学校と家庭的愛情
近来都会の児童はもちろん地方の子供まで、よくいえば小利口に悪く言えばすれっからしになったような気がする。これを学校往復の途上に、見るも小さい児童が通りがかりの大人を相手に、ちょっと理屈づめの言い争いをしたりして大人をやりこめているのなどしばしば見受けることがある。また老人などよく述懐して「どうも近頃の子供は理屈っぽくて困る。奴等にうっかり冗談もいえぬ。」 などと言うのをしばしば見受けることがある。家庭からも「子供が親を親と思わず口答えをして困る」 と苦情を言ったりする。なにしろ地方地方によって多少の差はあろうが一般の子供が大人びて、すれっからしになって、理屈っぽくなった事は事実であろうと思う。この傾向は一面からいうならば児童の理性が発達したとも考えられるし、また生存競争の激しい世知辛い世の中になったため、彼等までこうして攻撃防御の方法が本能的に発達したんだとも考えられる。しかし一面から言うならば今の教育が理屈詰めの教育、理智一方のひからびた教育であるため児童が知らず知らずのの間にかくも理屈っぽくなったんじゃなかろうかとも思われる。そして私はこの傾向に対して善悪の判定をなすべき充分な論拠は持たぬが、あまり悪い傾向でないかもしれないが、しかしながら良い傾向だとは断じて言えない。子供は宜しく子供らしからねばならぬ。子供は大人の縮図であってはいけない。小さい子供が早くから大人びていては決して大人物にはなり得ない。コセコセした人間になってしまうかあるいは不良少年的傾向を帯びるに至るであろう。将来一等国民を造るには、もっと大きなのんびりした無邪気な子供を養成しなければなるまいと思う。してみれば今日この傾向に対して教育者は三省せねばならぬ。
私は今日の教育教授を通じて「かるが故の教育」 といいたい、算術理科の如き科学的教材はもとより修身歴史のような情操的な教科まで教師が必ず最後は「かるが故にかくせざるべからず」と結ぶ。狼が羊を追ったり羽の生えた人間が出たり、鼠が嫁入りしたりするお伽噺まで教師は最後に「だから親に孝行せねばなりませぬ」 と結ぶ。そして教師は話しによった感動よりも最後の論決を尊重している。学芸演習会などで、まだ乳離れもせぬような子供が「だからみなさんよい人になりなさい」 などといって満場の喝采を博しているのなどがある。これは実に子供を理屈っぽくする原因ではなかろうか。
私はいったい今日尋常一年二年に修身科を特設してあるのが気にくわぬ。そして一定の徳目をあげて教師も感動せず児童にも不可解なことをさも本当らしく教授するのがいかにも癪だ。子供は修身の説明を聞いて、孝行の理屈だけ覚えて帰る。家へ帰ってその理屈を父母に復習して聞かせる。がそのあとから父母に口答えしているのだ。こんなことでは到底教育の効果を収めることは出来まい。それよりか初学年には修身の時間を特設せず折にふれ時に当たって彼等の実際行動を指導し、また彼等の間に起こる、喧嘩とか口論とかいう小さい社会問題の権威ある解決者となっていったならいっそう初心な愛くるしい子供が出来るじゃないかと思う。また修身時間を特設してあっても、幼少な彼等の感情を乱さない範囲において面白くて可愛いお話をして十分彼等を感動せしめ、決して予備問答だとか復習だとかいって、かるが故の教育をやってはいけないと思う。かくてこそ彼等の情操は順当に発育成長するのだ。尋常五六年に至っては教師はせめて修身教授においてなりともかるが故の教育をやってはいけない。偉人傑士の行動に教師感動して、自然に児童に共鳴せしめたい。命令禁止訓誠にしても「かるが故に」 とか「お前の損だ」 などいう卑しい言語は弄したくないものだ。さらに教師自身は大きな親鳥であらねばならぬ。そしてその暖かい両翼で彼等を保育してしてやらなければならぬ。教師の愛情は春雨のごとく彼等の一つの間隙にまでも浸透していかなければならぬ。暖かい教師の袂に輝く小さな瞳の集まる時、そこに言い知れぬ家庭的な愛情が潜んでいなければならない。そしてこそ、そこに順当な平和な感情の育成ができるのだ。教師の心は芸術家の心であれ。決して説明してはいけない。表現しなければならぬ。
以上は学校において家庭的愛情を味わしむることによって今日の不良傾向を防ぎ風格の高い児童を造ろうとする論旨であるが、これは学校のみではいけない。社会および家庭においても大いに考察しなければならぬ問題だと思う。
(石川教育 大正七年十一月号)
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( 「求むる者--ある若き教師の悩み--」 平成8年1月発行より抜粋 )