多くの丘が、そこにはあって。見渡して、遠く離れている、それぞれの物体。伸ばした手が触れるのだろうか、それとも、引っ込めた手を掴みたくなるのだろうか。それは、無くなっていく、彼の手の中からも、そして、彼女の手の中からも、少しずつ、いつまで続くのかは不明で。その過程を、過ごしている。こぼれていくものを横目で眺めやりながら、その流れに急かされる。しかし、それを止めることは出来ない、勿論、追い越すことなど。ただ、それらがそのように。そして、丘の上で、遠く離れていて、だけれども、そうでないかのように。出来れば、気がつかないで、気がつかないふりをして、そして、出来れば、同じ丘の上にあたかもいるかのように振る舞うことが出来れば。だけれども、きっと気づいている。気づいていることにも気づいている。こぼれていくものは、自分自身によってしか、認識されなくて。他人のそれは、確かに、あるのだろうが、その様子は、ほとんど、認識することは出来なくて。そして、時に全く無関心になり、そして、時に、無性に心配になって。それによって在るが故に、それによって拘束されている。むしろ、それによってのみ拘束されている。
丘は、そして、小さくて、だけれども、十分すぎるほどで、その中を駆け回っても、いくら駆け回っても、たどり着くことは出来なくて、結局、止まっていても、駆け回っていても、同じであるのかもしれない。しゃがみ込んでいる人もいるし、寝ころんでいる人もいるし、走り回っている人もいるし、好き放題で、決して好き放題であるとは感じていないにしても。その丘には、決して、他者が立ち入ることは出来ないのだから、たとえ、立ち入っているかのように振る舞ったとしても、それは、そのように振る舞っているかのような様子をしているだけで。そして、それは、別のそれから眺めるといつもどこかかすんでいる。こちらの丘の持つ大気によって、そして、あちらの丘にある大気によって。だけれども、時に、そのそれぞれの大気の屈折率や反射率が見事に適合すると、はっきり見えてくる、もしくは、そのように思える。それらは、数多くのそれらは、だけれども、視野に入っている、かすみ具合がいかようであったとしても。だから、緩やかに手をつなぐことも出来るし、しっかりと手をつなぐことも出来るし、手はつながないまでも、視野に入っていることぐらいは出来る。
つまり、どこの丘も、その丘に対しても一致する像にはなり得ないということであって、類似する場合もあるし、全く異なってしまうこともある。なぜならば、そうであるのだから。だから、それらは、水平にも鉛直にも等価な関係しか持たないのが本来の姿であって、いや、正確に言えば、その水平や鉛直という概念すら当てはまらなくて。だから、一見鉛直方向に拘束されているように見えたとしても、それらの拘束は、本来の姿ではなくて、だから、丘は、しばしば、あえて鉛直方向への視野を遮ってしまっている。例えば、大地が視野を遮る役目をしていて、もしかすると、その大地こそが、鉛直方向の接続性を維持するもののように思えるかもしれないが、実のところ、大地は発生した後に完全に独立したものへと変化してしまっていて。それは、維持されるものではなくて、むしろ使い捨てのものであって、手の中から無くなっていくものによって、少しずつ大きくなりながら、しかし、その手の中から無くなっていくものが完全に無くなったときに、その大地は消尽する。
その緩やかな関係性が、その徐々に減少するものが、所属しているようで所属していない彼らと、彼女もしくは彼。