技術と経済 平成17年5月 農耕社会、産業社会、情報社会
〜時代の変わり目と日本人の生き方〜
小金芳弘


概要

  第1章は、日本の市場経済が戦国時代から元禄時代にかけて何故高度成長したのか、その後に何故バブル景気が起こり、何故その後の経済がほとんどゼロ成長の状態になったのかを、技術、金融、生活の3面から検討する。

 第2章は、これとよく似た状況にあったイギリスで、商人たちが2度の政治革命を経て議会制民主主義と近代資本主義の体制を確立したことが産業革命と大英帝国への道を開く一方、極東の一小国に止まることを選択した日本では「量より質を重んずる」経済と文化が発展したことを述べる。

 第3章と「おわりに」は、今の日本は産業社会から情報社会への変わり目に差し掛かっていること、その移行に成功するかどうかは人々がどんな「価値」を抱いているかによること、この場合、日本の近代化に貢献してきたこれまでの効率主義と能力主義には修正を加える必要があることを述べる。


目次
はじめに 〜平成バブルと元禄バブル〜
1章 農耕社会日本の経済発展とその行き詰まり
(1)戦国時代から元禄時代以後までの日本経済
(2)土木技術の革新と市場における需要・供給
(3)高度成長、バブル景気、長期不況
2章 大英帝国と極東の一小国
(1)清教徒革命から産業革命へ
(2)量より質の江戸時代日本の経済と文化
3章 社会の変化と日本人
(1)大転換期における技術と体制と倫理
(2)戦国武士からラスト・サムライまで
おわりに 〜効率主義と能力主義の罠〜


はじめに―平成バブルと元禄バブル―


 戦前の日本人は、男なら国のために戦って死ねば神として祭られると信じ、その母親は靖国の母と讃えられると信じて、事実その通りになった。戦後の日本人は、会社のために一生懸命働けば少なくとも定年までは面倒を見てもらえると信じて、事実その通りになった。しかし今の日本人は、国も会社も信用してはならず、信じられるのは本人の能力だけだと教えられる。

 それでは能力のない者はどうすれば良いのか、能力さえあれば何をやっても良いのかと聞くと、何の答えもない。バブル期以降甚だしくなった日本人の道徳心の低下は、この現実と無縁ではあり得ない。この意味で現在の日本人が置かれている状況は、明治維新以来かつて経験したことのないものである。しかし、戦国時代を生き抜いてやっと平和でゆたかな時代に行き着いたと思った武士たちが元禄バブルの後にぶつかったものは、これに似た状況だった。

1章  農耕社会日本の経済発展とその行き詰まり

(1)戦国時代から元禄時代以後までの日本経済


 江戸時代以前の日本の経済や社会については、現在のような統計はないが、人口についての大雑把な推計はある。それによれば、日本の人口の推移は次のようになっている。

 年      人口     倍率      時代
1300   820万          鎌倉時代(北条貞時)
1500   950万   1.16    戦国時代(北条早雲)
1600  1230万   1.29   関が原の戦い
1700  2830万   2.30   綱吉(5代将軍)
1750  3100万   1.10   家重(9代将軍)
1800  3070万   0.99   家斉(11代将軍)
1850  3240万   1.06   家慶(12代将軍)
1900  4470万   1.38    明治33年

出所:小金芳弘「日本の選択」(東海大学出版会、1985年)―”長期展望(西暦2000年)作業参考資料”国土庁計画調整局、「人と国土」(国土計画協会)1976年1月号による

 近代社会以前の人口の推移は食糧供給の動向に左右され、他の物の生産量も大体それに従っていたと考えられるので、日本の戦国時代の100年間の人口増加率がそれに先立つ200年間の増加率を上回っていることは、この時代に食糧を主体とする各種物資の供給が倍以上になったことを示唆している。江戸時代の最初の100年間にこの速度は更に倍増し、その後の50年間でピークに達した後は、ほとんどゼロ成長の状態になった。人口の動向が国内総生産の動向とほぼ一致すると仮定すると、戦国時代から元禄時代以後までのそれは、今回の戦争中に大きな落ち込みがあったことを除けば、明治維新から平成時代までとほとんど同じだったということになる。

(2)土木技術の革新と市場における需要・供給

 日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての技術革新の中心は土木技術だった。大石慎三郎氏によれば、1530年頃から1670年頃までの日本では、土木技術が他の時代に類例のないほど発達した。その中でも治水事業のための用水土木技術は、戦国時代には戦国大名が自らの兵站基地を確保するためのものだったが、平和の到来に伴って、全国民に対する食糧供給を増加させるのを助けるという役割を果たすようになった。

 1596〜1672年の77年間に行われた治水事業は、第一級の大河に対する巨大工事だけで明治以前の有史以来の主要工事の36%に達し、以後明治維新までの200年にわたる工事量を上回った。それまでの日本の農業は、溜池灌漑による小盆地的平野地帯や枝川的小規模流水を灌漑源とする狭小な地帯でしか発達していなかったが、これによって大河川の下流域に展開する広大肥沃な沖積層を思い切り耕作することができるようになり、1660年頃の耕地総面積は、室町時代のそれの約3倍に激増した。

 鉱山開発のための土木技術は、戦国大名が戦費を賄うための金銀を掘り出すのに使われていたが、平和時代に入ると、市場経済が普及するためには不可欠な通貨供給を増やす役割を果たすようになった。この時代の日本は、数百箇所におよぶ金山銀山を擁し、世界有数の金銀産出国だった。また築城のために発達していた土木建築技術は、城下町の形成にフルに利用されるようになり、ヒトとカネがそこに集まることによって市場経済が発達する条件を作り出した(以上は大石慎三郎「江戸時代」中公新書、1978年による)。

 平和な時代がくると、それまで過酷な状況の下で抑圧されていた人々の物資に対する欲望は解放され、物を買うのに必要な通貨が行き渡るのにつれて、市場における需要は着実に増加した。供給面では、耕地、市街地、河川運河などの社会資本の整備が進み、農村では戦争に駆り出される者がいなくなったために労働力が増え、武士を廃業して商人や教師などになる者も増えたので、供給力も着実に増加した。


(3)高度成長、バブル景気、長期不況

 この時代の初め、市場での最大の消費者は封建大名とその家臣であり、彼らは領地からとれる米を売って得る金で高価な品物を買いあさったが、耕地開発ブームが山野の荒廃を招いて災害を多発させる一方で農民の増加率の減少から米の生産増加が頭打ちになると、戦国時代以来溜め込んでいた金銀を放出して支払いに当てた。これを受け取った者がそれでまた品物を買い、それに応える生産も行われることによって経済は益々成長した。

 しかし、封建大名たちの蓄えが底をつくと、彼らの商人に対する借金は増えて行き、領地から上がる収入は増えないので、借金を返すと生活を落とさなければならないことになった。その中の最大の地主である徳川家は、他の大名家とは違い全国規模の行政を担当する幕府を抱えているので出費も大きく、財政赤字を何とかしなければならない問題に迫られた。元禄時代(1688-1703)に入ってからの1695年、幕府は、全国の金山銀山を支配して通貨を発行する権利を独占している地位を利用して、小判を改鋳し、その品位を落とすことによって発行量を増やした。

 これが市中に流通し始めると、通貨供給の急増のために人々の購買力が激増して景気は爆発的に好くなった。しかし、その通貨を吸収する生産面を支配しているのはもはや地主である武士ではなく商人なので、増発した通貨はたちまち彼らに吸収されてしまい、その増発を止めると幕府の赤字は前よりも増大してどうにもならなくなった。そこで幕府は、将軍以下の生活を切り詰めて支出を減らす一方で各藩に対しても厳しく支出の削減を求め、各藩の財政状況も皆同じなので、人員を削減するなどのリストラは全国に広がった。

 このことによる需要不足は、貸付金を大量に抱えている富裕な商人たちが支出を増やせば相殺されたはずだが、武士たちに欲望を抑えることを要求している幕府は、身分的にその下の商人たちの贅沢な暮らしを許すわけには行かず、贅沢をした者には牢屋に入れるとか家財を没収するとかの厳しい罰を加えた。また鎖国体制を維持するために、彼らが外国貿易や大船建造などに金を使うことも許さなかった。このようにして元禄バブル以後の日本経済は、需要と生産の両面から長期にわたる不況に落ち込むことになった。


2章  大英帝国と極東の一小国

(1)清教徒革命から産業革命へ


 イギリスでは、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年、エリザベス1世の時代が終わった。この国でもそれまで、麦作と酪農を主体とする農業が発達し,外国との貿易や略奪で貯めた金銀通貨の流通が増えたために市場経済が高成長していたが、国王や貴族たちは日本の高級武士たちと同じように贅沢な生活をする内に商人たちにそれを吸い取られ、日本と同じ島国であることから環境の制約のために農業生産が頭打ちになると、彼らの財政赤字は増大して行った。

 国王がその支出を賄うために借用証を乱発すると、これは商人たちの間を転々として、金貨と同じように流通する紙幣となった。それでも国王は日本の将軍のように生活を切り詰めて支出を減らそうとはせず、商人たちからの税金を上げようとした。借金を返すのでなく税金で取り戻そうというのだから、両者の間には激しい衝突が起こった。

 これは、国王たちが英国国教徒であり商人たちが清教徒であるという宗教の対立からの政治的軍事的な対立にまで発展し、1649年には清教徒革命でチャールズ1世が処刑され、88年には名誉革命でジェームズ2世が追放されるまでになった。

 この勝利を受けて商人たちは、自分たちの代表を送り込んだ議会で市場取引に関する各種の法律を作ると共に、1694年にはイングランド銀行を設立した。これは、利子を払って預かった他人の通貨を別の者に貸して利子を稼ぐ銀行業者が集まって作り、通貨が余る者と不足する者の間の融通をつけると共に、預金の引き出し要求に応じられなくなりそうな者が出たら助けてやるための機関である。

 この制度ができたために、銀行業者全体が持つ金貨の何倍もの通貨を貸し出しに回せるようになった上に、日本のように小判の品位を落として発行枚数を増やすのとは違って、商売で利益を生みそうな相手を選んで貸出を増やすことができるので、通貨供給の増加が生産量―と従って消費量―の増加に直結する確率が高まった。

 このように、政治権力者のためでなく生産者と消費者の利益のために通貨供給を増やす体制が整ったことは、機械や建物のように多額の通貨を必要とする設備を使って生産を行おうとする者が市場に参入する道を開き、1710年に蒸気機関が発明されたのを皮切りに新しい機械が続々と発明されて使われるようになると、70〜80年代には水力紡績機を備えた工場が綿糸を大量生産するまでになった。これが産業「革命」と言われる経済と社会の大転換である。

 これに対して、それまで通貨と市場経済を支配していた国王の家臣である貴族たちの多くは、高級軍人や高級官吏として国王に仕え、大陸諸国との覇権獲得競争に参加して大英帝国を作り上げて行った。これには彼らの能力もさることながら、産業革命が生み出す膨大な量の製品を動員できる強みがものを言ったことは確かである。

(2)量より質の江戸時代日本の経済と文化

 イギリスで経済発展のための新しい制度ができあがって動き出した頃、日本の商人たちは、イギリス人のような生産の量的拡大の代わりに質的改善の方向に向う一方、生活に伴うストレスを緩和して心を癒す「文化的生産」に力を入れるようになった。

 旨くてヘルシーな日本料理、美しく優雅な女のキモノ、渋くて丈夫な男の着物、落ち着きのある快適な日本家屋、などを生み出したのは前者の例であり、お茶、お花、踊り、俳句、囲碁将棋などのように普通の者が生活の中で楽しむ文化的な活動が普及し、浮世絵、物語、歌舞伎、文楽、相撲などのプロたちの芸を一般大衆が楽しむための出版や興行が盛んになったのは後者の例である。子供たちに読み書き算盤などを教える寺子屋が普及したのもこの頃からで、そのために日本人の識字率は当時の世界では比類のないほど高まった。

 武士たちは、治安を確保して当時の日本を世界で最も安全な社会にする一方、地域ごとの生産的な事業を補助して特産物を生み出させ、河川運河、瀬戸内海航路、沿岸航路などを開発して新しい社会資本を創り出した。知識情報については、鎖国体制の中でも長崎を対外交流の窓口とし、オランダ人から主として西欧における科学の発達を学んだ。

 通貨の供給については、幕府は元禄時代以後も小判の改鋳を繰り返しただけでなく、1両の4分の1に当たる1分銀を段々小さくして行き、幕末には初めの3分の1になったものを小判の代わりに流通させていた。これだけを見れば通貨供給は3倍に増えたわけだが、、前述のようなイギリスの金融方式とは違って生産の量的拡大には全く役立たなかった。

  その結果、幕府と各藩は西欧諸国の政府のように巨大化した企業からの税収を得ることができず、その財政赤字は全く改善されないままになった。西欧の政府のもう一つの大きな収入源だった関税収入が鎖国による自由貿易の禁止のために得られなかったこともその一因ではあるが、この意味で鎖国が誤りだったとは言えない。西欧諸国が自由貿易で巨大な利益を挙げられたのは、彼らの生産物と非西欧諸国の生産物との交易条件が圧倒的に彼らに有利だったためであって、日本が産業化しないまま海外貿易に乗り出したとしても、彼らのように大きな利益は挙げられなかったであろう。

 鎖国による最大のマイナスは、長崎でオランダ人を通じて西欧産業社会に関する部分的で抽象的な知識を得るだけで、その科学と技術の産物に直接触れる機会を失ったことである。そのため、開国してからの日本の知識人はその実物の全体像に接した時に大きなショックを受け、西欧に対する過剰で不必要な劣等感を抱くことになった。これが、明治以後の日本が江戸時代以来の貴重な遺産である自然と文化を正当に評価することができず、近隣諸国に対しても大きな被害を与えることになった遠因である。


3章  社会の変化と日本人

(1)大転換期における技術と体制と倫理


 日本人は、幕末になってから欧米諸国の強大な軍事力と経済力を見て衝撃を受け、明治維新の後は「富国強兵」を目標に掲げて彼らに追いつこうと頑張った。戦後は「強兵」を諦めて「富国」だけに専念することにし、アメリカに代わって世界最大の債権国にまでなったが、バブル景気が終わると、やっと手に入れた住宅、土地、株、美術品などの価格は暴落し、預金の利子はほとんどゼロになり、勤め先は何時リストラされるか分からず、年金も健康保険も何時まで保つか分からないという状態が続いている。

 これは基本的には、これまで産業社会の経済発展を牽引してきた製造業の生産技術が、自然界から抽出した膨大なエネルギーを使って生産活動を行い、その過程で生まれる熱、音、光、廃棄物などを外界に放出する蒸気機関の性質をそのまま受け継いでいる上に、最近では不要になった生産物の多くが自然界の浄化装置では処理できなくなっているために、自然環境の限界という壁にぶつかったことから起こる現象である。

 現在猛烈な勢いで進歩している情報技術(IT)の土台となっているコンピューターは、高射砲の弾丸を無駄にしないために第二次世界大戦中に開発され、エネルギーを乱用する蒸気機関とは逆の性質を持っている。ITの発展が産業社会の行き詰まりを打開して新しい社会へ移行する道を開くと思われるのはそのためであり、この社会をダニエル・ベルはポスト・インダストリアル・ソサエティと言い、増田米二はより直截に情報社会と呼んだ(ダニエル・ベル「脱工業社会の到来」内田忠夫他訳、ダイヤモンド社、1975年、”The Coming of post-industrial society”。増田米二「原典情報社会」TBSブリタニカ、1985年、およびホームページ技術と経済”産業社会から情報社会へ”参照)。

 増田は、情報社会は情報インフラという新しい社会資本の土台の上に成立すると予言し、これは現在爆発的な普及を続けているインターネットという形をとって実現しているが、今のところ日本ではこれは、現在の体制の下での利益の追求、各人の自分勝手な言い分の無責任なバラ撒き、犯罪の道具などに使われているだけであって、社会のあり方を大きく変えるのに役立っているようには見えない。しかし、どんなに革新的な技術にも、それだけで社会の性質を全く変えてしまうような力はないのである。

 イギリスが封建国家から議会制民主主義と近代資本主義の国に変わったのは製造業に技術革新が起こったからではなく、商人たちが王侯貴族と戦ってこの体制を創り、それから産業革命が生まれたのである。彼らがこの戦いに勝つことができたのは、単なる金銭的利益の追求のためではなく、厳しい禁慾主義を奉ずる清教徒として堕落した旧体制に反逆したからであり、金銭的利益の追求を奨励する資本主義体制が完成した後もそれが腐敗することなく経済発展の土台となったのも、彼らがその倫理を保ち続けたからだと言うことができる。

 事実マックス・ウェーバーは、その「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、同じ資本主義体制の下でもプロテスタントの国や地域はカトリックのそれよりも遥かに経済の業績が良かったことを検証している。個人々々がその欲望を追求するのを許す民主主義政治と市場経済制度の下では、権力による強制に代わって一人々々が自分の欲望を制御するブレーキを持つことが必要なのであり、その意味で、プロテスタントの中でも特に強い禁欲的態度を持つ清教徒が中心だったことは、この改革を成功させる大きな要因だったと思われる。

 同じ頃の日本では、国王に当たる将軍が自らの支出を切り詰めて範を示した上に封建大名とその家臣たちに対しても厳しい自己抑制を行わせたので、イギリスにおけるような叛乱は起こらなかった。これには、幕府が武力を背景とする圧力に頼るだけでなく、鎌倉時代以来の日本に育った武士道に手を加えて厳しい道徳律に仕立て上げ、それを普及するのに努めたことが助けになったと言うことができる。

(2)戦国武士からラスト・サムライまで

 戦国時代までの武士は、主君のために戦って死ぬ代わりに主君から恩賞をもらうことを仕事にしていた。だから、主君が戦争で負けて滅びれば別の主君を探せばよく、相手がそう出来そうにないと思えば裏切ってもよく、甚だしい場合には「下克上」と称して主君を殺すことさえ珍しくなかった。それでも武士が百姓町人たちから尊敬されたのは、彼らにはできない「命を賭ける」ことを仕事にしていたからである。

 しかし世の中が平和になれば、武士が戦争で死ぬことはなくなる。それでも武士が百姓町人の上に立つ体制を正当化するため、幕府は、儒教の教えである忠孝信義礼智仁勇などの徳目を守り文武に優れているのが武士であって、そうでないように見られたら腹を切って疑いを晴らすのが武士道だということにしてしまった。

 その結果、島原の乱(1639)以後は武士が戦争で死ぬことはなくなった代わりに、少しでも落ち度や失敗があれば「武士の面目」を保つために腹を切らねばならないことになった。しかしやがて、問題があった時には色々な理屈をつけて切腹しないですむようにする者が現われ、その後は、同じようにして出世を図る武士が増え始めた。

 特に元禄バブルが崩壊した後は、財政赤字対策のために幕府が藩を取り潰したり藩が藩士を整理したりすることが頻発したので、とにかく自分の安全を守ることが優先されるようになり、出世してしまえばより安全になることから、この傾向は次第に激しくなった。このように建前は厳しいが実際には低下しつつあった武士のモラルに魂を吹き込んだのが、佐賀の山本常朝(1659−1719)が1710年から足掛け7年をかけて書いた「葉隠」である(中村仁著『葉隠ドット・コム第二集心の花―葉隠暦』佐賀新聞社、およびホームページ文化と政治”平和時代の武士道を考える”参照)。

 葉隠は、「武士道と言うは死ぬことと見つけたり」という言葉だけで有名になっているが、武士が戦争で死ぬことなどあり得ないことを知っている常朝が、戦争へ行って死ぬのが武士だなどと言うはずはない。彼が言っていることは、武士は主君のために仕事をする時は命を賭けるほどの覚悟を持つべきであり、それさえあれば大した能力は要らないし、仮に失敗しても恥にはならないということである。

 その証拠に彼は、詰らぬことで切腹することになるようでは大事な仕事はできないと言い、「人生は誠に短い。好きなことをして暮らすべきである」とも言って、細かい決まりを守ることを強制する幕府を暗に批判している。彼が言いたかったことは、武士は頭よりも心だ、能力よりも勇気だということであり、真の武士は、そのために出世できないのではないかとか浪人するのではないかと恐れることはない、ということだったであろう。

 明治時代になってからの日本は「国民皆兵」の制度を採り、男を皆軍人にした上で、主君である天皇のために命をかける戦国武士になると共に、江戸時代の武士と同じように細かい決まりを守ることも要求した。戦争に負けて軍備を放棄した後、日本の男たちはこの境遇からは解放されたが、それなりの地位と収入を得ようと思えば、「企業戦士」として雇用主のために戦わなければならなかった。その甲斐あってようやく自由で豊かに暮らせるようになったと思う間もなく、バブル崩壊後の長期不況に見舞われた企業のリストラが盛んになり、元禄バブルが崩壊した後の武士たちと同じ状況に追い込まれた。

おわりに ―効率主義と能力主義の罠―

 1600年代末期から1700年代初頭にかけて日本とイギリスが農耕社会の限界に到達した時、イギリス人は体制の大改革を行い、日本人はそれをそのまま残しながら時代の要請に応えようとした。前者が正しかったことは、それが生み出した産業社会の業績を見ても明らかだが、後者も、その後の日本が恒久的な平和を維持しつつ質の高い経済と文化を生んだだけでなく、それが明治以後になってから産業化の遅れを取り戻すための土台にもなったことを考えると、それなりに正しい選択だったと言うことができる。

 今の日本が同じような時代の変わり目に差し掛かっているとすれば、ここで体制の大改革を行うべきかどうか、行うとすればどんなものが良いのか、誰にも分からない。これは、日本人が明治維新後や敗戦後にやったように、「先進国」の現状を見て自国の将来を考えれば大体間違いがなかったのとは、大きな違いである。

 従ってここでは、将来の予測ではなく自らの価値にもとづいて「正しい」と思われる選択を行いながら先に進む外はないが、ここで気をつけなければならないのは、日本の近代化の過程で威力を発揮してきた効率主義と能力主義が正しいとすることが、道徳の本質から外れる場合が多くなっているということである。

 効率主義によれば、目的を達成するためのコストをできるだけ少なくすることが正しい。また能力主義によれば、人間はその能力をできるだけ大きくしてより多く目的を達成することが正しい。この場合、コストとは結局は自分が支払う犠牲であり、能力とは一定の犠牲に応じて達成できる成果のことである。従って問題は、目的は何かということになる。

 道徳の本質は、世の中のためになることをせよということと、そのためには犠牲を惜しむなということに尽きる。従って、目的が世の中のためということであるなら、効率主義も能力主義も道徳的見地から見て歓迎されるが、もし逆であったら、これほど反社会的なことはない。社会が望ましい発展をしている時は、個人々々の持つ目的が全社会の目的と一致している時であり、社会が崩壊に向かっている時はそれが逆になっている時である。現在の産業社会は、その中間にあると言うことができる。

 また「世の中」というものはかなり漠然とした概念であって、キリスト教のような一神教はそれを「神」という絶対的抽象的概念で表すがが、日本人にとっては、主君とか国家とか会社とかいうようにより具体的な存在で代替した方が分かりやすい。産業革命前後の頃の清教徒は神のために働いて金を儲けることを正しいとしたし、日本の武士は主君のために命を賭けて戦うことを正しいとした。

 現代の西欧人が何を正しいとして時代の変わり目に臨むのかは分からないが、日本人がそうするとしたら、何が自分にとって大事なのかを決めた上で、それのためには犠牲を惜しまず、それ以外のことは気にしないでのんびり暮らすという葉隠武士的な生き方が向いていると言えよう。

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