コラム・エクスターナル
凡例:執筆日時(数次にわたる場合も)「タイトル」内容
03/01/25〜03/02/23
「NHKに苦言」
「バラエティ生活笑百科」のキャストは、ミスター梅介ひとりいれば十分だと思う。最近多い民放の類似番組も、しかり。全て、ミスター梅介一本で。綾小路きみまろブームを作ろうとしている場合ではない。国立演芸場の’03カレンダーの10月をテツ&トモにしてる場合でもないのである。あと、「今日の健康」なども、ケーシー師匠ひとり。「NHKスペシャル」などでキリスト教を採りあげる場合も、イエス玉川ひとりいれば万事問題なし。当然、解説委員もリストラの対象になるが、安易にザ・ニューズペーパーを後任に据えようとする意見が出る懸念がある。それでは人数的に効率が良いとは言えない。ここも、やはりローカル岡ひとりに集約すべきである。森田一義ひとりで全ての語学講座が賄えるのと同様に、ローカル師匠の力量をもってすれば全てのニュース報道に対応できよう。かように、公共放送として責任のあるキャスト・リストラを断行してもらいたい次第である。
03/05/08
「ひやひや」
過熱化が進む、昨今のカルト集団報道。そこから見えるのは、カルト集団自体の”異常な”姿よりも、むしろマスコミ陣の無節操と品の悪さである。マスコミは、彼らの「潜在的危険性」「不気味な姿」を喧伝する。自分たちは社会の味方であり、カルトは社会の敵であるという勧善懲悪を気取っている。 しかし、その実、対立しているはずのマスコミとカルトが、”排除の論理”において、その本質を通底していることに、視聴者もマスコミ自身も気付いていない。道徳や倫理、社会通念のような、一見反論困難な、ありふれた”正義”を振りかざすことで、”世間”からの孤立を恐れる”個人”の心理を操作し自陣営に取り込み、自らの論理に適わないものを異端として排撃する。これは、カルトの本質であると同時に、まさにマスコミの常套手段なのである。言い換えると、マスコミュニケーションこそカルトの鬼子であり、同時にマスコミュニケーションこそがカルトに生命を与え続ける原理といえる。両者は、取材するものとされるものという単純な二項対立を形成しているのではない。むしろ、その存在意義を共有する合わせ鏡でさえあるのだ。ちなみに、マスコミが作り出したカルトで最たるものはナチスドイツの第三帝国である。また、人民寺院やオウムなどは、マスコミとの”共同作業”によって初めて、”終末”を迎え得た例であろう。”当事者の正義”を極大化し、”排除の論理”を正当化することで成り立っている組織体。それが、昨今のマスコミとカルトに共通する構造である。我々は、どちらを恐れるべきか?
04/02/05
「薬害あって一利無し」
この時期、世の中は受験ブームである。ほんのひと月前までは、猫も杓子も正月ブームだったのに、流行とはむなしいなものだ。閑話休題。そして、この時期、売り上げを伸ばす商品があるという。合法的に眠気を覚ます薬、”エスタ○ンモカ”である。まわりを見渡すと、やはり、かつての進学校の受験生などには知名度が高いようだ。睡眠欲には自信のある私も、たまに徹夜が必要になることもあり、かつて、これに手を出したことがある。しかし、確かに体は眠ることを拒否するけれど、頭の眠さは変わらない。だから、結局普段通りの睡眠時間分寝て、その代わり普段の数倍”寝疲れ”するという効果が、素晴らしく発揮される。ちなみに薬の効き目で起きている間は、”眠いのに寝れない”状態なので、結局何もできない。まったく、万事、自然に抗うのは愚かなことだと思う。だから、しなきゃならないことがあっても、寝る。おやすみなさい。
04/05/09
「文化景観としての大学」
地域・景観と大学との関わりに興味を持っている。例えば、ヨーロッパの学園都市のようなものも、そうだが、大学のキャンパスというのは、そこに存在する以上、当該地域の文化景観に少なからぬ影響と責任を持つものである。一橋大学、同志社大学のような有名な例外もあるが、日本の大学には、この視点が欠けているように思う。例えば、某校は富士山を背にする中高層建築の屋上に原色の看板を立ち上げ、あまつさえ、その建物のために、かつて地域に解放していた桜並木を伐採している。某校は、歴史的建造物とも言える講堂の破損した窓枠を、“アルミサッシ”をもって代替している。現場レベルを俯瞰し、全体的景観バランスを考えて、建築・造園はどうなのか、看板・調度はどうなのか、そうしたものを考えることも実は大学の仕事ではないかと思っている。余談であるが、図書館、学生・教職員が交流できるラウンジの配置・設計なども、現場の職員が提案できる重要な教学環境条件だと思う。キャンパス計画自体に、教学思想が組み込まれているのが、理想である。景観と大学の関わりを軽視している事実が、欧米・諸外国の大学に比べ、愛校心に乏しい、あるいは私学において卒業生の寄付が少ないことの遠因になっているのではとも思われる。