三草山

 三草山と言えば、誰もが丹波と播磨の国境にある山であって、寿永3年2月5日の早朝、義経が平資盛の陣を襲った地であると考えるのは当然である。ただ、義経の攻撃目標の一つとして、今一つの三草山が存在し、この三草山が一の谷合戦の重要な位置にあったことを知っていただきたい。
 その証拠として『平家物語・延慶本』では、丹波の三草山から逃げ帰った資盛の末弟師盛の報告を受けた平家の総大将宗盛が、教経に山の手の陣に向かって欲しいと要請、これを受けた教経が山の手の陣に向かった時の様子を、「程なく三草山へ馳付て、越中前司盛俊か陣の前に、仮屋を打て待係たり。去程に五日も暮にけり」と記し、三草山が山の手の陣にあることを伝えている。
 さらに、合戦前夜のこと、源氏の大手が生田川の対岸に集結している際に、山の手の陣に火が灯された時の様子を「三草の手に向たる越前三位能登守の陣の火、湊川より打上て、北岡に火を立てけるを」と記し、湊川より北岡に向かって火が連なった様子を伝え、夢野の丘から会下山周辺にかけて平家の山の手の陣であり、その一角に三草山が在ることを教えている。

 今一つの資料は『源平盛衰記』で、熊谷父子が西の城戸口に寄せ、平山も同所に来た時の様子を、「城戸口は開かず、御方もいまだ続かねば、死する命は何も同じ事なれども、晩闇に証人もなく死にたらんは正体なしと思ひければ、明くるを遅しと待ち居たり。平山も、熊谷が心に少しも違はず、先陣を心に懸けて、三草の閑道にかかりて、浦の手に打出でて、後陣を待って城戸口を破らんと思ひ」と認め、西の城戸口の辺に三草山に向かう閑道があると伝え、西の城戸口つまり西木戸が山の手の陣の麓にあったことを教えている。
 下の写真は山の手の陣の南、増田山の麓から苅藻島まで続いていた西木戸のあった地点である。

 ここに書かれた西木戸の情景は、「城郭の構様誠におびただし、陸には山の麓まで大木を切り伏せてその影に数万騎の勢並み居たり、渚には山の麓より海の遠浅まで大石をたたみて乱杭を打ち、大船数を知らず立ち置きたり、その影に数万疋の馬共十重廿重に引き立てたり、その後には赤旗数を知らず立ち並びて、矢倉の下にも雲霞の兵並び居たり、海には数千艘の儲船うちたりければ、たやすく破るべしとも見えざりけり」と、東木戸の倍以上の厳重な備えを伝えており、須磨ではこれだけの陣は布けないと、須磨西木戸説を否定している。
 そもそも兵庫にあった三草山とはかなり有名な山で、『朗詠題詩歌』には、南北朝時代の和歌の四天王と言われる浄弁が、奈良・平安・鎌倉時代の人々の楽しみは三草と長柄に行くことだ、と次のように詠んでいる。   伝へ聞く 昔の人の 楽しびを 三草長柄に 極めめつるかな
 また、『能因法師集』には、能因法師が津の守やすまさの朝臣と難波江に浮かべた船において、次のような歌を詠んでいる。
  みくさとぞ かくべかりける 難波潟 船打つ浪に いこそ寝られぬ
 「三草ということである。当然だが気付いてみればここは難波潟であった。これでは船端を叩く波の音にも興奮し、寝ようにも寝られぬわい」と景勝地に来た喜びを詠っているが、今、水タンクが山頂に据えられている頓田山は、一の谷と難波潟(和田岬の内懐)を見下ろす絶景の山で、『夢野地誌』には、「頓田山ハ本村ノ西南ニ在リ総テ草地ナリ、西ハ長田村ノ山林ニ接シ、南ハ神戸區兵庫會下山ニ連接ス、項望須磨兵庫神戸灘ヲ目下ニシ、播淡紀大和和泉河攝ノ山岳海港ヲ見渡シテ其絶景を極ム」と認められ、いにしえには三草山と呼ばれた山であることを示唆している。
 この様に、丹波の三草山を落した後、三草山に行くと言っても、当時の人たちは次に向かう三草山が何処にあるのか、何の目的で向かうのか、説明なしに理解できた。だから、合戦前日の朝、「我身は三草山を打ちめくりて鵯越へ可向とて歩せけり」と書かれていても、次の攻撃目標である兵庫にある有名な三草山に行くのだろうと、抵抗なしに理解することが出来たのである。
 三草山が兵庫にあった資料がまだまだあるが、その内の一つとして紹介したいものがある。
 それは『太平記』の舞台である。
  楠正成の奇略によって京都から追い出された足利尊氏、兵庫に集結した足利の残存勢力を結集して京都奪回に向うが、これに立ち向かう官軍と豊島ケ原で合戦が行われた。ところが、ここでも楠正成に後ろを突かれて兵庫に退き、自害しようとした時に大友貞宗の助言を受け、九州に下って軍勢を立ち直すべく、大友の船に乗った。この時の様子を太平記は次のように語っている。
   「尊氏卿は福原の京をさへ追ひ落されて、長汀の月に心を傷ましめ、曲浦の波に袖を濡らして、心づくしに漂泊したまへば」と、傷心の尊氏の様子記しているが、この時の心境を詠んだ歌が『風雅和歌集』に残されている。
     世の中騒がしく侍りける比、みくさの山を通りて、大くら谷という所にて、
  今むかふ 方は明石の うらながら まだ晴れやらぬ 我がおもひかな
 三草山を越え大蔵谷にて、「今向かうのは、明石の浦長柄であるが、そこはあかし浦と言われているものの、未だ私の気持ちを証しきれず、晴れ晴れとしない空のように、何故かすっきりしない」と哀れな心境を呼んでいる。
 ここで注意したいのは、明石というのが兵庫周辺の土地であり、大蔵谷というのが平安時代に一の谷と呼ばれた大きな湖、長柄というのが和田岬のことであって、裏付け資料は山ほどもあり紹介しきれないので割愛するが、興味のおありな方は、足利二代将軍義詮の歌日記『住吉詣』を参照されたい。
 この尊氏の哀れな姿が大蔵谷の傍らにあるので、その情景を詠んで欲しいと赤石城主松平信之に頼まれた江戸幕府の儒学者林春斎は、大蔵谷(一の谷)の周辺の情景を綴る『赤石八景』に次のように詠んだ。
         「大倉暮雨」
   大倉谷畔雨霏々たり 行客途に迷い落暉を追う
   三草煙籠りて明石暗し、前指し後顧み露衣を沾す
 この様に兵庫にあった三草山とはかなり有名な山で、江戸時代まで語り継がれた山であった。
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