文化と政治 平成16年3月 現代日本女性と明治の女子留学生
「舞踏への勧誘日本最初の女子留学生永井繁子の生涯」
より
生田 澄江

 本書は、1871(明治4)年に10歳でアメリカに渡り、10年学んでから帰国して二つの学校で西洋音楽と英語を教え、アメリカで知り合った青年将校と結婚し、7人の子を産んで育て、夫婦で引退した後は日米関係を修復させるために奮闘し、それが崩壊する直前に世を去った女―瓜生繁子―の一代記である。(本の紹介は末尾に)


1 永井繁子の生涯の現代的意義

 彼女の生涯をここで改めて紹介するのは、単にその物語を再現するためではない。かつてはほとんど家庭の主婦として夫と子供に仕えることを天職とした日本の女性が今や一度は職業人として社会に参加し、並み外れた才能や美貌はなくとも超人的な努力をせずとも男に負けずに仕事をしたい、格好よい男と恋愛して結婚し、夫を出世させた上に国際舞台で活躍したい、嫁姑の確執や夫の浮気、子供の不登校や家庭内暴力に悩むこともなく一生を送りたい、というような夢を抱いているとすれば、それを悉く明治大正の日本で実現した女性がいたことを知らせることによって、その実現の助けとしたいからである。

 本書を読むと、この場合にはポイントが三つあることが分かる。第一は、それには恐ろしいほどの幸運というか偶然の助けがあったことであり、第二は、それに恵まれるということがあったにせよ、自然に任せるという生き方がその幸運を最大限に生かす結果となったことであり、第三は、初めから終わりまでつきっぱなしというような人生はなく、大きな不幸や挫折は必ずあるが、その運命にもまた素直に従うという生き方を貫くことによって人生を全うすることができるということである。


2 永井の幸運と山川、津田の不運

 永井繁子がヴァッサー・カレッジの音楽科(現代風に言うと芸術学部)を卒業し、演奏技術を身に着けて帰国したのは1881(明治14)年の秋である。その3年前、日本の文部省は西洋音楽を移植しようとして音楽取調係を作ったが、それを教えるための専門教育を受けた日本人がおらず、西洋人は俸給が高すぎるという難問を抱えていた。繁子は3年制の音楽科の卒業なので学士号(Bachelor of Arts)を持っておらず日本語もすっかり忘れていたが、ピアノの弾き方を教えるのにこれらは問題でなく、彼女は日本人としては破格の高給で雇い入れられた。

◆山川捨松の写真(下)
 しかし、1年後に同じ大学の4年制の本科(現代風に言うと教養学部)を卒業し、学士号をとって帰国した山川捨松の場合は、事情がまるで違った。彼女はそのアメリカ的な平等思想から、不平等条約の下で日本が置かれていた国際な環境に憤りを覚え、「公正概念」にもとづいてそれを世界に訴えたいと思っていたが、日本の政策当局にその意義を理解させられるどころか、日本語能力の欠如のために普通の教師として働くことさえおぼつかなかった。

 アーチャー・インスティテュートを卒業し女子教育制度に強い関心を抱いて同じ年に帰国した津田梅子も、日本の教育制度の持つ甚だしい男女差別に対する不満を訴える場所がない上に、捨松と同じく言語能力の不足による職業上の問題を抱えることになった。

 こう考えると、山川捨松が当時既に政府の高官だった大山巌の求愛を受け入れて後妻となったことも、津田梅子が独身のまま女子英学塾を設立して学校経営に乗り出したことも、理想と現実の折合いをつける道がそれしかなかったためであり、「鹿鳴館の花」としてもてはやされたり「建学の祖」として崇められたりしても決して晴れることのない二人の無念を、理解することができる。

3 家庭と仕事の両立

 これに反して永井繁子が、女にとって割りの良い職場などはほとんどなかった明治の日本ですぐに良い職にありつけた上に相思相愛の瓜生外吉と結婚できたのは、留学当初に定められた10年で帰国という条件を満たす音楽科を選択していたことと、帰国の時期が外吉とほとんど同時だった「幸運」が重なったことのためではあるが、与えられた境遇に素直に従う彼女の生き方がなかったら、そうはならなかったはずである。

 その後の瓜生繁子は二つの学校の教授を兼任しピアノと英語を教えながら子供を7人も生んだが、いくら安く家事労働力を雇える時代だったとは言ってもこれは大変なことであり、それをうまく乗り切って初めの幸運に実を結ばせたものも、持ち前の自然体の生き方のおかげだったと言うことができる。

4 職業上の問題とそれへの対応

 ただ、それだけでは時代の流れによる情勢の変化を食い止めることはできず、繁子も二つの問題に突き当たった。その一つは、日本の西洋音楽が単なる教養から芸術へ進化したことによって、彼女の芸術家としての資質が問われるようになったことであり、もう一つは、軍事国家としての日本の発展につれて、欧米文化への反感から彼女が担当していた英語教育を女子の必須科目から外せという要求が強まったことである。

 これに対する彼女の対応は、自分は日本における西洋音楽の草分けだとかこれからは女にも英語が必要だとか言って居座るのではなく、あっさり身を引くことだった。外にやりたいことや頼まれていることがたくさんあるので、問題が起こっているのに現状に執着する必要はなかったからである。瓜生繁子が1892(明治25)年に東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽科)のピアノ教授を辞め、10年後には女子高等師範学校(後の御茶の水大学)の英語教授も辞めた理由は明らかにされていないが、彼女の人柄を考えればそう解釈するのが自然である。

5 家庭と国家

 やがてその彼女にも、どうすることもできない問題が次々にふりかかってきた。その最初は、1897(明治30)年、夫の外吉が艦長をしていた巡洋艦扶桑が松島と衝突して座礁する事故を起こしたことである。この時彼は3ケ月の禁固刑に処せられたが、幸いそれは大した傷にはならず、彼は順調に昇進して日露戦争に戦功を立て男爵にまでなった。しかし1908(明治41)年、親孝行で秀才で一家の誇りだった長男の武雄が乗艦松島の爆発沈没によって23歳の命を落としたのは、何物にも換えられない悲運だった。

 最後の災厄は、祖国日本と第二の祖国であるアメリカとの関係の悪化と夫の病気である。1912(大正元)年に海軍大将となった外吉は翌年現役を退いたが、この頃から日米関係は以前とは様変わりになり、夫婦にはそれを修復するという大役が回ってきた。しかし、軍事大国となった日本の膨張に伴う国際的な緊張は彼らの奮闘をもってしても如何ともし難く、それによる疲労とストレスが外吉の健康を蝕んで行った。1922(大正11)年、夫が現代でいう膠原病に倒れると繁子はその看病に明け暮れ、6年後には癌に冒されて、三度にわたる大手術の甲斐もなく67歳で夫に先立った。

 彼女の生涯は、どんな強運の持ち主でも時代の流れや高齢化、身内の病気や事故などによる悲運を防ぐことはできないという当然のことを示しているが、同時に、明治大正の日本にも、艱難辛苦に耐えてひたすら努力する「おしん」のような人生だけでなく、すべての可能性を生かしてやりたいことをやり、結果がどうであれ人の求めに応じてやれるだけのことをやり続けた人生もあったことを示している。

 以上は、私が3歳の時に世を去った曾祖母に対するオマージュであると共に,厳密な考証と実地踏査にもとづいて彼女の生涯を完全に復元し、明治大正の日本文化史に新しい頁を開いた、生田澄江という歴史家に対する賛辞である。


■生田澄江著「舞踏への勧誘−−日本最初の女子留学生永井繁子の障害」
(文藝社、2003年3月発行)
本の表紙 (最初の女子留学生)永井 繁子
 本書は、1871(明治4)年に10歳でアメリカに渡り、10年学んでから帰国して二つの学校で西洋音楽と英語を教え、アメリカで知り合った青年将校と結婚し、7人の子を産んで育て、夫婦で引退した後は日米関係を修復させるために奮闘し、それが崩壊する直前に世を去った女―瓜生繁子―の一代記であって、彼女の名前は、共にアメリカに留学した津田塾大学の創始者の津田梅子、大山巌元帥と結婚して「鹿鳴館の貴婦人」となった山川捨松と共に「日本最初の女子留学生」としてかなり広く知られてはいる。


もしも、プロジェクトXを作れるなら ・・・『舞踏への勧誘』を読んで
 NHKのプロジェクトX。音楽とあいまってつい泣いてしまいます。と同時に、女性はいつも脇役だなぁとちょっと不満。私に番組を作らせてくれるなら、ぜひ、とり上げたい女性がいます。
 明治初期、日本初の女子留学生のひとりとして10歳でアメリカに渡った永井繁子さん。
『舞踏への勧誘』という本で知りました。
 一緒に海を渡った津田梅子さんや山川捨松さんほど知られていませんが、帰国後の活躍ぶりは現代女性に通じるものがあります。
 アメリカで知り合ったすてきな青年将校と結婚。二つの学校でピアノと英語を教えながら七人の子どもを育て、晩年は悪化する日米関係の修復に奔走。
 長男の事故死や夫の病など苦労はあったものの、ひたすらたえる明治女性ではなく、家庭も仕事もすべての可能性を生かして自然体で生きた女性です。
 本に登場する豊富な資料をながめながら、番組の構成を思い描いています。

    東京都武蔵野市・水野直子さん

(Better Home June 2003 より抜粋)


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