1 上田丸子電鉄 誕生の経緯
上田丸子電鉄丸子線は,小県郡丸子町を起点に,上田市大屋を経て上田市上田東駅までの11.9kmを結んだ単線の私鉄である。
諏訪・岡谷を中心にした信州の製糸業界が,隆盛をきわめた1916(大正5)年,関東−丸子−岡谷・諏訪,伊那地方を結ぶ主要輸送ルートとして,丸子鉄道株式会社が創業,1918年営業を開始した。
その後,太平洋戦争が激化した昭和16年,陸上交通事業調整法により上田電鉄と合併し上田丸子電鉄・丸子線と名を変えた。以来,1969(昭和44)年4月の廃線まで,50年以上にわたり上田,丸子間の交通の動脈,住民の足,産業のパイプとして地域の発展に貢献した。

67−10−31 上長瀬−丸子鐘紡 出典:出典:「鉄道ファン 1969/7 」
●上田−上田東間 駅一覧
丸子町→上丸子→中丸子→丸子鐘紡→上長瀬→長瀬→下長瀬→信濃石井→大屋→東特前→岩下→神川→八日堂→上堀→染屋→上田東

◆ 丸子鉄道の発起人,下村亀三郎
丸子線を構想したのは,丸子町で製糸組合依田社を創設・結成した下村亀三郎氏である。当時,氏は慶応義塾卒の丸子小学校で教壇に立つ青年教師であった。
依田社結成の動機は,岡谷・諏訪で生産された生糸の輸送にあった。当時の生糸の輸送経路は,原料繭を群馬県や県内東北信地方で買い付け,国鉄信越線で大屋駅までび,そこから荷馬車や馬の背で丸子町を経由し,和田峠越えの中山道ルートで諏訪・岡谷まで運んでいた。できあがった生糸は逆ルートで輸送し,大屋駅から横浜の市場に出荷されていた。

こうした動きに着目した下村氏は丸子町でも器械製糸は成立するのではと考えた。水利や水質,原料の繭や燃料の入手に関する調査研究から,丸子町は諏訪・岡谷に劣らない立地条件にあると確信した。氏は教壇を降り1889(明治22)年,23歳でカネイチ製糸場を設立,翌23年には同志をつのり町内三反田に依田社(左の写真の出典:丸子町町史)を創立,自身は社長に就任した。
また,下村氏は丸子町の初代町長でもある。明治30年代に入り事業は軌道に乗り傘下に20余の工場を有する規模にまで成長した。さらに,米国への直接輸出の通を開いたことにより丸子町は諏訪・岡谷とともに全国でも有数の製糸業地に成長した。
こうした,製糸事業の拡大に伴い,下村氏は輸送の重要性から,自らが丸子鉄道創設の発起人となり開業運動に乗り出した。

往時の「依田社」全景,出典「丸子町町史」より
◆ 石井〜大屋間の千曲川にかかる鉄橋は,九州の旧国鉄から購入
千曲川に架かるボーストリングトラス。道路橋に転用されたもので,いまも現役で地元に貢献している。記録によると,この鉄橋は1928年に九州鉄道より移送され架橋とある。その後,1969年の上田丸子鉄道廃線に伴い
1971年に道路に転用された。
九州鉄道は,現在の西鉄と旧国鉄,今のJR九州がある。私が西鉄に問い合わせたところ,西鉄には該当する鉄橋はないということなので,この橋は旧国鉄の九州鉄道から購入したものと推察される。
*丸子−大屋間総工費43万円(4キロメートル当たり約11万円)
2 上田丸子電鉄・丸子線 廃線の経緯(構築中)
モータリゼーションの進展による乗客減少に加え,大屋〜上田間の信越線複線化の動きも重なり,上田丸子電鉄丸子線は,1969(昭和44)年4月に廃線に至った。
●東急電鉄会長 後藤慶太1882(明治15)− 1959(昭和34)
上田丸子電鉄の歩みは,″事業の鬼″,その強引な経営手法から,「強盗」慶太とも異名をとた,東急グループ創始者五島慶太(ごとう・けいた)氏を避けては語れない。 小県郡殿戸村(現青木村)出身の五島氏は,上田丸子電鉄に対し,創業時から何かと相談に乗り,車両を融通するなど面倒をみてきた。
五島氏は上田丸子電鉄が業績不振に陥った際,2億円程度なら出資してもよいが,会社発展の方策も必要だとし,″五島構想″を条件に付けて,再建策を提示した。
この,五島構想に対し同社労組や上田市議会はこの提案受け入れに同意した。しかし,上田丸子電鉄の中心役員らは,条件付きの資金は要らない,とこの話を拒否した。これに対して,五島は「路線の短い,弱小会社を乗っ取ったところで何の得もないが,観光信州のために交通網の充実は必要だ。現経営陣にその気がないのなら自分でやる。したがって会社を東急資本傘下に組み入れたい」,という考えを示した。
そこで東急はまず,上田丸子電鉄の株の一部を買い取り,東急から二人の役員送り込みを実現する。1958(昭和33)年11月には,倍額増資の8千万円を東急が出資して,上田丸子電鉄は文字通り東急の傘下入りした。
◆略歴
・東京帝大卒業後,農商務省の嘱託を経て1913(大正 2)鉄道院に入り6年で退官。
・鉄道院を経て,武蔵電気鉄道常務に就任。東京横浜電鉄と改称,専務となる。
・目黒蒲田電鉄を設立,専務に就任。
・その後両社の社長となり,二つを合併を経て,東京横浜電鉄とする。
・戦時中の企業統合により,小田急,京浜両電鉄を統合し,東京急行電鉄とする。
・1944年,東條内閣の改造で運輸通信相に就任。
・戦後,公職追放。その解除後,多角経営を推進。
・1948(昭和23)大東急記念文庫を創設,1960. 4.18(昭和35)五島美術館を設立。1977(昭和52)東急電鉄会長。
3 信越線(現・信濃鉄道) 大屋駅−全国請願駅第1号−
明治期,生糸は日本の外貨稼ぎの一番のドル箱であった。 諏訪地方の製糸家たちは,製糸業のために鉄道がどれだけ有効であるか考えた。マユは主に関東,東北信から買い付けていましたから信越線は非常に都合いい。原料を運ぶ,製品化した生糸を運ぶ・・・。けれど和田峠を越えてきて小諸と上田間の中間に駅がない。それでは駅をつくってもらおうと請願してできたのが大屋駅。大屋駅は地元の運動によって実現した請願駅全国第1号である。
信越本線(当時は直江津線)は,1888(明治21)年8月に直江津〜上田間が開通。同年12月には上田〜軽井沢間が完成した。
大屋地区では,地元の利便と,周辺の主要産業である養蚕・製糸業の振興を目的に,明治29年1月に大屋駅が開業した。
以来,1902(明治35)年に松本と長野間を結ぶ篠ノ井線が開業するまで大屋駅は,東信地方と諏訪・伊那方面を結ぶ結節点として役割を果たしてきた。

大屋駅に残る沿革では,当時の運送馬車の往来は1日700台を数えた記している。駅周辺には運送店が8軒あり,繁盛をきわめたという。
篠ノ井線開通により一時貨物量が減少するが,丸子町の製糸業発展により,乗降客や貨物は再び増加。大正7年には大屋と丸子を結ぶ丸子鉄道(のちに上田交通となる上田丸子電鉄の前身(昭和44年に廃止))も開通した。
1996年10月1日,北陸新幹線の開業により,数多くの歴史を刻んだ信越本線は,109年の歴史を閉じ,軽井沢〜篠ノ井間の信越本線は第三セクター「しなの鉄道」に移管された。
◆小島大治郎
上田城跡公園に「小島大治郎翁頌貢徳碑」という碑があり,その裏には業績の数々が記されている。そこに「安政6年2月常入村二生レ累代ノ家業タル鋳造業ヲ継ギ刻苦精励中興ノ祖トナリ,傍ラ田沢炭鉱葛y上田温泉電軌株式会社等ヲ創立シ其繁栄今日二及ブ…」と書かれている。生家は代々勅許鋳物師で,寺社の御用を務め,父の代には幕末ということもあって,上田藩や松代藩の大砲,銃器等も製作し,その名は江戸表まで知られていた。明治8年17歳のとき,父の急死により家督を継いだ。
大正初期の川西地区は,千曲川を隔てていたので電気動力の引き込みがなく,事業を起こせなかった中塩田村や泉田村の有力者たちが奔走して,昼間でも動力を使えるよう働きかけたがどうしても実現せず,そこで大治郎の助力を得てようやく大正7年に動力の引き込みに成功した。これに力を得て,次に電気鉄道開設の運動を起こした。この時もすでに丸子鉄道の取締役であった大治郎にも代表として参画してもらい,8年に資本金60万円の上田温泉軌道株式会社を発足させた。9年には,上田温泉電軌株式会社(現上田交通一連称温電と呼ばれ親しまれていた)と改称し,小島は社長となり,鉄道建設に情熱を注いだ。まず大正10年,三好町から青木,別所温泉への運行が開始された。今の上田駅で乗り降りができるのは,千曲川鉄橋の架設が13年に完成してからである。この閑適は川西地区の人々にとって大変な尊びで,とりわけ別所温泉は,電車が開通するまでは通年経営の宿屋は2軒くらいだったが,これを契機に県内外からの客が次第に増え,旅館も次々と誕生し温泉地として発展した。
この建設に当たって建設資金,レールや車両等の調達に大変苦労し,それを物心両面から支えたのが青木村出身の五島慶太(当時の鉄道院総務課長)だった。一方丸子電鉄は丸子から大屋までだったので上田へつなげるため別所線下之郷駅から分岐して丸子町に至る依田窪線(西丸子線)の計画を立て,大正15年に運転を開始した。
更に北東線は大正12年より地元の強い要望が起こり,当時不況の中,幾多の困難を乗り切り,昭和2年上田一伊勢山間が開通,翌3年1月に本願まで,4月に本願一傍陽間が,5月に本原一真田間が開通し,ようやく全線の運行が開始された。このおかげで,後に菅平はスキー場として,更に年中適しての観光地として発展した。
このように,どの路線も非常に苦労して完成したが,大治郎は常々「鉄道事業は山に木を構えるようなものだ,一朝にでき上ったり,儲けたがる考えはだめだ。20年か30年後はじめて効果が現れてくる」といって,私財を投じて地方交適機関の育成に務めた。また上田運送梶C上田瓦斯梶C信濃電気梶C上田繭糸梶C信濃絹糸鰍ネど多くの会社の創設と発展に力を尽くした。
さらに常田幼稚園,小県蚕業学校上田蚕糸専門学校など教育機関の建設や,大正末期には旧上田警察署庁舎を購入し,上田市医師会に寄付し,貧窮家庭のための医療施設「夜間診療所」を開設したり,多くの公共事業にも力を尽くした。
このはか,町会議員,都会議邑,商工会議所議員を歴任し,地方政界でも活躍した。さらに,私設の小育英資金を設けて,苦学生を支え人材の育成に努めた。これはその後上田市の育英資金にその精神が受け継がれ今日に至っている。
「上田誌・人物編」より)
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