そのときに、あなたはどう感じたのだろうかと、何度も何度も自問してみるが、いくつかのおぼろげな候補が挙がるだけで、どうやっても確信に近づくことは出来ない。私は、そのとき可能な最善を尽くしたと思う。だけれども、それが功を奏したのか、それとも、裏目に出たのか、それとも、何も起こさなかったのか、わからない。あなたの、挙動から、わずかな挙動から、言葉の端々から、何かを判断しようとしてみるのだけれども、堂々巡りを繰り返すだけ。気にしてもしょうがないのか、そう、結局それしか回答が無いのかもしれない。
もし、それが回答なのだとしたら、もう、何もすべはないのだろうか。そう、結局、どれほど、集結させてみたところで、私が使用しうる感覚と、その処理能力にだけゆだねられている。このボタンを押すと、何が起こるのだろうかと、常にそれは同じではなくて、ブラックボックスの中で、何かの意図が、もしくは、時間経過による何らかの影響があって、いや、そういったことでも理由づけることは出来なくて、常に異なった結果が出力されて、そう、だから、堂々巡りになる、ここでも。
常に、中心に取り残される。その周りを、何らかの意図が蠢いている。かろうじて、自分自身の意図だけが、わずかながらに認識できる、ある程度は。すぐに、制御が効かなくなる、何故、彼はそうなのか、何故彼女はそうなのか、それをどうにか使用としても、制御盤はこちらには無いのだから。すると、回答は一体どのようなものであるべきなのだろうか。
常に、相互作用している。練成させて考えなければならない。変化が変化を生む。そして、作用は反作用にもなる。だからといって一体何になるのか。変わらないものは、変わらない。だから、気にしないようにする。
どころで、今は、あなたはどう感じているのだろうか。あなたの立場になって考えてみる。だけれども、私の立場が頭から離れない。そして、あなたの思考パターンを再現することは、ほとんど不可能で。それに、あなたが保持していて、私が保持していない情報もある、そしてまた、逆も。すると、あなたは、私がどう感じていると考えているのだろうか。わからない、探る。その、探るようなまなざしが、私からあなたへと投げかけられる。その、きっと探るまなざしであるそれが、あなたから私へと投げかけられる。しかし、ただそれだけかもしれない。そうでないかもしれない。そうでなかったとしても、やはり、ただそれだけ。そう、そんなもの、堂々巡りを繰り返すだけ。
つまりは、小さな変化だけなのか、それとも、大きな変化はあり得るのだろうか。その変化は、何によって起動されるのだろうか、脅迫的に、それとも、自発的に、それとも、自然発生的に、時がくれば、その時とはいつなのか、思いもよらない時、計画はいつもたてられたままで放置されるもの。
そして、またもや堂々巡り。小さな変化だからかと思ったけれど、そうではなく、例え大きな変化があったとしても、結果的には、堂々巡り。そんなもの、そんなもの。