戦国の時代の最終戦ともいえる大坂冬の陣と夏の陣。その敗軍にありながら,目覚ましい活躍を見せて散ったのが真田幸村である。
戦前の少年たちにとっては,真田幸村は格別な存在であったことだろう。当時,人気を博した講談文庫シリーズ『立川文庫』のなかで,幸村は猿飛佐助や霧隠才蔵ら配下の真田十勇士らを従え上田城の城主として大活躍する英雄であった。いわば,現在のコミックやアニメのヒーローの先駆ともいえよう。
「幸村」という名前も架空のものではないかともいわれている。彼は書状に「信」と名を記し,幸村を名乗ったという事実は確認されていない。だが,真田信繁自身,伝説の武将となるにふさわしい人物であったことはまちがいない。
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信州上田の領主であった真田信繁の父,昌幸は知略と勇猛をもって,二度にわたり徳川軍の侵攻をはねのけ,上田城を守ったことから,戦国の世に真田の名を高めた。
特に二度目は,石田三成の密書を受けて籠城。徳川家康の子,秀忠率いる大軍を引きつけ,関ケ原の戦いに遅参させるという大きな働きをなした。
関ケ原の戦いののち,昌幸・信繁父子は高野山の麓にある九度山に蟄居となった。14年にわたる配流生活のなかで昌幸は死去する。時の流れは彼を再び戦いの場へと呼び戻す。天下の大勢を得た徳川家康であったが,大坂城にはいまだ支持を集める豊臣秀吉の子,秀頼とその母,淀君がいた。慶長19年(1614年),ついに対立は冬の陣を呼ぶ。真田信繁は豊臣方の誘いに応じたのである。
大坂城に入った信繁は,城の南側が要所と見て,外郭沿いに新たな出丸「真田丸」を築いて拠点とした。信繁の予想は的中し,十二月四日の戦いでは真田丸に徳川方の軍勢が押し寄せた。真田隊はこれに鉄砲,矢の一斉射撃を浴びせて多大な被害を与え,撃退した。
直接の攻城は難しいとした家康は,大砲による城中への威嚇射撃に作戦を変更。21日には両軍の一旦の講和がなって,冬の陣は終る。
だが,この講和が曲者であった。攻城の妨げであった堀をまず埋め立てることが家康の講和の目的だったのである。結局,豊臣方は対抗のために再軍備を進めざるを得ず,夏の陣が始まるのである。
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慶長20年5月5日,徳川方は約15万の軍勢。対する豊臣方は5万余。堀を埋められて裸同然の大坂城を背に,不利な野戦を余儀なくされた。6日,各地で豊臣方は奮戦するが,後藤又兵衛ほかの有力武将が戦死。そして,7日,信繁は最期の戦いに挑む。目指すは家康の本陣。天王寺・茶臼山を発した3000の真田隊は,立ちふさがる松平忠直軍1万3000を突破。まっしぐらに本陣へと向かい,三段に分けた軍勢を次々に突入させた。本陣は大混乱となり,家康は側近に守られて逃走,一時は自害をも覚悟したという。この信繁の武勇は徳川方の武将たちの間でも,のちの世まで語り継がれるものとなった。
だが,家康を取り逃がして,真田軍は撤退。傷つき,全力を使い果たした信繁は,倒れ伏していたところを忠直軍の鉄砲頭に首をかかれた。享年49歳であった。翌8日朝には豊臣秀頼,淀君も自害。豊臣家は滅亡した。信繁の没したのは,茶臼山に近い安居天神社のあたりとされ,同神社には真田幸村戦死跡の碑がある。
●真田幸村戦死跡の碑
【アクセス】真田丸跡毒村像までは」R大阪環状線玉造駅から徒歩で約10分。
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