塩田平&別所温泉(編集中) 

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     last updated:Monday, March 06, 2006

          
 

中山道
 中世の鎌倉街道と戦国時代末に発達した諸主要道を整備して,江戸幕府は東海道とともに,中山道をはじめ五街道を成立させた。
 江戸−京都間を通る中山道は,板橋宿から草津宿(大津宿)までの六十七次(または六十九次)の宿場が武蔵国から近江国のあいだを貫いていた。

 今,上州(群馬県側)から信州(長野県)への道路に,入山峠(いりやまとうげ)ご越えの道がある。この道筋が古代の道に近く,当時の碓氷峠は入山峠にあたり,同峠に古関の跡があったらしい。江戸幕府は緩やかな入山峠越えに代えて,険しい現在の碓氷峠(標高280b)に道路をつけ替えたのである。
 中山道は,上州から碓氷峠越えで軽井沢宿に入り,御代田町の追分から南に向かう。この追分宿で分岐し,北に向かう街道が北国街道である。
            
茂田井
 茂田井宿は,中山道69次の25宿の望月宿と26宿の芦田宿の「間(あい)の宿(しゅく)」として両宿の補助的役割を担っていた。街道沿いには,現在も白壁の土塀や土蔵が立ち並び,中山道の往時の姿をしのばせている。
 
長久保
 中山道は佐久平から小県郡へと入り,長窪(長久保)宿に着く。上田と諏訪とを結ぶ大門峠越えの道が長窪を通っていたので,甲州の武将・武田信玄はここを北信濃進出の拠点とした。中山道の改修により,長窪(のち長久保)宿が成立した。

和田 
 江戸時代には中山道随一の長丁場であり,和田宿は江戸から28番目の宿場で,日本橋からほぼ50里(約200`)の距離にあった。日本三峠のひとつでもある和田峠を控えての宿場町として大変に栄えた。出桁造りで格子戸の美しいその面影は今も村の随所に見られる。 和田宿から次の下諏訪宿まで五里一八丁(約21`)と長丁場の上,和田峠(標高1531b)の峻険な山道をたどる難路だった。民俗学の柳田國男は,エッセイ「峠に関する二,三の考察」の中で,「峠越えのない旅は,餡のない饅頭である」といっているが,和田峠の険しさは中山道有数の難所で,冬には積雪は3bという,通行人泣かせの道中であった。
 そこで,幕府はいくつかの茶屋の設置を助成した。東餅屋・西餅屋などはそうした施設として、峠を通行する旅人の救護や休息に当った。
 幕末には中山道を西上する水戸天狗党の一隊を,幕命により諏訪・松本両藩が和田峠で迎撃したが,逆に浪士側の奇襲作戦で両藩兵は敗走,一行は伊那地方へ通り抜けた。峠の西麓(下諏訪寄)には,天狗党の戦死者を悼んだ浪人塚がある。

 また和田峠は東日本における,代表的な黒曜石(こくようせき)の原産地としても知られれ,同地産出の原石は旧石器時代に広く交易され,いま黒曜石の加工が地場産業として定着している。
 
              
 芭蕉は信州姨捨山に名月をたずねた『更科紀行』の帰るさ、江戸を目指して浅間山麓の中山道をたどったとき,
  「吹き飛ばす 石は浅間の 野分かな」
 と詠んでいる。


  

 

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