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昭和29(1954)年12月10日に発足した鳩山内閣は、経済自立と完全雇用を政策目標とした。それまでの経済を支えていた米軍の特需が朝鮮動乱の終結に伴って消滅する一方、ベビーブーム期に生まれた大量の子供たちが数年後には労働市場に現れることが確実視されたからである。しかしこのように長期的な目標を掲げる以上、それを「どうやって」達成するのかを示すことが必要であり、普通それは、「計画」という形をとって行われる。
戦後の日本では復興経済計画とか自立経済計画とかいうものが作られたが、どちらかと言えばこれらは敗戦直後の問題処理に関するものであり、吉田首相が計画という言葉を嫌ったこともあって正式な計画にはならず、それを作った経済安定本部も、統制の撤廃に伴って縮小されて経済審議庁となっていた。しかしその中でも、各省などから派遣されていた若手たちには、何か仕事をやりたいという意欲が強かった。
長期の経済計画を作ろうという気運が盛り上がったのは、その中の計画部計画第1課という部署である。その根拠は単に、計画部の分掌規程の中に「経済計画を作る」という1項があるということだけだった。それがどんなものなのか何も書かれてはいないし、その定義を誰も知っている訳ではないが、とにかくやって見たいと言って行くと、上が飛びついた。当時の与党だった民主党が来年2月に総選挙を控えているので、その看板にするために、経済自立と完全雇用を目標とする長期計画をすぐ作れという訳である。
そこで課内で相談して分担を決め、12月の20日から27日まで突貫作業をやって作り上げると、翌年1月20日「総合経済6ヵ年計画の構想」という名前で閣議了解された。このお陰で民主党は大勝し、経済審議会への諮問、答申という手続きを経た後、これは昭和30年12月23日「経済自立5ヵ年計画」として閣議で決定された。経済審議庁は、その過程で経済企画庁となった。
この計画のミソは、昭和35年の産業部門別の生産の数値が並んでいるところにあった。これらは民間活動なので、厳密に言えば政府の計画ではない。しかし各部門はそれを与えられた目標だと受け取ったので、それに向かって猛烈な勢いで走り出した。その上、当時の世界経済全体が空前の好況期に入ったので輸出は急増し、貿易赤字の制約がなくなった日本経済は「神武以来の」好景気となった。
この成功を見て、以後はどの内閣も、経済企画庁に作らせた長期計画を自分の政策の土台とするようになった。計画の方法も進歩して、初めのように単純なものではなくなった。しかしこれは、昭和48年の石油危機以降は、それまでのようにはうまく働かなくなった。これには技術的な問題もあるが、基本的には、日本政府が戦前から引き継いできた産業政策と公共投資政策が、日本が先進工業国になってしまったために時代に合わなくなったためだと言うべきであろう。
私にとって宮崎勇さんと下河辺淳さんは、共に経済自立5ヵ年計画を作った時からの仲間であり先輩であって、以下の講演要旨は、昭和時代の経済政策とそれ以後に関する感想を自らの体験を交えて語ったものである。
参照:昭和13年から現代までの日記、第2部第5章昭和29年
昭和13年から現代までの日記、第2部第5章昭和30年
星野進保『政治としての経済計画』(2003年、日本経済評論社
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