21世紀日本の構想 平成20年5月 石油危機以後の日本経済とこれからの日本 小金芳弘

目次
はじめに:目標を見失った日本人
1 小泉改革の前と後
2 耐久消費財産業と産業政策
3 情報技術、ジャパン・バッシング、バブル
4 ネットワーク産業としての情報通信業
5 情報の活用と管理
おわりに:エネルギーから情報へ


はじめに:目標を見失った日本人

 私が人生のほぼ8割を過ごした昭和時代の日本では、人々が何を目標として生きれば良いか分からない、というようなことはなかった。明日の命も分からなかった戦争末期や、それに負けてどん底に落ち、明日の米さえままならなかった時でさえそうだった。ただ、この時の日本人が幸福だったかというと明らかにそうではなく、この頃から見れば今の日本は「天国」である。

 しかしその実態はどうかというと、これからの人生をどのようにでも生きられるはずの若者たちからニートや自殺志願者が続出し、何不自由なく育てられた子供が実の母親を殺すというような事件まで起こる一方で、昭和33年頃の日本を描いた「東京タワー」や「Always 三丁目の夕日」などの映画やテレビがヒットして、あの頃は良かったとする風潮が蔓延している。何故だろうか?

 当時の日本では、人々は肩をよせあって生きていた。人生の目標は、家族のため、仲間のため、会社のために尽くすことであって、その貢献に応じて然るべき恩恵が与えられるという期待もあった。その共同体の最大のものが国家であり、そのお陰で日本は世界第一級の経済大国にまでなったが、このことによってそれまで国家が目標としてきたものが失われ、下位の共同体が自身の利益のみを追求するようになるのにつれて、最後には家族までがバラバラになる事態が起こったのだと思われる。


1 小泉改革の前と後

 平成3年(1991年)にバブル景気が終わった後、日本の政治は迷走状態に入り、平成12年(2000年)までの10年間は、内閣が宮沢、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森と7回も交替したのに一向に不況が収まらなかった。ここで登場した小泉氏は、不況からの脱出というような短期的で経済的なものではなく、「自民党をぶっ壊す」という衝撃的で政治的な目標を掲げることによって、世論の圧倒的な支持を得た。

 首相になった後の小泉氏は、外交面では北朝鮮を初めて訪問して拉致被害者を連れ帰るなどの実績を挙げたが、内政面では「改革なくして成長なし」と言い続け、派閥の意向を無視して自分の思う通りに登用した閣僚に改革を任せた。その最大のものは、旧大蔵省の影響力を排除して都市銀行が抱えていた大量の不良債権を整理したことと、族議員の影響力を排除して財政資金のばら撒きを止めさせたことである。前者は金融の正常化のために、後者は国債残高がGDPの総額を超えるまでになっていた財政赤字の膨張に歯止めをかけるために、何れも必須の要件だった。

 彼が最後にやった郵政民営化は、上の二つが過去の失敗の後始末だったのと異なり、情報社会化へ向けての体制改革という前向きのものだったが、その意義が一般に理解されなかったために自民党内に重大な亀裂が発生した。そのことのために同じ方向への改革が止まってしまったことは事実だが、それにしても、彼が金融と財政の破綻を修復したことの功績は、敗戦後の日本社会の混乱を収拾して正常化した吉田首相のそれに匹敵すると評価することはできる。

 問題はその後である。現在の日本は、環境問題や少子高齢化問題をはじめとして、都市と地方の経済格差の拡大や、過労死、ワーキング・プア、フリーター、ニートの増加などの問題を抱えており、その大部分は小泉改革のために発生したものではなく、新しい時代のための体制改革が進まないことに起因している。

 小泉が吉田に当たるとして、敗戦後の改革を終わって吉田が退陣した後の日本にも、現在以上の難題が残されていた。その最大のものは、当時の日本にはすぐに使える外貨準備は5億ドルしかなく、朝鮮動乱による米軍特需がなくなることは必至だった上に、ベビーブーム期に生まれた子供たちが生産年齢に到達する時期が迫っているので、彼らを食わして行くために必要な外貨をどうやって調達するか、ということだった。

 この状況の下で発足した民主党の鳩山内閣は「経済自立と完全雇用」という目標を掲げて総選挙に臨み、圧倒的な支持を得た。この目標は、産業界が一致して頑張ったことと世界経済が予想もされなかった好況に突入したことによって達成された。その後を受けた岸内閣は日米安保改訂問題で国論を二分させて退陣したが、池田内閣は「国民所得倍増」を訴えてその亀裂を修復し、経済的目標の追求を再開した。これに続いて起こったいざなぎ景気が終わったところで登場した田中内閣は、「日本列島改造論」によってそれまでの路線を更に強化しようとしたが、石油危機の勃発に伴う超インフレによって沈没した。

 以上に対して、小泉内閣の後を受けて登場した安部内閣は「戦後レジームからの脱却」と「美しい国」という目標を掲げて参院選に臨んだが、これらの場合とは違って空前の敗北を喫した。その直接の原因は、それまでに首相が起用した若手閣僚たちが実績を挙げるどころか次々に失態を演じたことではあったが、彼が掲げた目標が世論にアッピールできなかったこともまた、大きな原因だったと思われる。

 経済自立、所得倍増、列島改造などの言葉が分かりやすくしかも前向きの印象を与えるのに対して、戦後レジームからの脱却とは何なのか分かりにくい上に、戦後の改革を否定して戦前の日本に戻れというように後ろ向きに聞こえるし、美しい国は、抽象的に過ぎる上に産業発展以前の自然と農村の風景を連想させる点で、やはり後ろ向きの印象を与えるマイナスがあったことは否めない。

 今の日本が新しい時代に即した目標を求めていることは事実だが、実際には、それは抽象的な思考から出てくるものではない。戦後の復興を終わってから石油危機で挫折するまでの日本には、政府の掲げた目標を実現するための道具立てがあったし、目標自身も、その道具立てから導かれるという性質を持っていた。そして石油危機以後の日本が抱えることになった問題の多くは、その道具立てが最早時代に合わなくなったことから発している。


2 耐久消費財産業と産業政策

 経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した1955(昭和30)年から73(昭和48)年の石油危機に至るまで、日本の国家目標は一貫して経済成長であり、それを実現するための道具立ての中心は耐久消費財産業という主力産業だった。主力産業とは、その国の経済全体を牽引する産業部門であって、ある産業がそうなるためには、三つの条件を満たさなければならない。

 第一は、その生産物がその時代の人々にとってかなり新しいものであり、従って大きな潜在需要を持っているということである。第二は、技術進歩が速く、生産が増えるのに従って生産コストが下がるので、市場価格を下げることによってそれを有効需要に転換することができるということである。第三は、その生産物の普及が他の部門の生産コストの引下げや需要の増大をもたらすことによって、経済全体の成長を強く刺激することである。

 この時代の日本の耐久消費財は、初めの内は、3種の神器と言われたテレビ受像機、冷蔵庫、洗濯機をはじめとして、トランジスターラジオや電気掃除機などの家電製品が主体であり、後になってからは、3Cと呼ばれたカー、カラーテレビ、クーラーなどの大型のものが中心になった。

 これらは、以前の日本になかったわけではないが、値段が高すぎて一般人には手が出せないものだったという点で、第一の条件を満たしていた。また、戦前戦中のアメリカで発達していた大量生産技術を導入すれば急速に生産効率を引き上げられる点で、第二の条件も満たしていた。他産業への波及効果という第三の条件について言えば、多くの産業がそれを事業用に使うことによって需要を拡大したりコストを削減したりすることができたが、テレビ受像機、乗用車、冷蔵庫の場合は、特にそれが大きかった。

 テレビ受像機の普及が日本のマスコミを巨大ビジネスに仕立て上げたことは言うまでもなく、その上にこれは、音楽、ドラマ、スポーツなどの文化的活動の多くを商業ベースに乗せることを可能にした。乗用車の普及は、道路建設を促進することによって地方経済を活発化させただけでなく、日本人のライフスタイルを変えることによって社会と経済を大きく変えた。電気冷蔵庫の普及は、それまで不可能だった生鮮食品の大量生産大量販売を可能にすることによって、農業や漁業に新しい発展の道を開いた。

 この産業を戦後日本の主力産業に育て上げたのは、明治以来の日本政府が執ってきた産業政策だった。これは、江戸時代の各藩が行っていた殖産振興政策の伝統に沿い、欧米先進国に追いつくための方法として政府が改良を重ねてきた体系的な政策であって、国民にとって馴染みが深い上に、それを実行するための細かい制度や慣習が米軍の占領下でも残っていたから、日本が独立を回復した後の実情に合わせてアレンジすると、すぐ円滑に動き出した。

 この政策は、農業をはじめとしてほとんどすべての産業を保護育成するようにできていたが、戦後の日本政府は欧米における実情を参考にして耐久消費財産業に特に重点をおいてこれを適用したので、前述の三条件をすべて満たしていたこの産業は瞬く間に主力産業に成長した。

 この政策は、外国製品によって占拠されていた国内市場を奪回するために輸入を量的に制限したり高い関税をかけたりすることから始まって、国内企業の技術進歩を促進するための設備投資や技術開発のための資金を供給したり減税措置を講じたりする外、先進国の技術や市場に関する情報を提供するなどの方法から成り、規制や情報提供に関する部分は通商産業省をはじめとする各監督官庁が受け持ち、資金の供給や税金に関する分野は旧大蔵省が受け持つという、分業と協力の体制の上に成立していた。

 耐久消費財の市場が輸入から国産への代替の段階を終わり、海外市場の開拓が可能になった頃は、繊維や雑貨などの伝統的な輸出産業の生産性向上も進んだので、戦後間もない時期に定められた1ドル360円の為替レートの下で輸出が急増した。昭和40年から始まったいざなぎ景気が記録的な長さになったのは、このような輸出増大と輸入減少によって、それまで日本経済の成長を制約していた経常収支の天井がなくなったためである。

 日本の輸出増大と輸入減少は諸外国からの自由化要求を激化させたので、昭和30年代後半以後の日本政府は、産業政策の手段としての貿易や外貨に関する規制を次々に撤廃したが、貿易自由化に伴う競争の激化は耐久消費財産業の国際競争力を一段と強化し、日本の経常収支の黒字は益々増加した。1971(昭和46)年8月にニクソン・ショックが起こった後、スミソニアン協定によって円レートは1ドル308円へ切り上げられたが、それでもなお、日銀が介入しなければドルが流入して1ドル300円を大きく割り込むような円高圧力が続いた。

 この頃には、耐久消費財に対する国内需要の増加も技術進歩も頭打ちに近づいた上、経済全体の賃金上昇の圧力が高まったことから生産コストも上昇し、コストインフレの傾向が強まっていた。列島改造論を引っさげて登場した田中首相は、それに対して財政支出拡大と金融緩和を柱とする大規模な内需拡大政策を打ち出したが、その翌年の73年秋に石油危機に直撃されると物価は狂乱して、それまでの日本経済の高成長は終わりを告げた。

 
3 情報技術、ジャパン・バッシング、バブル

 石油危機が起こる大分前から日本政府は、耐久消費財産業の後に続く主力産業の候補として、コンピューターの製造業に目をつけていた。これは、第二次世界大戦末期に高射砲の照準をつけるための道具としてアメリカで発明され、給料計算や在庫管理に使われながら進歩していたものであって、1961(昭和36)年に集積回路(IC)が、71(昭和46)年に半導体が発明されたことによって、記憶能力を爆発的に増大させていた。

 石油危機が起こった後は、これからはエネルギーを大量に使う技術は役に立たなくなると見越した政府は、省エネ技術と並んで情報の加工、蓄積、流通のための情報技術(IT Information Technology)関連機器の製造を推進する方針を打ち出した。これが所謂ハイテク製品である。

 この時の政府は、かつてのような産業政策はもう使えなくなっていたので、それに代わって国内企業間の話合いによる協力を薦めた。半導体の生産に関するNEC、富士通、東芝、三菱電機、沖電気、日立、電々公社の7社の協力などはその一例であり、家電製品や通信機器のメーカーやユーザーとしてマイクロエレクトロニクスの技術を持つこれらの大企業が協力すると、日本のハイテク製品の国際競争力は飛躍的に高まった。

 一方、石油危機直後のアメリカでは、1975(昭和50)年には通信衛星を経由してパソコンを繋げるネットワークを作ることが可能になり、84(昭和59)年には、防衛システムとして米軍が作った情報のネットワークが民営化されてインターネットになった。これによって、パソコン端末を通して誰でも多角的双方向にしかもリアルタイムで情報を交換できるネットワークが生まれ、企業をはじめとするどんな団体も個人もそれを通じて仕事や生活に必要な情報をやりとりすることができるようになった。

 1970年代後半から90年代初頭にかけてアメリカでこの変化が起こっていた頃、日本では、そのネットワークの部品であるパソコン、ホストコンピューター、テレビ受像機や、その部品である半導体、液晶画面、光ファイバーなどの生産物の品質向上とコスト低下はアメリカをしのぐまでになったが、アメリカにおけるようにこれらを総合して情報のネットワークを創ろうとする動きは鈍く、その多くはFA(ファクトリー・オートメーション)やOA(オフィス・オートメーション)のための設備として使われるのに止まった。

 このため、日本のIT関連製品の貿易は大幅な輸出超過になった。石油危機が続いていた10年間の経常収支は、アメリカやイギリスでは赤字だったが日本では均衡しており、それが終わって原油価格が下がった1983(昭和58)年には200億ドルを越える黒字となったが、それは乗用車と並んでこの製品の輸出超過のお陰だったのである。

 この頃のアメリカは、経常収支の赤字にも拘わらず高金利による資本収支の黒字のために1ドル240円のドル高を維持していたが、それによる輸入の増加に耐え切れなくなった産業界が悲鳴を上げ、1985(昭和60)年9月には、米・独・日の3国がドル高是正のために協調介入するプラザ合意を行った。この結果円レートは急上昇して見る間に1ドル200円の壁を突破したが、乗用車と並んでIT関連製品の日本からの輸出増加は止まらず、86(昭和61)年の日本の経常黒字は800億ドルを超えるまでになった。

 アメリカとしては、燃費の良い日本の乗用車に競争で負けるのは仕方がないとしても、自分が生んだばかりでこれから育てようとしているIT関連製品の市場を日本に蹂躙されることは我慢できない。アメリカが、不公正な貿易があれば報復関税をかけることができると定めた通商法301条を援用して日米半導体協定を成立させたのはこの年であり、更に88(昭和63)年には、これを強化するスーパー301条を成立させるまでになった。

 この頃のアメリカは、国内需要に応えようともせず輸出ばかりに熱中する日本企業のビヘイビアーは日本文化の特性に発するとまで考えるようになり、1989(平成元)年から90年にかけて行われた日米経済構造協議では、日本固有の文化や政治の性質にもとづく制度や慣習までも変えることを要求するようになった。アメリカで新しいネットワークができたための需要の拡大があり、日本にそれがなかったために過剰供給があるという経済の状況のために、日本文化があらぬ疑いをかけられることになったのである。

 この事態に直面した日本政府は、この不均衡を是正するには内需拡大しか方法がないと思い込み、旧大蔵省が持っていた金融業に対する権力を使って、バブル景気を極限まで膨らませる政策を採った。通常なら担保価値の5割とか6割とかまでしか貸し出さない銀行に対して、担保価値一杯まで貸すどころか、土地や株が将来値上がりすることまでを織り込んで貸し出せと要求したという実務者の証言があるが、これでは一旦地価や株価が下がり出したら次々に担保割れが起こって、不良債権が加速度的に増えるのは当然である。

 このことによる流動性の異常な増加に伴って、株価が1989(平成元)年12月には日経平均で39000円に達するまで値上がりした外、土地、貴金属、美術品の価格が高騰し、証券業者や不動産業者はアメリカをはじめ世界中の土地や株を買いあさるまでになった。1991(平成3)年2月にこれが崩壊すると、その後に不良債権と不良資産の山が残り、銀行はその重石のために何時までも新規の貸出を増やせないという状況が続いた。

 
4 ネットワーク産業としての情報通信業

 日本のIT関連のハイテク産業が経済全体を牽引する主力産業leading industryになれなかったのは、その生産物が耐久消費財と違って、特定の人や団体が特定の目的のためにのみ使う「手段財」だったために他の分野に対する波及効果が少なく、主力産業としての三番目の要件を欠いていたからである。

 これに対して、同じ頃アメリカで急速に形成されつつあった情報通信業の生産物は、インターネットというネットワークを使って、誰でもまたどんな情報でも、多角的、双方向、同時的に交換することができるサービスだったから、その波及効果の大きさはハイテク産業の比ではなかった。

 このネットワークは、沢山のweb(蜘蛛の巣)を繋いでできている。その中の一つに入り、パソコンや携帯電話の端末から蜘蛛の糸を伝わって情報を発信すると、それはウェブの中のどこにでも届き、逆に相手から受け取ることもできる。このウェブを作って管理するのがプロバイダーとかサーバーとか言われる情報通信業者であって、それが集まって作る情報通信業は、インターネットというネットワークによって成立しているところからネットワーク産業と呼ぶことができる。

 もう一つのネットワーク産業である鉄道業の例で言うと、丸の内線とか銀座線とかの路線を集めたウェブを管理している東京メトロという会社がプロバイダーに当たり、それが集まっているものが東京の鉄道網というウェブになり、日本中のそれを連結したものが日本の鉄道網である。誰でも、切符を買ってその中の一つの駅から乗車すれば、レールが繋がっているウェブの間ならいくらでも乗り換えることができるので、日本中のどの駅にも行くことができる。

 産業社会以前にも、文明国には道路や河川運河を繋ぐネットワークはあったが、それを作って管理するのは皇帝、国王、将軍などとその家臣の仕事であって、それが武力と並んで彼らの権力の源泉になっていた。ここでは、一つの道から他の道へ移るのを助けるサービスをする者はなく、旅人や運送業者は自分でそれをするしかなかった。レールで結ばれた鉄道網というウェブが集まったネットワークができた時に初めて、それを使って人や物を運ぶサービスと引き換えに代金をとるネットワーク産業が成立したのである。

 情報について言えば、昔は口から口へ伝えるか手紙を通じて伝えるかしか方法がなく、手紙も人間が運ぶしかなかった。道路や水路を使って手紙を運ぶ飛脚や郵便業者には技術進歩がほとんどなかったし、彼らが鉄道を使ってそれを運ぶようになっても、情報の運び屋としての技術進歩はなかった。電気通信技術の誕生はこの分野での画期的な技術革新ではあったが、電話では1対1の情報交換しかできないし、無線電信では多方面への情報伝達は可能だが中心から周辺への一方的な伝達しかできないために、電話事業や電信事業は、ネットワーク産業と言えるものまでにはなれなかった。

 ネットワーク産業は、対象とするものの種類に関係なく、それをネットワーク上で自由に流通させることによって、経済と社会に莫大な影響を及ぼす。アルバート・フィッシュローは、南北戦争以前のアメリカで鉄道業の出現が引き起こした波及効果を分析し、それが産業全体にわたって生産コストを急速に引き下げただけでなく、石炭、鉄鋼、機械などに対する膨大な需要を生み出すことによってそれを成長させ、西部で生産される穀物や家畜を東部へ大量に輸送することによって農業を飛躍的に成長させたことを指摘している。前者は後方連鎖Backward Linkage、後者は前方連鎖Forward Linkageである(ジュリアン・グレッサー「超繁栄宣言」、TBSブリタニカ、1984年)。

 このことから類推すると、1970年代後半から90年代にかけてのアメリカで情報通信業というネットワーク産業が出現したことは、IT関連のハードウェアー産業とソフトウェアー産業に対する膨大な需要がマイクロソフトやアップルコンピューターなどの巨大企業を生み出すという後方連鎖を持つ一方で、ネットバンキングを採用したアメリカの金融業の能率が飛躍的に向上するという前方連鎖効果をもたらしたということになる。

 以上に対して日本では、アメリカにおけるハードウェアー産業に対する需要の拡大の恩恵はハイテク産業が受け取ったが、自前のネットワーク産業の成長が遅れたために、ソフトウェアー産業の部門では、基本ソフトはマイクロソフトやアップルコンピューター、ウィルス対策はノ−トン、検索はグーグルというようなアメリカの企業に市場を占拠されてしまい、金融業に至っては、バブル時代の後遺症でゼロ金利に近い状態から未だに抜け出せない有様である。

 
5 情報の活用と管理

 戦後日本経済の成功の原因が耐久消費財産業を主力産業に育て上げたことであり、石油危機以後の日本が一時はアメリカを抜く債権大国になったのに長続きしなかった原因は強力な主力産業を持たなかったことだとすると、今の日本の情報通信業が強力な主力産業に育つかどうかは、今後の日本経済の発展の鍵を握るということになる。

 モノが足りなかった時には、何よりもまずその量を増やすことが要求された。食物がなかった時の日本では、極端に言えば口に入るものなら何でもよく、旨いかまずいかとか、身体に良いか悪いかとかは、ほとんど問題にされなかった。しかし、食物の種類と量が異様に増えてしまった今の日本では、賞味期限は何時か、原産地はどこか、成分は何が何グラムか、というような情報が重要だとされ、それを偽って売れば罰せられる。

 モノとサービスの供給が激増した現代の日本では、政治経済一般から医療、教育、環境、文化、福祉等々のあらゆる領域の活動について、良いか悪いか、必要か不必要か、高いか安いか、などを判定する価値情報が高く売れるようになったために、自分では仕事をしないで他人の仕事を評価する評論家は、今や立派な職業である。

 自分で何かをする前に他人の意見を聴くことは役に立つ。しかし、そのことが相手の利害や立場に関係している場合は、その意見に特別なバイアスがかかりやすいので、そのまま採用することは危険である。またそうでない時は逆に、大した知識も経験もないのに無責任に極端なことを言う人も多く、そういう意見は全く役には立たない。

 価値情報の送り手は、戦前は主として政府だったが、今ではその多くがマスコミとその関係者になっていて、新聞社やテレビ会社が営利企業であるために、上の二つの問題が起こりやすい。その原因の第一は、広告主やスポンサーが嫌うような情報を流すことが難しいことであり、第二は、新聞の売れ行きやテレビの視聴率を上げるために人気のある者に起用が偏り、情報の中身は二の次になりやすいことである。

 インターネットの出現は、この状態を大きく変える可能性を生み出した。今までは、普通の人間が新聞やテレビに情報を流そうとすれば、投書をして採用されるのを待つか、視聴者参加番組に申し込んで出る以外に方法がなく、それによってマスコミに登場できる機会は恐ろしく少なかった。しかし今では、パソコンや携帯電話からインターネットにアクセスすれば誰でも不特定多数の相手に情報を送信できるし、ホームページやブログを持っていれば、詳細な情報を大量に送り出すことも容易にでき、それに対する反応も、返信という形で直ちに入手できる。

 これらの情報は、政府や大企業に遠慮することなく何でもカバーできる上に、偏った情報があれば直ちに逆の情報が出てくるのでマスコミ情報の持つ弱点がなく、しかもほとんどがコストゼロで集められるので、マスコミが集めようと思っても費用と人的能力の制約によってブロックされてしまう情報を簡単に集めることができる。

 今の日本が抱えている問題は、モノとサービスの供給を増やせば解決できるというようなものはほとんどなく、情報の助けがないと大気汚染や温暖化やゴミ問題を激化させたり、過重労働や逆の失業を引き起こしたりする上に、財政赤字を悪化させる一方で真に必要なところにはモノもサ−ビスも行き渡らないという結果を招きやすい。これを防ぐには、今のマスコミの持っている弱みを持たない情報通信業の助けを借りる外はないが、それは現在の制度の下では不可能である。

 インターネット上の情報が容易にコストゼロで得られるということは、その大部分がただ無価値であるだけでなく、有害なものを多分に含んでいることを意味する。事実、現在ここに溢れている情報の大部分は、企業や政府などが自分の目的のために発信しているものを除けば、大部分が発信者の自己満足や自己宣伝、他者への攻撃、売春、ポルノ、詐欺などの手段となっており、プライバシーの侵害になるものも少なくない。その中から今の日本が抱えている問題の解決に役立つような情報を見つけ出そうとすれば、無駄なものや有害なものを除去することと、残ったものを精製することが必要である。

 前者について言えば、インターネット上に情報を公開しようとする者は誰でもそのための免許を取得すると共に詳細な規則を守る法的義務を負わせ、それを破ったら免許を取り消すことと、インターネットを利用する犯罪に対しては、刑法その他の法規による罰を自動的に何倍にも増やすことが考えられる。最近増えている児童ポルノなどから子供たちを守るためには、最後はこうするより外に方法はないであろう。

 後者について言えば、ユーザーが目的と状況を特定して検索をかければ必要ないし有益な情報に到達できるようなコード化を行い、検索がくる度に料金をとるようなサービスが企業として成立するような制度が必要になろう。このような情報産業は、山から鉱石を掘り出して精錬し需要者に売る鉱業と同じ性質を持つと言える。

 これらを可能にするような制度は、情報通信業者たちがその必要を認め、立法化を政治に働きかけることなしには実現しない。ゲームの適切なルールは、自分でやる者が作らなければうまく行くものではないからだ。この場合、西欧で近代資本主義経済が発達したのは、流通業者や金融業者が自分たちの守るべきルールをきちんと作り、それを守ったことが産業界に必要なモノとカネが大量に流入する契機となったことを忘れてはならない。


おわりに:エネルギーから情報へ

 蒸気機関の発明によって始まった産業社会は、エネルギーを大量に使用する技術革新の連続によって発展を続け、コンピューターの発明によって新しい時代に入ったが、100億に近いまでに増加した人類が産業文明の恩恵に等しくあずかろうとすれば、現在の技術体系の下では地球環境が破綻することは避けられないであろう。

 生物は元々、エネルギーをほとんど浪費することなく必要を満たせるように作られていて、それを可能にしているのは、遺伝子に埋め込まれている情報である。生物は死ねばひとりでに自然が処理してくれるので、死骸のゴミが累積することはなく、過度にエネルギーを消費するものは自然淘汰されるようにできている。人類が地球を破壊することなく今のような生活を楽しみ続けたいと思うなら、情報通信業の後に続く主力産業として環境産業を育てる必要があるが、その土台となる技術パラダイムは恐らく、情報技術と生物技術を合体させたものになるであろう。

 現代の人類が抱えているもう一つの課題は、産業技術を生活に取り入れることを苦手にしているために最貧国に転落した人々を救うための技術の開発である。日本人は元々、産業文明の土台になっている巨大技術ではなく、生活の場における細かいニーズに適した技術appropriate technologyを作り出して活用することを得意としてきた。開発途上国のニーズは、自然環境により歴史や文化により所得水準によって大きく異なっているが、それでもその間には共通する要素があるはずである。それを見出すことを通じて日本がこれらの国を助けることができれば、人類に対する大きな貢献となるであろう。





   21世紀日本の構想目次へ



トップページへ