21世紀日本の構想 平成20年9月 日本のアメリカ化と情報革命 小金芳弘


はじめに 無差別大量殺人と現代日本

 平成20年6月8日の日曜日、東京秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ若者が通行人をなぎ倒した上にダガーナイフを振るって7人を殺し10人に重軽傷を負わせた事件は、全日本を戦慄させた。この種の無差別大量殺人事件が日本で頻発するようになったのは1990年代後半からだが、これまでのものが子供だけを狙ったり隠れて行ったりしたものが多かったのに比べると、その特徴はより鮮明になってきている。問題は、この種の事件が偶発的なものではなく、これからも起こる可能性が高いと見られることである。

 犯罪は病気と同じく人間社会にはつきものだが、それには必ず動機というものがある。金を得るために人をだましたり殺したり、損害を与えた相手に対して仕返しをしたりするのがその典型だが、前者の場合には物質的な利益を得ることが動機であり、後者の場合には、相手に同じ損害を与えることによって生まれる心理的な満足を得ることが動機である。これらの場合には、それによって得る利益以上の損害や満足以上の苦痛を味わうのでは引き合わないので、罪に対する罰があることが、普通は抑止力になる。

 しかし秋葉原で起こったような事件は、実行と同時に誰がやったか特定できるために重い罰から逃げようがないことを承知している者が起こすのだから、この抑止力は通用しないし、テロのように政治的な意図がある訳でもない。それでは通常の精神状態ではない者の起こした事件かというと、精神鑑定にかけても恐らくそういう結論は出ないであろう。

 このように、「普通の考え方」では説明のつかない事件を日本の(普通と考えられる)若者が頻繁に引き起こすようになった原因を追求するための唯一の手がかりは、銃を使って無差別大量に人を殺す犯罪の先発国はアメリカであり、日本の社会がアメリカに近づくのにつれて似たような事件が起こり始めたということである。

 戦後の日本の目標は、とにかく何でもアメリカに近づくということだった。その追いつき政策が実を結び、アメリカを抜く債権大国にまでなったのは1980年代後半だったが、84年にアメリカでインターネットが民営化され、文字、画像、音声、データその他の情報の即時かつ多角的な流通が爆発的に増加し始めた後の日本では、約10年遅れて同じ情報化が始まった。若者の無差別大量殺人が頻発し始めたのは、ほぼそれと同時期である。

 アメリカ合衆国が独立したのは1776年、日本の明治維新は1868年であって、それまでのアメリカは西ヨーロッパと、日本は東アジアとそれぞれ密接な関係を持ってはいたが、その他世界にとっては余り知られた存在ではなかった。しかしそれ以後は、両者とも国際社会の中での存在感を急速に増しながら、相互に極端とも言えるほどの性格の違いを維持していた。それが近年、アメリカが日本に近づくというよりは、日本がアメリカに近づくという現象が目立つようになったが、これは速度の違いこそあるが、ペリーの来航によって日本が初めてアメリカと関係を持った時以来の傾向なのである。

1 ペリーからマッカーサーへ
 徳川幕府は、1641年にオランダ人を長崎の出島に移して鎖国体制を完成して以来、200年以上にわたってこの体制を守ってきた。一方、1770年代の産業革命以来その経済力と軍事力を爆発的に増加させた西欧諸国は、それを更に増加させるべく世界各地に進出し、日本に対しても貿易を求めるアプローチを頻繁に行うようになったが、その都度拒否されていた。

 一方、1776年に独立したアメリカは、その豊富な資源と優れた技術を生かして有数の大国にのしあがっていたが、アジアへの進出については地理的条件のためにヨーロッパ諸国に立ち遅れていた。ここで日本へ進出することは、そこでの貿易による利益だけでなく、東側からアジアへ進出する道を開くことをも意味する。アメリカの開国要求がイギリスやロシアのそれと違い、軍艦4隻を率いたペリーを江戸直近の浦賀に派遣するという過激なものになったのはそのためだった。

 幕府は、1853(嘉永6)年の最初の来航の時には考えておくと言って何とか追い返したが、アメリカがそれで諦めるはずはなく、翌年ペリーが軍艦8隻を率いてやってくると、仕方なく日米和親条約を結び、アメリカ船の来航と領事館の開設を認めた。更に、これにもとづいて下田に派遣された総領事のハリスが民間貿易の開始を迫ると、58(安政5)年には幕府は日米修好通商条約を結び、イギリス、ロシア、オランダ、フランスが直ちに追随した。

 それ以前の日本では、社会学的な概念に従って社会を文化、政治、技術経済構造の三つの領域に分けると、文化の領域は高度に洗練された段階に到達していたが、技術経済構造の領域は、鎖国体制下で封建的秩序を維持するという政治目的のために設けられた様々な規制によって市場機能と技術進歩が抑制されていて、当時の日本人の欲求に応えられる状況にはなっていなかった。

 この問題を解決するためには、欧米諸国の要求に従って外国との自由な貿易を認めると共に彼らの生産技術を導入して生産能率を向上させる以外に道はない。しかし、それに伴って異質の文化が国内に流入すると人々の価値態度に変化が生まれ、それによる秩序の乱れが政治的統一を破壊する恐れがある。事実、西欧諸国との交流を深めた多くの非西欧諸国は、それに起因する社会的な混乱のために西欧化に対する賛成派と反対派に分裂し、双方が西欧のライバル国の助けを得て争う内にそのどちらかに支配されてしまう、という事態が頻発していた。

 日本でも、安政の諸条約以後は同じ状況が発生し、攘夷を主張する朝廷と薩摩長州が連合して幕府と対立したことによる内戦が勃発したが、それに勝った後の攘夷派は、武家政治が始まる遥か以前に日本を統治していた天皇を名実共に国家元首とすると共に、その命によって西欧の生産物のみならず知識や制度のすべてを取り入れるという方針を打ち出して、この争いを決着させた。

 新政府が次に目標としたものは、「富国強兵」すなわち経済力と軍事力の大幅な増大だった。しかし、明治維新はアメリカの独立より100年遅れていた上に、アメリカのように広大な国土と豊富な天然資源があるわけでもなく、しかも3000万以上の人口の生活に必要な物資を調達しなければならないという条件の下でそれを達成するためには、日本人は、猛烈に働く一方で日々の生活を極端に質素なものにしなければならなかった。

 その努力と犠牲の甲斐あって、維新後50年経った頃の日本は第一次世界大戦の戦勝国として米英仏と並ぶ大国となったが、それまでの発展の下で富と権力を手にした階層が固定化する一方で、そうでない階層との間の格差が広がり、その対立が始まっていた。マルクス経済学は、これを地主対小作農、資本家対労働者の対立だと規定し、資本主義経済が発展すればするほど前者の後者に対する搾取は激化して、やがて無産者の有産者に対する革命が起こって資本主義社会は滅び、共産主義社会に移行すると予言していた。

 国際的にはこれは、マルクス主義を正統性の根拠として1922(大正11)年に建国されたソビエト連邦と資本主義諸国の対立に発展したが、その一方では、後者の中での英仏米と日独の分裂が目立ち始めた。ドイツがナチスの独裁体制になってから次々に近隣諸国に侵攻して英仏米と対立したのは、第一次世界大戦の敗戦国としてひどい目にあったことの反動だったが、日本には代わりに、後発資本主義国であることによる経済的社会的問題が山積する一方、アジアでは唯一の強大な軍事力を使って国益を追求することができるという、特殊な事情があった。

 1929(昭和4)年にアメリカが大不況に襲われた時、日本の政府は金輸出を解禁しながら金の流出を防ぐために金利引上げ、財政支出削減という引締め政策をとったので、輸出は伸びた代わりに内需不足で経済は大不況に陥った。経済学者の大部分がマルクス経済学を信奉している中で失業と貧困が全国に広がるのを見て、共産主義の浸透によって体制が崩壊するのを防ぐためには自分たちが行動するしかないと考える若手軍人が急増し、右翼国粋主義者がその後押しをした。

 1931(昭和6)年9月、軍の最高司令部が認めないまま満州(中国東北部)駐在の日本軍と朝鮮駐在の日本軍が連合して起こした戦争が圧倒的な勝利に終わると、政府は彼らを統制違反で処罰するどころか勲章を与えて昇進させる一方、満州帝国という国を作ってそこを実質的な植民地にしようとした。これは、中国人の強烈な反日感情を呼び起こして絶え間ない紛争を誘発する一方で国際的な非難を浴びたが、国内的には、却って対外強硬策を唱える右翼と軍人たちを勢いづかせ、結局日本は国際連盟を脱退して、国際的孤立の道を歩むことになった。

 1937(昭和12)年に中国北部で戦争が始まると、中国軍の反撃は満州事変の時とは比べものにならないほど激しく、政府はその拡大を止めようとしたが軍は力で押さえつける方針を譲らなかったので、戦火は中国全土に広がった。アメリカやソ連の中国への援助の強化に伴ってこれは益々激しくなり、追い詰められた日本はナチスドイツと同盟し、39(昭和14)年にヨーロッパで始まった戦争でドイツが大勝するとインドシナ半島にまで出兵したので、英米とオランダは石油等の対日輸出を禁止する経済制裁を発動した。

 このままでは1年後には軍艦を動かすこともできなくなると焦った日本は、南方の資源を手に入れようとしてこの3国との全面戦争に突入し、3年半の死闘の後に惨敗して、マッカーサーを総司令官とする連合軍に全土を占領されるまでになった。
 
2 日本的資本主義の興隆と衰退
 日本を占領したアメリカ軍は、日本の政治を民主主義の原則にもとづいて行うように改革した上で、それまでの日本の軍事力を支えた資本家と地主の経済力を削ぐため、財閥解体、財産税導入、農地解放などの改革を次々に行った。一方日本の政府は、「富国強兵」の強兵を捨てて富国だけに目標を絞ったが、戦争を放棄したことで軍事費の負担がなくなったことと占領軍によって富の分配が平等化されたことは、国民の所得の多くを貯蓄と投資に振り向けることを可能にし、この目標の追求のためにこの上ない条件が出来上がった。

 以後の日本の経済発展は色々な点で世界を驚かすものだったが、その主な特徴は、発展の主役である企業の中での雇用主と雇用者の関係が、主として終身雇用と年功序列賃金だったということである。現代の資本主義経済では企業の経営者が雇用主となり、それ以外の働く者は雇用者となるが、ここでは、働く意思のある者を総称して勤労者と呼ぶことにする。

 アメリカでは、経営者は市場競争の中で利益を挙げるという目的のために勤労者を雇い、勤労者は高い報酬を得ることを目的として雇われる。日本の制度をアメリカの経営者から見ると、一度採用した者を定年になるまで雇い続けたり、年ごとに能力に関係なく給料を上げて行ったりすることは、利益に役立たないことに金を払い続けることになる。勤労者から見ても、より高い給料を貰える会社に移りたいと思ってもそうできないし、自分より無能な者が先輩だというだけで高い給料を貰うのはおかしいと思うであろう。

 しかしこの制度は、日本人にとって別に不思議なものではなかった。江戸時代の武士は同じ藩主に仕え続けることが普通だったし、武士に限らず年長者が年少者の上に立つことは昔からの伝統だったからである、企業を一つの藩と考えれば、それがなくならない限りそこで働き続け、年と共に昇給して行くことは自然である。

 企業が藩と違うところは、市場競争で負ければ倒産する恐れがあることだが、勝てばそれだけ給料が上がるし、高いポストにもつける。勤労者にとって重要なことは、定年まで解雇される恐れがなく、働き続ける限り給料が上がって行くことであって、それさえ保障されるなら一生懸命働くことは勿論、仲間の失敗や無能をカバーし合うことも当然だということになる。労働組合はその仲間が互いを守るために会社ごとに作るので、企業別労働組合も、終身雇用、年功序列賃金と並んで「3種の神器」の一つになった。

 このような企業が集まって形成する日本経済は、戦後の混乱期を脱した後は1970年代初めまでは世界を驚かす高度成長を実現し、73(昭和48)年に石油危機が起こった後もいち早く危機を脱出して世界経済の牽引車となり、83(昭和58)年に石油危機が終わると更に躍進して、80年代後半(昭和末期−平成初期)にはアメリカに代わって世界最大の債権国にまでなった。この経済に首位の座を奪われそうになったアメリカは、日本企業の行動をジャパン・プロブレムと呼んで問題視し、ことあるごとにジャパン・バッシング(日本叩き)を繰り返すまでになった。

 しかしこの日本的資本主義経済は、その全盛時代にも全能だったわけではなく、企業経営者のリーダーシップというアキレス腱を抱えていた。経営者と勤労者の関係を経営者=藩主、勤労者=藩士というように規定すると、前者が上で後者は下という上下関係になってしまうが、終身雇用体制を堅持するために重要なことは、命令服従の関係を徹底することよりも両者の情的な一体感を保つことである。そこで日本では、経営者はその権力を使ってリーダーシップを発揮するよりは、重要な決定をできるだけ勤労者の総意に任せるという慣行が成立することになった。

 そして、もしそれでうまく行くなら、勤労者の参加意識は高まるし、経営者の仕事は随分楽になる。このような企業が集まっている日本の経済がアメリカの王座を脅かすまでになれたのは、この時代の技術経済的発展が産業社会のそれの最終的段階に到達していて、経営者が3種の神器を守りながら問題を処理して行くスタイルが確立しており、そのお手本さえ守っていれば経営者にリーダーシップがなくても大きな間違いはないという状況が続いていたからである。

 しかし、日本経済が資本主義世界のトップとしてそれをリードする立場に立つと同時に、その発展を牽引する主力産業が情報通信業に移るという転換期にさしかかると、かつてのお手本は役に立たなくなったのにリーダーシップのない者が経営者の椅子に座っている場合が多い、という状況が発生した。バブル崩壊後の長期不況が終わった後の日本経済が、2002(平成14)年2月以来08(平成20)年初めまで景気が上昇するという「いざなぎ景気」を越える好況期に入ったのに一向に活気を取り戻せず、先発国には置いて行かれ後発国には激しく追い上げられるという状況に陥ったのはそのためである。

 戦後間もなくの頃の日本では、既存の大企業の多くが占領軍に潰されたり分割されたりしていた上に経済全体が大混乱の中にあったので、経営者の立場は江戸時代の藩主ではなく戦国大名と同じであり、リーダーシップのない者は生き残れなかった。町工場から世界屈指の大企業になったソニーやホンダの経営者はその代表であって、彼らが創り出した経営のスタイルが、以後の日本におけるお手本となったのである。

 今の日本の経営者は、明治維新後や敗戦後のように外部から加えられた衝撃的な変化に直面しているわけではないが、これまでのようなやり方ではやって行けないと思わせるのに十分な大きさと深さを持つ変化に当面している。そこで彼らの多くは、絶えずリストラを心がけ、派遣社員の利用を増やし、給料を能力給に変えて行く一方で、浮いた資金はできるだけキャッシュにしておき、財テクで増やすか有望そうな企業をM&A(吸収合併)で手に入れる、という方法を採っている。

 かつての日本の経営者は、社員たちの雇用と賃金上昇を確保することを義務と考えていたが、今の彼らはその考えを捨ててこのようなアメリカ的経営手法を採っているだけでなく、多くの者が、利益のために犯罪ないし犯罪すれすれの事件を引き起こすまでになっている。原産地や賞味期限の偽装、使いまわし、粉飾決算、インサイダー取引、人材派遣会社の法令違反、店長の肩書きの代わりに超過勤務手当なしでの過重な労働の強制、等々がその実例である。

3 アイデンティティの危機とインターネットの役割
 これらが目立つようになったのは、バブル崩壊後の不況の真っ最中だった1990年代後半以後の10年間だが、これは同時に、ウィンドウズ95の発売を契機として日本でインターネットが爆発的に広がり始めた時期でもあったことを考えると、日本的資本主義の斜陽化は、日本がアメリカに接近しただけでなく情報化への道に本格的に突入したこととも関連していると言うことができる。

 情報化の目に見える現象はパソコンと携帯電話の普及だが、これは今までの日本での車や家電製品の普及とは性質が違う。これらの耐久消費財は人間が自分や家族の目的のために使うものだが、インターネットに繋がったパソコンと携帯電話には、自分の必要に応えたり楽しんだりすること以外に、自分と一般社会との繋がりを保つという役割があるからである。

 江戸時代から戦前までの日本では、家族や親族の中での繋がりが密接な上に、地域共同体の中では誰でもお互いのことをよく知っていたので、自分が何者かということを疑問に思う者などはいなかった。経済が発展してモノが豊富になると互いに助け合う必要が減るので、このように濃密な人間関係を煩わしいと感じることが多くなるが、逆にそれが薄くなりすぎると、自分が何者なのかを知る機会が減るので、社会的動物としての人間は情緒的に不安定な状態に陥る。

 戦後の日本では、3種の神器を守っている職場は一種の運命共同体だったのでその心配はなく、その他の職場でも地域共同体の伝統が残っていたので、この問題はそれほど深刻なものにはならなかった。しかし今の日本では、スーパー、コンビニ、ファストフード、ファミレスなどのチェーン店によって個人商店的な存在は急速に駆逐され、大組織の中での人間関係は機能的な分業体制だけになるのにつれて、自分は機械の部品ではなく一人の人間だということを示すidentity(身分証明)の喪失に悩む者が急増しつつある。

 移民の集まりだったアメリカでは、教会を中心とした共同体の役割が減少するのにつれて早くからこの現象が発生した。これに対してアメリカ人は、金を稼いで良い車や家を持つことによって自分をアッピールする方法を採ってきたが、その競争が激化するのにつれて、周囲から無視されるのに耐えられなくなった若者が、銃を乱射し無差別に人を殺すことによって自分を主張しようとする事件が頻発するまでになった。

 これに対してインターネットは、それまでの電信電話網やラジオテレビ網とは違い、誰でも一般社会との間に即時的なコミュニケーションを成立させることを可能にしたので、ホームページやブログを通じて自分が何者であるかを示す情報を発信し、それによってアイデンティティを確保しようとする者が急増した。今の日本はその後を追っているのであり、このような形でのインターネットの利用が進めば、人々がそれぞれどんな生活をし、どんな欲求、可能性、経験などを持っているかを示すミクロの情報が爆発的に増加する。

 これまでの日本では、数量的な財貨サービスの生産と利用の状況や金の流れ方を示すマクロの情報の供給は非常に豊富であり、政府や企業はそれを頼りとして人々のニーズに応えようとしてきた。しかし最近になってからは、ある分野では供給過剰のために赤字とゴミばかりが増え、他の分野では供給不足のために不満が増大する、という現象が顕著になってきている。

 それは、規格化されたモノやサービスの供給が十二分に行き渡ってしまった一方で、個人々々や家族などの小集団が抱える問題が多様化し、しかも重要性を増しているからである。今の日本では、このような問題をうまく処理できるかどうかは結局のところ当事者次第となっていて、政府や企業にはどうすることもできない。

 しかし、インターネット上の膨大なミクロの情報を適切に利用することが可能になれば、当事者は勿論、政府、企業、ボランティア、善意の第三者その他誰でもが、その解決に寄与することができる。物的な手段やエネルギーの投入を増やすことでは解決できない問題でも、適切な情報の投入によってそれが可能になる場合があるからである。

 ただ問題は、ここに情報を提供する者は第一に自分のためにするのであって、他人を助けるどころか迷惑をかけても自分の利益を図ろうとする者が多いことである。特に現在のように匿名や仮名で何でも書き込めるという状況の下では、これは、プライバシーの侵害、自己宣伝、ポルノ、誹謗中傷、いじめ、詐欺などの犯罪や犯罪すれすれのもののために使われることが多く、他人の役に立つような場合は少ない。

 このように有害なものや役に立たないものを大量に含む集団の中から貴重な情報を抽出するためには、先ず不純物を除去し、次に残ったものの中から目的に応じて役に立つものを探すという順序を踏む必要がある。

 前者のためには、現代の社会で自動車を運転するためには免許を取得した上に複雑で厳しい規則を守らなければならないのと同じように、インターネットを利用する者に然るべきルールとマナーを守らせるための法令の整備が必要になる。後者のためには、目的と状況を特定して検索をかければそれに必要なミクロの情報に到達できるようなソフトウェアーの開発が必要だが、それを推進するためには、その利用に応じて料金をとれるようにすると共に、その中から他の用途にも使える情報が生まれれば、元の提供者の知的所有権を守りながらそれを一般に売れるようにする制度が望ましい。







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