21世紀日本の構想 平成21年3月 戦後日本の経済発展とその現在
〜耐久消費財革命から情報通信革命へ
小金芳弘

要約

 戦後の日本経済は、耐久消費財産業という主力産業に牽引されて高成長を遂げた後、先端産業としての情報通信関連機器製造業の育成に成功して経済大国となったが、金融バブルの発生と崩壊に伴ってコンドラティエフ波動の谷に転落した。一方アメリカは、インターネットの形成に伴い、よりグローバルな情報通信業という先端産業を育てたが、これも金融バブルという罠にはまってコンドラティエフ波動の谷に落ちた。一歩先んじてこの谷から抜け出した日本も、情報通信業を新しい主力産業にする道筋を見つけられないまま、アメリカ発世界不況の脅威に曝されている。

目次
はじめに 戦後日本経済の問題と現代日本経済の問題
1 耐久消費財産業と産業政策
2 石油危機と情報技術
3 先端産業と金融バブル
4 金融恐慌、30年代不況、平成不況
5 情報通信業とサブプライムローン抵当証券
6 コンドラティエフ波動のこれまで
7 コンドラティエフ波動のこれから
おわりに 社会の情報化と日本の立場


はじめに 戦後日本経済の問題と現代日本経済の問題

 日本経済は、1991(平成3)年から2000(平成12)年までの10年におよぶ長期不況の後、02(平成14)年から08(平成20)年にかけて戦後最長の景気上昇を迎えながら一向に好況感を味わえないまま景気下降期に入り、08年9月のアメリカのリーマン・ブラザーズの破綻以後は、出口の見えない世界不況の襲来に脅えている。

 日本は、環境問題や少子高齢化問題をはじめとして、持てる者と持たざる者の格差の拡大や、過労死、ワーキング・プア、フリーター、ニートの増加などの問題に解決の曙光を見出せないまま、長期の不況を覚悟しなければならなくなったのである。

 しかし、戦後の混乱を収拾してやっと戦前の生産水準を回復した頃の日本も、現在のものに劣らない困難な問題を大量に抱えていた。その難局を乗り切ることができたのは、「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言した昭和30年頃から、官民共に一貫して高い経済成長を目標とし、それを達成することができたからである。

 経済成長とは、国内経済の生産量(GDP)を増やすことであって、戦後のモノのなかった時代には、問題のほとんどすべてはそれを通じて解決することができた。しかし、今の日本が抱えている問題はそのように単純なものではない。必要なことは、問題解決のために必要な手段の効率を上げて行くことであって、昔はそれは、生産現場における設備の増強や教育訓練の充実だった。今の日本ですべての手段の効率を上げるためにはどうすれば好いか。以下においては、それを見出すための第一歩として、これまでの日本経済が辿ってきた道を振り返って見ることとする。

1 耐久消費財産業と産業政策

 経済が急速に成長するためには、各産業部門が同じように生産を伸ばして行くのではなく、経済全体を牽引する主力産業Leading Industryというものが必要である。そして、ある産業がそうなるためには、三つの条件を満たさなくてはならない。

 第一は、その生産物がその時代の人々にとってかなり新しいものであって、昔からあるものとは比較にならないほど大きな潜在需要を持つことである。第二は、技術進歩が急速であるために、生産が増えれば増えるほど生産コストが下がり、価格を下げることによってそれを有効需要に換える余地が大きいことである。第三は、その生産物の普及が他の産業部門の生産性を引き上げたり需要を増やしたりするのに大きく役立つことであって、これがなければ、どんなに斬新で技術進歩が急速な産業であっても、経済全体の牽引車になることはできない。

 この観点から戦後日本の花形商品を見ると、初めの内は、3種の神器と言われたテレビ受像機、冷蔵庫、洗濯機をはじめとして、トランジスターラジオや電気掃除機などの家電製品が主体であり、後になってからは、3Cと呼ばれたカー、カラーテレビ、クーラーなどの大型のものに移ったが、いずれも耐久消費財という分野に入る。

 これらは、以前の日本になかったわけではないが、値段が高すぎて一般人には手が出せないものだったという点で、主力産業の生産物としての第一の条件を満たしていた。また、戦前戦中のアメリカで発達していた大量生産技術を導入すれば急速に生産性を向上させられる点で、第二の条件も満たしていた。他産業への波及効果という第三の条件について言えば、多くの産業がその普及によって利益を得たが、テレビ受像機、乗用車、冷蔵庫の三つでは特に、それが大きかった。

 テレビ受像機の普及が日本のマスコミを巨大ビジネスに仕立て上げたことは言うまでもないが、その上にこれは、音楽、演劇、スポーツなどの文化的活動が巨額の経済的利益を上げる道を開いた。乗用車の普及は、道路建設の促進と高速道路の普及に伴って経済全体を活性化させただけでなく、観光をはじめとする余暇活動に伴う多くのビジネスを生み出した。電気冷蔵庫の普及は、それまで不可能だった生鮮食品の大量生産大量販売を可能にすることによって、農業や漁業に新しい発展の道を開いた。

 このように考えると、戦後日本の高度経済成長は耐久消費財産業が主力産業となることによって実現したと言うことになる。しかし当時の日本の政府は、経済の急速な成長を目標としてはいたが、耐久消費財産業にそのような役割を期待していたわけではなかった。また欧米資本主義国の正統的な経済学では、政府が特定の産業部門を育成しようとすることは市場機能の働きを撹乱するので望ましくないと考えられていた。

 しかし、明治以来経済で欧米先進国に追いつくことを目標としてきた日本では、政府が特定の産業部門を保護育成するために市場に介入することは、最も重要な経済政策の一つだった。これが、江戸時代の各藩が藩経済の振興と藩民の生活向上のために行っていた殖産振興政策の流れを引く産業政策であり、欧米先進国の経済との競争に負けないための手段として磨かれてきたものである。

 耐久消費財産業は、政府が保護育成しようとした産業部門の中の一つにすぎなかったが、これだけが前述の三条件を満たしていたために忽ち主力産業となっただけでなく、以後の日本を欧米と並ぶ経済大国に押し上げる原動力となった。

 産業政策は、先進国との生産性格差が大きいために国内市場のほとんどがその製品によって占拠されているような場合に、特に有効である。日本の耐久消費財の場合には、輸入の量的な規制や高率関税の導入から始まって、国内の技術進歩を促進するための設備投資や技術開発に必要な資金を供給したり税を減免したりする外、先進国の技術や市場に関する情報を提供するなどの方法が採られた。

 これらの方法は、今では、開発途上国で幼稚産業を保護育成する場合に限って国際的に容認されているが、汚職や一部関係者の利益だけに結びつくことが多く、その場合には本来の目的達成は難しい。日本でこれが成功したのは、殖産振興政策以来の伝統があった上に、貿易、生産、設備投資などの規制に関する部分は通商産業省(今の経済産業省)をはじめとする各監督官庁が受け持ち、資金の供給や税制に関する部分は大蔵省(今の財務省と金融庁)が受け持つというように、分業と協力の体制が確立していたからである。

 そのため、輸入耐久消費財を国産品に代替する段階が終わると輸出が増え始め、それと同時に繊維や雑貨などの伝統的な輸出産業の生産性向上も進んだので、戦後間もない時期に定められた1ドル360円の為替レートの下では、輸入が減る一方で輸出増加が止まらなくなった。それまでは、景気が好くなると輸入が増え輸出が伸びなくなるので、燃料や原材料などを輸入するための外貨が足りなくなるという制約があったのに、それがなくなったのである。

 1965(昭和40)年11月から始まったいざなぎ景気が記録的な長さになったのはそのためだが、この頃は、西ヨーロッパでも戦争の痛手を癒した西ドイツをはじめとする各国の競争力強化と経済発展が続いた結果、戦後に定められた固定為替レート制の下ではアメリカの貿易赤字の増大が止まらなくなっていた。しかし日本の工業製品の輸出増加と輸入減少は突出していたので、アメリカのそれに対する抗議は特に厳しかった。

 日本も、昭和30年代後半からは貿易や外貨に関する規制を次々に撤廃してはいたが、それに伴って日本の企業も国際競争力を強化したのでそれまでの傾向は変わらず、経済摩擦が激しくなる一方で円切上げに対する要求も強まった。
 
2 石油危機と情報技術

 日本は、円を切り上げれば輸出が困難になるので経済成長ができなくなると考えて、必死にそれに抵抗した。しかし、1971(昭和46)年8月、貿易収支の赤字の増大に耐え切れなくなったアメリカが固定価格による金の輸出の停止に踏み切ったために固定レート体制は崩壊し、12月のスミソニアン協定では、日本は1ドル308円へと円を切上げざるを得なくなった

 しかしそれでも、日本の黒字とアメリカの赤字はまだ続くと見るドルの投機的な流入は止まらず、日銀がドルの買い支えを止めると、1ドルは260円までのドル安円高となった。ここで、日本列島改造論を引っ提げて1972(昭和47)年7月に登場した田中内閣は円高対策として大規模な内需拡大政策を打ち出したが、その財政支出拡大と金融緩和は73年秋の石油危機に直撃されると狂乱物価を引き起こし、この内閣は退陣せざるを得なくなった。

 しかしその後の日本は、財政金融の引締めと労使協調による賃上げ抑制によってほぼ1年でインフレを鎮静化させると翌年からは実質4〜5%の経済成長に復帰し、西ドイツと並んでその後の世界経済の牽引車となった。これは、元々産油国だったアメリカや北海油田を持つイギリスが石油の増産によって危機を乗り切ろうとしたのとは異なり、石油資源を持たないために正統的なインフレ対策に頼らざるを得なかったためでもあるが、より長期的には、これを機会に産業政策の重点を省エネルギー技術と情報技術に移したことが成功の元だったと言える。

 日本は、石油危機が起こる大分前から耐久消費財の最後の大物である乗用車の国産化に成功していたが、それをはじめとする耐久消費財の大部分は普及が進んだために目新しさを失っており、その生産性向上も従来の大量生産方式によるものでは限界に到達していたので、それに代わる主力産業を育成する必要に迫られていた。その有力な候補者と考えられていたのが、コンピューターの国産化である。

 コンピューターは、第二次世界大戦末期に高射砲の照準をつけるための道具としてアメリカで発明され、給料計算や在庫管理に使われながら進歩していたが、1961(昭和36)年に集積回路(IC)、71(昭和46)年に半導体が発明されたことによって、その記憶能力を爆発的に増大させていた。

 この場合、かつてのような産業政策はもう使えないので、その代わりに企業間の話合いによる協力という方法が採られた。半導体の生産に関するNEC、富士通、東芝、三菱電機、沖電気、日立、電々公社の7社の協力はその一例だが、家電製品や通信機器のメーカーやユーザーとしての技術を持つこれらの大企業が協力すると、その効果は絶大だった。

 この間アメリカでは、1975(昭和50)年には通信衛星を経由してパソコンを繋いだネットワークを作ることが可能になり、84(昭和59)年には、防衛システムとして米軍が作った情報のネットワークが民営化されてインターネットになることによって、パソコン端末を通じて誰でも多角的双方向にしかもリアルタイムで情報を交換できるネットワークが生まれた。このようにして情報の加工、蓄積、流通を一手に行うための技術が、いわゆる情報技術(IT Information Technology)である。

 アメリカでこのネットワークが形成され始めると、それを形成するパソコン、ホストコンピューター、テレビ受像機や、半導体、液晶画面、光ファイバーなどの部品に対する需要は急激に増加した。一方日本では、前述のような政策の結果これらのものの品質向上と生産コストの低下はアメリカをしのぐまでに急速だったが、その使い方としては、文書の作成や計算などの事務の自動化のためのOA(Office Automation) や工場生産の自動化のためのFA(Factory Automation)などが主体であり、これらを統合して情報のネットワークを作ろうとする動きはなかった。

 このようにして日本は、アメリカで起こった情報技術革命の一分野であるハードウェアーの製造において先頭を切った結果、アメリカでのインターネットの発展に伴って増加した需要に応えて、これらのアメリカへの輸出を爆発的に増加させた。1985(昭和60)年のプラザ合意以後、それまで1ドル240円だった為替レートが3年間で120ドルに達する円高になったにも拘わらず、燃費の良い日本車の輸出増加と相まって輸出量の増加が続いたため、日本の経常黒字は年間800億ドルを超え、アメリカとの間の経済摩擦は頂点に達した。
 
3 先端産業と金融バブル
 これらのハードウェアーは生産物革新Product Innovationの成果だが、インターネットの出現は、情報の処理の仕方を根本的に変えた点で、生産過程革新Process Innovationだと言える。どちらにしても、このような革新を行うことによって市場の構造を一変させるほどの影響力を持つ産業が先端産業Pioneer Industryであり、驚異的な生産性向上の速さにもとづくコストの低下を利して急速に市場を拡大させる。

 1882年にダイムラーが発明し85年にベンツが初めて製作した自動車について言えば、ベルトコンベアーシステムによってT型フォードを大量生産するための工場が建設された1915年には、その価格は今日で言えば双発自家用機に相当するほどだったが、10年後にはそれは白人労働者なら誰でも買える値段になった(ドラッカー「ポスト資本主義社会」ダイヤモンド社、1993年)。

 また、文書を作成するためのコンピューターであるワードプロセッサーが1980年代初めの日本で売り出された時の値段は600万円だったが、10年後には、それと比較にならないほど高性能のものの値段が10万円台になり、更にその10年後には、これはパソコンの一部に吸収されてしまった。

 先端産業がこのように急速に発展するためには膨大な資金が必要だが、そこに初めからそのような資金があるわけではなく、現代資本主義社会でこの資金を供給するのは、金融システムの仕事である。1770年代のイギリスで綿糸を水力紡績機で大量生産する繊維産業が出現する前には、1694年に設立されたイングランド銀行が所有する金貨の何倍もの通貨を公定歩合という安い金利で貸し出す銀行のグループがあり、後者はそれを有望な企業に貸すと同時にそれを当座預金として預けさせる制度ができていた。

 以後は、その企業が大きな買物をする時にはこの預金を相手の銀行の口座に移すことによって、現金を動かすことなく巨大な取引をすることが普通になると共に、それが雪だるま式に膨らんで行った。この金融システムは、繊維産業に続いて鉄道業や耐久消費財産業のような先端産業が出現した時も同じようにして育成したが、それが十分に成長して巨大な蓄積を持つようになると借りた金を返すので、それが余ってくる。そこで銀行は、生産性の上昇も市場拡大の余地もそれほど大きくない分野の企業に金を貸したりその株を買ったりすることが増えるようになる。

 その結果すべての分野の景気が好くなり、モノが足りないわけではないので、余った金は土地、建物、株、美術品などの資産の購入に向かい、その価格が上がる。これによってその持ち主が儲けるのを見て、自分には金がないので借金してそれを買おうとする者が増え、銀行はそれに金を貸す。その結果これらの価格はまた上昇し、それによって更に景気は好くなる。これが金融バブルである。

 しかしこの趨勢は、一旦資産価格の値上がりが止まると忽ち逆転する。先ず、それが続くことを前提として金を借りていた者が借金を返せなくなり、銀行が担保にとっていた資産を処分するとその価格が下がる。次に、資産の価格が上がると思って持っていた者が失望してそれを処分するので、その価格がまた下がる。このようにして資産の価格が連鎖反応的に下がって行くのが、金融バブルの崩壊である。
 
4 金融恐慌、30年代不況、平成不況
 現代の資本主義社会では、前述したように企業間の取引の決済は銀行預金の移動によって行われるのが普通だが、上述のような資産価格の連鎖反応的な下落がある限度を越えるとそれが難しくなる。銀行にとって当座預金の数字は、預金者が要求すれば直ちに現金に換えなければならない金額を示す点で借用証と同じだが、それが現金と同じように流通するのは、一方で他者への貸し付けがあり、それが焦げ付いた時には直ちに現金化できる資産を担保にとっているからである。

 しかし、前述のような資産価格の下落が全国の土地、株、その他の資産に波及すると、焦げ付いた貸出の担保になっている資産を処分しても元を取り戻せない危険が生まれるので、そのような債権を大量に抱えた銀行の預金は危なくて受け容れられないと考える者は、それを引き出して他行に預けることになる。この傾向が続いた銀行は、不安になった預金者が取引上の必要もないのに引き出しに殺到してくるという、戦前は「取り付け」と呼ばれた現象に襲われ、預金の引き出しに応じられなくなって倒産するが、そうなるとそこにあった預金が全部消えてしまい、それによって預金を失った者が倒産し、それに対する債権を回収できなくなった者がまた倒産する。これが「金融恐慌」である。

 20世紀における最後のこの種の連鎖反応は、アメリカで1920年代後半の金融バブルが崩壊した時に起こった。この時は、銀行の倒産を政府が放置したため、現金と預金の総量とGDPが4年も続いて毎年10%ずつ減少し、失業率が25%に達する大不況を引き起こした後、更に4年経ってやっと元にもどった。

 これに対して1983年に石油危機が終わった後の日本では、前述したハードウェアーの製造業という先端産業が育ったことによる金余りが始まっていたところに、アメリカ向けの輸出の激増によって流入する大量のドルが円に変わるための金余りが加わり、その上に政府が内需振興によって経済摩擦を緩和しようとして無茶苦茶な金融緩和政策を執ったために、かつてなかったほどの金余り現象が起こった。

 これがもたらした土地、株、ゴルフ会員権、美術品などの資産の値上がりは凄まじく、1989(平成元)年12月の東証株価指数は39000円に達した。このバブル景気は91(平成3)年2月になってやっと終息したが、それと共にこれらの資産の価格の止め度もない下落が始まった。この時、日本政府は公的資金を投入して銀行の倒産を防いだので30年代のアメリカにおけるような破局は起こらなかったが、資産価格の下落は止まらなかったので、GDPの総額に当たる600兆円を超える財政赤字と公定歩合をゼロにするまでの金融緩和による不況対策を執ったにも拘わらず、ゼロ成長が10年続く長期不況に陥った。
 
5 情報通信業とサブプライムローン抵当証券

 以上に対してアメリカは、1990年代になってからはインターネットが巨大な情報のネットワークに成長し、それを作り管理し利用する産業が巨大化したために、日本とは対照的な好況期に入った。

 このネットワークは、いくつものweb(蜘蛛の巣)を繋いでできている。誰でもその中に入り、パソコンや携帯電話のような端末から情報を発信すると、それは蜘蛛の糸を伝わってその中のすべての者に伝わり,次に他のウェブに伝わって行って、ネットワークの中のどこにでも届く。同じようにして、その中のどこからでも情報を受け取ることができる。

 ここで端末や蜘蛛の糸に当たるものがハードウェアーであり、蜘蛛の巣を作って管理すると同時にユーザーの間を仲介するのが、プロバイダーとかサーバーとか呼ばれる通信業者であり、ネットワーク全体の動きを制御するのが汎用のソフトウェアーである。日本ではその中のハードの生産部門が先端産業となったのに対して、アメリカでは、ウィンドウズ92というソフトウェアーが発売された1990年代初めの頃から、ハードとソフトの生産者と通信業者が集まって構成する情報通信業が巨大な先端産業となったのである。

 ただアメリカでも、先端産業が成長を遂げた時に大きな金余りが発生し、それがバブル景気を起こした後に破裂して金融システム全体を危機に陥れるという現象は日本と同じに起こった。この時のバブルの規模とそれによって金融システムが被った損害の詳細は不明だが、その契機となったサブプライムローン問題の概要は以下の通りである。

 サブプライムローンとは元々、所得が低いために低い利率(プライムレート)で金を借りられない人たちへの貸付のことである。そういう人たちが住宅を取得しようとする時に金を貸せば、回収不能になる危険が大きいので高い利率(サブプライムレート)を適用する。この場合貸手は、ローンが焦げ付いた時には抵当に取っておいた住宅を競売するのが普通のやり方だが、これではこの債権を市場で売買することはできない。

 しかし、この債権を抵当権付の証券にしてしまえば売買することができるし、危ないと思った時にすばやく回収することも、逆に安く買って儲けることもできる。実際にはこれは、1軒1軒ではなくいくつもの債権と住宅を束にした証券を発行することになり、別の債権と組み合わせた抵当権付証券も発行されたが、アメリカでこの証券が発売された1990年代初め以降は、前述した情報通信業の成長に伴う好景気の後に大きな金余りが発生したので、この商品の人気は急上昇した。

 李在雄明和大学校客員教授の未発表論文 “The U.S. Subprime Mortgage Problem: Its Causes and Some Countermeasures, September, 2008”  によれば、サブプライムローン抵当証券が流通を始めた1994年には年間350億ドルだったサブプライムローンの新規契約は2006年には6400億ドルに膨れ上がり、それに伴って以前は年間1%だった住宅価格の上昇は12.5%に達した。このことによってその人気は更に上がり、2000年には1億3800万ドルだったその市場は2004年〜06年には5000〜6000億ドルに膨れ上がって、全抵当証券市場の13.7%を占めるまでになった。

 しかし、価格が上がるので買手が増え、その結果更に価格が上がるという状況は、買手に金をいくらでも注ぎ込む者がいる間は続くが、それがいなくなった途端に逆転するのは、何時でも何処でも同じである。この時も、サブプライムローン業者が相手かまわず貸出を増やした結果貸し倒れが増加し、担保となっている住宅の処分が増えるとその価格が下がり始め、業者の倒産が増えると同時に、それに金を貸していた金融業者が次々に破綻した。その一方でバブルを終わらせようとする連邦準備銀行が2001年には1.25%だった公定歩合を07年には6.25%にまで引き上げたので、金融業者の傷は更に深まり、関連する不良債権の比率は07年末には15%に達した。

 李論文は、現象としてのサブプライムローン抵当証券問題を追跡するだけでなく、その原因を探ることによって根本的な対処方針を見出そうとしているが、その中でも重要な点は、今回の不況はアメリカ経済がコンドラティエフ波動の谷にさしかかったために起こったと指摘しているところにある。
 
6 コンドラティエフ波動のこれまで
 コンドラティエフ波動とは、ソ連の経済学者コンドラティエフが、1770年代から1920年代にかけて先進資本主義国は50〜60年ぐらいの周期を持つ景気の波を起こしていることを発見し、それは技術革新によって起こると推論したものを言う。

 資本主義国の経済学者ではシュンペーターがそれを支持したが、英米の正統的な経済学は未だにその存在を認めていない。それは、市場経済は見えざる手によって自然に均衡を回復するとする古典経済学を土台とする新古典派が、景気対策を適切に行えば大きな景気変動は避けられるとしているからである。しかし実際には、先日までの日本は平成不況を避けられなかったし、今のアメリカも百年に一度と言われる不況に見舞われている。

 コンドラティエフ波動の存在を認める学者の代表である篠原三代平教授は、その波動の谷が何時も金融バブルの発生と崩壊に伴って起こっているという歴史的事実にもとづいて、この谷は金融バブルの破裂にもとづく金融危機によって発生することを論証した。しかし、そのようなバブルが何故起こるのかということについては、李教授が今回のアメリカのバブルはイラク戦争の泥沼化に伴う政府支出の増大によって起こったと主張するのと同じように、戦争に伴って政府支出が増大するために起こる金余りが原因だとしている。

 教授はその根拠として、1772年恐慌は「7年戦争」、1825年恐慌は「ナポレオン戦争」、1873年恐慌は「普仏戦争」、1929年恐慌は「第一次世界大戦」、の後にそれぞれ起こったという事実を挙げている。しかし、第一次世界大戦より遥かに大きかった第二次世界大戦の後の1950年代から60年代にかけては、世界経済はかつてなかったほどの好景気を迎えたが、それはバブルのように破裂したりはせず、大きな不況を後に遺すこともなかった。また、戦争のかげもなかった1980年代後半の日本では、かつてなかったほどの規模の金融バブルが発生し、それが崩壊した後の平成不況は10年も続いた。

 以上から見ると、戦争―金融バブル―大不況という因果関係は成立しないように見える。しかし、現在のアメリカも金融バブルが崩壊した後に大不況に見舞われていることから見て、金融バブルが大不況の原因になるということは、戦前の四つのケースにおいても戦後の二つのケースにおいても違いがない。

 そこで、「戦争」の代わりに「先端産業の成長」という要素を置いて戦前の4ケースを見ると、1772年恐慌の前には1768年のアークライトの水力紡績機の発明などによる産業革命の前段階があり、1825年恐慌の前には1818年にスティーヴンソンの蒸気機関車の発明によって鉄道業が芽を出しており、1873年恐慌の前には電気研究の進歩に伴って電気製品の製造が始まっており、1929年恐慌の前にはアメリカで自動車をはじめとする耐久消費財の大量生産がブームを起こしていたというように、何十年に一度という先端産業の出現が金融バブルの発生とその後の大不況に先行していたことが分かる。
 コンドラティエフが(ジェヴォンズ、ファン・ヘルデレン等に続いて)発見した長期波動の谷はこれらの大不況に相当するが、それを乗り越えた後の先進資本主義国はどれも、かつてなかったほどの好況期を迎えている。これがコンドラティエフ波動の山なのである。

Yoshihiro Kogane,”Long Waves of Economic Growth : Past and Future”(FUTURES, Butterworths & Co.,October, 1988)
小金芳弘「経済発展論:産業革命から情報技術革命まで」(東海大学出版会、1994年、68〜95頁)
篠原三代平「長期不況の謎を探る」(勁草書房、1999年、3〜39頁)
「技術と経済」コンドラティエフ波動から見た日本経済の現状と将来
「21世紀日本の構想」産業革命から情報革命へ―古典経済学からの脱却
 
 コンドラティエフ波動のこれから

 コンドラティエフ波動の谷が、先端産業を育成するために膨れ上がった資金がその役目を終えた時に急激に収縮するために起こる資金不足によって生まれるのだとすれば、これは、金融システムが人為的に創り出す資金を媒介として運営される近代資本主義経済に固有の生理的な現象だということになる。

 生理的な現象という意味は、システムの内部から発する問題だということである。この場合は、中央銀行がいくら紙幣を印刷して預金銀行に預金してやっても、銀行の貸付の担保になっている資産の価格が下がり続けることの代わりにはならないので、預金が実質的に目減りするのを止めることはできず、従って資金不足による不況を緩和するのには役に立たないということになる。

 これに対して、システム外から資金を投入することは血液の不足を補うために輸血するのと同じなので、外国や国際機関から資金を借りることは役に立つが、輸血で病気を治すことはできない。同じ国の政府がそうすることはこれとは違うが、政府が国債を発行してその代金を銀行に預金するのは、公共事業なり福祉政策なりに使うか国債の元利支払いに当てるべきものを何時までも銀行に預け放しにしておくわけには行かないので、これは間もなく政府が引き出して使うことになる。

 また、政府が自分で使う気のない資金を創造して銀行に預金する「公的資金の投入」と言われる方法は、それによって預金者を安心させ、必要もないのに大量に預金を引き出す「取り付け騒ぎ」を防ぐのには役に立つが、資産の価格が下がり続ける中でこの預金を貸しても、担保の減価のために回収不能になる危険は常にあり、銀行自身が持っている資産もどれくらい減るか分からないので、銀行の貸し渋りと貸し剥がしを止めることはできない。このために銀行を責めるのは、烏を追い払うためにおいてある案山子が働かないと文句を言うのと同じである。

 案山子の代わりに人間が戻ってきて働き出すのは、それを邪魔している資産価格の値下がりが止まる時である。これは、バブル期に発生した大量の不良債権の整理が大体終われば自然に止まるが、そうなるまでには時間がかる。

 アメリカの30年代不況の時にGDPが元にもどるには8年かかったし、平成不況の時のゼロ成長は10年続いたことから見て、今回のアメリカの不良債権の整理にもそれぐらいの時間はかかるだろうから、そのために起こる倒産や失業は防げない。しかも、その結果コンドラティエフ波動の谷から抜け出したとしても、先進資本主義国が今までの時と同じようにその山に登り始めるという保障はない。

 それは、これまでのコンドラティエフ波動の谷の後には、先端産業が他の産業の生産性向上を助けたり新しい需要を発掘したりする主力産業に変身することによって新しい経済成長が始まるという条件があったが、このような変容は自然に起こるものではないからである。

 何十年に一度起こるか起こらないかというような技術革命の後では、それまでに必要だったり有用だったりした人間の能力が不用になるために人間関係や価値観が大きく変わり、社会経済の制度が元のままでは様々な摩擦や不公平が生まれる。従って、それを取り除くような大きな法制制度の改革がないと、技術革命の持つ特性をうまく生かすことはできず、それが経済発展の足を引っ張ることになる。

 イギリスの産業革命の後には、それによって職を失ったり地位を失ったりする者を救うための救貧法や工場法などの制度ができたことが、その後の資本主義社会の発展に繋がった。第二次世界大戦後の資本主義社会では、健康保険、失業保険、年金その他の制度が固まったことによって、耐久消費財の大量生産技術が大衆消費社会の繁栄をもたらした。

 アメリカに一歩先んじてコンドラティエフ波動の谷から抜け出した日本の景気上昇にかつてのような好況感がなかったのは、そのような制度改革が伴わないまま、携帯電話やパソコンの普及が進むだけになったからだと思われる。
 
おわりに 社会の情報化と日本の立場

 人類の社会を、その中で使用される主要な生産技術に着目して分類すると、狩猟採集社会、農耕社会、産業社会の三つに分けることができる。この内産業社会は、1710年の蒸気機関の発明に始まり、それまでは人間、家畜、風、水などの持つ自然のエネルギーによって行ってきた生産を、蒸気力、火力、電力などの人工エネルギーの大量投入によって行うようにして発展してきた。これはまた、1694年のイングランド銀行の設立以来発達してきた金融システムの土台の上で達成されたことは先に見てきた通りであり、そこに着目したマルクスは、これを資本主義社会と命名した。

 人類の社会を運営するためにはもう一つ重要な技術がある。それは、社会を運営するために必要ないし有用な情報を作り、加工し、交換するための技術であって、これは言葉の発明に始まって文字の発明が続き、15世紀中頃の活版印刷術の発明によって急速に広まり、19世紀から20世紀にかけては電信、電話、ラジオ、テレビの発明に伴って爆発的に進歩した。しかしそれでも、情報を即時に交換しようとすれば1対1で対話するかせいぜい20〜30人ぐらいが集まって合議するしか方法がなく、広く伝えようとすれば、中心から周辺に一方的に伝えるしか方法がないという制約を免れなかった。その制約を打ち破ったのが、情報技術革命を土台とするインターネットと情報通信業の発達である。

 しかし、今までのところその多くは、標準化された物的財貨やサービスの大量生産技術の進歩を加速化することと、個人の情緒的な満足を容易にすることのために使われているために、廃棄物の激増が地球環境を危うくする一方で、他人の都合や感情を配慮するという集団生活に不可欠な倫理道徳の土台を掘り崩すという問題の発生に繋がっている。

 インターネットと金融システムの結合は、また、消費者勤労者をローンで借りてカードで払うという経済行動に慣れさせることによって、生活のために働いて金を稼ぎ、それを倹約して貯めることによって資産を作るという、資本主義経済の原点を風化させてしまった。その極端な表れとしてのサブプライムローン問題は、お金がなくても借金して家を買い、その値段が上がったらそれを売って贅沢をするという者が激増したことによって、マックス・ウェーバーによればかつては資本主義精神の真髄だったプロテスタンティズムの倫理という禁欲主義が現代のアメリカでは消滅してしまったことを示している。

 今の日本は、アメリカに先駆けてコンドラティエフ波動の谷に落ち、それからの脱出を終わっていたところから、アメリカのように資産価格の連続的な下落に発する資金不足に苦しんでいるわけではない。現在の株価や不動産価格の下落は、アメリカの不況がもたらした不況による言わばもらい火なのであって、30年代不況や平成不況におけるような不況の原因ではないのである。また、ローンとカードへの依存においても、アメリカほど極端なものになっているわけではなく、二宮金次郎的な勤倹貯蓄の価値を持つ日本人も、朱鷺(とき)のようにいなくなったとはいえ、未だ種が絶滅したわけではない。

 問題は、これからの日本の技術経済的な発展が今のアメリカの状況に近づいて行くなら、日本にも未来はないということである。今の世界にとっても日本にとっても必要なことは、インターネットと情報通信業の持つ能力を個々人の目的のためではなく社会公共の―ひいては地球なり生物全体なりの―利益のために生かせるように法的制度的枠組みを改革することである。今も進行しつつある情報技術革命は、その枠組みさえ与えられるならば、そのような役割を果たすことは十分に可能である。

 明治以来の日本は、欧米で完成された社会制度のほとんどすべてをそのまま持ってきて使い、欧米で改良されればそれをそのまま受け容れてきた。しかし、資本主義と社会主義、個人主義と集団主義、の衝突が終わった後の欧米は、それをどのように改革すべきかを見つけられずに苦しんでいる。

 今の日本人は、技術における欧米コンプレックスからは既に解放された。これからは、法的制度的枠組みの改革においても欧米コンプレックスから脱却して、情報通信業を新しい発展に向けての成長を牽引する主力産業に脱皮させるための道を探るべきである。もしそれができれば、日本が石油危機の後のように英米に先駆けて景気回復を成し遂げることも不可能ではないであろう。




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