どこに向かうのかなど、最早わかるわけがない。とぼとぼと、彼はただ歩いていた。どこに向かうわけでもない、だけれども、留まっている場所さえもなく、ただ、進んでいく、心臓が止まらないのだから、その間は、どうしても、進んでいかなければならないのだから。
猛然とした日々が、摩耗を促す。表皮がはがれ落ちるほどに、そこは柔らかくなったかと思うと、いつの間にかあまりにも堅すぎる表皮が現れ出てきてしまう、風が吹き抜けたことさえも気づかないほどのそれが。少々壁に打ち付けたぐらいでは、血がにじんでくるようなことも、もう無い。喜ぶべきことなのかもしれない。だけれども、悲しむべきことのようにも思う。いや、そのような感覚さえも、同時にどこかへと去ってしまって、言葉として以上の感覚としては感じ取ることが出来ず、そう、ただ、ただそこに存在する時間を眺めるだけ、そう観客のように、たまたまそこにいるが故に、観客になってしまった消極的な、そこで、何が起こったとしても、表面的に口に付く驚きだけで、感情も反応せぬままのそれのように。
ここはどこかと、そういったことでも、訪ねてみたいものだと、それさえも、どうでもいいことじゃないか、あとどれぐらい寿命があるのか、それだって、どうでもいいことじゃないか、今が昼なのか夜なのか、それだって、どうでもいいことじゃないか。もはや、言葉さえも必要がないほどに、だけれども、言葉を保持してしまっているが故に、解放されることはない、それどころか、むしろ、ますます言葉に鋭敏になってくるようで、が故に、口に付く言葉は最小限に減らされて、そして、ほとんど何も描写することが出来なくて、所詮、通り過ぎているだけのような、やはり、それだけのものなのだから。
はじめから、終わりまで、そのようなのだろうか、そう、全て相対的なものに過ぎないのだからといわれてしまえば、回答は成り立たなくて、質問も成り立たなくて。そうでないという感覚にとっては、そうではないだろうし、そうであるという感覚にとっては、そうではないだろうし。
堂々巡りを繰り返している。いや、誰しもが、輪が大きすぎて気づかないだけの堂々巡りであって、もしくは集団が大きすぎて気づかないだけの堂々無繰りであって、きっと。輪が縮まってくると、やがて、公転であったはずの動きが、自転に限りなく近づいてくることを実感し始める。何という堂々巡りなのだろうかと、痛感してみても、それは留まることは出来ないし、最早輪を拡げることも出来ないだろう、いや、出来るのかもしれない、そうするほか無いのかもしれない、広がった輪が、せめて郷愁として感じられるぐらいには、なっている方が良いに決まっている、少なくとも、そのようにできあがっている空間に在るのであれば。内側に行きすぎると、吸い込まれてしまうかもしれない、地平を超えてしまうと、何処に、それでも、きっと主観者としての視点は依然として維持されているように思う、きっと、代わり映えはしないだろう、周りさえ見なければ、周りと比較しなければ、光のようになれと、いや、光だけを眺めておれと、そういうことではないのか。
そして、彼は歩いている。とぼとぼとという表現は、こちらが勝手につけたものであって、実際はどうかわからない、そう表現されたのは、彼の故ではなく、描写者の故であるのかもしれない。ただ、時間が流れていく、当たり前のことだが、彼の鼓動に合わせて、その間は、彼には、その時間に対しては、何の権利もないのだから。