産業社会の過去と未来 平成25年1月 序章
小金芳弘

序章 本書の目的と構成

1 昭和時代の日本の目標とその追求

 昭和時代の日本では、人々が何を目標として生きれば良いか分からない、というようなことはなかった。特に、戦争に負けてどん底に落ちたところから這い上がったばかりの昭和30年代初期においては、人々は常に新しい目標に近づこうとして努力し、たとえ達成できなくてもそのことに意味を見出して満足していた。その頃の日本と今の日本の違いを考えてみると、次のようなことが言えよう。

 第一は、当時は人々が生きるだけで精一杯だった時代が終わり、それまでは手に入れられなかったものが手に入り、やれなかったことがやれるようになったために、今度は何を手に入れようとか今度は何をやろうとかいう目標が常に生まれていたのに対して、今は、手に入るものもやれることも途方もなく増えた上に多様化しているので、逆に、手に入れたいが手に入らないものや、やりたいがやれないことが多すぎて何の目標も持てなくなった者や、目標が達成できないための飢餓感から借金を重ねてローン地獄に落ちたり犯罪に走ったりする者が続出するようになったことである。

 第二は、当時の日本には西欧先進国の後を追うという国家としての明確な目標があり、それが達成されるのに伴って個人的な欲求も充足されて、個人としての満足感と国民としての満足感の両方が得られたのに対して、今は日本が欧米に追いついてしまったので、国家としての分かりやすい目標がなくなったことである。東日本大震災の後の日本には復興という目標が生まれたが、遅かれ早かれそれが達成された後は、やはり震災前の状態に戻ることは確実である。

 以上の内、第二の国家目標については、戦後の日本でもそれに疑問が生じたことがなかったわけではない。それは、昭和30年代後半、池田内閣の国民所得倍増計画が引き起こした倍増ブームによって過熱した経済がコストインフレと公害を激化させ、高度成長の歪みと言われる現象が発生した時に起こった。しかし、それに起因する40年不況が11月に終わると、以後は45年7月まで57ヶ月にわたって実質成長率が毎年10パーセントを越すいざなぎ景気となったことで、高度経済成長によって欧米先進国に追いつこうとする国家目標に対する疑念は消滅した。

 ただその過程で日本は巨額の国際収支黒字を積み上げていたため、昭和46年夏のニクソンショック以後は大幅な円切り上げを余儀なくされ、47年に入っても強い円高圧力に曝され続けた。ここで発足した田中内閣は、円高のために輸出が減って不況に陥るのを防ぎながら低開発地域の工業化によって地域格差を解消することを狙って日本列島改造論を掲げ、その実行のための大規模な財政支出増大と金融緩和の政策を打ち出した。しかしこれは、膨大な超過需要を生むことによってインフレ圧力を高め、翌年秋に石油危機が勃発すると爆発的な物価上昇をもたらして破綻した。

 しかし、次の三木内閣がそれまでの高度成長政策を捨ててインフレ抑制と省エネ省資源を最優先とする政策を打ち出すと、このインフレも約1年で沈静化し、その後は、それまでの日本の技術の特徴だった省エネ省資源的な性質と情報技術関連機器の生産性の急速な上昇が世界経済の新しい要請に応えるものだったことが輸出の大幅な増大をもたらして、日本は西ドイツと並んで世界経済の牽引車にまでのし上がった。

 以上のような日本の発展は、民主主義政治と資本主義経済制度にもとづくアメリカに率いられる西側陣営と、共産党独裁政治と中央計画経済制度にもとづくソ連に率いられる東側陣営との対立という構図の中で起こったので、日本の政治勢力も親米反ソの自民党と反米親ソの社会党とに分裂した。しかし、アメリカの核の傘に守られながら市場経済制度の下で欧米先進国の後を追うという目標については暗黙のうちに国民的な合意が成立していたので、その上に立つ自民党の一党支配による政治は安定し続けることができた。

2 冷戦終結からユーロ危機へ

 この状況に変化が生じたのは、1980年代後半に入ってからである。昭和が平成に変わった89年秋にベルリンの壁が崩壊して東側の体制にひびが入ると同時に、日本からアメリカ向けの自動車と情報通信関連機器の輸出の急増が生み出す日本の黒字とアメリカの赤字によって、日米経済摩擦は危機的な水準にまで高まった。

 そして1991(平成3)年、ソ連が解体して冷戦が終わり、日本でもバブル景気が崩壊して10年にもおよぶ長期不況が始まると、93(平成5)年には宮沢内閣が倒れて初めて小党連立による細川内閣が生まれた。この状況の中で書かれたのがフランシス・フクヤマの『歴史の終わり(The End of History)』(三笠書房、1992年)であって、これからの世界は経済的には資本主義、政治的には民主主義のアメリカが支配するようになり、これまでのような大変動が起こることはなくなるので、歴史は平板で退屈なものになって行くだろうと予想するものだった。

 しかし実際には、91年の湾岸戦争を皮切りとする中東の紛争をはじめとして、地域紛争、民族紛争、民族浄化闘争などが絶え間がなく起こる一方で、経済的にも、中国とインドという巨大な開発途上国が産業化の過程に入り、日米欧の三極の経済が世界をリードするというそれまでの構造が大きく変わり始めた。

 そこで書かれたのがサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突(The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order)』(集英社、1998年)であって、これは、冷戦後の世界ではこれまで優位を保ってきた西欧文明の影響力が低下し、世界は八つの文明にもとづくグループに分裂して対立を激化させて行くだろうと予想するものだった。それに続いて2001年9月11日に同時多発テロが起こると、パニック状態に陥ったアメリカは対テロ戦争を宣言してアフガニスタンとイラクに侵攻したが、この両方とも泥沼化したまま、そこでの混乱は未だに鎮静化する徴候を見せていない。

 一方、技術経済面でのアメリカは、1980年代から築き上げてきたインターネットが収穫期に入ったことによって情報技術関連ソフトウェアーにおける圧倒的な優位を確立し、その情報通信業と金融業は世界中の資金をかき集めることに成功した。しかしこれは21世紀に入るとバブル景気を生み、サブプライムローン抵当証券への過大投資にもとづく破綻が累積した結果、2008年秋のリーマンブラザーズ証券の倒産が引き金となった金融システムの崩壊が世界的な大不況を引き起こし、さらにはEUに飛び火してユーロ危機となって、世界の金融情勢の不安は止まるところを知らないまでになっている。

 以上に対して日本は、国防の基本をアメリカに依存しながら国民生活の向上は経済成長に任せるという従来の行き方を変えるのか変えないのか、変えるとすればどのように変えるのかという問題について明確な判断を迫られることのないまま長期不況に陥り、それからやっと脱出したと思う間もなくアメリカ発の大不況に見舞われることになった。ここで、永年の自民党政治に嫌気がさしていた国民の不満が09(平成21)年9月の総選挙における自民党の大敗と民主党の大勝をもたらし、戦後初めての本格的な政権交替が実現した。

 しかし、それだけで新しい思想にもとづく国家目標が生まれるわけはなく、新政権も闇雲に旧政権のやり方に反対したりそれ以上の人気取り政策を乱発する以外に方法がないため、発足当初の人気が落ち続ける内に、政治とカネの問題と米軍基地問題が命取りとなった鳩山内閣は8ヶ月で退陣し、その後に発足した菅内閣は東日本大震災と原発事故の後遺症から抜け出せないまま野田内閣がそれを受け継いだが、党の分裂は加速し,群小政党の乱立と相まって日本の政治は戦国時代さながらの状況に突入することになった。

3 長期見通しとOECDの未来展望

 国民を奮い立たせるような国家目標がなければ、どんな政策を執ったところで経済や社会を活気付けることはできず、そのための政策のコストの増加が財政赤字を膨らませるようになるのは当然である。このような場合には、国民が国家に頼るのでなく、各自の能力と価値に応じて目標を選択し、それを追求するようにならなければならない。

 このように個人主義的な社会になればなるほど、目標の選択も手段の選択も本人自身が主体的に行うことになるので、それが誤らないように助けるための情報が重要になる。現在急速に発展しつつあるインターネットという社会資本は、従来の電信電話網のように1対1の情報交換や中心から周辺へ向かっての一方的な情報伝達ではなく、多数の参加者の間で同時にしかも双方向であらゆる種類の情報の交換、加工、蓄積などを可能にするので、それを仲介する情報通信業が作るネットワークは、資本主義社会における流通業や金融業のネットワークが果たしているのと同じように重要な役割を果たすことになる。

 しかし、これによって供給される情報をミクロの情報とすれば、それをとりまく社会全体がどのような方向に進んでいるかを示すマクロの情報もまた重要である。それがないと,多様化している価値や利害の対立を越えて全体にとって最適な選択を行うのに必要なコンセンサスを得る―合意を形成する―ことができないからだ。かつての日本では国家としての目標がその役割を果たしていたが、今ではそのようなものを作ることが難しいので、それに代わるものが求められる。そしてこれは、望ましいとか望ましくないとかいう価値判断とは中立である上に目先のことには囚われないために、長期展望とか長期ビジョンとか呼ばれることが多い。

 昭和40年不況の時にビジョン研究会が作った「20年後の日本:豊かな社会への一つのビジョン」(日本生産性本部、1966年)という報告書はその一例である。これは、昭和60年に日本の一人当たり国民所得がアメリカに追いついたという前提の下に、その時の日本の人口、食生活、勤労生活、住生活、モータリゼーション、国際環境などを予測し、日本はそれまでの行き方を大きく変えなくてもやがてアメリカに追いつくようになることを示唆することによって、日本人が失いかけていた自信を取り戻す一つのきっかけになった。

 その10年後、日本は石油危機後の狂乱インフレからは何とか脱出したものの、資源とエネルギーの大量消費に依存するこれまでの成長に対する疑念は解消しなかったので、政府は、21世紀に向けての産業社会のビジョンをその先進国の集まりであるOECD(経済協力開発機構)に作らせようと考え、閣僚会議で提案するとアメリカの政府が賛成した。

 その結果、「開発途上国の発展と調和のとれた先進産業社会の将来」“The Future of Advanced Industrial Societies in Harmony with That of Developing Countries”をテーマとする研究計画を実施することになり、日本は3年間で100万ドル(3億円)、アメリカも同額、その他の加盟諸国からも総額十数億円の資金を出して、そのためのチームを事務局内に作った。この仕事は初めの内はジャパン・プロジェクトと呼ばれていたが、後にインターフューチャーズ・プロジェクトと呼ばれるようになり、世界各国から集められた常勤スタッフが、各分野の専門家の協力を得て、1976(昭和51)年初めから3年半をかけて研究を行った。

 79(昭和54)年9月に発表されたその報告書 “Facing the Future: Mastering the Probable and Managing the Unpredictable”(日本語訳「世界の未来像」、日本生産性本部、1980年)は、石油をはじめとする各種の天然資源に関しては2000年までに重大な危機が発生することはなく、地球温暖化などの形で発生する環境問題は重要ではあるが同じく2000年までに破局的なものになる恐れはないとする一方で、世界全体の経済については、2000年を目標年次とする6種類の長期予測を示すものになった。

 これは、1972年に発表されたローマクラブの報告書「成長の限界」とその直後に起こった石油危機が引き起こした成長への不安をなくすという効果はあったが、資源エネルギーに関する物的な制約が成長を不可能にするほどのものではないということ自体は、既に多くの専門家が指摘していたものを補強しただけだったし、長期予測を数値的に示すだけでは、産業社会ないし近代文明社会が内包する質的な問題の解明やそれに対する対策の検討に役立つものにはならなかった。

4 ダニエル・ベルと増田米二の問題提起

 しかし、インターフューチャーズのスタッフと協力者の多くは、この問題に取り組むためにそれぞれの専門分野の枠を越えることによってその核心に迫ろうとする努力を惜しまなかった。それが報告書の中に生かされなかったのは、産業社会の発展が未だ成熟段階に到達していなかった上に、3年という期間内に将来の具体的な見通しを示す報告書を出さなければならないという制約があったためである。

 しかしこの研究は、それまでは経済、技術、文化、政治などの限られた領域の中で専門家たちが別々に研究を行うという体制の中で、初めてその領域を横断して大規模に行われたという点で画期的なものであった。中でも、このチームに次長として参加した私に衝撃的な影響を与えたのは、ダニエル・ベルと増田米二の二人だった。

 『脱工業社会の到来』などの著書で日本にも知られていたベルは、初めから諮問委員会Advisory Panelのメンバーとしてチームの重要な助言者であり、その直前に『資本主義の文化的矛盾(The Cultural Contradictions of Capitalism)』(講談社学術文庫、昭和51年)を発表して大きな反響を呼んでいた。

 これは、文明社会を構成する文化Culture、政治制度Polity、技術経済構造Techno-economic structureという三つの領域はそれぞれ異なったリズムに従って発展すると前提した上で、現代の文明社会特にアメリカでは、技術経済がひたすら効率性を追求する一方、その文化がかつてのアメリカの良識の土台となっていたプロテスタント的な価値から急速に離れつつあるために、このままではアメリカの社会はバラバラになってしまい、他の社会もやがてその後を追うだろうという悲観的な予測を伴うものだった。

 彼の分析の特徴は、他のほとんどの社会科学者が政治、経済、文化などの限られた分野の中での研究を深めて行こうとするのとは対照的に、アメリカ社会におけるこれらの分野の発展を同時並行的に観察することを通じて、その速度が大きく異なることを指摘しただけでなく、その間に密接な相互依存関係があることを示唆したところにある。ただ彼は、それを産業社会、特にアメリカ社会についてだけ行ったために、そのような相互依存関係が文明社会のすべてに共通のものであるとまで述べることにはならなかった。

 一方増田は、プロジェクトが最終段階に入ってからその中の「新需要の研究会」に参加してきた。彼は日本では余り知られていなかったが、その情報社会論は広く世界に知られていて、主著の『原典情報社会』(TBSブリタニカ、1985年)以前にも多くの著書を著わしていた。その特徴は、人類の社会はどれも社会的技術societal technologyというものを持っており、それによって社会の基本的な性質が決まってくると考えることによって、それまでは単なる手段にすぎないと考えられていた技術が、実際には社会の性質を決めているのであるということを示したところにある。

 彼によれば、初めての社会的技術は狩猟採集技術hunting-gathering technologyであり、次にそれは農耕技術agricultural technologyに変わり、以後現代までのそれは産業技術industrial technologyだったが、現在はそれが情報技術information technologyに移行しつつあるということになる。情報技術はコンピューターの発明によって誕生したが、それを連結する情報インフラという新しい社会資本の出現によって、産業社会は情報社会というものに変質し、それまでの矛盾は解決されるというのが、彼の楽観的な予測だった。

 この理論は、産業文明以外の文明社会にも適用できる点ではベルのものよりも優れているが、社会的技術が変化するまでに起こる数々の矛盾や問題とそれへの対応の難しさに触れることなく、政治や文化が自動的に技術の変化に対応して行くと考えるところに弱みがあった。

 以上のような問題はあるにせよ、インターフューチャーズ研究以後30年が経った現在、増田が予言した世界的な情報インフラはインターネットとして実現したし、ベルが心配したようなアメリカ文化の土台をなしていた価値の変質も、リーマンショック以後のアメリカ社会の動きを見れば実際に起こっていることからみて、この二人の理論が実証の裏付けを持つ社会学的な方法の確立に役立つことは確実だと思われる。

5 本書の概要と日本の立場および役割

 本書の目的は、初めに述べたように、経済外的な現象と経済的な現象の間には一定の相互依存関係があることを前提とした上で産業社会のこれまでの発展を分析することであり、そのためにここでは一つの仮定を設けている。

 それは、人間の社会はある時期、人々の欲望を満たすための新しい手段を考え出して実行し、それによって欲望も変化すると、それに対応するための手段をまた考えて実行するというように、目的と手段が連動しながら社会の構造を変化させて行くが、それが暫く続くと変化の時代が終わって目的と手段の関係が一定したものになる。しかし、やがて、自然環境や外部社会との関係に大きな変化が生まれるとまた同じような発展が始まる、というものである。

 本書の第1章を現代の社会から遠く離れた狩猟採集の時代から始めたのは、今のような市場取引や家庭生活がなかった時代にも同じようなことが起こっていたことを示すためである。ただ、この時代についてはそれを示す記録がないので、ここでは考古学や人類学の研究からそれを推測することになっている。

 第2章は、4千年から5千年ほど昔に始まった四大古代文明について、現存している歴史や遺跡からそのことを推測する。第3章は、紀元前5、6世紀頃から西暦5、6世紀にかけての主要な諸文明において目的と手段が大きく変動したことと、それが現代の世界の諸文明に引き継がれていることを示すためのものである。

 第4〜6章は、本書の主題である産業社会について、先進諸国がその黎明期から現在に至るまでに経験してきた目的と手段の変化がどのように相互関連したかを示し、第7章は、その結果として発生している問題の総括と将来に関する展望、および対策について述べている。

 ここで先進産業社会における現在の問題を一言にして言えば、お金さえ出せばほとんどすべての欲望を他人の力を借りずに満たせるような手段が行きわたったために人と人との心の繋がりが失われ始め、それが人間の本来持っている欲望の充足を困難にしているということである。日本という国は、この問題について重要な貢献を果たす可能性と、それを行うことを困難にする条件の両方を備えている。

 前者について言えば、日本が中国本土から遠く離れた島国ではあるが通行が不可能なほど遠いわけではない一方で、日本海という障壁があるためにその実効支配を受けることなくその文明を取り入れることができたために、人間としての本来の欲求を失わないままに近代化でき、西洋文明を取り入れた後もなお、人と人との心の繋がりを大事にするという昔からの特性を失わないままでいられたということである。

 世界的に見ても、このように狩猟採集の時代から現代に至るまで、合理性を尊重しつつ人間の感情の原点を失わないでいる民族は外にはなく、それが上述のような困難を克服する可能性の源になると考えられる。

 後者について言えば、日本人は文明というものを自分で作ったり文明人から直接教えられたりしたことがなく、他国の文明の中から自国にとって有利と考えられた部分だけを吸収してきたために、真に根本的な改革を行うためには、先進文明というお手本があることと、それをしないと国が滅びるほどの危険をもたらす外部からの圧力を必要とすることである。最近の例で言えば、明治維新も敗戦後の改革も、それが内部からの時代の要請であったにも拘わらず、先進国による強烈な「外圧」があって初めて可能だった。

 現在の日本には、時代に即した改革を行う必要性と可能性があるにも拘わらず、自分でそれを探して実行しようとする者と、それを後押しする世論の盛り上がりが感じられない。これは、それまでのお手本が役に立たなくなった時の日本社会の特性である。中国文明というお手本と平安時代から鎌倉時代に至る伝統が役に立たなくなった後の戦国時代には、その混迷から抜け出して近代社会への移行を可能にするためには100年もかかった。

 日本にとってもう一つの大きな課題はエネルギー問題である。これは体制の改革とは違って純粋に技術的な問題ではあるが、日本は世界で唯一原爆によって被害を受けた国であり、チェルノブイリ事故と違って安全には最も神経を遣っていたはずなのに、世界で初めてその重大事故による被害を受けたという特殊な国でもある。

 それなのに今のところは、原発か反原発かという政治的対立があるだけで、原発以後のエネルギー問題をどうするかという科学技術の問題については、産業化以前からあった自然エネルギーの利用に頼るという発想しかなく、エネルギーの大量投入に頼らない生産技術を開発しようとする意欲が感じられない。

 以上のような問題はあるにしても、たとえば江戸時代の日本人は、世界から孤立した状況の中で、関孝和の数学、平賀源内の技術、浮世絵の文化、先物市場の制度などを生み出す独創性を持つことを示した。アメリカやEUという産業社会の先進国が混迷に陥っている現在、日本人がその独創性を発揮して世界に貢献することは不可能ではない。必要なことは、日本人が仲間の持っている能力と可能性を信じてそれを育て、実行することである。




トップページへ