| このHPのタイトル「レンコンの城」は、アビラの聖女テレサの著作「Castillo
Interior(聖母の騎士社の翻訳では「霊魂の城」)」からとったものです。
が、中身はスカスカなのでレンコン、というわけで。 神秘主義にもいろいろあるのですが、私が主に取り扱っているのは、アビラの聖女テレサ、十字架の聖ヨハネなどを中心とするスペイン神秘主義文学です。
実を言うと、アビラの聖女テレサ(以下、アビばあと表記。ボートク!)の「完徳の道」「霊魂の城」、十字架の聖ヨハネの「暗夜」などは一応読んだのですが、なんていうか、やっぱり神秘体験とか「神への燃え立つような愛」とかいうくだりにはピンとこないんですよね。
アビばあが面白いのは、神秘体験をした人であるにもかかわらず、ものすごく常識的な考えの持ち主でもあったことです。
修道生活とは、単調に陥りやすいわけで、そうなるとわずかな刺激に感覚が敏感に反応するようになり、ある修道女は聖体拝領にこの上ない恍惚感をおぼえるようになり、何回でも聖体のパンを口にしなければ満足できなくなってしまった。神父もこれを高い霊性のしるしと解釈して、求められるままにパンを与えていた。が、アビばあはこれを危険な傾向と判断し、無理やりにでもこの修道女が必要以上にパンを求めるのを拒否するようにと忠告した。その結果、修道女は正常な感覚に戻った、という話が紹介されています。いかに当時、熱心な修道者ほど常識の限度を超えて修行した結果、極端な行動に走ってしまったかという状況を垣間見ることができます。
アビばあ自身も、正体のつかめない神秘体験に不安を感じていましたし、必ずしもこれを歓迎しませんでした。
神秘体験について科学的に理由付けしようと考えるのはよしましょう。もしかしたら、アビばあが病弱でしばしば病に倒れたのが一因かもしれません。 アビばあから第一に連想されるのは、彫刻家ベルニーニが制作した、天使に愛の矢で胸を射られる、ドラマティックかつエロティックな像でしょう。
アビばあの言葉の中で有名なのは、「鍋の中に神を見る(si es en la cocina,
entre los pucheros anda el Sen~or)」でしょう。
なぜか、この言葉がどの著作の中にあるのか明記してあるものがないので、探してみた結果、「創設史」の中にありました。
だから、おなじボデゴン(厨房画)でも、スルバランよりむしろベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」とか、ムリーリョの「天使たちの厨房」が、この言葉にふさわしい作品だといえるでしょう。 アビばあが神秘主義文学者だからといって、その言葉を何でも神秘的に解釈してはいけない、ということがよーく分かりました。 画像リンク先: 2000.11.16
「異端について」 スルバランを研究するにおいて、修道士の生活がどんなものだったか想像する材料として、ミゲル・デ・モリノスの、「霊の導き(Gui'a
Espiritual)」は非常に役に立ちます。彼は1685年に異端として断罪され、彼の思想は「キエティスム」と軽蔑をこめて呼ばれました。が、当時の異端判決はさまざまな政治的要素が絡んだものであり、彼の思想自体、今日の目から見て危険とみなされうる要素はさほど見られません。ですから、異端宣告がされるや、プロテスタント側から一斉に歓迎されるという現象が起こっています。
この著書の中では、修道士が観想するにあたっての具体的な指示が明瞭に記述されています。
スルバランの描く高名な修道士たちは、あたかも乾燥状態にあるかのようです。しばしばその表情になんの感情も見出せないことがあります。これは、スルバランが意図してはいなかったとしても、乾燥状態を経験した修道士たちにとっては、親しみのもてる表現だったでしょう。そして、聖人のわざとらしい法悦の図よりは、このほうがずっと自分たちの魂を正しい方向に導いてくれるだろうと考えられたのではないでしょうか。 ところで、キエティスムから話はそれますが、かつてスルバランを異端と結びつける研究者もありました。
当時、何が異端とされるかの基準は微妙でした。ヨハ兄はまだ列聖されておらず、異端の疑いをかけられてもいました。
2000.11.21
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