Baghdad Burning イラク女性リバーベンドの日記
…いつかあなたと会いましょう、弧を描き流れる河の岸辺で。そこは心を癒し魂が甦る街、バグダード…
2005年3月23日水曜日
2年間…
あれから2年たった。この2年間は20年のようにも感じられる。けれど戦争が始まった日のことは昨日のように思い出される。2年間…
2003年3月21日、空は赤や白のサーチライトに照らされ、地上はすさまじい爆発で揺れ動いていた。爆撃は3月20日の夜明けに始まったが、本格的な攻撃は21日からだった。 最初の激しい爆撃が始まったとき、私は階段にいた。我が家で2、3週間過ごす予定になっていたおばのために私の部屋から重い綿のマットレスを引きずり降ろそうと奮闘していた。
突然、遠くでヒューーーーという音が聞こえ、それは次第に近づいてきた。私は急いでマットレスを階段の下に投げ落とそうと引っぱった。それから押してみた。階段の途中で立ち往生したその時、ヒューと鳴る音がもっとも激しくなった、まるで私の頭の中から響いてくるようだった。私は再びマットレスを押した。階段下に引きずり降ろすためE.を呼んだ。しかしEとイトコはミサイルがどこに飛んだのかを見るために外に出ていた。それで位置を変え、重いマットレスを蹴り始めた。どんなふうに落ちようと気にしなかった。ただミサイルが当たったとき1階にいたかったのだ。
マットレスは、やっと残りの10段をすべり落ち、階段の下でドスンと止まった。今にも大爆発が来そうで、私は急いで2段ずつ階段を飛び、マットレスのあとに続いた。必死になって1階めがけて走ったら最後の段でつまずき、階段下の綿の山に落っこちた。その瞬間爆音が響いた。続いて大きな爆発が何度かあった。それは、40何時間聞いてきた今までのミサイル音とまったく違っていた。
その瞬間家の中は騒然となった。両親は走りだした。父は電池式ラジオを探し、母はストーブの火が消えているか確認した。母は振りむきざま私たちに「安全部屋」へ行くように大きな声で命令した。「安全部屋」はダクトテープと柔らかいクッションが張り巡らされていて、イトコは「防空壕」と言っていた。滞在していたおばは、甲高い声で2人の孫娘を探しながら走り回っていた(彼女たちはすでに母親と一緒に安全部屋にいた)。イトコは石油ストーブを消し、爆発の衝撃でガラス窓が砕けちったときのために窓を開けた。Eはあわてて外から戻ったが真っ青な顔をしていた。この間も、爆撃はさらに激しく続き、爆音とともに大地が鳴動しゆれた。E.は空のことを何か言っていたが、ヒューという音があまりに大きく、私たちには聞こえなかった。「空は赤と白の照明でいっぱいだよ…」と、Eはマットレスから震えながら起き上がる私を助けつつ大声で言った。
「外へ出て見たくはない?」。私はバカなことをいうEの顔を見た。そしてマットレスを居間へ引きずるのを手伝わせた。
私たちは安全部屋にかけ戻った。爆弾はまだ次々と大きな音で落ちてきた。隣家に落下したかと思うと、次の瞬間、数ブロック離れたところに落下した。みんな緊張で顔面蒼白だった。いとこの妻は部屋の角に座り、娘たちを両腕に抱き、かすかな声で静かに祈っていた。イトコは恐い顔でドアの前を行ったり来たりして、私の父が常備していた小さなラジオで放送局の周波数をあわせていた。おばはこのとき過呼吸になっていて、母が彼女の隣にすわり、バグダッドを襲った激しい空爆について流すラジオの声で彼女の気をまぎらわそうとしていた。
永遠に続くかと思われた40分間が過ぎ、爆撃が少しやんだ。戦闘機が遠くに行ってしまったようだ。私はこの間に電話を探しに行った。ガラスが粉々になったときのために窓を開けていたので、家の中は寒かった。絶対に通じないだろうと思いながら電話に手をのばすとダイヤルトーンが聞こえた!すぐに友人と親類にダイヤルしてみた。バクダッドの端に住むおばとおじの声は電話の向こうで不安そうに震えていた。 「大丈夫?皆は元気?」 そう尋ねるのがやっとだった。彼らは無事だった…。だがバグダッド全体が爆撃を受け、ひどいありさまだった。衝撃と畏怖が始まった。
それが2年前のこと。その後1カ月近く激しい空爆が続いた。あの混乱の夜は終わりのない混沌の日々と長く眠れない夜の序奏(はじまり)だった。空爆が長く続くと日にちの感覚を失う。時間も分からなくなる。今日が何曜日かもわからなくなり、1日を刻む時(とき)も歩みを止める。落ちる爆弾の数を数え、恐怖が何分続いたかを数え、銃撃と爆発の音で夜中に起きた回数を数え始める。
頭から払いのけようとしても、とにかく甦(よみがえ)る。停電のさなか、昼食や夕食のためにみんなで集まって、まんじりともなく座っているときがある。すると誰かが「2年前のことを覚えている?…」と言い出す。マンスールの住宅地域が爆撃されたときのこと…アパッチ〔註 米軍のヘリコプター〕が道路に停まっている車を焼き始めたときのこと…バクダッドの街の半分が明るく照らされるほどの爆弾で空港が爆撃されたときのこと…そして、米軍の戦車がバクダッドに侵入し始めたときのことを覚えている? 私たちがまだ「恐怖」になれていず(「恐怖」をまだよく知らなくて)、イラクに衝撃を与え怖れを抱かせることが有効だと思われた日のことを覚えている?
リバー@午後5時36分
2005年2月18日金曜日
選挙結果…
昨日、近所の人が我が家に立ち寄った。彼女はトマトで煮込んだ温かい青豆料理を持参して「アブ・アンマールの店にとても良い青豆が入ったわよ」とささやいた。「でも、台の下に隠してあるのをちょうだいと云わなくちゃダメよ。並んでいるものはちょっと硬いから」
選挙結果…
私は食料品屋の買い物リストに青豆を加え、Eと一緒にアブ・アンマールの店へ行った。
地元の食料品屋、アブ・アンマールは我が家から400メートルほど離れたメインストリートの路上で野菜と果物を販売している。彼がいつからそこで商いをしていたか誰も思い出せないが、なかなかの商売人であることは確かだ。彼は一年中、伝統的なディシュダーシャを着て、寒い日にはその上にすり切れた革のジャケットをはおり、黒いウールの帽子を耳までかぶっている。
わが家だけでなくこの通りに住むほとんどの家が彼の店から食料品を買っている。彼は朝早く店を出す。ころあいを見て通りかかると、そこにはさまざまな色が踊っている。じゃがいもの茶色、ホウレンソウの濃い緑色、柑橘類の明るいオレンジ、甘いイラクトマトの赤…。アブ・アンマールはいつだってそこにいる。雨の日も太陽が照りつける日も戦争のときも、野菜と果物に囲まれタバコを吸いながら新聞を読んでいる。彼の小さなトランジスターラジオからはファイルーズの温かな歌声が雑音まじりに聞こえてくる。アブ・アンマールがそこにいないのは、何か悪いことの知らせだと思ってもいいだろう。
アブ・アンマールはいつものように座っていた。新聞に何やら印をつけていたからクロスワードパズルをしていたのだろう。彼は立ち上がって私たちを迎えると、欲しい野菜を選んでいれるようにと何枚かのポリ袋を渡した。「今日はとっても良いレモンがあるよ」と、新聞を小脇にはさみ、小さな黄緑色の果物の山を指して云った。私はレモンに視線を移すとそれらを丹念に点検した。
アブ・アンマールの店へ行くと、私は自分の指からイラクの政局の動向を感じるような気がする。これらの生産物から国内で何が起こっているかを知ることが出来るのだ。例えば、良いトマトがないときは、バスラへの道路が閉ざされているかそれとも状況の悪化でバグダッドにトマトが届かないということだ。冬に柑橘類の果実がないときは、たぶんディヤラへの道路が危険でオレンジとレモンが配達されなかったのだ。 また、彼は放送局からのさまざまな情報を教えてくれる。もっと詳しく知りたかったら彼の足元にある新聞の山から読むことも可能だ。さらに、近所の噂についても情報通である。
「アブ・ハミドの家族が引越しするのを知っているかい?」 彼はタバコを一服吸うと、店から100mほど離れた家をボールペンで指した。
「本当?どうしてわかったの?」と、私はトマトに目を遣りつつ尋ねた。
「彼らが先週二人連れに家を見せるのを見たし、それに今週もやっぱり見せていた…売るつもりなんだろう」
「選挙結果を聞いた?」Eはアブ・アンマールに尋ねた。 彼はあぁとうなずくと、タバコをサンダルで踏みつぶした。 「予想はついたさ」 。肩をすくめて続けた。「ほとんどのシーア派は169番に投票したんだ。彼らは選挙の夜、近くのフセイニーヤでわめきたてていた。俺は夜の礼拝のためにそこにいたんだ」 フセイニーヤはシーア派のためのモスクのひとつ。シーア派の多くがシスターニに支持にされたリスト169のキャンペーンをはっていたのを聞いている。
私は頭を振ってため息をついた。 「あなたはアメリカがイラクを別のアメリカに変えたがっているとまだ思っているの?去年、アメリカに機会さえ与えればバグダッドはニューヨークのようになるだろうって言ったわね」 私は去年交わした会話を引用していった。Eは用心深く私の注意を玉ネギにむけるように促した。「ね、この玉ネギを見て、うちに玉ネギあったっけ?」
アブ・アンマールは頭を振ってため息をついた。「そうさな、ニューヨークであろうとバグダッドであろうと地獄であろうと、俺にとっては同じさ。ここで野菜を売り続けるだけだ」
私はうなづきながら、野菜の重さを計るためにポリ袋を渡した。 「そうね…彼らはイラクを別のイランに変えるつもりなんだわ。あなたは、リスト169がイランに変わるかもしれないことを意味するのを知っているでしょ」 。アブ・アンマールは古い真鍮の秤(はかり)に野菜を置いて重りを調整しながら、「イランはそんなに悪いか?」と尋ねた。
いいえ、アブ・アンマール、*あなた*にとっては悪くないでしょう。あなたは男だから。一時的な結婚、恒久的な結婚ともに、どちらかといえば、男は権利を増すことができる。けれど女はそれに服従させられるだけ。なぜそれほど悪いかですって?…と、私は言いたかった。しかしこの頃イランを批判するのは賢明ではないから、私は言葉を飲み込んだ。ぼっ〜としながら彼が差し出した袋に手を伸ばし、選挙結果が最初に公表されたときの無力感からいかに脱するかを考えた。
スンニ派政権かシーア政権かということではない。問題はイラン化されたイラクになる可能性についてだ。シーア派の多くの人々も、この選挙結果に驚いている。選挙で排除されたスンニ派の話があるが、彼らのことではない。そうではなく、排除された穏健派シーアと世俗的な一般大衆のことだ。
リストは恐ろしいものだった。ダーワ党、SCIRI(サイリ)、チャラビ、フセイン・シャーハリスターニなど、それは親イランの政治家と宗教者の集まりだ。彼らは、新しい憲法を作るのが主な仕事だ。新憲法では基本法がシャリーア、あるいはイスラム法になるという話がある。誰のためのシャリーア?シーア・シャリーアはスンニ・シャリーアのものとは違う。それに他の宗教にとってはどうなの?クリスチャンとかメンデイエーンは?
占領以来、昨年まで大統領職をやった人たちが選挙のトップに立ったのに誰も驚かないの?ジャファリ、タラバーニ、バルザーニ、ハキム、アラウィ、チャラビ…亡命者、犯罪者、戦争支配者ばかり。新しいイラクへようこそ。
イブラヒム・アル-ジャファリ(親イランのダーワ党代表)が先日、インタビューに応じた。自分は心が広く、イラクをかつての世俗的な国からシーアの原理主義的国家に変えるつもりはないというふうに見せかけたが、ダーワ党の党首である事実に変わりはない。ダーワ党はここ数10年間イラクでの最も悪名高い爆発と暗殺に責任があり、イランをモデルとしたイスラム共和国を理想としている。党員の多くはずっとイランで生活していた。
ジャファリは党のイデオロギーと自分自身を切り離すことができない。
アブダル・アジズ・アル-ハキムはイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の代表だ。彼は12月の傀儡大統領だった。その彼が最初にしたことは?彼はイランから1000億ドル借りいれるという、イラクにとって大きな債務負担を招き入れた。次に何を? 彼は個人(特に女性)を守る法律である「個人身分法」を撤廃しようとした。
彼らは西側メディアに受けの良い会見を行なったが、内実はまったく違っている。女性がそれを最も感じている。バグダッドではこれらの政党から女性に対して常に抑圧がかかっている。体の部分がわずかに出ただけでも隠せという。多くの大学で男と女を分けるべしという圧力がかかっている。脅迫、印刷物あるいは言葉での警告があり、その後攻撃されたり侮辱を受けたりするという。
あらゆるところでそれを感じる。それはゆっくりと静かに進行していった。足が見えるスラックス、ジーンズ、スカートをはくのを止める。なぜってそれを許さない者たちに、通りで止められて、説教されたくないから。半そでをやめて、首を覆う襟のついた大きなシャツを選び始める。注意をひきつけたくないので髪をたらすのをやめる。ポニーテールにするのを忘れた日は、自分を罵倒しつつハンドバッグをひっかき回し髪の毛をまとめるためのヘアバンドやゴムを探す。*彼ら*の注意をひきつけないように。
私たちは先日、真剣にこの状況について友人と議論した。ベールとヒジャーブの問題が出て、私は彼らがそれを法制化しないにしても、女性が外出したときに大きな圧力となるだろうと話した。彼は肩をすくめて、「イラン女性はそれが悪いこととは言わないよ。彼女たちは頭に何かをかぶって化粧してどこへでも行くのだから」と言った。まさにそのとおり。しかし、最初はそうではなかった。そうなるには20年以上かかっている。80年代、女性は服装のために通りから引っ張られ、引き止められ、叩かれた。
髪を覆うかどうかについて言っているのではない。私には戦前からヒジャーブをかぶっていた多くの親類と友人がいる。それはイスラームの原則だ。けれど服装をあぁだこうだ言われるなんて、あまりに自由がなさすぎ。服装は氷山の一角。女性は働く能力がないと信じている聖職者と男性たちがいる。彼らは、ある分野での仕事・研究を女性が行なうのを認めていない。有権者が「女性」であるか「男性」であるかが表記された投票用紙にもイライラさせられた。なぜそれが重要なの?シャリーア(註 イスラム法)で女性の票が男性の半分にカウントされるから?将来そうするつもりなのかしら?
バグダッドは再び黒色で覆い隠されている。ビル、家々の中さえ大きい黒い布をたらしている。まるで全市が選挙結果を悲しんでいるかのようだ。イスラムの正月を祝う最初の10日間―「アシュラ祭」のためである。1400年前に起きたカルバラでの予言者の死を悼む行事だ。祭りでは、敬虔なシーア派の人々が頭から足まで黒(緑と赤が入ることもある)づくめになり、自らの体をこの日のために用意した特別な道具で叩きながら行進する。
この10日間外出するのは賢明ではないので私たちはたいてい家にいる。昨日、おばの家まで1時間20分かかった。詠(うた)いながら自分の体を叩く大勢の男たちで道路がふさがれていたからだ。その光景は恐ろしいなんてものじゃあない。血を流しているものもいて、彼らは背中や額に流れるその血を強調するために白い服を着ている。小さな子どもが黒服を着て、異様な形をしたミニチュアの鎖を運ぶ姿は見るだけで苦痛だ。
正直に言うと、不愉快だ。それは宗教と関係ないサドマゾ的な政治ショーだ。 イスラム教では、人体を痛めるのは好ましくない。穏健なシーア派の人々もひどいと思い、少々困惑している。E.はいつもシーア派のいとこをからかっている。「ねぇねぇ、これど〜よ?」。しかし、いとこも不快に思っているのだ。にもかかわらずそれを言い表すことができない。私たちは現在とても
「自由」なので、おおっぴらにこの血みどろのショーに対して嫌悪感を表すのは賢くない。だけど、私はブログでそれを言うことができる。
またもや数件の誘拐があったと聞く。そして今、暗殺が伝えられた。バドル軍団が新たな「指名手配」リストを公表した。逮捕のためではなく殺すためのものだ。スンニ派の教授、元軍隊司令官、医師などがそのリストに載っている。既に、3件の暗殺がスンニとシーアの混在地域であるサイディヤで行なわれた。バドル軍団が家に侵入して、家族を銃殺したそうだ。これらの暗殺騒ぎは明らかに選挙結果を祝ってのことだ。 .
アメリカの政治家が、スンニ派とシーア派の殺し合うなかで米軍がどのような役割をもつかについて語るのを見るのは興味深い。最近、ますますそれがウソだと思う。現に、今も(報道にあったような暗殺と誘拐が行われている間も)米軍は傍観しているだけで、イラク人を互いに殺させあっている。そればかりか、新生イラク軍や国境警備隊は米占領軍を守りレジスタンスを叩いている。
占領が終われば世俗的なイラクになると思ったのに。その望みもたちまち色あせた。
リバー@午後3時3分
2005年1月27日木曜日
水不安…
早くこれを書いてしまわねば。電気があと2時間は通じるだろうからーうまくいけばの話だが…。
昨晩、水が出た。ほんの少しのおしめり程度だけど、ないよりまし。水不安…
Eが最初に気がついた。皆でリビングルームにいたとき、彼が突然ジャンプしてこう言った。「ねぇ、聞こえる?」。私は飛行機、ヘリコプター、銃撃音のどれかだろうと耳を澄ませた。何も聞こえない…ん?待って…何かが…せせらぎのような音が…。水?本当?水が出たの?私たちはバスルームへ駆け込んだ。少しでも水が出ますようにと8日間蛇口を開けっ放しにしていたのだ。確かに水が出ていた。チョロチョロとわずかずつではあるが水が流れていた。E.と私はシンクの前で手拍子を打ちホーホーと奇声をあげ、ささやかな勝利のダンスを踊った。
たくさんの仕事がこのあとに続いた。一晩中かけて、ヤカン、なべ、カップ、ボトル、バケツなど、ありとあらゆるものに水をはった。いまや階段の下の空間は、虫やほこりが入らないようにトレイや間に合わせのカバーで覆われた大きなカメ(もちろん水でいっぱい)がいくつも並んでいる。
再び水が止まるのではないかと心配し続け、昨夜はほとんど眠れなかった。午前4時、水が出ているかどうかを見るために薄暗い階段を下りていくと、E.も同じようにバスルームの戸口に立っていた。母はこれを「水不安」シンドロームと呼んだ。夜になれば水の勢いがもっと強くなるだろうと期待したけど、水圧は明らかに落ちてきた。 私たちは今朝早起きした。昨夜、朝になっても水が流れ続けているなら屋根の上の大きなタンクに水をいっぱい溜めようと決めたのだ。タンクからの水は直接電気湯沸かし器に行くのだが、しばらくそれを使っていないので、私たちはタンクを予備の貯蔵庫とすることにした。無防備でいるのはもうごめんだわ。飲料水は先週、1リットルあたりおよそ1,000ディナール上がった。
Eと私は1日中バケツで水を運んだ。流れが弱いので、10リットルのプラスチック・バケツをいっぱいにするのに17分かかった(時間をはかってみた)。今までバケツ10杯分を運んだ。水が台所の蛇口に来てないので汚れた皿をバスルームに運びそこで洗った。
残念だけど、電力事情は悪化した。私たちの地域では20時間毎に4時間電気が来ているが、他の地域で電気が来ているかどうかはまったくわからない。私たちは皆バラバラにされているように感じる。
バグダッドはここ数日間とても不安定だ。先週何度か爆発があり、爆発の数には驚かなくなったが、いくつかの爆発の強さには身がすくんだ。次の選挙と、それにともなって起きるであろうことに真実恐怖を覚える。投票所として学校を選んだことにも賛同できない。学校は今休みだが、治安への不安があるのは明らかだ。投票所がもっとも爆撃されやすい。学校は今修繕したり改築したり大変な思いをしている。それに爆発のトラウマが加わるなんてもってのほかだ。最低だわ。
外出禁止令は6時から始まることになり、さらに通常の禁止令のほか「運転外出禁止令」も加わった。正確な時間はわからないが、1日のうち数時間、徒歩はOKでも車はダメということ。どうしてそんなことを強制するのだろう、まったくもって理解不能。
噂では、まもなくあらゆる通信手段が断ち切られるという。これまで電話はたびたび不通になるし、携帯は何日もつながらないことがあった。なのに私たちはウェブアクセスもほとんど出来なくなるらしい。学生たちは中間休暇のまっさい中。でも誰も何処にも行く予定はない。治安状況がかなり悪く、誰もが爆発に遭う可能性があるので、ほとんどの人は家に閉じ込もっている。爆弾で殺されなくてもイラク治安部隊か米軍に襲われるかもしれないし、たとえ殺されなくても頭に袋をかぶせられ、アブグレイブに連れていかれるかもしれない。
この2、3週間、あたりになんともいえない不安な空気が漂っている。人々は燃料不足、水不足、電気不足で消耗し始めている。ちょうど戦争が始まった頃に似ている。 ホアン・コールが「ブッシュがするべきだった演説」を載せているが、とっても良い。いっそ今年の就任演説にブッシュはこんな言葉を入れれば良かったのにと思う。 「ハ!貴方たちが私を再選するなんて信じられない!まさに信じがたい!!虐待がだ〜い好きな人がいるんだ!!!」
リバー@午後4時29分
2005年1月22日土曜日
水が出ない…
水が出ない…
イードの3日目。イードはイスラム教の祭日。いつもなら親族で集まって皆で食べて飲んでお祝いをする。でも今年のイードは違った。今年のイードは耐え難い。イードの最初の日にかろうじて集まったが、誰もお祝い気分にはなれなかった。あちこちで何度も爆発が聞こえた。しかし、それさえ日々高まってくる緊張にくらべれば大したことではない。
6日間、蛇口から1滴の水も出ない。6日間も。占領が始まったとき、ちょうど水不足の夏だったけれど、庭の水道の蛇口からはいつでも水がポタポタとしたたり落ちていた。ところが、いまやそれさえもない。私たちは料理と飲料水用にペットボトルの水を買い続けている(値段は高騰している)。 掃除はあきらめた。イードの間は家をきれいにしておくのが習慣なのだけど、それが出来ないから本当にいらだたしい。イードが近づくとモップ、ほうき、雑巾、消毒剤が家中にあふれかえる。掃除をするとリフレッシュするような気がする。家と住人が生まれ変わるかのようだ。でも、今年はそれがない。私たちは皿をすすぐくらいの水しか手にいれることが出来ない。入浴は、数リットルの水を石油ストーブにのせたヤカンで暖めて間に合わせなければならない。
水は平和に似ている。誰かがそれを奪い去るまで、それがどれだけ貴重であるか、決して気がつかない。流し台まで歩いて、蛇口をひねり、水道管から何の音も聞えないのは腹立たしい。トイレも使えない。皿は積み重ねれられ2人がかりで片付ける。一人が皿を洗い一人が水を注ぐ。
なぜこんなことに?電力事情が悪いから?だとしても、すくなくとも1日に数時間は水が出るはず。これまではいつもそうだった。 選挙に関連した集団処罰?そんなの信じられない。最初、私はそれが自分たちの地域だけかと思った。けれど周囲に聞いてみると、ほとんどすべての地域が(全部じゃないにしても)干ばつの被害を受けていることがわかった。
この国の外にいる人々は「集団処罰」という言葉を聴いて、そんなバカなと思うことだろう。「いいえ、リバーベンド、それはありえない」と。けれど、最近はなんでもあり。多くの地域で、スンニ派・シーア派を問わず、もし投票に行かなかったら毎月配給される食糧を断ち切ると云われている。90年代の始まりから私たちはずっと配給食糧を受けている。多くの家族にとって、それは大切な食糧源でもある。投票したい人が誰もいないのに選挙を強制するって、どういう民主主義? アラウィの一派が数日前パンフレットを配っていた。低い蛇口なら少しは水が出るかと庭に出たら、水の代わりに門の下に押し込まれた紙切れを見つけた。読んでみると、「アラウィに1票を」という選挙チラシのたぐいで、そこには占領下イラクでの治安と繁栄を約束すると書いてあった。なんて役に立たないパンフレットだろうと思ったけど、案外そうでもなかった。飼い始めたばかりのインコのカゴの底に敷くのにちょうど良かったから。
ヨルダンとシリア(もしかしたら)の国境が封鎖されているらしい。昨日、人々がバグダッドに入れないとも聞いた。街に入る主要道路に米軍の検問所があり、どの車も元来た場所へ戻されているという。なんてひどい。ここにいたってあらゆることに希望が見えなくなってきた。状況が悪くなるに従って望むことがますます小さくなっていくのには目を見張る。 イラクにはこんなことわざがある。「死ぬくらいなら、熱さを受け入れよう」。私たちは民主主義、治安、そして電気さえもあきらめた。でも、水だけは止めないで。
リバー@午後4時19分