CGI
我が家のCDたち
ハイドン 交響曲全集
アダム・フィッシャー指揮
アウストロ=ハンガリアン・ハイドン・オーケストラ
読者の中には、きっとこいつこのCDに行き着くで、絶対、と思っていた人もいるのでは無いかしら。ミッチーのハイドンを聴いて感激したもので、家にあったハイドンのCDを引っぱり出して聴いていたのだけれど、なんと家にはハイドンのシンフォニーのCDって、たった3枚しか無い!そのうちの一枚がこの前レビューしたオルフェウスのもの。あと、カラヤンの「ロンドン」「太鼓連打」、マリナーの「時計」「軍隊」「驚愕」・・・・これで終わり。モーツアルトのシンフォニーがそこそこあるのとは対照的で、いかに僕の守備範囲からハイドンがすっぽり抜け落ちていたかが分かろうというもの。
で、例によって例のごとく、ネットで物色。最初は、「朝」「昼」「晩」セットのCDでいいかなと思っていて、マリナー・ASMFのものを考えていたのだけれど、タワレコの検索でこのボックスセットがヒット。最初はその度肝を抜く安さ(33枚組でなんと9990円!!)にちょっと引いていたのだが、他のHPでおおむね好評であることから、ええい、ボーナスも出たことだし、買っちゃえぇ!ということで、通販で購入した次第(こすもす、ごめんね)。
当然の事ながら、全部なんてまだ聴き切れていません。すでに持っていたCDにある曲(さっき書いたザロモンセットに属する数曲と、45番と81番)、1番から20番までと39番といった初期の作品、それから「疾風怒濤時代」に属する何曲か(38番、42番)を聞き終えたところ。
この前のミッチーの演奏会でも思ったことだけれど、ハイドンの初期の交響曲っていうのは、交響曲というよりもむしろバロック組曲である。まるでビバルディか何かを聴いてるみたいだ。それが、徐々に変化して、最後にはベートーベンと見まがうばかりの大交響曲へと変貌を遂げるわけで、まさにここにあるのは、交響曲というものの成立過程そのものである。その一方で、14年を費やしたというこのプロジェクト、録音は最初と最後から次第に中期へという順番で進められたらしいが、はじめのころは近代ヨーロッパオケそのものだった演奏スタイルが、時を経るに従ってピリオド奏法へ明瞭に変化していくのがわかる。はからずも、20世紀後半におこった、古典演奏スタイルにおけるドラスティックな変化の記録にもなっているわけだ。この二つの変化が縦糸と横糸となって織りなす音楽模様を聴き比べるだけでも、充分な聴きものである。
ライナーノートに、指揮者のアダム・フィッシャーの写真が2枚。プロジェクトの最初と、最後のもの。プロジェクトの始まりにはふさふさだった髪がすっかり禿げ上がり、しかも真っ白になっているのを見るとき、我が身を振り返って思わず苦笑。プロジェクトが始まったのが1987−8のシーズンというから、丁度僕が大学を卒業した年である。この大プロジェクトに費やされた同じ年月、僕は僕のキャリアを積んできた・・・同じだけの年月をかけ、僕はこのプロジェクトに比較しても恥じることのない仕事をなし得たであろうか?・・・そんな感慨にも、ふと囚われる。
(2003.12.13)
ハイドン交響曲第81番&第45番「告別」
オルフェウス室内管弦楽団
オルフェウス!これを聴くだけでときめいた時があった。
オルフェウスの生演奏を聴いたことがある人なら、分かってもらえるだろう。あのアメリカ的なシャープな音像とアンサンブル、指揮者を置かないというこれもまたアメリカ的なスタンス。
これを魅力的と言わずしてなんというのだろう?
以前にも書いたことがあるかもしれない。僕は、サンフランシスコでサンフランシスコ交響楽団の演奏に接し、そこにこのオルフェウスとおなじ音像を見て驚愕した経験がある。これが、アメリカ的な音なのだということを身を持って知ったとき、この国の存在の大きさ、この地球上における絶対的な影響力、そして誰がなんと言おうと、経済と軍事的パワーが集中するところに文化もまた集積し、爛熟の華を咲かせるのだという歴史的普遍的な事実が、これからこのアメリカという国において展開されるのだということを身をもって実感した、これは自分の世界観に決定的なインパクトを与えたものだった。
このCDで展開される、見事なハイドンもその一つである。どう考えても、この演奏はヨーロッパで成される演奏とは全くといって違っている。でも、「見事」という他はない。「見事」で「完璧」な「ハイドン」!!
でも・・
僕は、あと数年経ったとき、この「でも」という言葉を撤回するだろうか?
(2003.12.8)
ショスタコーヴィチ 交響曲全集
ルドルフ・バルシャイ指揮
WDR交響楽団(ケルン放送交響楽団)
ショスタコーヴィチの交響曲の中で、僕にとってはやはり5番が一番身近だった。これは、誰でも同じだろう。昔、在阪テレビ局が制作していた「部長刑事」(古い!)のオープニングテーマが4楽章の出だしだったし、僕が初めて行った演奏会で「巨人」を聴かせてくれたバーンスタイン・ニューヨークフィルが、同じツアーの中、大阪と東京でやったのがこの曲で、特に東京での演奏はレコードにもなって今でも名演の誉れ高いもの。当然、このレコードは発売と同時に学校近くにあった十字屋へと駆け参じて購入、家で擦り切れるくらい繰り返し繰り返し聴いては、感動の涙を流していたものだ。
でも、それから他の交響曲に手が伸びたかというと、そうはならなかった。大学でオケに入っていても、そういう気になれなかった。それは、一つにはショス9が3回生の時の定演のメインの演目になって僕もその演奏をすることになり、この曲と10番とに半年の間付き合い続けた経験が影響していると思う(その時の指揮者が佐藤功太郎氏で、とにかく9番を演奏する気があるんだったら、10番を徹底的に聴けといったのだ)。しかし、この2曲、聴けば聴くほど、気が滅入ってくる曲で、一体何がいいたいんや、おっさん、はっきりせえや、って感じだった。特に、9番の人を食ったような面構えと、10番の井戸の底をのぞき込むような暗さが、とにかく神経に障った。そのころ、友人の下宿で缶ビールをすすりながらショスタコの話をしたとき、皆が一様に言ったことは、マーラーブームが過ぎ去った後にくるのはショスタコブームだと言われて久しいが、一向にそうなる気配が無い、なぜだろう?ということだったけれど、僕は、そらそうやろ、とひとり心の中で頷いていたのを覚えている(これももう20年も前だ)。
その後、オケを引退した後に知り合った仕事上の友人が、ハイティンクのショスタコが好きで良く聴いていると言ったとき、言わなくても良いのに、僕はショスタコがどうも苦手でといったら、1番と6番を録音してくれた事がある(今にして思えば、これはこの友人の確かな音楽的判断力を示すものだ)。このとき、僕はショスタコってこんな佳曲もあるんだと思いはしたが、結局それで終わってしまった。しかし、6番の叙情的な美しさは、その後も長く僕の心を惹いた。
だから、今、僕は初めてこの作曲家に正面から向かい合おうとしている事になる。
日記にも書いたように、このCD、安価なのに素晴らしい演奏を聴かせてくれる。とにかく、熱のこもった、ライブとは思えない高い水準の演奏である。そして、どの交響曲に対しても同じような姿勢で、真摯に立ち向かっている演奏であるが故に、続けて聴いたときに衝撃的な事実が明らかになる。
交響曲第5番「革命」が、ショスタコーヴィチにとってみれば、実は映画音楽程度のレベルの仕事でしかないということだ。
25年前の僕が、ヘッドホンを握りしめて感動の涙を流していた曲が、である。
このことを自分の耳が聞き分けた時、何の先入観もなく、分析的な思考も介在させずに、直感的にそれを理解したとき、僕は心から驚愕した。本当に、驚いた。それは、その前の4番、その後の6番と並べてみないと絶対に分からないことだったのだ。
今、僕はこれ以上のことを語るべき言葉を持たない。
ただ、2月のレニングラード、それまでに、僕はまだ自分の耳で確かめなければならないことが、たくさんあるということ、そのことだけは確かである。
(2003.11.16)
ベートーベン 交響曲第2番、第7番
ベートーベン 交響曲第3番「英雄」、コリオラン序曲
金聖響 指揮
オーケストラ・アンサンブル・金沢
一部の人の(一部っていうほど、読者がいるのかしら?)予想どうり、最後にこのCDのレビューである。最も新しいベートーベン交響曲録音のひとつ(二枚というべきか?)、2003年日本でのライブ録音盤。2番は7月に、エロイカはついこの9月にリリースされたばかり。
聖響のエロイカは、日記にも書いたとおり、僕はセンチュリーを振った実演に接している。しかし、ここでの演奏はそれ以上のものだ。
ここまで、ジンマン、バレンボイム、ラトル、ノリントンと聴いてきた耳でこの演奏を聴くとき、この聖響の演奏の個性が際立つ。モダン楽器を用いた、ピリオド(古楽器)奏法によるベートーベン演奏。しかしそれは、これまで聴いてきたどの演奏よりも徹底していて、そこに現出する響き・音の鳴らし方は、古楽器オケを振っているノリントンよりも古楽的とさえ言っていい。一方で、テンポはむやみに速くはなく、アタックもむやみに強くはない。だから、ジンマンのようなハイドン・モーツァルトを思わせる軽妙な演奏ではなく、ラトルのようなアポロ的筋肉質な演奏とも違う。むしろ、非常に丁寧に整えられ、端正に仕上げてあることに気づく。だからこそ、この演奏が若い、勢いのある、斬新なといった表現だけで語られるべきでないことを思い知る。極めて繊細な肌触りを有する、軽やかな白地の織物のような演奏。
これは、単なるヨーロッパで流行している演奏のコピーではない、ということは強調されてしかるべきだ。はやりの言葉でいうなら、日本の若い指揮者による、新世紀のベートーベン交響曲演奏へのマニフェスト、そう表現されるべきもの。
僕は、この演奏の中に「今」を見る。「今」という時間を感じる。そして、僕がその時間の中に生き、同じ空気を吸い、演奏の息づかいを感じていることの幸せを思う。
僕がここまで、相当の時間を費やしてベートーベン交響曲の演奏を聞き比べてきたのは、このことを自分の耳で確認したかったからだ。不惑の今、僕はこの時代に生きているという実感を求めている。「今」を理解したいと思っている。「今」のクラシックの演奏の中に、きっと何かが見える筈、何かを感じられる筈・・・僕はそう信じている。
(2003.10.26)
ベートーベン交響曲全集
ロジャー・ノリントン指揮
ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
ここまで来たら、毒を食らわば皿までである。現在のベートーベン交響曲の演奏に決定的なインパクトを与えた1980年代のピリオド・オケの演奏とはいかなるものであったのか、それを聴かねばなるまい。で、タワレコの通販を利用してこの全集を手に入れた次第。いわゆるピリオド・オケ版の全集としては、他にもホグウッドやブリュッヘンやガーディナーのものがあるけれども、ネットで調べた範囲では、ノリントンのものが安くてかつ音も良いという評判なので、これに決まり。1987〜88年の録音で、丁度僕が大学を卒業する年にあたる。ばたばたと忙しくって音楽どころじゃなかった頃だ。
で、早速聴いてみました。それで・・いきなり、え、である。
普通の、ベートーベン、じゃん、これ。
確かに、速めのテンポ、古弦楽器のノンビブラートの薄い響き、古管楽器の独特の音色、バロックティンパニの鋭い強打など、これがピリオド・オケによる演奏であることは疑いようがない(当たり前だ)。しかし、音のつくり・鳴らし方は、僕の耳にはむしろそれ以前の伝統的なベートーベン演奏に属するように聞こえる。とりたてて、そこに驚きや斬新さを感じることはできない。
これは、僕の耳が、すでにジンマン、ラトルの演奏を経験してしまったせいに違いない。すなわち、この演奏が衝撃をもって迎えられたのは、それが1980年代だったからだ、ということなのだろう。もうすでに我々は、この時代(後に過渡期と呼ばれることになるのだろう)を通過し、1990年代のベーレンライター新版の出現を経験してしまっているのだ。そして今、世紀は新世紀へと変わり、我々は新世紀の演奏を手にしている、それに関わっている・・・そう考えるとき、歴史というもの、時間というものがもつ力、重みというものを感じて、僕は深い感慨にとらわれる。
この全集の中では、5番が一番の聞き物である。それは、ノリントンの表現が最もこの5番で個性的に現れているからだ。ピリオド・オケの5番、80年代の5番、そういうレッテルから離れた、「ノリントン」の5番・・・結局のところ、聴き手の胸に届く演奏とはこうしたものなのだろう。今さらの如く、そうして当たり前のことだけれど、改めてそう思う。
(2003.10.26)
ベートーベン交響曲全集
サイモン・ラトル指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
タワレコのタワーバリューキャンペーンがこのCDを扱っていて、安く手にはいるのはあと少しですよなどと煽るものだから、その誘惑に勝てずに購入。これがインターネット通販で購入できるのだから、なんという世の中だろう。すっかり大量消費世界の罠にはまっている自分に、少し嘆息。
以前にも書いたけれども、このディスクの演奏はいわゆるベーレンライター新版に拠っている。うちには(これも何度も書いているけれど)もう一つベーレンライター新版によるデイビット・ジンマン、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の全集もあるので、どれくらい違うのかなあという興味もあり、ワクワクと聴いてみたのだが・・・
いきなり、え?、である。・・・・これほんとにジンマンと同じ版を使っているの?
ここにあるのは、ジンマンのような、「颯爽とした」「軽妙な」「古典的」「均整のとれた」一方「新鮮な」「驚きに満ちた」「面白い」「ワクワクさせる」演奏ではない。
いわんや、バレンボイム=ベルリン・シュターツカペレのような、「重厚で」「豊かに響く」「ドイツ的で」「19世紀的」「ロマンティックな」「熱い」ベートーベン演奏でもない。
ここにあるのは・・鋭く強烈なアタック、さわれば怪我をしそうなくらい鋭角的に切り揃えられたアインザッツ、粉塵を巻き上げて突進するような強靱なリズム、しかしその一方で切々と謳われる驚くほど透明で叙情的な旋律美である。
よくよく聴いてみれば、刈り込まれたアーティキュレーション、短く鋭いスタッカート、時折現れるノンビブラートの弦の響き等、この演奏が確かにベーレンライター新版を出自としていることの刻印を見つけることは出来る。しかし、演奏全体から受ける印象は、「古典的」という形容詞からは遙かに遠い。
2番と3番と9番が、最もこの全集の個性を強烈に刻印しているように思う。弦の数を減らした(話によれば、8型かせいぜい10型の編成らしい)ウィーン・フィルの音は、ラトルの表現のせいもあって、とてもウィーンフィルとは思えない響きを形作る。多分、オケの名前を知らずに聴いて、これどこのオケ?と尋ねたとき、これは100年を越える歴史を持ったアメリカ東海岸、フローレンスの名門オケの演奏で、指揮者に恵まれなかったせいでこれまで日の目を見なかったこのオケが、新しい指揮者を得て大躍進した、その演奏なんだよっていわれたら、きっと信じてしまうに違いない。
9番の4楽章が、バーミンガム市合唱団の合唱、アメリカ人バーバラ・ボニーの独唱で演奏されるのを聴いたとき、僕の頭に浮かんだ言葉は「コスモポリタン」という言葉だった。そうなのかもしれない。この演奏は、「ドイツ」や「アメリカ」や「イギリス」や、「古典」や「ロマン」や「近代」などといった言葉から解放されている。「優れて現代的な」「コスモポリタン的」ベートーベン・・・・こんな陳腐な表現しかできない自分に苛立つけれど、残念ながらこれ以外に適当な表現を思いつくことが出来ない。
ベーレンライター新版の果たした役割は、これまでの因襲をリセットし、我々の新しい出発を用意したということなのだろうか?それが、前ミレニアムの最後に成され、新しいミレニアムの演奏を生む(この録音は2002年のものだ)・・・これは、単なる偶然なのだろうか?
(2003.10.5)
ベートーベン交響曲全集
ダニエル・バレンボイム指揮
ベルリン・シュターツカペレ
前にも一回日記に書いたことがあるけれど、我が家にはベト響といえばジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ・オーケストラのベーレンライター新版による全集しか無かった。これはこれでプレミアレコーディングという意味もあるし、演奏自体も面白い聴き物なもので日頃から愛聴しているのだが、いわゆる「ベートーベンの交響曲」というにふさわしい全集が欲しいなあという気持ちも一方であった。それで、いろいろアマゾンで物色していたのだが、カラヤンのものもベームのものも、アナログ時代の録音ということで音のことを考えるとどうしても購入に踏み切れない(だって、全集で値段もかさむんだから、いい音じゃないと!)。さてどうしたものかと思っていたところに、この間こすもすと出かけたタワレコでこの全集を試聴、値段も手頃でこれは!と一も二も無く購入した次第。
ここに聴く音は、僕がオケをやっていた時に、これがベートーベンの音だと信じていた音だ。ドイツのオーケストラが奏する、堂々として揺るぎない、深くそして豊かに響き渡る、確信に満ちたベートーベンの音。
ここで、バレンボイムは、きっと14から16型のフル編成のオケを鳴らしているに違いない。弦の全奏の腹に響くようなマッシブなサウンドは、そのことを如実に物語っている。テンポも遅めで、堂々とした大河のような流れ。
移転したラジオ局の大きなスタジオを使ったという録音も秀逸で、本当にいい音がする。このことは、この録音が2000年に為されたということを頷かせるけれど、演奏は60年代のものだよっていわれたら、それはそれで信じてしまうかもしれない。
人はこの演奏のことをどういうんだろう?アナクロニズムというのだろうか?時代遅れというのだろうか?フルトベングラーのイミテーションとでも?でも、僕はこの演奏を愛する。これもまた、ベートーベンの交響曲。これこそ、とまで言いたくなる自分がここにいる。
ただ・・残念ながら9番の演奏だけが、どうしようもなく駄目である。どうしようもなく、どうしようもなく、どうしようもなく駄目なのだ。どうしてなんだろう?なぜ、1番から8番までこれほどまで立派な仕事を成し遂げた指揮者が、9番だけダメっていうことが起こりうるんだ?
この全集を買ったみんなが9番だけ送り返したなら、9番だけもう一回録り直そうってバレンボイムは思わないだろうか?
(2003.9.28)
シベリウス 交響曲第1番&第6番
クルト・ザンデルリンク指揮
ベルリン交響楽団
シベリウス 交響曲第5番&第6番
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
シベリウスの交響曲で何が好きかと訊かれたら、迷わず6番と答える。なぜって、こんな交響曲を、僕は他に知らないから。
薄明の中にきらめく雪片のような音達。りんごほっぺの子供たちが、息を白く吐きながら口ずさんでいるような旋律。哀切でもなく、歓喜でもない、そのままであるがままに抱きしめて頬ずりをしたくなるような想い。北欧の国々のことを僕は全くと言っていいほど知らないけれど、この曲を通して感じられるそこに暮らす人々のメンタリティーに対して、僕は喩えようもなく近親の情を覚える。
ここに2枚のCDがある。ザンデルリンクのものは、廉価盤でドイツシャルプラッテンというマイナーレーベルから出されたもの。カラヤンのものは、往年の名盤の誉れ高いドイツグラモフォンの再発盤である。おのおの別の交響曲がカップリングされているけれど、ここでは6番についてだけレビューをする。
ザンデルリンクの演奏は、はっきり言って地味だ。オーケストラを派手に鳴らすといった風情からは、遙かに遠く、細部を細かく造形していくような行き方。そして、このベルリン交響楽団(どの程度のオケなんだろう?)の響きが、ドイツのオケにしては非常に薄い(弦の響きが貧弱で、加えて金管の弱さが目立つ)。ところが、このことが結果的に6番における曲の繊細さを際だたせて美しい仕上がりになっている。言い換えれば、フルオーケストラで室内楽をやっているような趣。特に、4楽章の最後、弦だけで語られるモノローグとも溜息ともつかないひとくさりなど、単色の微妙な陰影の変化が心を打つ。
一方、カラヤンの演奏は、カラヤン美学ここにありとでもいわんばかりの演奏。第4楽章にそれが顕著だ。思いっきりダイナミクスとテンポをゆらせ、弦のビブラートを一杯に効かせて嫋々と泣きをいれる演出。ザンデルリンクのものとは対照的な、劇的で耽美的で、後期ロマン派を代表するシンフォニストの曲がそこに現れる。
この二つの演奏を並べてみたとき、曲を演奏するという行為の意味というものを、今一度考えさせられてしまう。カラヤンの演奏・・確かにこういう行き方もあるだろう。そして、それが絶賛されているという事実もある。人が評価するものを批判することは、自分の審美眼のいい加減さを暴露しているようで気が引けるものだが、この曲の場合に限っていうなら、カラヤンのやり方は好きになれない。何か、少年少女合唱団の女の子に派手なステージ衣装を着せて、夜のキャバレーで「コーリング・ユー」を歌わせているみたいだ、と言っては言い過ぎだろうか?
シベリウスの、特に後期の交響曲を演奏するときに必要なものは、確かな共感の気持に裏打ちされた誠実さではないだろうかと、ふと思う。
(2003.9.26)
グリーグ:劇付随音楽「ペール・ギュント」抜粋
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
サンフランシスコ交響楽団&合唱団
子供のための音楽会に行ったことが、僕にこの曲のことを思い出させた。それで、このCDを引きずり出してきた次第。
僕が初めてオーケストラを聴いたのは、今のろんろんと同じ小学校4年生の時。それは、平日の昼間に開かれた、京都府下の小学生を集めての京響の音楽鑑賞会だった。その時のメインがペール・ギュントの第1組曲だった訳だけど、この組曲はよく知られているように「朝の気分」から始まって「山の魔王の洞窟にて」で終わるコンパクトにまとまった佳曲である。その鑑賞会で演奏された他の曲のことはすっかり忘れてしまっているのに、この曲のことはいまだにはっきりと覚えている。「朝の気分」の鮮烈な弦の響き、最後の「魔王」でのオーケストラの強奏の迫力・・・すっかり圧倒された10歳の僕は、京都会館から京阪三条までの帰り道、ずっとこの二つの曲の旋律を口ずさんでいた。小雨の降る中、足下の水たまりに気をとられながら。
そんな記憶があったせいで、僕に初めての子供ができた時、そしてそれが男の子だと分かった時、僕はその子に最初に聴かせる曲はこの曲にしようと思い立ったのだった。それで、仕事場を平日の昼の日中に抜け出して(当時、職場は大阪の中之島にあった)、堂島の毎日新聞社ビルの一階にあったワルツ堂へと出かけ、新譜のこのCDを買ったのだった。
当時行きつけだったアマデアという名曲喫茶に入り、コーヒーをすすりながらこのCDのライナーノートに目を通していると、マスターに声をかけられた。
「そんなCDを買うなんて、珍しいですね」
というのも、当時の僕は、やたら現代物やレアもののCDを買い漁っていて、そんなCDを数枚買ってはその店で封を開けていたからだ。少々顔を赤くしながら、実は子供ができて、と言う僕に、マスターは本当に満面の笑顔でこう答えてくれた。
「ああ、それで、聴かせてあげようと・・・喜びますよ、きっと」
今回はCDのことより、思い出話ばっかりになってしまったけど、このCDは実のところよくできた掘り出し物です。まず、組曲では分からない、劇音楽としてのペール・ギュントの成り立ちを経験することができる。ペール・ギュントはオペラでは無く、あくまで舞台劇なので、台詞があって曲がついて・・・っていう構成になっている。このCDは音楽の収録時間を確保しながらできるだけ台詞も入れるよう配慮されており、それぞれの曲が劇中でどういう役割を担っていたかがわかる仕組みになっている。それから当然のことながら、組曲では耳にすることのない多くの音楽に触れることができる。第1幕への前奏曲など、よくできた序曲だし(なんでこれが独立したピースとして演奏されないんだろうと思うくらい)、第5幕に入ってペールが這々の体で故郷にたどり着き、彼の帰りを待っていたソルヴェイグに子守歌を歌ってもらいながら永遠の眠りにつくまでの劇と音楽の進みなど、はっきり言って泣けます。サンフランシスコ響のクリアで艶やかな高弦の響きは、この曲のもつ北欧の清々しさといった雰囲気にぴったりで、特に「朝の気分」でヴァイオリンがヴィヴラートを一杯にかけながら旋律を歌い始めるところなんぞ、鳥肌が立つくらい。 こんなCDは多分他に無いはず。CDも人と同じで一期一会だなあと改めて思わされる。
(2003.6.5)
ラヴェル:バレエ「ダフニスとクロエ」全曲
クラウディオ・アバド指揮
ロンドン交響楽団&合唱団
昨日のコンサートの余韻で、このCDを引きずり出してきた。実は、一時期ラヴェルの管弦楽をそろえていた時があって、その勢いでこのCDを買ったのだけれど、1回聴いただけでお蔵入りしていたのである。だって、バレエの全曲盤なんて、バレエ本体を知らなかったら面白くも何ともないじゃないですか。そういうわけで、うちの家には1回聴いただけ、もしくは聴いたこともないバレエ全曲のCDが他にもちらほらございます(^^)。
こうやって聴き直してみると、実は最後の(演奏会用の第2組曲に相当する)クライマックスの部分に向けて最初から周到に音楽が準備されていることに改めて気付く。ま、当たり前といえばあたりまえだけれど。でも、マーラーの交響曲も長くって、メロディーや響きの伏線を張りながら展開していくっていう点では同じなのに、そして長さの点ではむしろダフニスのほうがはるかに短い(50分と少し)のに、マーラーには付き合えて、ダフニスには付き合えないのはなんでなんだろう?
それはともかく、昨日も思ったけど、この曲は木管が大変難しく、かつ、大変に魅力的で、木管奏者がうまくないとどうしようもありません。京響の木管って、いつのまにあんなにうまくなったんだろう?しばらく、行ってなかったからなあ・・・。だから、今の京響は、ドイツよりはむしろフランスのオケみたいな響きがしますな。それも、あらたな発見。
第2組曲相当部分がやはり、このCDにおいても白眉なのだけれど、合唱が入っている分、荘厳というか神々しいというか、神話劇としてのキャラクターが一層際だって、すばらしい音楽です。これが、全曲盤の良さですね。例の5拍子の全員の踊りの部分は、昨日の演奏と異なり、実はバレエであることを如実に分からせてくれる演奏。大体、5拍子っていうのは、ちょっとくだけたワルツか、跛行するギャロップみたいになるのだけれど、このCDは前者に近く、昨日の演奏は後者に近い。やっぱり舞曲を演奏するには、正確なテンポにプラスαの何かが必要だってことを思い知らされる。昔、高校生の時に良く聴いていた冨田勲のシンセサイザー版では、この部分ははっきり言って行進曲になってたもの。
一度バレエの実演に接したいものです。7月4日、京響は演奏会形式で全曲の演奏を岩城宏之の指揮で行う予定。時間があったら行ってみたいけど、大フィルの定期とかぶってるんで、どうしようかなあ。
(2003.6.1)
マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
マイケル・ティルソン・トーマス指揮
サンフランシスコ交響楽団
のっけから、マーラーの交響曲が続いてしまった。バランスが悪いのは重々承知なのだが、どうしても早いうちにこの演奏について書きとめておきたいという気持ちがあって、あえて今回選んだ次第。
このCDは、日本で持っている人は少ないのではないかしら? サンフランシスコ交響楽団がプライベート版として発売しているもので、配給にはEMIだとかSonyだとかのメジャーレーベルは関与していない。だから、Amazonでも日本のAmazonでは無理で、Amazon.comに行かないと手に入れることはできない。CDショップについては言うまでもなく、タワレコでもたまに目にするくらいだ。
別に、入手困難なCDを持っていることを自慢したくてこんな事を書いているわけではない。もっと入手が困難なCDは、いくらでも持っている(←結局自慢してるんやないか)。
閑話休題。僕はむしろ、もっとたくさんの人にこのCDを聴いてもらいたいと思っている。そして、そこに何を感じたのか、何を視たのかを聴かせてもらいたいと思っている。’何を聴いたのか’ではない。そこに、何を、僕たちは「見る」のだろうか?、ということだ。
何を言っているのだ、と思われるだろうか?
このCDは、2001年9月12日、サンフランシスコで行われた定期演奏会をライブレコーディングしたものである。こう、書いただけで、きっと多くの人は、あ、と思うだろう。そう、「あの日」の翌日にこの演奏は行われたのだ。
CDのライナーノートの最初のページには、以下のような短い文章が添えられている。これ見よがしにではなく、表紙を折り返した内側に、目立たないようにそっと。
This recording of Mahler's Symphony No.6 was made during the San Francisco Symphony's concerts September 12-15, 2001 and captures a collective response to the events of September 11. The performance of this music, planned long before that day, helped all involved--conductor, musicians, and audience--gather their thoughts and emotions as they attempted to come to grips with chaos. For the world of the Mahler Sixth is violent and tragic, and though moments of transcendent beuty unfold at its center, this symphony offers no simple answers. The performance heard here emerges from a defining moment in American history. It reminds us of how great art is anchored in the world it attempts to comprehend.
この演奏で特筆すべきなのは、第3楽章だ。この曲のことを少しでも知っている人なら、演奏に約80分を要するこの曲の中心が、その半分にも及ばんとする長さを持つ第4楽章にあることは誰でも知っている。そこに最大の力点を置き、狂気すれすれと言っていい世界を表現して見せた、バーンスタイン=ウィーン・フィルの他に代えようのない名演があることも知っている。しかし、この演奏に限ってそれはあてはまらない。ここでは、第3楽章が中心であり、特異点としてそこに在る。
このAndante moderateは、ここで17分半もの時間をかけて奏される。バーンスタインよりも2分以上も長い。ある意味、これはすでにAndante moderateでないとさえいえる。そう、もうこの演奏において、この楽章は、マーラーの第6交響曲の第3楽章であることをやめている。ここにあるのは、声のない聖歌だ。演奏者と聴衆が一つになって歌い上げた、喩えようもなく美しい歌。
僕は、何度この楽章を聴いて涙したろう。そして、最後の弦のうねるようなクライマックスの中、自分が演奏と一緒になって旋律を歌い始めるのを、何度止めることができなかったろうか。
人の意識を解放し、いまだ経験したことのないイメージをそこに喚起するのが芸術であるとするなら、これは紛う事なき真正の芸術である。
(2003.5.21)
マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
小沢征爾(指揮)
サイトウ・キネン・オーケストラ
菅 英三子(ソプラノ)
ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)
晋友会合唱団
関屋 晋(合唱指揮)
大植英次の復活を聴いた勢いで、タワレコで小沢征爾の復活を買った。新譜だったので、またもや衝動買いというやつ。で、それのレビュー。
実は、まさかサイトウキネンがこんなに長く続くとは思っていなかった。特別編成なんだから、特別であって、その時限りだと思っていたものだから、最初に発売されたブラームスの交響曲の3枚のCDは、そらもう、発売と同時に買い込んでいましたがな。ところが、解散するどころか、小沢・サイトウキネンのCDがその後もでることでること。なんか、詐欺にあったみたいな気分。
ま、日本にはそれまでこういう形のオーケストラっていうのが存在していなかったから馴染みもないし、ピンとこなかったんだと思う。ちょっと脱線してしまうけれど、日本のオーケストラは、自治体だとか企業だとか財団法人だとかがバックにいて運営されていることがほとんど。この形態は確かに世界共通だけど、ヨーロッパだとかには、これといった設立母体がなくて自主的に組織・運営されている、常設ではないけど定期的かつ長期に活動しているオーケストラも珍しくない(今年来日した、グスタフマーラーユーゲントオーケストラもそう。有名なバイロイト祝祭管弦楽団もそうだし、ヨーロッパ室内管弦楽団もたしかそうだったはずだ)。こういう存在形態っていうのは、ポップスでいうところのユニットっていうのに近い。で、多分、サイトウキネンは、日本ブランドの唯一のオーケストラユニットになるわけだ。
で、そうなっちゃったからってわけでもないんだろうけど、最初に僕が買ったブラームスに較べると、そのあとのサイトウキネンのCDっていうのは、どうも内容が薄いような気がする。もう、結論から先に書いちゃう訳だけど、この復活にしてもそう。ブラームスの交響曲の中には、小沢のものだけでない、楽員全員のパッションだとか情念だとかいうものが確かに存在している。これを、日本人が好んで使いそうな、故・齋藤秀夫の精神だとか、魂だとかみたいには言いたくはない。でも、ブラームスの中にあるこの例えようのない’熱さ’は、技量の高いアマチュアオーケストラが良い指揮者に導かれてある高みに到達した際に聴かれるものと同じであるように思う。岩城宏之が書く、ウィーンフィルを指揮したときのある瞬間に訪れる至福の時空間というのも、同じものなのかもしれない。
音楽というものは(いや、芸術というものは、と言った方がいいのか?)、実は実際に鳴っている音そのものではなく、その彼方の地平の中に現れるのだ(ああ、何て言ったらいいんだろう!!)と思い知らされる。
今、僕が手にしている復活は、良くも悪くも、小沢征爾の復活であって、それ以上でも以下でもない。でも、まあ、こんなことを思われるサイトウキネンもかわいそうといえばかわいそうかもしれないけどね。
それを差し引いても、復活の演奏としては、はっきり言っておもしろみに乏しいです。早めのテンポでぐいぐい引っぱって行くんだけど、今の僕には、こういうエネルギーや大見栄で聴かせようとするマーラーはちょっと食傷気味。こすもすが一緒に聴いていて、チャイコフスキーみたいって言ったのも実に当を得ているよね。昔なら、これで満足したかもしれない。でも、今は違う。
やっぱり、不惑ワクワクのせいなのかしら? なんて思ったところで、今日はおしまい。また次回。
(2003.5.20)