北国街道 海野(うんの)宿

         編集中:Saturday, February 09, 2008
  

  海野(長野県東御市)は長野県の上田盆地東南部にある集落で,寛永2(1625)年の成立といわれる。
海野宿は寛永2(1625)年に設立されたという。はじめは問屋が置かれ荷物の継ぎ送りだけだったが,戊(いぬ)の満水後田中宿の役割を負い,問屋藤田家が本陣を兼務するようになった。
 道路の中央を流れる用水路はほぼ往時のままに残され,幕末期から盛んになった蚕種業に支えられて成立した土蔵造りに格子戸の建物は重厚で美しく,町並みは重要伝統的建造物保存地区に指定されている。



 
 「海野」の名は,奈良時代初め(天平年間729−748年)の正倉院御物紐心麻絹墨書銘に「小県郡海野郷」とある。また「日本霊異記」「和名抄」にある「媛里(おうな)」「童女郷(おうな)」も海野を指しており,古代より伝統をもった土地柄であろう。        
 木曽義仲の挙兵の地,千曲川白鳥川原は,海野宿の裏手になる。
   海野は,律令体制が崩壊する過程で武士が生まれたとき,千曲川沿いでもっとも巨大な勢力−−海野氏−−が拠点とした場所でもある。
 白鳥(しらとり)神社には,小県地方の豪族海野氏の守護神であった。上田から松代へ移った真田さなだ氏は,藩の守護神として白鳥神社を松代町南郊に分祀(ぶんし)する。神社の前には石積みの桝形(ますがた)と木戸とが設けられている。

 江戸時代,上田城下の海野は,北国街道が通り,宿場町の役割も持った。江戸時代の北国街道は,金沢藩を始めとした北陸諸藩の参勤交代の道であり,また佐渡金山で産出した金を運ぶ道としても重要視された街道であった。
 明治に入り,宿場町の役割が終わってからは,宿の建物は養蚕に転用され,繁栄した。屋根の上に突き出た「越屋根」は養蚕に用いられていた物。海野宿の町並みの特徴となっている。
 約650m本海野の街なみは,「日本の道百選」「重要伝統的建造物保存地区」に選定された風情に満ちている。道路の中央よりを流れる用水路,その脇に並んだ柳並木,切妻造りや寄棟造りの昔ながらのたたずまいを見せる家々が軒を接するさまは,江戸時代を彷彿とさせる。
司馬遼太郎氏は,「街道をゆく9 信州佐久平みちほかか」の“千曲川点景”で,本海野を描写されている。 
 


北国街道−−江戸末期の宿場町 海野

 江戸を基点とする中山道(なかせんどう)は六九次。上州から碓氷峠越えて軽井沢宿に入り,御代田町の追分から南に向かう。この追分宿で分岐し,北に向かう街道が北国街道である。
 追分は中山道と北国街道の分岐点の宿場として,本陣,脇本陣,旅篭,茶店など300戸を数えた。その名残は旧脇本陣の旅館柏屋,高札場跡,本陣跡などとして今に残る。旧街道の分去れ(わかさ・分岐点)には石碑や常夜灯,石仏などが古い街道筋を思いおこさせる。
 軽井沢(追分)で中山道から分岐した北国街道は,小諸〜田中の宿を経て本海野を通り,千曲川沿いに善光寺へと北上し,越後・越中に通じる街道であった。往時は,金沢藩を始めとした北陸諸藩の参勤交代の道であり,また佐渡金山で産出した金を運ぶ道としても重要視された街道であった。
         
 長野の善光寺参拝を目指す旅人が多かったことか別名「善光寺街道」とも呼ばれ,善光寺参詣の街道としても賑わた。
 
 北国街道は,正しくは北国脇往還という。


 海野は寛永2(1625)年北国街道の宿として定められた。この時以前は,この地方の有力者海野氏の本として,商業も盛んな町であった。
 天正11(1583)年真田昌幸が上田に城を築く際し,真田氏領有地の海野郷と原郷から住民を移住させ市街地を形成した。これが,現在の上田市海野町(今の中央2丁目)である。
 そして現住地は,それぞれ「本海野(もとうんの)」「本原(もとはら)」(今日の真田町本原」と称され,今日に至っている。



 水路と柳並木と街道と家なみが調和しているという海野宿の町なみは,他の宿場町ではみられない独特の景観をもつ。道路の片側に,石積みでつくられた風情ある小川がある。これは,馬の脚を洗うための流れであった。
 海野の中央部の町家は切妻造り・瓦葺で平入の中二階建であり,宿場のはずれには草葺の寄棟造りの家が十棟ほど建っている。中央部の町家には中二階を一階よりも前に出す出梁造りの家と,中二階が一階よりも奥まっていて三尺あるいは六尺のひさしをもつ塗屋造りの家が混在している。

          

                         

  旧岩下村の街道筋    岩下地区(上田市)の北国街道は,国道18号線から少し離れたところを通っているので,昔の街道筋を思わせる雰囲気を持っている。

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松代の中心から地蔵峠へ向かう道路の西側、舞鶴山に白鳥神社は建っている。
松代藩の初代、真田信之が上田城から松代城に移る際に、小県郡海野にあった海野氏の氏神白鳥神社を分社して勧請したそうだ。


江戸時代までの松代藩真田氏の氏神として崇敬されてきた神社で、そのつもりでみれば、やはり立派だ。どんな意味があるのかは分からないが、朱色の鳥居の向こうに続く石段、その上には同じように朱色に塗られた塀で囲まれた拝殿。

ふだん、拝殿は参拝する場なので、本殿が囲まれていたとしても拝殿までは開放されていることが多い。そこまでも閉ざされている神社は、とても珍しく、参拝者はどこでお参りをして帰るのだろうと考えてしまった。

白鳥神社 参道の脇には、諏訪市の工匠、立川氏によって作られた木造の神馬が備えられているが、薄暗い覆屋の中にあるため、雰囲気が不気味で覗き込むことが出来なかった。もともと建築物を見に来ているので、その点にはさほど触れることもなく、社殿をひと通り見学し、終了。

とくに目立った発見もなく、舞鶴山の中腹にあるという立地と、真田氏ゆかりの神社ということが興味深い神社だった。

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