Last updated:Sunday, December 06, 2009


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  丸子町探索 (現 長野県上田市)

    丸子町の沿革 鹿教湯温泉 
      丸子町の製糸業 郷愁 上田丸子電鉄 依田郁子選手(東京五輪・80m障害選手) 
     
    海野(海野宿)  中山道   木曽 義仲   真田幸村

    塩田平&別所温泉   
          


 
 
丸子町は,大正元年に誕生し,昭和29年東内村,西内村を,昭和30年長瀬村,依田村を,昭和31年に塩川村を編入した。旧町制として94年の歴史を持つ。2007(平成18)年3月6日に上田市に合併編入。


歴史的な重要地点 依田窪(よだくぼ)

  “丸子”の地名については,古墳時代,いまの天理市にいた丸子氏の庄であったことから,この地が「丸子」といわれたとの説が有力です。

 和田峠(わだとうげ)に源を発する和田川,大門峠から流れ下りた大門川,美ヶ原(うつくしがはら)より東流する武石(たけし)川,丸子町鹿教湯を水源とする内村川の水をあわせて,上田市大屋で千曲川に合流している川が,依田川です。この水系が流れる細長い平地を「依田窪」と呼んでいます。丸子町は,その中心に位置します。周りを見渡すと,だいたいが山の稜線という感じの町です。域内各地で縄文式土器が出土していることから,その成り立ちは縄文時代にさかのぼります。

 旭将軍義仲が平家追討の兵を挙げたのは,旧依田村(今は丸子町に合併)にある依田城でした,義仲はここで,木曽の郎党や東北信の武士を結集して京都をめざして攻めあがったことから,依田の地は,都へ一番乗りをした信濃武士の起点ということになります。
 
 のち,この地方は「依田庄」という庄園となり,さらにこの「依田」を姓とする有力な武人が,近世初頭まで東信一帯に勢力を張っていました。その意味で,歴史的にはきわめて重要な地点でもあります。
 域内各地で縄文式土器が出土していることから,その成り立ちは縄文時代にさかのぼります。木曽義仲が平家追討の兵を挙げたのは,旧依田村(今は丸子町に合併)にある依田城でした,義仲はここで,木曽の郎党や東北信の武士を結集して京都をめざして攻めあがったことから,依田の地は,都へ一番乗りをした信濃武士の起点ということになります
 のち,この地方は「依田庄」という庄園となり,さらにこの「依田」を姓とする有力な武人が,近世初頭まで東信一帯に勢力を張っていました。その意味で,歴史的にはきわめて重要な地点でもあります。 


  
◆ 依田窪の方言
  「しょうしい→ 「はずかしい」
  「わたし」 → 「おら」
    おら,しょうしい → わたし,はずかしい
  
  「おやげねえ」→ かわいそう,気の毒だ
  「ずくなし」  → 腰が重い,手抜き,怠け者
  「すいこ」   → 「いたどり」
  ちなみに,愛媛県の南予地方では,「いたどり」を「すいこんぼ」と呼ぶ。
  「おやすみなんし」→ おつかれさまです」「さようなら」
         

■ 丸子町のいま−−−独自性をもつ企業が立地

 信州は,江戸時代から養蚕業が盛んでした。ことに上田・小県地方は,明暦元年(1655)ごろ,丸子町依田川沿岸数十ヘクタールが桑畑に開拓されてから最も早く蚕糸業が発達し,良質な蚕種が生産され,天保年間(1840年頃ろ)には,奥州と肩を並べるほどになりました。
 明治初期には,上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占め,生糸の一大産地となった。丸子町では,明治から昭和の初期にかけて,日本有数の製糸業の地として世界に名をはせました。現在でも,絹紡糸は国生産の80%を町内企業で生産しています。
 また,丸子町の信州人参農業協同組合は,昭和8年の開設で生産者団体としての歴史を持つ。また,ここで処理・加工される薬用人参の量は現在,年間150トンで全国の70%を占め,日本一です。
 また,DVDドライブ(OEM)で高いシェアを持つシナノケンシのような独自技術で存在領域を確保する企業も立地するという町でもあります。
 



米国からブランド逆上陸 シナノケンシ

 丸子町に本社を置き,精密モーターを得意分野とする電子部品メーカーのシナノケンシは,1918(大正7)年創立。1973年に信濃絹糸紡績株式会社から,にシナノケンシ株式会社に改称。同社は,年創業以来、84年間にわたり連続して黒字決算を続けています。
 自社ブランド「PLEXTOR(プレクスター)」の記録型DVD/CDドライブやインターネットを利用した各種情報・音響機器をはじめとして、精密モータ、小型印刷機などを製造しています。
 主力商品の,記録型DVD/CDドライブ「プレクスター」は,同社は,海外で先にブランドを確立し,その知名度を引っ提げて首都圏市場に攻め込むという,いわば逆上陸型のマーケテイングで成功をおさめています。
 「日本市場で新興ブランドはなかなか認知されない。だが,米国市場はオープンで,商品さえ良ければ売れる。米国で評価された商品は,日本でも受け入れられやすい。ならば,米国市場でブランドを確立して日本市場に逆上陸しよう」,というのがシナノケンシの戦略です。
 パソコン周辺機器メーカーの大手バッファローにOEM(相手先プランドによる生産)供給しています。米国からの逆上陸マーケテイング作戦,地道な販路開拓が成功し,いまや,プレクスターのDVDドライブは,パソコンショップの定番商品となっています。

■ 丸子町のいま−−−独自性をもつ企業が立地

 丸子町は,内村川,依田川沿岸に豊かな田園風景が広がる。山麓の斜面には,薬用ニンジンの栽培畑が見られる。江戸時代から養蚕業が盛んであった。明治初期には製糸生産高は県全体の約半分を占めるまでになっていた。
 明治22年,下村亀三郎氏(初代町長)により第1号の器械製糸工場が誕生し,翌年には生糸共同組合「依田社」が設立され,丸子町は“信州のマンチェスター”といわれるほどの一大製糸地となり,海外にも知られた。しかし,製糸業も昭和4年の世界恐慌を境に衰退の一途をたどり,かわりに絹糸紡績業が台頭した。
太平洋戦争が始まると,製糸工場は軍需工場に転用され,生糸の町といわれた丸子の製糸工場の大半は,姿を消しました
 第二次世界大戦後,化学繊維の発展もあって絹糸紡績は衰退し,昭和30年代からは繊維,機械・金属,食品,電気・電子など工業の多様化が進展し,さまざまな製造業が町内に立地しました。
近年工業団地の造成,浅間テクノポリス構想に基づく先端技術産業の導入など,時代対応を図っています。

丸子町今昔

 信州は,江戸時代から養蚕業が盛んでした。ことに上田・小県地方は,明暦元(1655)年ごろ,丸子町依田川沿い数十ヘクタールが桑畑に開拓されてから最も早く蚕糸業が発達し,良質な蚕種が生産され,天保年間(1840年頃ろ)には,奥州と肩を並べるほどになりました。
 明治初期には,上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占め,生糸の一大産地となった。丸子町では,明治から昭和の初期にかけて,日本有数の製糸業の地として世界に名をはせました。現在でも,絹紡糸は国生産の80%を町内企業で生産しています。


 長野県小県(ちいさがた)郡丸子町。幅3キロ,長さ6キロの狭く長い平地,山に囲まれた所というよりも,すぐ近くの山の向こうに山があり,またその向こうに山があるといた感じの地です。内村川,依田川沿岸に豊かな田園風景が広がり,山麓の斜面には,薬用ニンジンの栽培畑が見られ,今,朝鮮人参の全国一の集積産地として知られます。

 明治中期から昭和期初期にかけては製糸業が盛んで,岡谷市に次ぐ日本第2位の「製糸の町」として日本国内はもとより,アメリカにまでその名を知られていました。
  明治初期は,上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占めるほどになりました。しかしながら当時の丸子村の製糸業は,ごく小規模の家内工業にとどまりました。当時,製糸業は“生死業”ともいわれるほど糸の価格変動が激しく,工場の経営も不安定でした。

 その構造を変えたのが結社「依田社」です。1889(明治22)年,下村亀三郎氏(初代町長)により第1号の器械製糸工場「かねいち」が誕生し,翌年には同氏のリーダーシップのもと,製糸工場がひとつにまとまり共同販売のための生糸共同組合「依田社」が設立されました。依田社では,各工場から持ち込まれた生糸の再繰,検査,荷造り,出荷,販売などが共同に行われることとなり,各工場の経営は安定しました。

 翌1890(明治23)年)には,町内に「かねに」,「かねさん」,「かねご」,「かねく」の4社の製糸工場が開業し,依田社を中心に共同事業がはじまりました。1896(明治29)年には依田社に所属する製糸工場は24となり,最盛期には9000人の女子工員を擁し,岡谷に次ぐ日本第2位の「生糸の町」として,海外にも知られるまでに発展しました。
 1923(大正12)年米国絹業協会会長ゴールド・スミス氏らが訪れるなど,アメリカ人は頻繁に丸子を訪れています。依田社はそのためにアメリカ人用の迎賓館「依水館」を建てました。

 組織力を生かしての「依田社」の経営がうまくいったことで,町の発展がもたらされました。複数の工場をひとつの会社として組織する方法は,協同組合,企業合同による持ち株会社のはしりともいえます。このしくみは,当時,絹業の町として知られた岡谷を手本にしたのでした。

    1931(昭和6)年当時の丸子町の街並みと製糸場の配置図
     当時,丸子町には依田社をはじめ13の製糸工場があった。


   国内でただ一つ「絹糸紡績資料館
            岡谷蚕糸博物館
            大日本蚕糸会
            シルク博物館(横浜市山下町)


■丸子町の養蚕・製糸業
 明治初期は,上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占めるほどになりました。しかしながら当時の丸子村の製糸業は,ごく小規模の家内工業にとどまりました。

 明治22年,下村亀三郎氏(初代町長)により第1号の器械製糸工場(かねいち)が誕生し,翌年には共同販売のための生糸共同組合「依田社」が設立されました。依田社は,各工場から持ち込まれた生糸の共同再繰,共同検査,共同荷造り,共同出荷,共同販売を担当しました。
 明治23年(1890)年には,(かねに),(かねさん),(かねご),(かねく)の4社の製糸工場が開業し,依田社を中心に共同事業がはじまりました。明治29年には依田社に所属する製糸工場は24となり,丸子は岡谷に次ぐ日本第2位の「生糸の町」として,海外にも知られるまでになりました。
 依田社は,横浜の生糸情報を知るため明治40年に長野市に続いて電話を引き,先見性を示しました。なお,依田社の全盛期には従業員6千人を擁しました。

 
    「依田社」全景

■ 丸子町の養蚕・製糸業
 明治初期は,上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占めるほどになりりました。しかしながら当時の丸子村の製糸業は,ごく小規模の家内工業にとどまりました。

◆ 製糸業の盛衰
 20世紀にはいり機械織物工業が発達したアメリカでは,安くて質のよい絹糸の必要性が急速に高まりました。こうした市場ニーズから,日本から生糸輸出は,明治40年ごろから急増しました。このような,アメリカの絹工業の高度化と言う時代背景のもとで,日本の製糸業の機械化も進展しました。
 丸子は,「依田社」は二代目工藤善助社長就任後,繰糸鍋や煮繭機などの開発による技術・検査の向上,機械化に取り組むとともに,アメリカへの生糸輸出を積極的に進めました。
 こうして丸子の製糸業は全盛期を迎え,人口増加による町制施行,軽便鉄道−−丸子鉄道−−の敷設,病院−−依田舎病院−−の開業と,生活・産業基盤の整備も進み,丸子町は上田市とならびこの地方(依田窪)の中心都市となりました。

 
 丸子町の製糸全盛期は,明治40 (1907) 年から1928(昭和3)年頃まででした。1929(昭和4)年,ニューヨーク株式市場の大暴落(ぼうらく)をきっかけとして始まった世界恐慌(きょうこう)は,アメリカの絹需要を急激に減退させ,全面的にアメリカ市場に依存していた日本の製糸業は大打撃を受けました。そして,当時「人絹」と呼ばれた絹に似せた科学繊維レーヨン (rayon)の普及,加えて安い中国産生糸により,日本産生糸は,大きなダメージを受ける事となりました。

 こうした事態を受け,全国の製糸家がつくる蚕糸業同業組合中央会を中心に,全国的規模で生糸の共同保管や操業(そうぎょう)短縮を実施しました。さらに政府も資金援助や滞貨生糸の買い上げなどの援助を実施しました。しかし,製糸業の不況は長く続き,この間,中小はもちろん大企業の倒産も相次ぎ,次第に国家の統制が強まってきました。
丸子町の製糸業は,当初からアメリカ向けの生産にあったことから,その打撃は深刻で,工場の倒産・賃金の不払いなどが続出しました。また,畑を桑畑に転作して養蚕経営をする農家も多かったことから,地域全体が製糸に密接に関係していたため,その影響は甚大で,社会不安をひきおこしました。

 こうした中で,国家主導の合理化,再編成が進み,工場数・釜数とも減りました。太平洋戦争が始まると,製糸業は戦時体制に不要不急のものとされ,工場は次々と軍需(ぐんじゅ)工場に転用されました。ここに生糸の町といわれた丸子の製糸工場は,ほとんど姿を消しました。

 依田社も昭和2年の大不況,続く昭和5年アメリカの大恐慌のあおりを受け,1922(大正11)年には9000人いた女子工員が,1932(昭和7)年には4000人にまで減りました。36あった工場も次第に減り,1945(昭和20)年には最後の工場が閉鎖となりました。かつては専属病院から模範工女養成所などの付属施設を持ち,信濃ガス会社,信濃電灯会社,丸子軽便鉄道などの都市開発事業にも尽力した依田社は,56年の歴史を閉じたのです。

日本の輸出に占める蚕糸類のすう勢 
 年 次  輸出品総価格  蚕糸類輸出額 対輸出比率
明治
  元(1868

 1千555万3千円

 1千036万4千円

 66.6%
10(1877)  2千334万9千円  1千066万9千円  45.7%
20(1887)  5千240万8千円  2千190万円  41.8%
21(1888)  6千570万6千円  2千878万3千円  43.8%
22(1889)  7千006万1千円  2千925万円  37.5%
23(1890)  5千660万4千円  1千673万7千円  29.6%
24(1891)  7千952万7千円  3千217万5千円  40.5%
25(1892)  9千110万3千円  3千991万4千円  43.8%
26(1893)  8千971万3千円  3千159万1千円  31.9%

       出典:「近代日本産業史11:繊維上」 梶尾光速著交詢社刊

日本の輸出上位3品目の推移(単位:%)      
1位(シェア) 2位(シェア) 3位(シェア)
1900 生糸(22.3) 綿製品(10.2) 石炭(10.0)
1910 生糸(28.6) 綿製品(9.9) 絹織物(9.9)
1920 生糸(19.9) 綿製品(17.4) 絹織物(17.4)
1930 生糸(29.0) 綿製品(18.9) 絹織物(18.9)
1940 生糸(12.2) 綿製品(10.9) 絹織物(10.9)
1950 生糸(25.3) 鉄鋼(8.4) 製鋼(8.4)
1960 綿織物(8.7) 船舶(7.1) 衣料(5.4)

     出典:大蔵省「日本外国貿易年表」より 

 

容器形土偶

 丸子町腰越の渕ノ上(ふちのうえ)遺跡で,明治43年に弥生時代中頃のものといわれる乳房のある土偶と顔に刺青をした「容器形土偶」が出土しています。乳房のある土偶は,頭部がなく,手も欠けています。顔に刺青をした土偶は,手が短く,衣服をまとった姿で,肩・胴・底の部分にも文様がつけられています。この土偶は,東京国立博物館に展示されています。また,模写品は信濃国分寺資料館(上田市)に展示されています。
 容器型土偶は,山梨県(坂井,岡)でも出土しています。この土偶は,人の骨や歯を入れるのに使われたといわれており,土偶の頭の上には口があって物が入れられるようになっています。
  

 *信濃国分寺資料館:開館時間 午前8時30分から午後5時まで 休館日: 水曜日 .


松宇句碑 −−丸子町安長居神社−−

 丸子町の出身で明治,大正年間の俳人で名を成した伊藤松宇の句碑が,安良居神社の境内の一隅に建立されています。高さ約二メートルの雄大な碑で,太々と

 長江を呑む
 高楼や青嵐

 と記されています。松宇は県下俳界の大御所として自任し,尾崎紅葉,厳谷小波等と秋声会の旗頭として活躍しました。姨捨にも松宇の句碑があります。

◆丸子町・ゆかりの人

 依田郁子 (東京五輪 80mハードル 6位,かつての日本記録保持者)
              http://www.ncp.or.jp/dir4/D4_1_12.html
 中島そのみ(女優・j歌手 1950年代に団れい子,重山規子と3人娘でならした)
 木曽義仲(征夷大将軍を目指し丸子町で挙兵したと言われる)
 伊藤松宇(明治,大正年間の俳人で名を成した)
 糸川秀夫(ロケット博士。丸子町を人生の終焉の地と選んだ)

■「朝鮮(高麗)人参」の取り扱い量が日本一
 朝鮮人参は,冷涼な気候を好むため,長野県の東信地区で全国の70%を生産している。丸子町の信州人参農業協同組合は,昭和8年の開設で生産者団体としての歴史は日本一早く,また,ここで処理・加工される人参の量は現在,年間150トンで日本一である。

   信州人蔘農業協同組合  丸子町上丸子1758-1 電話 0268-42-3123

◆鹿教湯(かけゆ)温泉内村温泉郷
 内村渓谷の奥にあたる内村川の本流に沿う温泉。鹿教湯温泉は,標高735メートルの美しい山に囲まれ,昔ながらの湯治場の風情を持つ温泉場である。単純泉で,中風・高血圧・脳溢血などにきく名湯として知られる。鹿教湯は文殊湯・那須湯ともよばれた。
 鹿に化身した文殊菩薩が,信仰のあつい漁師に温泉の存在を教えたことからその名が起こされたと伝承される。おそらく,「がけ(崖)湯」が本来の名であろう。
    

  長野県厚生連鹿教湯病院
   長野県小県郡丸子町大字西内1308番地[電話]0268-44-2111
  長野県厚生連鹿教湯三才山病院
    長野県小県郡丸子町大字西内1774番地[電話]0268-44-2321

http://www.kakeyu.or.jp/鹿教湯温泉ホームページ

  •  鹿教湯小唄
     作詩/西条八十■作曲/米山正夫■編曲/和田正
    (ハア)
    一.信州信濃で見せたいものは(アソレソレ)
     一にアルプス 二に善光寺
     三に鹿教湯の湯のけむり
      ハア見てけ寄ってけヨイヨイヨイ
     鹿教湯湯どころスッチョン トロリコ スッチョンチョン
    二,鹿教湯来る時や杖ついて来たが
     今日は薬師の広場で踊る
     鹿教湯小唄のほがらかさ
    三,鹿教湯よいとこ一風呂あぴて
     チョイと登れば 美ケ原
     夏も秋風絵そよそよと
     月見堂からハンケチ振れば
     宿の二階で あの娘が笑くば
     やいてか わらぴも拳ふる
    五,病なおってあなたは帰る
     残るかたみはチョイと濡れタオル
     涙ぐもりの鹿教湯富士 





 江戸時代初期,信州の各藩が競って奨励したことから各地で盛んになったのが養蚕です。これに関連して,生糸づくりや紬織物が信州全域の地場産業として育ちました。
 製糸業の全盛期であった明治後半から昭和初期までは,生糸は横浜港を経て西欧へ輸出され,紬は織物問屋や呉服問屋が集中する京都へ出荷されるというように,信州の繊維産業は全国有数の活況を呈していました。

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「リンドウ」「薬用人参」では日本有数の栽培地域。鹿教湯温泉や信州国際音楽村等に年間約54万人が訪れている。

 旧丸子町は,明治中期から大正期にかけて製糸業が盛んで,岡谷地域に次いで日本第2位の出荷額であった。「生糸の町丸子」として海外にまでその名を広めた。第二次世界大戦後は,化学繊維などの普及により衰退し,大半は精密機械,紡績,食品などの近代産業に転換した。現在当地域に集積している企業の多くはこの製糸業をルーツとしている。
 
 眺望のよい丘の上にある信州国際音楽村は,菅平高原,浅間山をはじめ蓼科山まで見渡せる絶好のロケーションにる。毎年,ラベンダーが咲く6月には「信州ルネッサンス」として,地元合唱団や伝統芸能などの披露のほか,屋外音楽施設「パノラマステージひびき」で,夜空の星の下,コンサートが開かれる。
 
 鹿教湯温泉は,伝説に包まれた湯の里である。その昔,文殊菩薩が矢傷を負った鹿に化身し,この鹿を追って来た猟師にそのありかを教えた温泉として,「鹿教湯(かけゆ)」と名づけられたとの由来がある。脳卒中を癒す名湯として,江戸時代から湯治場として栄えた。
 現在では,温泉と医療を直結させた温泉療養所として,脳卒中や骨関節疾患のリハビリテーションでは全国屈指の設備,環境を有する。


丸子町の城
尾野山城 丸子町尾野山字城平
依田城 丸子町御岳堂
丸子城 丸子町腰越