Charles Bronson


CHARLES BRONSON

03.11.1921〜30.08.2003



bronson
Paul Kersey&.475 Wildey Magnum(DEATH WISH 3)


2003年8月30日、一人の個性派俳優の栄光と波瀾の生涯に幕を降ろした。81歳だった。

1921年(20年、22年説もあり)11月3日、ペンシルベニア州アーレンフェルドに生まれる。本名、チャールズ・デニス・ブンチンスキー(後にブシンスキーとなる)。父はロシア移民の炭鉱夫、母はリトアニア人。14人兄弟の7番目の子供であった。14人のうち、二人は幼児期に死亡、長男と長女は不具者であった。
33年、父ウォルターが肺結核で死亡、さらに長兄と弟を相次いで亡くし、貧しい家計を助けるため、小学校を卒業するかしないかの頃から炭坑で働きはじめる。
ハイスクールを卒業後も暫くは炭坑で働いていたが、その合間にレンガ職人、ボクサー、コックなどの職を転々としていた。逞しい肉体美はこうした苦労の賜物であろう。43年、空軍に入隊。B29の射手として日本上空に飛来、計35回の作戦(つまり本土爆撃)に参加している。

除隊後、25歳になったチャールズは家を出る決心をする。給仕や水泳教師をしているうちに、ある演劇集団と知り合って、地方公演の舞台に端役として出演するようになった。
48年、パサディナ・プレイハウスに入学、本格的に演技の勉強をし直し、51年、ゲイリー・クーパー主演の『君は今海軍に』で念願の映画デビューを果たす(当時はまだ「チャールズ・ブシンスキー」で出演している)。この間、女優のハリエット・テンドラーと結婚、2児をもうける。その後も精力的に映画に出演したものの、大抵、囚人や犯罪者、あるいはインディアンといった端役だった。

当時のアメリカはまさに“アカ狩り”の嵐が吹き荒れる時代であり、ロシア人のごとき名前が当局の目を引く事を恐れたエージェントは、チャールズに改名を提案した。悩みながらパラマウント・スタジオを歩いていた彼の目に止まったのが、赤信号の下の「ブロンソン・アベニュー」と通りの名称が記された標識だった。彼は自らの名前を決め、芸名のみならず本名も同じように改名した。「チャールズ・ブロンソン」の誕生である。
仕事も波に乗り始め、58年『ギャング戦争』では遂に主役の座を射止めた。同年、やはり主役を演じたロジャー・コーマン監督の『機関銃(マシンガン)ケリー』ではその演技が評判となり、ギャラも1万ドルを超えた。また、彼が主演したTVシリーズ『カメラマン・コバック』は世界53ヶ国で放映された。

ブロンソンの魅力が開花したのはデビューから9年後の1960年、ジョン・スタージェス監督作品『荒野の七人』であろう。この映画でチャールズ・ブロンソン(以下ブロンソン)の名は一気に知れ渡ることになる。企画者であり、本作品の主役でもあるユル・ブリンナーは、ブロンソン/マックィーンという二人の新人に自分が食われることを恐れ(実際、そうなったのであるが)、スタージェスに二人のシーンをカットするよう要求したが断られた、というエピソードもある。
1963年、スタージェス監督の『大脱走』でも脇役ながら好演したが、それ以上にブロンソンにとって重大な転機が訪れる。女優ジル・アイアランドとの運命的な出会いである。ブロンソンは『大脱走』ドイツロケ中、共演者のデヴィッド・マッカラムと親友になるが、ジルは当時デヴィッドの妻であった。それぞれの夫婦間で様々な紆余曲折があったものの、65年にはブロンソンとハリエットは離婚。ジルとデヴィッドも67年に離婚。『特攻大作戦』(ロバート・アルドリッチ監督:67年)のロケから帰国したブロンソンはジルと正式に結婚式を挙げ、一気に5人の子の親となった。1968年8月15日のことである。

1968年は「ブロンソンズ(みうらじゅん&田口トモロヲ)」流にいうならば“ブロンソン革命”の年である(なんじゃそりゃ!? ^▽^)。渡欧したブロンソンは『さらば友よ』(68年:ジャン・エルマン監督)でアラン・ドロンと共演。ジルの助言によりたくわえたヒゲと渋い演技で、二枚目俳優のアラン・ドロン以上の強烈な印象を観る者に与えた。ちなみに、ブロンソンの初ヒゲ映画は『戦うパンチョ・ビラ』(68年:バズ・キューリック監督)である。
1970年には『雨の訪問者』(ルネ・クレマン監督)、『狼の挽歌』(セルジョ・ソリーマ監督)等に主演、国際的大スターの地位を確立する。尚、これらの作品には妻のジルも出演しており、以後、数多くの作品で二人は共演している。

「う〜ん、マンダム・・・(゚Д゚)ハァ?」
その昔、男性整髪料といえば「丹頂チック」「柳屋ポマード」といった固形のものしかなかった。しかし1962年(昭和47年)、ライオン油脂(現ライオン)がバイタリスなる液体整髪料を発売、一躍注目を浴びた。
翌1963年(昭和48年)、資生堂がMG 5シリーズを発売。団次郎(『帰ってきたウルトラマン』に出演してましたね)や草刈正雄といった、甘いマスクの若いキャラクターを起用して大成功を収めた。
1970年(昭和45年)他社に先を越され、経営的にも追詰められていた丹頂株式会社が社運を賭けて発売したのがあのMANDOMブランドであった。
イメージキャラクターには「最も男くさく野性的な男」の象徴であるチャールズ・ブロンソンを起用。20代をターゲットとした商品に当時47歳の、それも険しい顔つきのブロンソン。まさに「常識の逆をいく」大胆な戦略といえよう。
現役のハリウッドスター、本格的な海外ロケ、イメージソングの海外レコーディングなど、当時としては画期的なことであった。会社の入れ込み様も相当なもので、当時の年商の1/3に相当する約5億円を宣伝に投入したという。
演出を担当したのは大林宣彦監督。顎に手をあて「う〜ん、マンダム」というフレーズは流行となり、その野性味溢れるCMは“チャールズ・ブロンソン=男の中の男”というイメージを我々の目に焼付けた。また、C&W歌手ジェリー・ウォレスのCMソングにも問い合わせが殺到、『マンダム〜男の世界』として急遽日本国内でのみ発売となった。オリコンでは1位になったこともある(最近、Keisonが日本語でカバーしている)。
MANDOMブランドは丹頂(株)にとって起死回生の大ヒットとなり、翌年には社名を「株式会社マンダム」に変更、現在に至っている。ちなみにMANDOMとはMAN(男)とDOMAIN(領域)の合成語である(“男の領域”・・・カッコイイね!)。しかし現在、マンダムのHPを覗いてみると、「Human(人間)とFreedom(自由)の合成語」と、些か言い訳じみた説明になっている。これは今や(株)マンダムも女性向け商品を扱っていること、及びジェンダーフリーを唱えるフェミ女共への配慮であろう。
マンダムのCM撮影時、労働時間が契約で決められているアメリカで、撮影時間がどんどん遅れてしまい、時間切れまであと30分となった時、やむなく日本人スタッフが苦しい状況をブロンソンに伝えに来た。彼は「私は約束の時間以外は働かない主義だ」そう言いながらも腕時計の針を1時間巻戻し、「まだ時間があるじゃないか。さあやろう!」と、粋な計らいをしてくれた。男気俳優チャールズ・ブロンソンならではのエピソードである。
う〜ん、マンダム

ヨーロッパで一躍人気スターとなったブロンソンはアメリカでも次々と映画に主演。『バラキ』(72年)の大ヒットで、その年のゴールデングローブ特別賞を受賞。『狼よさらば』(74年)に始まる“DEATH WISH”シリーズは彼の代表作となり、パート5まで作られた。また『ブレイクアウト』(75年)では、史上初の100万ドルスターとなり(これはギネスブックにも掲載されている)、ハリウッドのドル箱スターにランクインしている。
80年代に入ると、その人気にやや翳りが見え始めたものの、『ロサンゼルス』(82年)、『地獄で眠れ』(84年)、『スーパーマグナム』(85年)といったアクション映画に多数出演しており、貫禄に磨きをかけていった。

1990年、永年連れ添ってきた妻のジル・アイアランドが乳ガンで死去。愛妻家であったブロンソンは失意の余り引退宣言までしてしまう。しかし、個性派俳優ショーン・ペンの第一回監督作品『インディアン・ランナー』(91年)でカムバック。続いて『シー・ウルフ』(92年)、『キング・オブ・リベンジ(“DEATH WISH 5”)』(93年)に出演。“生涯一アクション俳優”ブロンソンの健在ぶりをアピールした。
1998年、77歳のブロンソンは39歳年下の女優キム・ウイークスと結婚。

1995〜1999年のTVドラマ“Family of Cops”シリーズでも年齢を感じさせないタフネスぶりを披露していたが、それが我々に見せてくれたブロンソンの最後の勇姿だった。
2001年、「チャールズ・ブロンソンがアルツハイマー病と闘っている」との報道が流れた。2年前から症状が現れ、1年前に医師に病名を宣告されたという。
2003年8月30日、2年間の闘病生活の後、肺炎により死去。家族の見守る中、静かに息を引き取った。享年81歳。

謹んで御冥福をお祈りします・・・合掌(-人-)

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