| 平成25、26年を回顧して | 平成26年12月 | 小金芳弘 | |
| 私は2010(平成22)年6月から2012(平成24)年4月にかけて「小金芳弘のホームページ」に「産業社会の過去と未来」と題するペーパーを連載していたが、後の年の5月以降、それを大幅に書き直す一方で1冊の著書にまとめる作業に取り掛かり、これは翌年1月に完成して東海大学出版部から発行された。 私がその出版を思い立った動機を一言にして言えば、日本が10年におよぶ平成不況からようやく抜け出したと思う間もなく、2008(平成20)年にリーマンショックが起こると再び底の知れない長期不況に落ちたのを見て、そこから這い上がるために私の知識と経験を活かすことはできないかと思ったことである。 私は、旧運輸省の船舶局から1954(昭和29)年7月、当時の経済審議庁に派遣されたのに始まって、それが経済企画庁に変わった後もそのまま居座り続け、退官してからは日興リサーチセンター、東洋学園大学、生活文化総合研究所等と職場は変わったが、長期計画、長期見通し、長期ビジョンなどと言われる仕事に取組み続けてきた。 元々、経済や社会の長期的発展の仕組みを解明しながらその遠い将来を予測するための専門分野があるわけではない(かつて騒がれた未来学などというものは理論的にも実証的にもそれとは程遠いものだった)。従ってこれらの仕事をやる過程で私が学んだことは、政治、経済、文化、技術等の分野に携わった人たちがその知識、経験、思想などについて話したり書いたりしたものと、私自身の経験を自己流に組み合わせたものだった。 従って私は、本書を発表することによって社会の長期的発展に関する研究分野を確立しようとか学者としての名声を獲得しようとかいう野心を抱いたわけではなく、東西冷戦が終わった後の日本や世界の迷走を見るにつけて、そのより望ましい将来とはどんなものかとか、そこに到達するためにはどんな選択肢があるかとかを考える一方で、同じ問題意識を持つ人たちに私の知識と経験にもとづく認識と意見を議論の種として提供しようとしただけである。 そこで私は、現在の不況の原因を人体にたとえると産業文明の老化によって生じた成人病であって、その治療法は栄養を大量に与えることではなく逆にダイエットによって体重を減らしながら体質改善を図ることにあると診断し、ダイエットに当たるものはエネルギーの大量注入を減らして行くことであり、体質改善に当たるものはインターネットの悪用と乱用を減らすことによって、時代に即した情報の流通を促進するための制度改革を行うことであるという療法を提案した。「ポスト産業文明のビジョン」 この診断と療法の提案が経済学者や一般日本人の常識からかけ離れていることは私自身も承知しているので、その理論的実証的根拠や実行可能性に対する疑問にもとづく反対意見が続出しても不思議ではないし、むしろそれは私の期待でもあった。しかしその後に安倍政権が行ったことは、診断に関係する議論を全くしないまま、高度成長時代における不況対策を更に過激にしたようなアベノミクスという政策の実行だった。 その結果として起こった株高円安によって平成25年の間の日本経済は活気を取り戻したかのように見えたが、26年に入って消費税が引き上げられると駆け込み需要が落ちた後の回復が思わしくない一方、その恩恵を受けられない者の不満が表面化し始め、第二次の引上げなどは到底できないという状況になった。しかし首相は、この政策は成功したのであってこれ以外に道はないと強調する一方で次の消費税引上げは延期すると宣言し、その是非を問うために衆議院を解散するという戦法を採った。自分の療法は間違ってはいないが、それを続けてよいかどうかを患者に聞くと言うのである。 ここで、この療法は間違っていると主張する医者は沢山いるが、私の診断はこうであり私ならこういう療法を採ると宣言することによって患者を納得させられそうな医者はいない。これでは他に医者がいないのと同じことなので、患者としては、不満はあっても続けて任せる外に道はないであろう。そして、その結果がどうだったかは衆知の通りである。 以上が平成25、26年におけるマクロの状況だとすると、ミクロとしての私の側の状況にも、26年に入ってから大きな変化が発生した。2月の初めになって、30年以上も前に農薬や化学肥料に代わるものとして開発されたEM(Effective Microorganisms)―有用微生物群―という生物技術の製品が、放射能汚染を含む環境汚染対策の武器としても強力であるということを、開発者である比嘉照夫教授から知らされたことである。 実は私は、前述の著書の20年も前に出版した「経済発展論―産業革命から情報技術革命まで」(東海大学出版会、1994年)の中で、将来は農薬や肥料として生物技術の製品が化学製品に取って代わるだろうということをピーター・ドラッカーの著書を引用して述べていたが、その開発者が日本人であることも、それが現在150もの国で使われており、しかも環境汚染対策の手段として放射能や核廃棄物の汚染によるものに至るまで有効だと主張していることも、日本でそれを支持する者が30万人もおり、その多くがボランティアとして東北地方をはじめ全国で活動していることも、全く知らなかった。 そしてそれはひとえに、全国紙やテレビなどのマスコミが彼らの言うことを科学的根拠がないとして完全に無視していることによるものだった。そこでインターネットで検索してみると、EM側の言い分とそれを否定する人たちの対立が随分前からあったことが判った。マスコミが提供する情報とインターネット上に飛びかう情報との間に大きな落差があることは、最近のSTAP細胞問題でも明らかになっている。 この問題については、マスコミはNATURE誌に掲載された論文の提出者を盛んに持ち上げる一方で、それに多くの疑惑があることに関する情報がインターネット上に溢れていることを一切報じていなかった。EM問題についても、インターネット上では少なくともEM側の主張と反対側の意見を同時に見ることができるのに対して、全国紙やテレビはこのような対立があることさえ一切報じていない。 一般の日本人にとっては、STAP細胞があるのかどうかとかその論文にどのような問題があるのかとかは判らない上に、遠い将来はとにかくとして今の生活には全く関係ない世界のことである。しかしEMが環境汚染対策として強力な武器になるかとか、まして原発事故の後遺症に苦しむ東北地方の住民を救うために役に立つかとかいう問題は、それとは比較にならないほど重要なので、そのような主張とそれを否定する意見の対立があることを知れば、両者がどのような根拠にもとづいて対立しているかを知りたいと思うのが当然であろう。 そしてこれは、私の前述の二つの提案の内、インターネットの規制に関するものの実行がすぐには難しいのと違って、生物技術の使い方を増やすだけでエネルギーの大量使用を大きく減らせると思われるので、マスコミの壁を破って議論を活発化することができれば実現への道が開けると思い、自分のホームページの中でこの問題を書き続けた。「EMを原動力とする第二の産業革命」(2月)、「EM革命の戦略」(4月)、「EMセミナーに参加して」(5月)、「アベノミクスからの脱却」(9月)、といった具合である。 しかしマクロの状況を左右する最も大きな力を持っているマスコミは、EM問題を無視し続ける一方で、「事実でない」ことを事実だとする重大な誤報を行っていたことがやがて明らかになった。それは、原発事故の際に東電の社員が、吉田所長の指示がないのに勝手に職場を放棄して避難したということと、戦争中に日本軍が韓国人女性を強制的に慰安婦にしたということを報道した朝日新聞が、自らそれが誤報だったと認めたことである。 EMが環境汚染対策の手段としての能力を持っていると言う証人は何人もいるのに「科学的な根拠がない」という理由だけでそれを報じようとしないほど慎重なマスコミが、前述のように重大なことを、ほとんど証人がいない場合とただ一人しか証人がいない場合と、両方とも「真実」のように報道した理由を考えて行くと、次の事実に突き当たる。 それは、関係者に「力」がある場合とない場合とではその態度が大きく違うということである。原発事故の後の東電の評判は散々だったし、慰安婦問題の当事者だった旧日本軍は消滅している上に今でも犯罪者扱いをされている。ここでそれを事実として報道しても、その「悪」をあばくという意味で特ダネになり得る一方で、当事者から反撃される恐れはない。 それに対して、EMに汚染対策の武器としての能力があるという主張があると報道すれば一般国民にとって大きな利益になる可能性はあるが、そのためにEMの普及が進めば、汚染源である商品の売れ行きが落ちる大企業や、汚染対策の研究によって巨額の財政援助を受けている研究機関は打撃を受けるだろう。目先の利害を考えるなら受益者と被害者の力関係を比べて後者に味方したいが、今の日本にとって汚染問題の解決は最重要の課題なのでそれはできない。しかしこの問題があることが判ってしまうと何かと面倒が起りそうなので、「君子危うきに近寄らず」を決め込むことにした。これが私の解釈である。 以上のようにして、平成25年と26年を通ずる私のアベノミクスとマスコミに対する戦いは敗北に終わった。しかし26年7−9月のGDPの速報値を見ると、名目では年率3.9%のマイナスであって明らかにアベノミクスの失敗を示しているし、原発事故の後遺症も収まっていないことは汚染水処理問題の現状を見れば明らかである。私はこれから先、日本がリーマンショックのような衝撃に襲われる前に、できるなら今のようなマクロの状況が少しでも変わって行くことを望む。 |