技術と経済 平成21年7月 篠原三代平「私の履歴書」を読む
小金芳弘

 篠原三代平「私の履歴書」(平成21年6月、日本経済新聞)は、教授の一代記の中に昭和初期から現在までの日本経済史と篠原経済学のエッセンスを詰め込むという構造になっているので、読後感を書くことが難しい。ただ私は、昭和46年から48年にかけて教授が経済企画庁の経済研究所(今の内閣府経済社会研究所)の所長をされた時に総括主任研究官としてお仕えした時から今日までの交流を通じて、教授が何を考えながら仕事をしているかが手に取るように分かると思っているので、この中に示されている教授の経済学および日本の経済学界に関する考え方を土台にして、私なりの篠原三代平論を展開して見たいと思う。

 「履歴書」の第7回「大学院時代」によれば、終戦後復員してから一橋大学の研究員として理論を勉強する一方で、大蔵省(今の財務省)の財政経済研究室の研究員としてその時々の統計を分析する仕事を4年間やったことが、教授の研究人生の始まりになったようである。理論研究と実証研究(主として統計分析)を同じくらいに行うのが篠原経済学の大きな特色だが、これは教授自身の生まれつきの好みにもよるだろうが、戦後の混乱期という特殊事情による「育ち方」の特色によるところも大きいと思われる。

 一人の研究者が理論と実証の両方を同じウェイトで行うということは極めて珍しいケースであって、今の科学研究では、それぞれを得意とする者が分業して行うのが普通になっている。理論は実験による裏付けを持たない間は仮説にすぎないし、因果関係について一定の仮説を持たないまま闇雲に実験を繰り返しても無駄が増えるばかりなので、両方が必要なことは言うまでもない。ただ、ここで重要なことは両者が平等な立場で協力することであり、現代の科学ではそれが当然とされているが、経済学では今も、理論研究の方が上位とされ、実証研究は一段下に見られるのは事実のようである。

 教授は、第26回「ボトムアップ分析」の中で経済分析をトップダウン型とボトムアップ型に分け、学界では理論にもとづいて事実を説明しようとするトップダウン型の分析が主流になっているが、個別の実態の研究から普遍的な理論を導き出そうとするボトムアップ型の分析が主流になるべきだと主張し、学界がそうなっていないことに不満を表明されている。しかし実際に必要なことは、因果関係を示す理論と実態の認識の間にフィードバックが常に行われることなのであって、理論の示す通りに実態がならないからと言って責任を企業や政府の実務家に押し付けようとする経済学者の方が間違っているのである。

 ただ教授は、自分が統計分析に熱中するために他の経済学者から一段下の統計屋だと見られると思われているらしいが、そんなことはない。問題は、学界で定説になっている理論(テーゼ)に対してことあるごとに異を唱える(アンチテーゼを提出しようとする)「へそまがり」の姿勢にあるのであって、これは日本では、「和を乱す」とか「協調性を欠く」とか言われて嫌われる原因になる。しかし、学問に限らず美術音楽その他の独創性を生命とする世界では、定番になっているものの模倣や改良に飽き足らずそれを克服しようとすること自体が、一流の証明なのである。

 教授が定説に対して真っ向から戦いを挑んだ実例の第一は、第18回「産業政策論」の中にある。昭和30年代初期、どんな産業を育成すべきかについて政府が迷っていた時、学界では「比較生産費説」が主流だった。これは、他国に比べて生産コストの低い産業が国際競争に有利だとするものだが、教授は、10年先、20年先を考えて産業を育成するなら、消費者にとっては所得が増えるほど多く買いたくなる「高い所得弾力性」を持ち、生産者にとっては技術進歩に伴って生産コストがより速く下がる「高い比較技術進歩率」を持つ産業を育成すべきだと唱え、政府がこの理論を採用したことによって日本経済は大躍進した。

 第二の実例は、その10年後の昭和40年代初期の八幡製鉄と富士製鉄の合併の時にあることが、第11回「八幡・冨士合併」に記されている。この問題が浮上した時、合併の利益はかなり著しいと主張したのは、意見を求められた87人の経済学者の中で教授ともう一人しかおらず、合併によって能率が落ちるとした者は45人もいた。そしてその多くは恐らく、「競争は善、独占(寡占)は悪」という古典経済学の論理をそのまま経済理論に持ち込んだだけだったのに対して、教授は合併の後での技術の進歩と産業政策の運用はどうなるかを検討した上で、賛成論を唱えたのである。現在、あの合併は間違いだったと言う者はどこにもいない。

 この二つだけからは、教授が政府や大企業の言うことばかりを聞いていたように見えるかも知れないが、そうでないことは第10回「円切り上げ」の中に示されている。教授が経済企画庁の経済研究所長だった昭和46年頃の日本は、1ドル360円と定められた為替レートを切り上げるようアメリカに迫られており、政府も企業も、そうなれば輸出が激減して大不況になると戦々恐々としていた。この状況下で所長は、関西での講演会で、物価とコストの分析から今の日本では円切上げは国益に適うと主張した。これは国家公務員としては極めて危険な行為だが、それから2年も経たない内に円切り上げどころか固定レート制そのものがなくなったのに、その後の日本は欧米と並ぶ経済大国にのし上がった。

 また第9回「経済企画庁へ」では、教授が経済研究所長として作成に当たった新福祉指標NNWの経済学界での評判が散々だったことが記されているが、経済活動の指標としてのGDPが必ずしも国民の福祉水準をそのまま示すことにならないのは自明の理であって、それをより良く示す指標を作って見ようとするのは、福祉に関心を持つ経済学者なら当然のことである。それを非難すること自体、当時の学界が異質なものの浸入を嫌うムラ社会的な体質を持っていたことの証左だと言えるであろう。

 第23回「景気の長期波動」は、教授が人生の最後にぶつかった大問題に対する取り組みを述べている。1989(平成元)年12月に東証株価指数が39000円に達したバブル景気が91(平成3)年初めに崩壊し、97(平成9)年の北拓、山一の破綻に始まって大銀行が軒並み破綻した平成不況末期の平成11年、教授は「長期不況の謎をさぐる」(勁草書房)の中で、資本主義史上に残る大恐慌はどれもが金融の異常な膨張に伴う大型バブルの発生と崩壊に緊密に繋がっていることを論証して、資本主義経済が引き起こす長期波動の原因に迫ろうとした。

 資本主義経済の景気が長期にわたって大きく波を打つ傾向を持つことは古くから知られており、1925年にはソ連の経済学者コンドラティエフが、英米仏の物価統計の分析にもとづいて、資本主義経済が5〜60年に一度の周期で大不況を引き起こしていることを発見した。これがいわゆるコンドラティエフ波動だが、正統派の経済学は未だにその存在を認めていない。それは、何故これが起こるのかに関する確立された理論がないからであって、事実よりも理論を偏重する経済学の欠陥がここにも露呈されている。

 しかし、「それでも地球は動いている」ように、今でも何十年かに一度は大不況が起こっているのであって、事実にもとづいて理論を打ち立てることを使命とする篠原経済学がこれを放っておくわけはない。そこで教授は、金融の大型バブルの発生と崩壊が大不況の原因になっていることを突き止めた後、そのような金融の異常な膨張が起こる原因は大戦争に伴う公債の乱発ではないかと推測したが、1920年代のアメリカのバブルの原因を第一次世界大戦に求める推論には無理があった。

 更にその10年後の2008(平成20)年、アメリカでリーマン・ブラザースの破綻を引き金として「百年に一度」と言われる大不況が起こると、サブプライムローン抵当証券を担保とする金融の異常な膨張が連鎖反応を起こしたことが原因であることが明らかになり、篠原理論の正しさが裏付けられた。しかしここでも、そのような金融の膨張が何故起こるのかは明らかでなく、教授の前回の推理をここに当てはめると犯人はイラク戦争だということになるが、それにもやはり無理がある。

 いずれにしても、この問題の解決にはまだ時間が必要なことは確かなので、教授がそれを行うことはもうできないであろう。このことは教授にとって心残りではあろうが、どんな凄い人間にもできないことはある。教授は、研究のプロになってから60年以上の間に、やりたいこととやれることをすべてやり、良き友に恵まれ、円満な家庭を築き、文化勲章までもらった上に、90歳を越えて引退した後は好きな絵を描き続けると宣言している。何という人生であろうか。




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