第二工学部の思い出
平成24年2月 小金芳弘

 東京大学生産技術研究所から第二工学部の思い出について書くことを依頼された。幸い私は昭和13年から現在までの日記を「小金芳弘のホームページ」に連載しており、第二工学部に在学中だった昭和22年4月から25年3月までについては、「小金芳弘・戦後日記」(2010年10月、東海大学出版会)の対象になっている。ここではその中から、私の印象に強く残っていることを選んで書くことにしたい。

1 失望から希望へ

 元々私は文系に進もうと思っていたが、旧制高校の受験に失敗して浪人していたところへ、戦争で文科の定員が大幅に削減されたために仕方なく理科に転進した後で戦争が終わり、今さら文科に転向するのも面倒だという気持ちで東大工学部を受けたら第二工学部の船舶工学科に合格してしまったのが始まりだった上に、現地の西千葉へきてみたら余りにひどい物的環境なのでがっかりしたが、結果的には大いに満足して卒業することになった。以下はそれまでの経緯と現在の感想である。

昭和22年4月9日(水) 第二工学部で入学式。国鉄総武線の西千葉駅まで2時間かかる。途方もなく広い敷地にバラックがいくつか建っていて、砂塵がもうもうと立って、まるで砂漠だ。見たとたんに腐ったが、次の懇談会で話を聞いてまた驚いた。標準の科目を全部受けると、朝の8時半から午後の4時までふさがってしまう。俺はもともと経済あたりでのんびりやりたかったのに、何の因果か、とんでもないところに舞い込んでしまった。

4月15日(火) 製図をやる。基準の直線を書いただけで2時間。くたくたにくたびれた。俺が一体造船屋になれるのか。技術屋としてはロクなものになれないことは判っている。いばらの道に踏み込んでしまった。

5月21日(水) どうしても造船には向かないので、断然止めようと思っていたが、2時から始まった船舶会のコンパに出て気が変わった。先生達はじめ学生達の明朗な雰囲気にひたり、和気あいあいとして学校生活を楽しんでいるようすを見ると、3年間楽しくやれそうだ。助教授の原田さんは、造船屋は何にでもつぶしが効く、人を使い全体を見てぐっと抑えるような仕事をやるのに、造船屋にしくものはないと言った。「製図なんかにくよくよするな。雑学をやれ!」とも。これも俺にはぴったりきた。人間の一生に楽なことばかりはない。いかにして困難を乗り切るかだ。あと3年頑張れば良い。

 こうして何とか第二工学部で辛抱することは決めたが、西千葉まで2時間かけて通うのはきついので寮へ入ることにした。私が入ったのは学校のすぐそばにある学寮という一番大きな寮だったが、他に丘寮、津田沼寮などがいくつもあり、寮での生活は旧制高校の寮生活から蛮カラな部分を抜いたもののようで、私にはこれが性に会っていた。

2 勉強より遊び

 学寮に入ったのは昭和22年の11月だった。ここでも驚いたのはその汚さだったが、次に驚いたのは皆がよく遊んでいることであり、これは大いに気に入った。

10月13日(月) 寮に渡辺と行って5寮21号の部屋を見る。まだ前の人が入っているが、その汚さには驚いた。畳はむしれ、ぶかぶかしている。

11月26日(水) 今日入寮。さっそく麻雀をやる。昼間は古新居、谷口、伊東と1チャン。夜になってから中村がやってきて、学寮船舶の名人決定戦をやろうという。谷口が沈んで俺と中村の競り合いになり、とうとう朝の7時までやる。完全な徹夜は生まれて初めて。フラフラになったが、それでも遂に中村を引き離し最初の選手権保持者になった。

 それから後は連日連夜麻雀。私が家から持ってきた麻雀パイもフル稼働で常にどこかで使われていて、1年で擦り切れて壊れてしまった。その外には碁も盛んで、室内運動としては専らピンポンをやっていた。

 学部全体としては、ダンスも盛んで、建築の星野という先生が教えてくれた。私はさっぱりうまくならなかったが、とにかく付き合った。また場所はいくらでもあるので屋外競技を盛んにやっていたが、私は専ら草野球を楽しんだ。その外には、千葉の寒川というところでカッターに帆柱を立てての帆走もやった。お酒は普段飲めるほどないので滅多に飲まないが、飲んだ時には先生方も入って乱痴気騒ぎになった。

23年6月19日(土) 伊東が津田沼にダンスに行こうというので、ついて行く。女子薬専でレッスン。女達が下手な上にこちらのステップがうろ覚えなので目茶滅茶だが、それでも5時までやった。

10月12日(火) 船舶工学科の連中で帆走に出掛ける。例のところから出発したのは10時過ぎ。人数は14人で、海岸からいくらも出なかった。その内に皆飛び込んで泳ぐ。好い気持ちだった。10月の半ばに泳いだのは初めて。

24年3月1日(火) 2時から井口さん、松本さん、卒業生の送別コンパ。25パーセントのアルコールに琥珀酸を入れたやつが1斗あった。まずいまずいと言いながら飲んでいる内に頭がボーッとなり、久しぶりに大乱痴気騒ぎになった。井口さんの家へ転がりこみ、寮に帰ったのは9時過ぎ。頭かガンガン痛むので10時過ぎに寝た。
3 物と金のない時代の寮委員

 また私はどういうわけか、23年の11月から24年の3月まで寮の委員にさせられて、金と畳の問題でに苦労することになった。

22年12月2日(火) 櫛田、渡辺、野崎達と石橋を入れてピンポンをやり、後は碁。夜は石橋の部屋へ行く。今日は朝と昼がパン二切れで、しかもピンポンをやったので物凄く腹が減る。伊東に味噌汁を御馳走になり、持ってきた粉ミルクをたくさん食う。ビール23円

12月3日(水) 昼間麻雀。電力制限でヒーターが使えないので、芋をふかすにも生木を火鉢の中で燃さねばならない。夜寮生大会がある。委員有給制問題と越冬資金200円に関する件だ。皆実にこまかいので驚いた。また200円取られるのは、この食糧事情では止むを得まいが痛い。会議は寒くて参った。芋2貫目90円。

23年11月24日(水) 朝6時に起きて学校へ出る。昼まで麻雀をやり、それから昼寝。夜になって起き出したら、金山がやってきて委員になれと言う。船舶の連中は大体俺にやらせろと言うらしいので、仕方がないからなることにした。寮務室で新旧委員の事務引き継ぎ。選挙の結果、建築の大島が委員長で俺が副委員長になった。皆が聞いたら笑うだろう。俺見たいなルーズな人間につとまるかしらん。しかしこれも一つの修行だ。鯖を食堂で買って味噌煮にして食べる。

12月3日(金) 渡辺と一緒に寮対抗の野球に出る。相手は丘寮で、4ー3で惜敗した。僕は途中で引っ込んだ。夜会計の井口君がやってきて、どうしても予算が足りないと言う。越冬資金を取るか、休みになってからの寮費払戻しを延ばすかしなければならぬ。大島と相談したが、後者は休みに入るのが遅かったら余り意味がないし、越冬資金を取ろうにも皆金を持っていないから、果してどれだけの効果が上がるか判らぬ。前の委員が寮祭で赤字を出して行ったために弱ったことになった。

12月10日(金) 朝10時から合同委員会。昼から学生大会。夜は寮生大会。学生大会は授業料不払い体制を解くことと国大法反対が主な決議。全然つまらなかった。やはり共産党の連中が強力に発言する。寮生大会は案外集まりが良かった。越冬資金は苦もなく通り、寮費の未納徴収はむしろ一般寮生の方が強硬なくらいで、こっちが予想したよりはるかにスラスラ運んだ。これなら大成功だ。

4 畳替え事件の顛末

 一番大変だったのは、寮の畳がむしれて腸(はらわた)が露出していたのを学校が取り替えた時の騒ぎである。1室に6枚ある内、予算がないので半分しか替えられないというので、それをどのようにやるかということになり、我々委員はくじ引きで決めることにし、4,5,6寮が籤に当たったのでそう発表したら、1寮の住民が不公平だと言って寮生大会を開き、全部の寮の畳を半分ずつ替えろと決議した。学校が認めなかったらどうするかについては、その時には1寮おきにしろということになり、また籤引きにしたら、1,3,5寮が当たってやっとお終いになった。

24年2月12日(土) 大島、後藤、木村と西尾さんのところへ1室3畳の交渉に行く。(駄目だったが)もともと俺たちは寮ごとにやろうという意見だったし、後藤も木村も自分のところは畳が貰えるので大して頑張ることはなく、あっさり引き下がった。

2月14日(月) 朝6時に起きて学校へくる。6寮の連中は凄く怒っていて、署名を集めて寮生大会を開き、前の大会の決定を引っ繰り返すと言っている。西村、中村、津上にぎゅうぎゅう油を絞られ、我々委員はだらしがないということになった。彼らは、一旦籤で決めたものをまた籤で引っ繰り返したという不合理を非難し、戦術的には、この前の大会は白紙委任状で成立しているから無効だと言って攻めてくる。

2月17日(木) 夜7時半から寮生大会。最初に副議長を決める時からもみにもみ、次にいきなり清水が白紙委任状の件と畳の件を先にやってくれという緊急動議を出した。4、5、6寮の出席者が凄く多いので、決を取ったらこれが通った。それから、この二つの件で場内は割れ返るような騒ぎ。野次が乱れ飛んで大混乱になり、決を取ったのが10時過ぎ。とうとう今までの大会は無効だという決議が通ってしまった。次に、委員会として改めて1、3、5寮の畳替え案を僕が出したが、これには4、5、6寮案と白紙案が出て三者鼎立となる。ここで、採決を取る方法を採決するという現象までしばしば起こり、最後に1ー3ー5案と4ー5ー6案の決戦になって、48対48、中立13で可否同数という前代未聞の事態となった。ここでもみにもんだ末、再決戦となり、遂に53対57、棄権7で4ー5ー6案が勝った。何しろ数的に向こうが多く、よくここまで戦えたと思うほどだから止むを得ない。委員会側は辞職をかけて1ー3ー5案を突っ張ったのに対して委員会不信任の動議が出て、やっと信任は得たが、文字通りの悪戦苦闘だった。決定したのは12時頃。寮費値上げの件は気の抜けたようにスルスル通ったが、結局我々が非常な弱体内閣てあることは確かで、俺も学寮の副委員長が満足に勤まらないようでは、政治家になる素質があるかどうかあやしい。終わったのは1時半。

2月18日(金) 10時過ぎに大島と学校の管理へ行き、1札入れて4ー5ー6にまた変えて貰った。委員の面目丸つぶれである。これなら、初めの大会の時に強硬に突っ張っておくべきだった。締めるところは忘れずに締めるべきなのに、余りにだらしがなかった。俺も1寮に住んでいるために自分のところの畳を替えたいという利己心に動かされなかったとは言えない。

5 おわりに

 以後の1年間は、野球で中原が大怪我をした事件を除けばそれまでと大した変わりはなく、我々も何とか卒業して就職することができた。私は、運輸省の船舶局に入って造船業の近代化政策をやり、昭和29年には経済審議庁に派遣されて、日本で初めての経済計画となった経済自立5ヵ年計画の作成に参加したことが縁となって、審議庁が経済企画庁となった後も昭和57年に退官するまでそこに居続けることになった。この役所は他の役所と違って、高文(高等文官)試験を通ってきた法科や経済出でない工学部出のエコノミストが活躍していたが、私が第二工学部を出ていたことのメリットはそれだけではなかった。

 経済企画庁時代からその後までを通じてやった仕事の中でも最も縁が深かったのは、社会や経済の長期的な発展の見通しに関するものであって、これは技術の革命的な変化との関係なしに考えることはできない。私は、戦後日本の産業技術が戦前のアメリカで起こったフォード革命の輸入にもとづく革命的変化を起こした時代を、造船政策に関わったお陰で直接体験することができた。

 現在では、第二次世界大戦中に発明されたコンピューターが人工衛星を経由する電気通信技術と結びついて生まれたIT Informatuon Technology (情報技術))という新しいパラダイムにもとづく技術革命が進行中であって、今起こっている世界の激変はすべてそれに関連している。私はその将来を見通すことはできないが、少なくとも過去の世界で起こった技術革命とその時代の経済、政治、文化との間で起こった相互波及関係を分理解することはできる。

 もし私が初めに考えていたように文系の大学に進んでいたら、実際の技術に接触することがなかったためにアプローチの仕方が異なったものになっただろうし、その後の職業生活も違うものになったと思われる。また入学先が第二工学部でなかったら、恐らく製図や実験に嫌気がさして進路を変えてしまい、それまでの時間を無駄に過ごすことになったり、すべてに中途半端に終わったりしたかも知れない。そうならなかったのは、第二工学部とその学寮での生活が楽しかったことのお陰だと思っている。





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