| 科学革命とこれからの経済成長 | 平成27年2月 | 小金芳弘 | |
| 私は科学者ではなく何かの分野の専門家でもないが、60年以上にわたって、日本と世界の長期的な未来について政治・経済・文化・技術等の相互依存関係にもとづいて考え、その結果を書いたり話したりすることをやってきた。ここでは、その最後に行き着いたところについて書き残すことにしたい。 1 環境汚染問題と科学のパラダイム 2 マスコミの役割と現状 3 物質科学と生物科学:新しい科学革命 4 物質の利用と生物の育成:人間の管理と「おもてなし」 1 環境汚染問題と科学のパラダイム それは丁度1年前の2月、30年以上も前に開発されたEM(Effective Microorganisms)―有用微生物群―という生物技術の製品が持つ能力について、その開発者である比嘉照夫教授から話を聞いたのが始まりだった。それまで私は、その開発者が日本人であって150もの国で農薬や化学肥料の代わりとして用いられている上に環境汚染対策の手段としても強力であること、それを使って内外で多くのボランティアが活動しており、それが原発事故後の東北地方で特に活発であること等を、全く知らなかった。 そしてそれは、新聞雑誌やテレビなどのマスコミがそれらのことを全く報じていなかったためなので、インターネットで検索してみると、「EMが環境汚染を除去できるということはあり得ない」と科学者たちが言っているのが原因であることが判った。そこで、何故彼らがそう言うのかをトマス・クーンの「科学革命の構造」(1971年、みすず書房)にもとづいて考えたところ、以下のような答えを得た。 科学者の社会communityには、どういう問題が重要であり従って研究する価値があるのか、またそれに対してどういう解答を与えるのが正しいのか、などについての暗黙の了解事項とも言うべきパラダイムというものがあるが、コペルニクス、ニュートン、ラヴォアジェ、アインシュタイン等は、それまでのパラダイムの代わりに全く新しいパラダイムを創り出し、その度に科学は飛躍的に進歩した。 ここで比嘉教授が言っていることを要約すると、EMは光合成細菌、乳酸菌、酵母などを組み合わせたものであって、多くの有害な還元物質を糖やアミノ酸に変えることによって環境をクリーンにすると共に、1986年のチェルノブイリ事故後のベラルーシの汚染地帯における10年余の実験によれば、放射性物質を減少させる力までを持っているということになる(比嘉照夫「新・地球を救う大変革」、2012年、潟Tンマーク出版)。しかしそんなことは、今の科学のどんな教科書にも書かれてはいない。 つまり彼は、現在の科学のパラダイムの代わりに全く別のものを提唱しているのであって、科学者たちが「それには科学的な根拠がない」と言っているのは、「科学にはそのようなパラダイムはない」と言っているのと同じなのである。 それに対して教授は、地球上には生物を滅ぼすのではなく蘇生させるためのシントロピーという作用が働いており、EMの環境汚染除去能力はその表れなのだと説明するが、科学者たちはその説自体を信じないので、議論は一歩も進まない。ここで、教授がEMを開発するまでの経緯と現状について述べていることを要約すると、次のようになる。 始まりは、彼が九州大学の大学院でミカンの研究をしていた時である。たまたま光合成細菌を使ってミカンを栽培してみると不思議に好い味がするので、これはその品質の向上に役立つかも知れないと思って、色々な細菌を試してみる一方で微生物学や化学も学んだ。その次は、琉球大学で助教授になった後の1972年である。この頃の彼は農薬を使い過ぎたためにひどく健康を害したので、何とか化学製品を使わずに農業の生産性を上げる方法はないかと思うようになり、何回もの偶然に助けられながら試行錯誤を重ねた末、EMというものができた。 そしてその後は、それが持つ大きな能力を発見するのにつれて、これは金儲けのためではなく世のため人のために使わなければならないと思うようになり、今では30万人に及ぶスタッフを擁する大組織を運営するまでになった。 一方それまでの私は、産業技術が自然界から抽出したエネルギーを使って生産性を上げるという性質を持っている以上、これまでのような経済成長が続くなら地球環境を破壊してしまうことは必至であり、それを防ぐためには、遺伝子の中に自然のエネルギーを産業技術よりも遥かに効率よく利用する仕掛けを持っているに違いない生物を対象とする生物技術を活用するしかないと思っていたので、すぐにその運動を応援することにしたのである。 この運動は今までのところ、化学製品の使用の増加を抑えながら農業その他の仕事に役立たせるという目的はある程度達成したように見えるが、上述のような目的から見ると、満足できないだけでなく行き詰っているようにさえ思われる。そしてそれに責任があると私が最初に思ったのは、科学者たちの態度だった。 彼らは、EMを投入したらヘドロまみれだった日本橋川が劇的に蘇ったとか神田川に鮎が戻ったとか、原発事故後の福島県の牧場で放射性セシュウムが大幅に減少したとかいう証言があるのに、その因果関係が明らかでないからそれは「信用できない」と言い続け、それ が現在の行き詰まりの原因になっているからである。 しかし、細分された領域の中で専門とする分野の研究に集中している彼らにとっては、産業技術の発展が引き起こす環境汚染を生物技術の製品が除去する能力を持っているという主張は、物質科学physical scienceと生物科学biological scienceの両方にまたがる問題である上に、その壁を踏み越えるというニュートンもアインシュタインもやったことのない仕事を日本人が一人でやったと言われても、信じられないのは当然だとも言える。 2 マスコミの役割と現状 ただその一方で、環境汚染問題の解決特に放射能汚染による被害の修復ないし予防ということが今の日本や世界の先進諸国にとって急務なことは明らかなので、この行き詰まりを打開するためには国民の世論の後押しが必要であり、それを可能にするものはマスコミしかないと思われる。 報道機関の使命は情報を伝えることだが、インターネットつまりSNS(Social Network Service)のプロバイダーは、発信されたものをそのまま受信者に伝えるだけであるのに対して、新聞雑誌などの活字メディアやテレビ・ラジオなどの音声画像メディアは、集めた情報に自ら生産したり加工したりしたものを加えて大量に発信する。 このマスコミがどんな情報を伝えるかを決めるためには、「真否」による選択をするか「価値」による選択をするか、どちらかになる。この場合、真実を伝えなければならないことは当然だとしても、実際には何が真実かを見極めることは難しいので、普通は、誤報を避けるようにしながら価値があると思う情報を伝えることになる。そして価値には、社会全体にとって役に立つという「公的価値」と、その機関なり関係者なりが金銭的利益や名誉、権威、権力などを得られるという「私的価値」がある。 日本のマスコミはほとんどが営利企業であり、それと競争しなければならないNHKもほぼ同じ状況にあるので、建前は別として、本音のところでは私的価値を優先したいのは当然である。この観点からEM問題に関するマスコミの態度を見ると、何故それを報じなかったのか、むしろ不思議に思われる。前述したような、日本橋川、神田川、福島県の牧場などの外にも、東大寺境内の池、マレーシアの河川や海岸、ニカラグァの湖、等々を浄化したという面白い情報があるのに、それを一つも伝えなかったからである。 それが事実かどうか疑わしかったからだと言うのなら、昨年のSTAP細胞問題や佐村河内問題でも、若い女性の論文が世界の科学者たちを驚かせたとか聴覚障碍者が名曲を作ったとかいう情報も、同じように疑わしい。それでもそれを大々的に報じたのは、若い女性がエプロン姿で研究室に立っている情景や「現代のベートーベン」という記事が売り上げや視聴率に役立つ、と思ったからであることは見え見えである。 一方上述のような情報は、それが事実だと言う者とそんなことはあり得ないと言う者が併存していることを報じても誤報になる恐れはないし、現場の写真や住民のインタービューや、それを否定する人たちの意見を盛り込んだ紙面や番組を作れば、面白いので売り上げや視聴率が上がることは間違いないと思われる。 今の日本のマスコミは、発信する情報の量と種類においてSNSに圧倒されているだけでなく、読者・視聴者・スポンサーの多くをスマホやパソコンに奪われ続けているが、山のようにある情報の中から興味ある事実を発見して報道するというマスコミの原点に戻ることができれば、そこに埋まっている特ダネという宝を掘り出すこともできるし、それを続けることによって、世論を先導するという報道機関の役割を取り戻すこともできるであろう。 3 物質科学と生物科学:新しい科学革命 科学の進歩という問題に戻ると、科学には物質科学と生物科学という二大分野があり、生物もその身体は蛋白質や水や炭素などの物質からできているので、自分の身体を再生産できなくなった動物や植物は、死体や材木となって物質の中に入る。 そして前者は、主として純粋な知的興味にもとづく研究から出発したものが多かったために、それが実用的価値に結びつくとは誰も思わなかったが、産業技術と資本主義経済制度に結びつくようになってからは急速に巨大企業と巨大資本を生み出すようになり、それがまた、その進歩を加速させることになった。 一方後者は、人間の健康や生活の必要に結びつくものが多かったので初めから重視されはしたが、その中で人間の生命などに関係するものは宗教との関係を深めて行き、客観的興味の対象となるものの研究は、その方法が分類学taxonomyの持つ限界を破ることができなかった。その結果、医療や農業などの実務に携わる人たちがその能力を上げようとすれば、物質科学を利用する化学工業や機械工業の製品に頼らざるを得なくなり、それを大量に使用することは、土地、海洋、河川、大気などの汚染や各種のアレルギーを生む原因にもなった。 遺伝子工学はその限界を打ち破り、ジェームス・ワトソンが1953年に遺伝子のらせん構造を解明してからは急速な進歩を始めるようになったが、その利用は、医療の進歩や遺伝子組み換えによる動植物の生産などのように生物を操作する分野に限定されているために、物質科学と結びついた産業技術が、交通、通信、照明、家事などの分野で次々と革命を起こしたようにはなれなかった。 一方、物質科学の進歩とそれを原動力とする産業技術の発達は、最近になってから核爆弾という大量殺人兵器を作り出した後、それを平和的に使用するために核分裂を利用する発電事業を生み出しはしたが、その廃棄物が発生させる放射能による汚染を処理する技術を開発することはできなかったので、それを地底や海底に埋めることしか処理の方法がなく、その結果、地球そのものを台無しにしてしまう危険を生むまでになっている。 その一方で生物科学は、その技術がEMという製品を生み出すことによって環境汚染問題の解決に道を開いたので、将来は、微生物学を先頭に立てながら物質科学と協力することによって、これまでのものとは全く違う性質の科学革命を起こす可能性を持つようになった。そして、もしそのような科学革命が起これば、今までのように無茶苦茶にエネルギーの投入を増やすことによって生産性を上げる産業技術は時代遅れになるので、原発反対運動も必要がなくなるであろう。 4 物質の利用と生物の育成:人間の管理と「おもてなし」 幕末以後の日本人は、欧米の科学や技術の威力を知るのにつれて、初めの内は彼らに支配されるのを恐れ、次は彼らに負けないようにと思って頑張ってきたが、今は彼ら自身が行き詰まってしまったので、これから先どうするかは自分で考えなければならならなくなった。そしてそのような時には、他人のことなどは考えず、自分が得意なことを見つけてやるようにするのが、最も賢明な方法である。 日本人は昔から、物質を利用することよりも生き物を育てることの方が得意だったし、人を支配し管理することは苦手だったが、人を「もてなす」ことは上手だった。江戸時代には、物質を大量に利用しながらそれを生産する技術を開発することはできなかったが、鯉の養殖や生け花、盆栽などでは天才的な能力を発揮した。また植民地の経営や占領地の管理は下手だったが、お客をもてなす時は、山海の珍味を並べたり豪華な宴会を開いたりしなくても、質素な茶室でお茶を立てることによって相手を喜ばせることができた。 以上から今後の経済発展を考えると、日本人がその能力を最も発揮できる分野は生物を育成する農業や牧畜であり、人間を相手にするサービス業では、「おもてなし」によって相手を満足させる接客業や飲食業だということになる。 前者においては、日本人は、化学工業や機械工業の製品の大量の利用と広大な土地を生かして単価を下げる南北アメリカやオーストラリアに圧倒されたが、うまい米やうまい牛肉を生み出すことにおいてはどこにも負けなかった。また後者においては、家族経営の店は姿を消して行ったが、それに代わるスーパー、コンビニ、ファミレスなどは、大量の物質を右から左へ流すだけでなく、外国ではあり得ないようなサービスを追加することを売り物にしている。このことは、物質を取り扱う製造業においても違いはなく、この前の戦争でも、アメリカの戦闘機は1対1の戦いではゼロ戦に歯が立たなかった。 今の日本の政策課題について言えば、大量の通貨供給の下で政府が膨大な赤字を出しているのに拘わらず、老人を特養ホームへ入れようと思っても何年も空きがなく、母親が働こうと思っても子供を預ける保育園がなく、過労死するまで働かせる企業が絶えない一方で非正規労働以外の職場は中々見つからないというのが現状である。これは、少子高齢化という社会的な与件の下で産業化の行き詰まりやITの広がりが雇用主の有利と雇用者の不利を招いているためであることは事実だが、原因はそれだけではない。 社会を政治・文化・経済・技術の分野に分け、前述のように日本人の得意なものと不得意なものに分けると、人を支配し管理することが苦手である点で、政治は日本人にとって最も不得手な分野である。そしてその原因が歴史にあることは、同じような島国の住民であるイギリス人のそれと比較すると、理解することができる。 ブリテン島の住民は、ローマ人の侵略と支配によって文明化された後、アングロ・サクソン、デーン、ノルマンというような外来者による支配と管理を受けてきたために、「そうされる」だけでなく「そうする」する方法も身に着けた。それに対して日本列島の住民は、中国人に支配されるのでなくその文明を真似することで文明化し、その支配者も、縄文とか弥生とかいうように変わりはしたが、同じ島国の中で生活している者の間の交替だったので、支配と管理のやり方も、中国人のそれを真似したり、それまでのやり方を踏襲したりするだけに止まった。 江戸時代に入って間もなく幕府は鎖国してしまい、文化、経済、技術の分野では日本人が得意とするものを十分に発達させることを可能にはしたが、その反面で、すべてのことを仲間内の都合と了解だけで片付けてしまうという習慣も定着させてしまった。 これらのことを考えると、日本人が政治を苦手にすることを直すのはこれからも難しいとは言える。しかし、これからの財政資金の使い方や規制のあり方を決める時に、欧米人の猿真似や高度成長時代の再現を夢見ることをやめ、日本人の特性とその独創を生かすことによって、安上がりな資金と制度の使い方を工夫しながら国民のニーズの充足と財政赤字の縮小に努めることは、「やればできる」はずである。 そしてその結果、経済成長率が低くなろうと高くなろうと関係はない。今の日本人は、「所得倍増」を熱望した時の日本人ではないのであり、世界で物質に飢えている人たちは沢山いるが、彼らの求めているものの量は一人当たりで見れば決して多いものではない。そして、かつてのアメリカが「ゆたかな社会」として人々の憧れの的だったのとは違い、これからの日本がその憧れの的になることはあり得ないことではなく、その徴候は、今の東京や大阪の中心部や各地の観光地に溢れている買物客や観光客の姿に表れている。 |