
もしそうであっても、私は見に行きたくはありません。
「大勢の人が見物している中で処刑される気持ち」を味わった人が、今生きている人の中に一人もいない以上、それを他者に押し付ける権利は誰にもないと思うからです。

モンテ・クリスト伯が復讐した相手のうち一人は自殺し、一人は目の前で妻が幼い息子を連れて心中したのを見て発狂してしまいます。それを見て初めて伯爵は自らの行為に良心の呵責を覚え、「最後の一人は赦してやろう」と決心するのですが、最後の一人も、赦されたとはいえ、死とおなじくらいの恐怖を経験させられるのです。
結局、恨みとは、報復することによってしか消えないものなのでしょうか?

恨みとは、「不幸のプレゼントをもらったお返しをしたいという望み」といっていいでしょう。
これの「不幸」を「幸福」に変えれば、まったく健全なものになります。
つまるところ、「恨み」と「感謝」は、表裏一体の感情で、恨みは人間としてまったく自然なものといっていいのではないでしょうか。
マザー・テレサが、「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」と言ったように、恨みも感謝も
愛するものが存在してこそ生じる感情なのですから。

が、残念ながら、「不幸のプレゼントをお返しすること」は、精神的に次元の高いこととはみなしてもらえないのです。
「互いにゆるし合いなさい」というキリストのルールの下では。
が、たとえば「お礼をしたい」とプレゼントを渡そうとしてもそれが禁じられている場合は、それに代わる誰かに渡してあげるという方法があります。
どうしても愛することのできない恨みを抱く相手がいるならば、その恨みをキリストに向けるのが一番よい方法かもしれません。
丑の刻参りの藁人形のように、キリストの体に五寸釘を打ちこんでも、それはあなたの罪をキリストが受け入れてくれているのだと思えばいいのではありませんか?
罪人としての私たちは、いつでもキリストをいけにえとして血祭りにあげているようなものではありませんか?
不幸のプレゼントをいくら渡しても、キリストは決してお返しをくれることはありません。だからいくらでもプレゼントを渡してあげることができます。

「私もね、イエスさま、どうしてですか、どうしてですかって心の中で叫んだことが何度もありましたよ」と言われた神父さんの言葉が忘れられません。
キリストはもしかしたらこの世で一番理不尽な方なのかも・・・しれません。でも、付き合うって決めちゃったから付き合うしかないんです、ワタクシは。

2000.12.3 


 
 
「天国泥棒」

「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(マルコ10.31)」


ティルソ・デ・モリーナの代表作に、「不信心地獄」というのがあります。実は作品は読んでいないのですが、あらすじを簡単に述べたものを読んで、面白そうだと思いました。一言でいってしまえば、悪人であった者が、改悛することによって天国へ行き、信心ぶかかった者がそれを見て不条理だと感じ、神を信じられなくなって地獄に落ちてしまうという話です。
作者が修道士であるだけに、信仰に対する厳しさが感じられて、ちょっと背筋の寒くなる思いがします。

実際のところ、悪事をはたらくことはそれほど大きな罪ではない…もっと罪深いのは神を恐れない傲慢である。とモリーナは言いたいのでしょうか。読んでいないのに感想を述べるのも何だか変ですが。いずれ読みたいとは思ってるんですよ。ただ、邦訳がないんで。

が、悪いことをやりたいだけやっておいて、最後に告解すればいいや、と思っているドン・フアンのような人物にもモリーナは鉄拳を加えています。ものには限度がある、てことか?

どっちにしても、16,7世紀頃の人にとって、天国はそうやすやすと行ける場所ではなかったようです。
それに比べると、今は楽です。「天国泥棒」なんていう言葉があるくらいですから。

天国泥棒とは、言うまでもなく、「いよいよ死ぬというときに洗礼を受けるという人」のことです。
その行為が「ずるい」とは言えないでしょう。死に直面して、いろいろ悩み患っている人の心のケアになるというだけでも、「天国泥棒」させてあげるのはいいことなんじゃないでしょうかね。よーするに私としては、「生きてるうちが問題なのよ、死んだらそれまでよ」て感じなんで。

「地獄も天国もない」と、淡々と死を受け入れられる人は素晴らしいと思います。「神が信じられないから天国に行きたいとも思わない」と言って死ねる人も立派だと思います。
私自身はそれほど強くありません。・・・天国があるとでも思わないと、死ぬのはつらいだけでしょう。死ぬ前の一瞬だけでも、夢を見たいものです。

2000.12.9

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