伝  記

六甲縦走 ランニング マラソン 走友 ライバル 故障 ロードレーサー バイアスロン  
ロードレース            

六甲縦走

83年から職場の同僚に誘われるまま、六甲縦走(歩く大会)に参加した。

スポーツ、運動とは無縁であった自分には、苦痛以外のものはなかったように思う。

それでも、数回参加したのはどうしてだろうか?

86年、当然のごとく挫折してしまった。リタイアである。一人で下りる摩耶ケーブル。

みるみるうちに下界が近づいてくる。情けない、悔しい、やりきれない気持ちがこみ上げてくる。

目の前がくもりそうになる。終点に到着するとすぐに、公衆電話から自宅へ電話・・・。

受話器に向かって、「もう絶対に行かない。自分には向いてない。」と、さんざん話して帰路につく。

87年、なりゆき上、エントリ、してしまった。・・が、参加するつもりは全くなし。

そんな自分に先輩が、「やれるだけのこと、やったらどうや。それでダメなら、止めたらええ。」と・・・・。

もともとスポーツコンプレックスがあった自分。年に一度の縦走が、それを和らげていたのは事実。

今年やめてしまえば2度と参加することはないだろう、苦しい目にも遇わないだろう。が、なぜかむなしい。

87年9月19日のこと・・・。・・・・・・・・・・・。よーし、やってみよう。

当時、職場では、その先輩を含めて常時6、7名がランニングをしていた。そのなかに混じってトレーニング開始だ。

みんなのペースについていけるわけはなし。そんな自分に先輩が「みんなに合わすことはない。

マイペースで行け。ただし、歩いては行けない、歩くようなペースで走れ。」と・・・。

ある休みの日のこと、先輩と一緒にランニングをした。先輩の後ろを走る。

自分は汗でべっとり、先輩はうすっら首筋に光っているだけだ。

「素質がないんだ。いくらがんばっても先輩のようにはなれない。」と、内心思う。

生まれて初めて約10キロ(70分)走った。信じられない思いだ。自分でも走れたんだ。

10キロレース(青垣もみじマラソン)を勧められた。えー−い、こうなりゃ、とことんやってやる。

87年11月1日、無事10キロレースも完走し、向かえるは六甲縦走だ。

87年11月23日、これがあれほど自分を悩ましたやつか。過去にへたり込んだ場所を尻目に平然と完走だ。

数年後、六甲縦走タイムトライアルを完走して、長らくお世話になった六甲縦走を自分なりに卒業した。

誘ってくれた同僚、フォローしてくれた先輩、応援してくれた周りの人達、みんながいなければ、

今の自分はありえないだろう。

2000年4月25日記

ランニング

話は前後するが、ランニングにおける初レースは、青垣もみじマラソンである。

何もわからないままスタートして、ゴールした。記憶といえば、「すーすー、はーはー」だけだ。

アフターレースが楽しかった。先輩諸氏のマラソン談義を興味深く聞いた。今までに経験したことのない分野だ。

大げさにいえば、体育会系、スポーツマンの世界だ。「いいもんだなあ」というのを実感した。

この日を境に、先輩と立場が逆転(実力ではない)した。「次の大会は?」と、私が、たずねる側になった。

おもしろい、本当におもしろい。こんな楽しいことがあったとは・・。今度は自分の方が積極的になった。

前より増して、練習した。六甲縦走のためではなく、自分自身の楽しみのために・・・。

毎日の走行距離を、欠かさずメモした。距離が日に日に増えていくのが、うれしい。

12月、1月と10キロレースに参加した。どれも楽しい。日々、充実している。

記録の方も、レースを重ねる度に、更新している。努力が結果に反映する。

昼、走った、夜も走った。もちろん、休日も走った。時間があれば、走っていたように思う。

ランシャツ、ランパンを買った。シューズも買った。キャップも買った。ランニングウォッチまで買った。

ある日、先輩に2月以降の予定を聞いた。3月のフル(篠山)に向けて準備するという。

当時、ペーパードライバーのような自分は、車で行って、レース走って、車で帰ってくる、というのは自信がなかった。

早い話、先輩だけが頼りだった。一緒に同乗させてもらって、大会へ参加してたわけだ。

「そりゃあ、ないでえ。」そんな心境だった。

走りたい! 大会に行きたい! レースに出たい! その一心から、迷ったすえ、決心した。

篠山参加だ。先輩に、気持ちを伝えた。

2000年4月30日記

マラソン

当時、篠山マラソンのエントリ締め切りは、12月頃(1月までか?)までだったと記憶している。

何しろ10キロしか走ったことがないので、とにかく長い距離を走らねばならない。

ゆっくりジョギングを試しにやってみた。いつもの往復5キロコースを3往復だ。タイムをとって走った。

ペースの落ち込みもなく、まずまずだ。よし、これならいける。今度は遠出してみよう。

とりあえずは3時間走だ。となり町まで行った。見知らぬ道を走った。距離はわからない。

あっちの道を行っては、今度はこっちの道・・。雪が降ってきた。熱った身体に気持ちいい。

結局、この日は、2時間40分ぐらいで帰ってきた。3時間、走りつづけるのは難しい・・・。

まあ、いいか。もともと、完走できるなんて思っていない。雰囲気が楽しめたらそれでいい。

当時の篠山マラソンは、中間点関門と35キロ関門があった。この35キロ関門が厳しい。

確か3時間30分だったと思う。前年度完走率は、70%を切れている。完走できないことを恥じることはない。

中間点を突破して、35キロ地点で収容バスに乗る。これで十分だ。

いつもの練習ペース、一体どのぐらいの速さだろうか? 6分/キロ、あるのか・・。

回を重ねるうちに、気持ちが変わってきた。これだけやったんだ。出来ることなら、完走したい。

いや、完走できるんじゃないか。なんか、自信めいたものが芽生えた。

88年3月6日、前日眠れぬ夜を過ごし、やっと迎えるその日がやってきた。

人、人、人・・、すごいランナーの数だ。自分もこのうちの一人なんだ。心なしか緊張している。

先輩が「絶対歩くな。給水以外で、止まるなよ。」と・・・。そのアドバイスを胸に、スタートラインへ。

スタート後、先輩はすぐに先へ行ってしまった。自分は練習と同じペースだ。5キロを過ぎ、10キロを過ぎる。

ここから、レースでの未知の距離だ。中間点、無事通過。収容バスが待機している。乗るもんか。

5キロごとにタイムをチェックする。ペースは安定している。行けそうか・・。

ほどなく35キロ地点を通過。時間は十分だ。

38キロあたり、急に足取りが重たくなる。初めての経験だ。歩きたい。立ち止まりたい。

そんな気持ちを打ち消しながら、ひたすら前へ進む。沿道に応援の人垣が出来はじめる。もうすぐだ。

会場が見えてきた。ゴールラインを通過した。一瞬、からだの痛みも消えた。先輩が笑顔で迎えてくれた。

2000年5月5日記

走友

88年をかわきりに、職場の走り仲間で、神鍋合宿(8月)を開催した。

一泊二日で、神鍋マラソンに参加するのである。合宿とは言っても、名前だけで、要するに親睦会だ。

毎年パターンはこうだ。前日に10kコースを、ゆっくりジョグする。話ながら・・、ふざけながら・・、である。

いい汗、かいた後は、ひとっ風呂浴びて、冷たいビールで乾杯だ。

実に楽しいひとコマだ。今、思い出してみれば、レースそのものより、こういった情景が目に浮かぶ。

ランニングをしていなければ、当然、この場に自分はいない。

人との出会いとは、わからないものである。

このメンバーとは、ランニングを介さなければ、絶対に交流はなかっただろう。

退職、転勤等により、多くの走友が職場を去っていった。

また、ランニングを止めてしまう仲間もいた。昼ラン仲間も年々減っていった。

今、昼ランをしているのは、自分も含めて、わずかに二人だけだ。

長らく続いた合宿も、98年を最後に諸般の事情から、開催にいたっていない。

2000年5月10日記

ライバル

同時期に走り始めた走友がいる。今では、大きく水をあけられているが、最初のころは接戦だった。

10k、ハーフ、10kで3連勝、その後、5k、5kで2連敗。迎えるは6戦目、10kレースだ。

89年2月19日、どちらも気合十分、負けられないところだ。10kなら・・という自信があった。

先の5kレースは、ゴールスプリントで、タイム差なし、背後霊作戦(当時、こう呼んでいた)にやられた。

背後霊作戦とは、相手の後ろをぴったりマークして、ゴール前でかわすというもの・・・。

トップスピードに劣る自分には不利だ。そこで、あえてスローペースでスタートした。

しびれを切らした走友は、自分のペースで先行していった。作戦どおり・・・。

みるみる視界から遠のいていく、やがて、見えなくなった。

折り返してくるランナーの中に走友がいた。先に相手が気づいたようだ。軽く手で合図を送ってくる。

さあ、これからだ。ペースをあげて後を追う。走友の背中が視界に入った。

ぐんぐん、近づいてくる。すぐ、後まで追いつき、そのまま横に並びかける。勝った・・・。内心、思った。

こちらに気づくや、待ってたとばかり、ペースアップ。そのまま、併走が続く。

併走しながら、他のランナーを抜いていく。終盤が近くなると、皆、必死に追いすがってくる。

いつの間にか、7人前後の集団が出来ていた。相手は、走友ただ一人だ。

ゴールまで300メートル付近、走友がスパートをかける。一瞬の後、自分もそれに続き、集団から抜け出す。

その差が詰まりもせず、開きもしない。腕を振って全力で走る、・・・が、依然として差は詰まらない。

そのままの状態で、ゴールラインを越えた。負けた・・・。1.5秒差・・・・。

双方共に、当然、自己ベストだ。負けて悔いなし・・と言いたいところだが、やっぱり、悔しい。

レース後、「追いつかれてからが、勝負と考えていた」・・と走友。相手がいちまい上だった。

2000年5月20日記

故障

走り始めた頃、とにかく、がむしゃらに走ったものだ。練習を休めば、せっかく築いた体力が低下する。

そんな強迫観念に、とらわれた。無理がきている事さえ知る由もない。

1990年のこと、2月に木津川、3月に篠山と連続でフルを予定していた。

年末に風邪気味でしばらく練習を中断し、年明け早々から再開することになった。

休養十分のはずである。・・が、右膝外側が痛む・・。最初は何ともないが、徐々に痛み出してくる。

激痛というものではないので、走ることは出来るが、いい感じではない。

もうすぐ、レースだというのに一体なんだろう。不安がよぎる。

だまし、だまし、練習をするも、距離を走ることが出来ない。そんな状態のまま、2月木津川の日がやってきた。

案の定、5キロを過ぎた付近から、痛み出してきた。雨天ということもあって、からだが冷えて余計に痛む。

なんとか完走はしたものの、帰り道、まともに歩くことが出来ない。もう、フルはこれが最後と思ったものだ。

数日後、整形外科に行った。すねは疲労性骨膜炎だが、膝は異常が見当たらないとのこと・・。

そんな馬鹿な・・。しばらく通院したが、一向に回復せず、今度は接骨院へ行ってみた。

炎症を起こしているとのこと・・。今ひとつ、要領を得ない。とりあえず、低周波治療を続けた。

3月篠山。痛みがある上に、練習もろくに出来ていないこともあって、歩いては走っての繰り返しだ。

体中が痛い。歩くのさえつらい・・。収容車に乗ろうか・・。何度も迷う。

リタイアしようと思ったときには、収容車がそばにいないので、仕方なく歩く。

この繰り返しで、なんとかゴールまでやってきた。

後日、某ランニング雑誌に紹介されていた接骨院をたずねた。

初心の頃によくある使い痛みとのこと・・。結局は低周波治療とマッサージだ。

しばらくレースの予定がなかったので、じっとしていたら、いつの間にか回復していた。

いまだもって、狐に包まれたような話だ。

2000年5月28日記

ロードレーサー

1991年4月のこと。その前年に生まれ故郷の神戸を離れ、稲美町に引っ越していた。

こちらの方、平地が多いためか、やたらとバイク(ロードレーサー)を見かける。カッコイイではないか!

若干、ランニングにも、マンネリ化を覚え、退屈していた矢先のことだ。ちょうどいいや。

某ランニング雑誌にも、筋トレの効果があるとか載っていた。

さっそく近所の自転車屋をたずねることにした。完成品でサイズが合えば、安く購入できるとのこと。

模擬バイクでサイズを測ってもらうと、赤いのがぴったりだ。郵便屋みたいだが、まっ、いいか。

それを注文して配達を待つことにした。毎日がそわそわして、落ち着かない。

配達予定日、急いで職場から帰ってきたのを覚えている。さあ、やっと手にしたバイクだ。

ためしに乗ってみようと思いきや…、あれっ、こんなはずでは…。うまく乗れない。

当然、地面に足はつかない。乗ったとたん、バランスを崩して転びそうになる。

仕方なく、石段の上からまたがって、ペダルを漕いでみる。ボートが池の上をすべるように、静かに前に、

進んで行く。さて、止まりたいが、止まるとひっくり返る。石段を見つけて、そろっと停車…。

よしっ、今度はどこででも止まれる練習、次ぎは、急ブレーキで止まる練習、コーナーリングの練習、

変速の練習等、一通りやってみてから、いざ、公道へ出てみる事にした。

爽快! 快感! なんと表現すればいいだろうか!? 全く違った世界だ。

風を斬るとは、まさにこのことをさすのか。スピードの限界にも挑んだ。急勾配の上り坂にも挑んだ。

何から何まで、物珍しく、いっぱしのレーサーを気取っては、バイクを転がした。

休日のランニングが、バイクのツーリングに置き換わった。バイクに乗りたくて、職場まで通勤に使ったりした。

メインがランからバイクに移ったようだ。バイクの走行距離が増えると共に、ランニングからは遠ざかる。

筋トレ、筋トレ…、都合よく解釈しながら、ますますバイクにのめり込んでいった。

2000年6月17日記

バイアスロン

バイク購入から3週間が過ぎた頃、自転車屋のおやじから、「チーム姫路しらさぎ」の練習会に誘われた。

バイクを連ねてのツーリングを想像していたら、バイアスロンタイムトライアルだった。

要するにレースだ。せっかくだし、面白そうなので、参加することにした。

1991年5月26日のこと。バイアスロンの中身はこうだ。第1ラン…5キロ、バイク…40キロ、第2ラン…10キロ。

「チーム姫路しらさぎ」というのは、姫路を拠点にする本格トライアスロンチームのことだ。

全くの手作りの大会だが、ボランティアの方が数人いて、サポートしてくれている。

場所は、姫路の白浜あたりだったと記憶している。バイクコース(8k×5)を、経験者(チーム部員)に、

教えてもらったが、折り返しが多くて、いまいちコースを把握できなかった。

そうしているうちに、ちょっと早いけど、ぼちぼちスタートしよか…の声。手作り大会の良いところだ。

第1ラン5キロ、何にせよ初めての体験なので慎重に、おさえ気味にスタートする。

皆、ワイワイ言いながら走って行く。ほぼ中位あたりで第1ランを終了し、いよいよバイクだ。

ヘルメット(ペダルの構造によってはバイクシューズに履き替える)をかぶって、バイクにまたがる。

このつなぎ時間をトランジッションタイムと言うらしいのだが、慣れていないと、結構もたつくものだ。

あれよあれよと言う間に、追い抜かれる。ギアの選び方さえ知らないので、適当に変速して、ただひたすら、

ペダルを回すのみだ。一人で、気ままに転がしているのとは違って、3周目くらいから、かなりバテバテになる。

途中、唯一マウンテンバイクで参加のランナーを抜いた。しばらくすると、自転車屋のおやじを発見。

バイクがパンクしたらしく、タイヤの交換をやっているようだ。さすがプロだ。手際よく処理している。

5週目になると、尻は痛いし、脚は痛いし、腰は痛いし、もうバテバテで、危うく、サポートの人に、よろけて、

ぶつかりそうになったり、給水を落としそうになったり、やっとのことでバイクの終了だ。

第2ラン10キロ、尻にサドルが挟まっているみたいだ。なんとも情けない感覚だ。それを我慢しながら、

徐々に上げていく。一人、ひとりと、ランナーをかわして行く。皆、かなり参っているようだ。

抜かれることはなく、抜くばかりなので、気分がいい。海岸沿いの岸壁(だったと思うが…)を走るので、

潮のにおいが心地よい。いっぱしのアスリート気分で快走だ!!程なく、ゴールテープが見えてきた。

ボランティアの人が、テープを切らしてくれて、写真まで撮ってくれる。

その日知り合った人達と、参加賞のビールと弁当を食べながら、マラソン談義、バイク談義に花が咲いた。

この練習会、毎月やっているとのことなので、これからも参加しようと思いきや、次回からはトライアスロンに、

なるそうだ。第1ランが1.5キロスイムになるらしい。

結局、最初で最後の体験となったが、今では楽しい思いでのひとつだ。

2000年7月1日記

参 考

1991年白浜バイアスロン・トライアスロン第2回大会 参加48名中33位

第1ラン5キロ 20’36

バイク40キロ(8k×5) 1=15’57 2=15’49 3=16’27 4=16’36 5=16’44 平均29.43km/h

第2ラン10キロ 44’02

優勝者のタイム

第1ラン    16’19 

バイク         1=12’32 2=12’26 3=12’17 4=12’16 5=12’26 平均38.74km/h

第2ラン    37’31

ロードレース

バイアスロンが済んで、しばらくたったある日の事、例によって、自転車屋のおやじから、ロードレースに誘われた。

今度は、バイクのみだそうだ。当時、バイクに熱中していた自分は、即参加を決めた。

1991年10月13日、オリベッティ・ツール・ド・ジャパンin神鍋に参加した。

スタートが、早朝の7時ということで、前日から車中泊を決めこんだ。

おりしも、夜中から雨。眠れぬ車中…、ビールをあおって、明日に備えようとすると、余計に目が冴える。

眠れぬ夜を過ごし、ようやく夜明けがやってきた。相変わらずの雨が降っている。かなり、激しい…。

さあ、車から、表に出て、びっくり! もう、場違いまるだし!

バイクパンツにバイクウェア、雨天用ゴーグル、手袋、鍛えぬかれた強靭なふともも。

パンツにウェアはもちろん、ゴーグルも手袋も持っていない。貧弱な体格…。あーっ、来るんじゃなかった…。

後悔した所で、いたしかたなし…。

検車!? なにそれ…? ゼッケンの付け方がちがう!? なんで…?

マラソン大会とは、勝手が違って、危うくスタート地点に遅刻しそうになる。

四苦八苦しながらも、スタートラインに並ぶ。相変わらずの雨。号砲が鳴る。一斉にスタート!!

瞬時に、ドン尻になる。皆、バイクを傾けて、ノーブレーキでコーナーリングだ。

自分はというと、恐々、減速して慎重に走る。コーナー、下り坂の度に、差は開いていく。

上り坂、数人のレーサーを抜いては行くものの、下りでは詰められる。

最終周回、なんとか、ドン尻は免れたかと思いきや、背後からオートバイが、並びかけてきて、

「タイムオーバーです。ヘッドゼッケンを回収します。」との、無情なお言葉…。

そっか、制限時間があったんだ。それを理解した時、すでに、レースは終わった。

1ヶ月後の事、すっかり忘れていたロードレースの記録票が届いた。記録なしの記録票…。むごい…。(笑)

あの頃は、若かったと、今だから話せる、ほろ苦い思い出。あの時のチャレンジ精神は、今何処。

2000年10月8日記

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