「ナリンちゃんの冒険」
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… 第1話 …
ナリンちゃんは、とりあえず田舎者でしたが、ある大学に通うために東京へ出て一人暮らしをすることになりました。
「すごいベッドだ。」
初めてのナリンちゃんの一人だけのおうちは、6畳1Kと、比較的普通の広さでしたが、台所が強烈に狭かったので、仕方なく部屋の中に冷蔵庫をおくことにしました。
そのかわり、ナリンちゃんの新しい部屋にはスペースベッドがありました。眠くなると、ボタンを押せば、ギュルギュルギュルと天井からベッドが降りて来てくれるのです。ただ、本当はうんと下まで降りて来てもらえるはずでしたが、冷蔵庫があるおかげで途中で止まってしまうのでした。
「じゃあ、さよなら。」
引っ越しの手伝いがすんで、ママが実家に帰ってしまいました。
初めてのひとりぼっちの夜、ナリンちゃんはスペースベッドで号泣してしまいましたが、泣きながらずっと、ベッドの真下にいる冷蔵庫の「ヌーーーーンって
音がうるさいなあ。」と考えていました。
ナリンちゃんは泣いていても、笑っていても、怒っていても、わりかしいつも冷静でした。
… 第2話 …
たぶんみんなと同じように、ナリンちゃんも「東京に来たからには都会人になろう」、と心に決めていましたが、ナリンちゃんの新しいおうちは一年前まで山でした。
「アタシの実家の方がまだ...」
という心の叫びには知らんぷりすることができましたが、まだまだ開発途上のその町は、悲しいほどさっぱりしていて、ナリンちゃんはおうちまでの帰り道、
ほとんど何もないまっすぐな道を、えんえんと歩くのが退屈で退屈でしょうがありませんでした。
唯一の楽しみは、半分ほど行ったところに忘れたようにポツンと立っている、アオキイサオ邸をこっそり覗き見ることぐらいでした。
十中八九、同姓同名の別人なのでしょうが、それでもナリンちゃんは
「さすが東京だなあ。」
と、ときめいてしまい、そこを通るたびに少しでもゴルフ的なものを探さずにはいられないのでした。
そんなある日、学校から帰って来たナリンちゃんが、いつものように駅前でため息をついていると、後ろから知らない誰かの声がしました。
「お嬢さん、ちょっといいですか?」
ふりむくと、ギターを抱えた男の人が立っていました。
ナリンちゃんは、知らない人で、しかもギターなんかを抱えていたので、そのままだまってその男の人を見ていました。すると、その男の人がニコニコしながら言いました。
「ねえねえ、君ね、おうちに帰るまできっと退屈だろ?だから僕が、君がおうちに着くまで横で歌っていてあげるよ。」
「え、いいです。」
ナリンちゃんは普通の人だったので、当然すぐに断ってしまいました。
気まずく歩き出しながら、ふと思いました。
これじゃまるで普通の人みたいだ。せっかく都会に出て来たのだから、多少ヘンに見えてもウィットに富んだ生活をしなければ、と。
ナリンちゃんは、身も心も都会人へと変身するべく、ものすごく勇気を出してもう一度ふりむきました。
幸か不幸か、その男の人はまだナリンちゃんの後ろにいて、幸か不幸か、まだニコニコ笑っていました。
「あの、やっぱり歌ってもらえますか?退屈なんで。」
「いいよ。何を歌ってあげようか?」
「じゃあ、布施明で。」
それから、おうちまでの数分間、その男の人はギターをかき鳴らしながら「君はバラより美しい」を大きな声で歌ってくれました。ナリンちゃんは引っ越してから初めて、退屈じゃない帰り道を、ちょっと早足で歩きました。
「あーああああ君は〜〜〜ダダッダッダッダダダダ 変わったー!!」
彼はその道のプロなのか、ちょうどいい所でおうちに着きました。
身も心も都会人になりたいナリンちゃんでしたが、目の前で「変わった」と叫ばれると、やっぱり複雑な気持ちになってしまったのでした。
「どうもありがとうございました。」
「やあやあ、こちらこそありがとう。じゃあさよなら。」
「さよなら」
… 第3話 …
小さい頃のナリンちゃんは、いわゆるいじめられっこでした。
幼稚園の頃のある日、いつもナリンちゃんをいじめているトミちゃんという女の子が、何故かナリンちゃんのおうちに遊びに来る、ということがありました。
いじめっこののトミちゃんと、いじめられっこのナリンちゃんが一体何をして遊んだのかは、ナリンちゃんはもう覚えていませんでしたが。
その日、トミちゃんがやっと「もう帰る」と言ってくれたので、ナリンちゃんはおうちの近くまで送ってあげることにしました。
「もうここでいーよー。じゃあねー。バイバーイ」
「バイバーイ」
「バイバーイ」
「バイバーイ」
「バイバーイ」
「...バイバーイ」
えてして、子供というのはしつこいものですが、この時ばかりは、いじめっこのトミちゃんが「バイバイ」と言い続けるのに、いじめられっこのナリンちゃんがやめるわけにもいかず、嫌々ながらも「バイバイ」と、果てしなく言い続けるしかなかったのでした。
えんえんと「バイバイ」を言いながら、後ろ向きに歩き続けるトミちゃんのすぐ後ろには、大きなドブがありましたが、ナリンちゃんはそのことを教えてあげませんでした。
そういう訳で、ナリンちゃんは、何の保証もありませんでしたが、大学ではきっとクラスの人気者になろう、と心に決めていました。
… 第4話 …
初めての夜以来、ナリンちゃんはホームシックで泣いたりすることは一度もありませんでしたが、日を追うにつれ、それは環境の変化のせいだけかどうかはわからないにしても、何か「ズレ」のようなものを感じるようになり、体の中の見えない所でいつもとまどっている、といった具合でした。
一人暮らしにも慣れ、しばらくたった頃、ナリンちゃんは夜中の散歩を始めました。
今考えるに、それは「一人暮らしを満喫している自分」という演出にすぎず、そうやって体を張って形から入るところが、心とのバランスをくずす原因のひとつだったのかもしれませんが、当の本人はそれに気づく余裕はありませんでした。
ある日、いつものように夜中の3時頃、ナリンちゃんがフラフラと外を歩いていると、後ろから車が一台近づいて来てナリンちゃんの横で止まりました。
中には男の人が一人乗っていて、窓を開けてナリンちゃんに声をかけてきました。
「ねえ、何してんの?ヒマだったら乗らない?」
「なんでですか?」
「...お話がしたいんだよ。」
「そうですか。じゃあ、そっちが降りて来てください。ここにすわって話しましょう。」
「...。」
これも今考えるに、彼は結構いい人だったのかもしれません。
とりあえず車から降りて、それから一時間、二人は話をしました。
やがて彼は「寒いから帰る。」と言って、車に乗って行ってしまいました。
後に残ったナリンちゃんも、おしりが冷たくなって来たので、そのままおうちに帰ることにしました。
この出来事を幼なじみのトモルちゃんに話したところ、ナリンちゃんは「バカすぎる。」と、ひどく怒られてしまいました。ナリンちゃんはそれほど子供でもなかったし、確かに、そのまま車に乗せられて、不本意なことをしたり、されたりするのはまっぴらごめんでしたが、トモルちゃんにキーキー怒られながらも、
心のどこかではやっぱり「なんでお話するだけじゃダメなんだろう?」と考えている自分がいるのでした。
それというのも、東京へ出て来てから友達が出来ないナリンちゃんは、その男の人と話した一時間が、実はとっても楽しかったのでした。
「アンタみたいなのは、一度痛い目を見ないとダメかもね。」
最後にトモルちゃんは言いました。
それを聞いてナリンちゃんは、電話を切った後一人で笑ってしまいました。
これから先も、自分は「痛い目」を見ることはないだろう、と思いました。不確かな理想だけで行動する自分に対して、「痛い目」を見せてくれるほどの優しさを、ナリンちゃんはここには感じませんでした。
きっとみんな自分を置いて、「寒いから」と、帰ってしまうような気がしていました。
ちょっとだけ傷ついたナリンちゃんは、その日以来夜中の散歩をやめました。
そういう訳でナリンちゃんは、クラスの人気者になる予定のはずが、いつのまにか「変な人」と言われるようになっていました。それは、クラスの女の子がみんな着ているようなパステル色の服をナリンちゃんが着なかったから、というだけではありませんでした。
元いじめられっこのナリンちゃんは、もうひとりぼっちには慣れっこにになっていたので、逆にこの「変な人」という特別な響きを楽しむことにしました。
かといって、さすがにしばらくすると居心地が悪くなってきたナリンちゃんは、サークルに入る事にしました。
… 第5話 …
彼女はものすごく髪の毛が長く、ぶかぶかのコートを着ていたので、手元が見えず、うずくまって何をしているのか遠くから見た時はわかりませんでした。
「何をしているんですか?」
「『道』を撮っているのよ。」
「どうして『道』を撮るんですか?」
「歩いていると、次々に様子が変わって面白いから。」
「...アタシにはよく変化がわかりませんけど...。アスファルトとか、黒いだけだし。」
「『道路』の写真は撮らないわ。」
「...『道』ですか。」
「そう。『道』を撮っているのよ。」
サークルに入ると決めたナリンちゃんは、気が短かったので、2番目に見学に行った「パフォーマンス同好会」という所に入ることに決めました。
最初に見学に行ったフォークソング部で、部長らしき人のギターを囲み、輪になって踊りながら発声練習をさせられたので、とりあえず「変な人」を極める決意をしたナリンちゃんも、「変」にも種類があると気づき、気が短いながらもさすがにそこに入ることは思いとどまったのでした。
2番目に見学に行った「パフォーマンス同好会」は、なんだかけだるそうな人達がたくさんいました。
「あのう、パフォーマンスって、何をするんですか?」
「何でもいいんだよ。」
「何でもいいんですか?」
「何でもいいんだよ。」
そういう訳でナリンちゃんは「パフォーマンス同好会」なるものに入ることにしましたが、そこに決めた一番の理由は、気が短かったからでも、何でもいい、と言われて楽そうだったから、という訳でもなく、ある女の人がいたからでした。
その女の人は髪の毛がものすごく長く、(ナリンちゃんにとって)とってもすてきな服を着ていました。
彼女は「サイタマ イウコ」さんといって、写真を撮っているのだ、と言いました。
… 第6話 …
ある日の事、突然田舎から幼なじみのトモルちゃんが訪ねて来て、ナリンちゃんのちいさな部屋に泊まることになりました。
トモルちゃんは、双子で、チビで、説教くさくて、ちょっぴりネクラでしたが、ナリンちゃんはトモルちゃんが大好きでした。
「もし、アルプスの少女ハイジが花粉症だったら、死ぬと思う?」
「わかんない。」
トモルちゃんは、しょっちゅう意味のない仮説をたてて、誰かを殺そうとしますが、ナリンちゃんは気にしませんでした。
「そういえばさあ、モモホくん元気?」
「ああ、元気、みたいよ。アンタもう、何年会ってない?あの人、すっごい大きくなったよ。180cmあるよ今。」
「へえ〜...。」
ナリンちゃんはふと、小学校の頃のことを思い出しました。
その頃トモルちゃんは、今のチビのトモルちゃんからは想像もつきませんが、双子の弟のモモホくんよりもずっと体が大きくて、不思議に思ったナリンちゃんは、ある日トモルちゃんに聞いてみたのでした。
「ねえ、トモルちゃん。」
「なあに?」
「トモルちゃんとモモホくんは双子なんでしょ?」
「そうだよ。」
「なんでトモルちゃんの方が女の子なのに、モモホくんより3倍もおっきいの?」
「モモホがお母さんに告げ口するから、しかえしに毎日毎日、頭をなぐって小さくしてんの。」
「ふーん。」
そう言ってトモルちゃんが笑ったので、ナリンちゃんも一緒に笑いました。何年か後に、ナリンちゃんはモモホくんのことがちょっとだけ好きになるのですが、その頃は、毎日毎日なぐられるかわいそうなモモホくんのことよりも、なぐれば人は小さくなるんだ、という、人体の不思議の方に興味があったのでした。
「モモホさ、来年こっちの大学受けるんだってよ。」
「へえー、そうなんだ...。トモルちゃん、寂しくなるね。」
「全然寂しくないよ。」
「ふーん。」
そういえば昔から、ナリンちゃんは、トモルちゃんとモモホくんが仲良くしているのを見た事がありませんでした。確かに本人が言うように、トモルちゃんはちっとも寂しそうではありませんでしたが、それでも、いつもより何割増か挙動不審なトモルちゃんを見て、ナリンちゃんは、寂しい時って、寂しがるだけじゃないんだなあ、と思ったのでした。
「明日はアンタ、何してんの?」
「あ、ごめんね、明日はサークルの先輩と遊びに行く約束しちゃったんだ。とってもカッコイイ先輩なんだよ。サイタマさんって言ってさ、」
「ふーん。」
ナリンちゃんは、トモルちゃんとは長いつきあいなので、きっとこの後、トモルちゃんはさらに挙動不審になるだろう、ということがわかったのでした。
… 第7話 …
ある日、ナリンちゃんがサークルのたまり場に行くと、サイタマさんが待っていました。
「おいーす。」
「おいーす。」
「ねえ、ねえ、ナリンちゃん、午後ヒマ?」
ナリンちゃんはこの後一つ、授業がありましたが、なんだかめずらしくサイタマさんが何かに誘ってくれそうだったので、
「はい。ヒマです。」と答えました。
「ならさ、これからさ、ロッカクさんに会いにいかない?」
「は?ロッカクさん?は?誰ですかそれ?」
「すっごい面白い人。ね、行こう行こう」
という訳で、ナリンちゃんはその日の午後、授業をさぼってその「ロッカクさん」という人に会いにいくことになりました。
サイタマさんの後について、どんどん歩いていくと、学校のはしっこの、そのまたはしっこにある古いサークル棟に着きました。
「ここのねえ、一番上に住んでるの。」
「は?大学に住んでるんですか?その人?」
「うーん、みたいなもの?ロッカクさんはねえ、8年も大学にいるんだよ。」
「は?学生なんですか、その人?」
「うーん、みたいなもの?」
「.....。」
何故だかナリンちゃんは、一瞬だけ強烈に帰りたくなりましたが、とりあえずサイタマさんの後について、階段を下を向いたままとぼとぼ上っていくしかありませんでした。
ちょっとだけ、不安になったりもしましたが、なんてったってここは大学なんだから、そんなに怖いこともおこらないだろう、と思いました。
「さあ、ついたよーう。」
サイタマさんの声にナリンちゃんが顔を上げると、そこは廊下から階段の途中まで、いくつものイスや机がこれでもか、と積み上げられて溢れ出していて、どう考えてもそこから先に進めない、といった感じになっているのでした。
「サイタマさん。これなんですか!?」
「うーん、バリケード封鎖?」
「なんですかこれ?誰がやったんですか?」
「ロッカクさんだよ。気にしない気にしない。がんばれば通れるから。行こう行こう。」
ナリンちゃんは、ロッカクさんが大学にいる(たてこもっている)のは8年じゃなくて30年の間違いなんじゃないか、と思いましたが、サイタマさんがどんどんどんどん進んでいってしまうので、聞いてるヒマがありませんでした。
仕方がないので、ナリンちゃんもバリケードに突入することにしましたが、狭い所を無理矢理進んでいるうちに、買ったばかりのズボンのおしりが何かに引っかかってやぶけてしまいました。
もちろん、それをサイタマさんに言っているヒマもありませんでしたが、ナリンちゃんはぼんやりと、東京ではやぶれたジーパンがおしゃれだから、まあいいか、と考えていました。
… 第8話 …
デブな子供の会話。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド......
はるか前方からデブな子供が走って来た。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド.......
その反対方向から、もう一人のデブな子供が走って来た。
二人は交差点で出会うと、今度は並んで走り出した。
「お前、どこ行ってたん?」
「え、空飛んでた。」
「どうやって?」
「こうやって。」
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ〜」
暗転。
「サイタマさん、サイタマさん!!しっかりしてください!!」
「....はっ....。アラ、ナリンちゃん。ごめんなさい。アタシったら、ついトリップして、詩なんかよんじゃったわ。」
「...今の詩だったんですか。てっきり、どうかしちゃったのかと思いましたよ。いや、十分、どうかしてる詩ですけど。なんですか『デブな子供』って」
「久しぶりね、ナリンちゃん。トリップしてる間に4年くらいたったような気がするわ。」
「...トリップし過ぎですよ、サイタマさん。5分くらいですから、どっかイってたのって。早く戻って来てくださいよ、こっちの世界に。」
「もう大丈夫よ。やっとの想いでドアの前までたどり着いたのに、思わずトリップしちゃうなんて、やっぱりロッカクさんのせいね。まあ、いいわ。でもナリンちゃん、覚えておいて。4年間なんて、せいぜい5分くらいなものよ。...じゃあ、入りましょうか。」
「ハイ。サイタマさん。」
ナリンちゃんは、4年は4年だよなあ、と思ったけど、とりあえず今は早くロッカクさん、という人に会ってみたい気持ちでいっぱいだったので、サイタマさんのその言葉については、あまり深く考えなかったのでした。
… 第9話 …
ナリンちゃんがその部屋に入って、まず思ったことは「この人って本当にロッカクさん??」ということでした。
思ったよりもその部屋は広く、窓も多いので、明るい日差しもさしています。
文字通り、足の踏み場も、手のつき場も、身の置き所もなかったここまでの道のりに比べると、まるで別世界のようでした。
とにかく、ロッカクさんであるはずのその人は、部屋の隅の方にニコニコ笑って腰掛けて、二人を待っていたようでした。
それはとっても不思議な感覚でした。
サイタマさんが「ナリンちゃん、この人がロッカクさんだよ」と言って 指差しているのに、ナリンちゃんにはその人がロッカクさんのようにはどうしても見えないのです。
そもそもここに来ること自体、突然でしたし、ナリンちゃんにとってロッカクさんがどう、という事よりも、サイタマさんに誘われた事の方が嬉しかったりしたので、ロッカクさんについては特に「こんな人かなあ、あんな人かなあ」なんて想像したりなんか、勿論していません。
ですから、目の前のロッカクさんが「予想外」の顔だった、という訳でもないのです。予想なんかしてないんですから。それでもナリンちゃんには、どうしても、どうしても、目の前の人がロッカクさんであるような気がしないのでした。
「やあやあ、君がナリンちゃんかい。こんにちは。よく来たねえ」
ナリンちゃんのとまどいをよそに、ロッカクさんであるはずのその人は、ニコニコ笑って言いました。
「こ、こんにちは。はじめまして。」ナリンちゃんは、この状態がよくわからなくなって、混乱していましたが、別にこの人がロッカクさんで あってもなくても、何一つ問題はないんじゃないか(一つくらいはあるかもしれませんが)、と気づいたので、とりあえず気にしない事にしました。
でも、せっかくナリンちゃんが気にしない事にしたのに、またもや予想(してないけど)外の事が起きたのです。ロッカクさんは挨拶もそこそこに、こう言ったのです。
「ねえねえ、ナリンちゃん、僕は先を急いでいるんだ。だから早く、君が最近、一番傷ついたことを教えてくれないかい?できるだけ早く、だけど詳しくね」
あんなに苦労して階段を這い上がってやって来て、会ったばかりのその人はその人には見えなくて、さらに会ってまだ2分しか立ってないのに、なんだかとってもつっこんだ質問をされてしまったナリンちゃんは、当然のことながら、しばらく何も言えませんでした。
でも「早く、早く。僕は急いでいるんだ」とせかされたので、割と素直なナリンちゃんは、しょうがないので一生懸命考えました。
そして、ボンヤリと思い出したのです。
… 第10話 …
ナリンちゃんは、思い出しました。
と言っても「一番傷ついたこと」を思い出したのとは、ちょっと違いました。
確かに、ナリンちゃんは少し前に、とってもとっても傷ついたことがありました。
お休みに帰省した時のことです。久しぶりの友達に会いたい、と思ったナリンちゃんは、そのこに電話をかけましたが、居留守を使われてしまったのです。
どうしてそんなことになったのか、あんなに仲良しだと思っていたのに、と、ナリンちゃんはとってもショックを受けたのでした。
ですが、東京に戻り、しばらくたち、サイタマさんや、学校のみんなと過ごしているうちに、なんとなく忘れてしまっている自分に気がついたのです。
傷ついたことさえ、なかったみたいに。
ナリンちゃんは考えました。仲良しってなんだろう?友達ってなんだろう?
傷つくってなんだろう?って。
でも、そんな風に長ったらしく考えていたということを、会ったばかりの人に話すのは、フツウの人のナリンちゃんには難しかったので
「傷ついたことはありません。」と答えました。
すると、ロッカクさんはびっくりしたように笑いながら、
「傷ついたことがない?なんだ、それは困ったねえ。とっても困ったことだよ。」と言いました。
「どうして『困ったこと』なんですか?傷つくことがない、って、いいことなんじゃないんですか?」
「それは違うよ、ナリンちゃん。人は傷つくことが何もないと、とっても困ったことになるんだよ。」
「困ったことになるって、どうなるっていうんですか?」
「『言葉』を失ってしまうんだよ。」
「...言葉?」
「人はね、傷つくことがなくなると、もう、言うべきことがなくなってしまうのさ。それにね、それよりももっと困ったことがあるんだよ。」
「それは何ですか...?」
「わりとたくさんの人がね、たとえ傷ついたことがあったとしても、それをわざとにしろ、無意識にしろ、砂をかけてなかったことにしようとしようとするのさ。それが一番いいことだと思っているのさ。うまく、生きて行くためにね。でも『傷ついたこと』ってのは、砂をかけてもなくなっちまうわけじゃない。どんどんどんんどん、心の袋にたまっていくのさ。澱のようにね。するとどうなると思う?」
「どうなるんですか?」
<
「口から『言葉』を出したとしても、それがぜーんぶ、カラカラの砂みたいに、意味のないものになってしまうのさ。
それって、何も言えなくなることより、ずっとこわいと思わないかい?『言葉』が『心』を失ってしまうのさ。」
ニコニコしながら話すロッカクさんを見ていると、今まさに言葉が出なくなりそうなナリンちゃんでしたが、いろんなものをふりしぼって、こう聞いてみました。
「...それで、ロッカクさんは、急いで人に『傷ついた話』を聞いて、どうするんですか?」
「そう、僕は急いでいるんだ。できるだけたくさんの人に『一番傷ついた話』を聞かなくちゃならないんだ。何に、どう傷ついたか、ってのは、一番その人のことがわかるからねえ。」
「...それで、話を聞いてどうするんですか?」
「論文を書くんだよ。」
「論文!!??」
「そう、論文だよ。論文を書いて、僕は発表するよ。どこに、なんて知らないよ。とにかく、研究して、論文を書いて、発表するんだ。絶対にやるよ。
よく、いつかこうしてやる、ああしてやる、なんて、夢みたいなこと言っといてさ、いつの間にか生活の垢にまみれて、本当にタダの夢のまま終わらせちゃうヤツらがいるけどね。
僕はやるよ。だから急いでるんだ。何故って、僕は飽きっぽいからね。急がないとさ、飽きちゃうかもしれないからね。でも僕はやるよ。いつか論文を書いて、発表するんだ。」
ナリンちゃんは、あっけにとられて見ていました。そして、少しだけ、感動していました。
でも、ロッカクさんの論文は、永遠に発表されることはありませんでした。
ただ、ロッカクさんの名誉のために付け加えておくと、それはロッカクさんが、生活の垢にまみれたからでも、論文を書くのに飽きちゃったからでもありませんでした。
それは仕方のないことでした。
でも、まだそれは先の話。
つづく。