いかにして我はこのページを開設するに至ったか


 1998年4月。1年間の浪人生活を終え、僕は早稲田大学に入学する事と相成った。大学に入ったのは、教員免許を取るためなどといった学業での目的もあったが、自由に使えるパソコンやサークル活動も大きな魅力だった。
 サッカー・演劇といったサークル候補のうち、最終的に時間の都合がついて活動に参加できそうなクイズ研究会を選んだ僕だったが、さすがに最初はサークルに慣れておらず、授業の合間の時間などは、サークルのラウンジではなくコンピューター室にいりびたることが多かった。そんな中、大宮高校・代ゼミと2つの場で3年ほども一緒だった2名(白鳥圭祐・西川宏平)を相手に僕が配信し始めたEメールが、この『雑記帳』だった。Eメール版『雑記帳』は、僕が勝手に送り付けていたものだったが、それほど「要らない」と言われる事もなく、通算50号以上も配信されていた。知る人ぞ知る『荻窪の風』みたいなものである。
 このEメール版『雑記帳』は、同じ学内にいるとは言えほとんど顔を合わせる事のない彼らに、僕が近況報告として送っていたものだった。その内容は当初、その目的にふさわしく「僕がとってる授業の先生の様子」「最近観た・観たい映画」などであったが、おりしも1998年はサッカーのワールドカップイヤー。徐々にその内容は、大会直前の情報を含め、ワールドカップの試合の観戦記が中心となっていった。そして7月、ワールドカップはフランスの優勝で幕を閉じ、それと同時に僕の観戦記も完結した。その頃はちょうど夏期休暇に入った頃で、自宅のパソコンでインターネットを使えない僕は、大学まで来なければメールを使えず、やや配信数は減った。が、サークルで見つけたバイトで日本テレビの『高校生クイズ』に関わる事が出来、そこで仕入れた問題を目の前にして、僕はあることを思い付いた。この時期には配信相手は8人に増えており、彼らを相手にクイズ大会を開いてみたのだ。YES・NO、三択、筆記決勝と進んだ大会は、僕の不手際もややあったが、結構反応が良く、そこそこの成功を収めた。この間も本来の目的である近況報告・事象に対する意見の発表の場としての機能は維持した。この頃はもう“メールマガジン”としての形態は完成の域に達しており、目玉コーナーのひとつには“今日の名言”があった。
 だが、僕には一つの不安があった。それは「“要りもしないメールを読まされている”“容量を削っているだけだ”と考えている人がいるのではないか。それを表立って言えないだけではないか」という事である。また、僕も、自身のホームページを持ってみたかった。
 そして今年(1999)2月の事である。2つの事が僕に大きな衝撃を与えた。友人のページからリンクした所で試してみた『あなたの値段鑑定します』の結果が1つである。<心のAライセンス><才能のSライセンス>を獲ったものの、<境遇のDライセンス><人徳のDライセンス><運のCライセンス>も獲ってしまったのである。こういうものの結果が全て当たっているとは限らないし、気にしなければいいだけの事なのだが、それでも「恵まれてない」「嫌われている」「ツイてない」と言われたのと同じ事だから、かなりのショックだった。もう一つは、友人の斉藤みかが自分のホームページを持ったという事である。僕も自分のホームページを作ってみたかったのだが、今まで何の行動も起こさなかった。自分の性格として、良く言えば「控えめ」、悪く言えば「引込み思案」という部分がある。今まで、それでかなり後悔してきた。中学時代にはサッカー部に入らず、高校時代には演劇部に入るのがあまりにも遅れた。好きだった女性にもはっきりと言えず、今、この大学生活においても何の行動も起こしていない。そこに、彼女の行動力を見せつけられた。ここで行動を起こさねば、僕はずっと“負け犬”だ。僕はホームページ作成の講師に明治の平山丘知を早稲田に招聘した。
 タイトルは、自分の中で思い入れのある『雑記帳』を継続して使う事にした。Eメールからホームページへのステップアップを図ったのだ。本当に僕のEメール版『雑記帳』を愛してくれていた人にとっては、横浜フリューゲルスの消滅のような気分だろう。「Eメール版『雑記帳』の精神はホームページ版『雑記帳』の中で生き残る」と言われても、“Eメール版『雑記帳』”が消滅するのには変わりないのだから。だから、これからも細々とEメール版は書き続けるかもしれない。だが、配信者の僕の中では「Eメールからのステップアップ」を図っての転換だから、重点はホームページに置く。
 そういうわけなので、これからこのホームページ版『雑記帳』をよろしく。
1999/3/8


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