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偽装結婚


 16になったとき、シンジはアスカと結婚した。

「日本国籍を手に入れないと、ドイツへ強制送還させられるところだったの。ほんとは加持さんがよかったけど、加持さんは他の支部へ行っちゃったし。仕方ないからイイ男を見つかるまでコイツが代理ってわけ!」
 結婚式の二次会で、酔ったアスカがぐりぐりっとシンジをこづく。
 シンジは目をつぶってそれに耐え、アスカが他の席へ移ったのをみてホッとした。結婚式前、アスカとかわした「夫婦の契約」を思い出していた。

 第一条 やらしいことは禁止。寝室も別。(偽装結婚はあくまで偽装。愛はない)
 第二条 シンジの浮気は禁止(みっともないから)。アスカの恋愛は可(早く理想の男性を見つけて、
       偽装結婚に終止符をうつため)。
 第三条 家事はシンジがやる。
 第四条 くれぐれも調子にのらない。勘違いしない。「アンタなんか国籍以外に価値がないんだから!」

 どうして僕は結婚したんだろう。ちびちびと日本酒をすすりながら考える。
 …だって、家に帰ってきたら結婚式場が決まってて。招待状も出した後で。後に引けないから、とりあえずケッコンするのよってアスカが。
 鬼のように気の強い奥さんをもらって、シンジは今後の不安をありありと表情に浮かべる。
 結婚式でウェディングドレス姿のアスカをみたときは、がらにもなく胸が高鳴った。もしかしたら幸せになれるかもしれない。いや、僕のできるかぎり幸せにするよ、偽装結婚でも、と気持ちを込めてキスしたのだった。
 アスカは美しく化粧をしていて、唇は出来たての洋菓子のようだった。
 唇から気持ちが伝わった気がした。

 だが、気のせいだった。
 お色直しで奥にひっこんだとたん、アスカはコップで口をゆすいだ。
 水を吐き捨てながら、
「忘れてた、結婚式ってキスするんだったわ。ああもう! 気持ち悪い! 加持さんが中国支部でよかったぁ」
 14のときにもこんなことがあったな、と思いながら、シンジはまだ感触の残る唇に触れてみた。少し口紅がついていた。人生で2度目の苦いキス。
「碇くん」
 シンジはその声で、回想から宴会の席へ引き戻された。
「綾波…。二次会、来てくれたんだ」
 こういう席が苦手なはずの綾波レイが、二次会までいてくれたのは驚きだった。
シンジはこのところバタバタしていて、綾波レイとまともに話さなかったのを思い出す。
 レイはシンジの横に座った。膝を折り曲げるとき、膝の裏に手を入れてスカートが皺にならないようにしていた。ゆっくり、まろやかな動作だった。
 綾波レイが隣に座るだけで、喧騒が遠ざかる気がする。
「久しぶりだね」
「ええ」
「…」
 沈黙。シンジは台布巾をとり、自分の前をちまちま拭き始める。
 話しはじめたのはレイだった。
「…おめでとう」
「あ、ありがとう」
「こういうとき、何て言えばいいかわからなくて。赤木博士に聞いたの」
 綾波にしてはよく話すなぁ、と思いながらシンジは、裸踊りを始めたトウジを眺めていた。
「碇くんは       」
 そのとき、どうっと笑いが巻き起こってレイの声がかききえる。
「え、なに?」
 シンジは上体をかがめてレイに耳を寄せた。
「シンジぃ!」
 にゅうっと首の後ろから手が伸びてきて、シンジの頭をつかんだ。アスカだ。
「飲んでる? ファーストも水ばっか飲んでんじゃないわよぉ」
 レイは黙ってしまった。
 シンジはべたべたと触れるアスカの手をのけながら、
「アスカ、飲みすぎだよ…。一応”食事会”ってことになってるんだし」
「ドイツは16歳からビール飲めるのよ!」
「日本国籍とったんじゃあ…」
「うるさい」
 アスカはシンジの耳を引っ張る。「いてて」と顔をしかめながら、シンジは嫌な
気持ちはしなかった。アスカがこんな風にじゃれてくるなんて、婚約してからもなかったことだ。
 飲んで機嫌がいいんだろう。
「もう遅いし、あたしたちも帰ろっか」
「う、うん」
―――あたしたち、だって。
 シンジはくすぐったく思いながら、店を出た。店を出るとき振り返ったが、喧騒に埋もれて綾波レイの姿は見えなかった。
「アスカ。タクシー乗り場、あっちだよ」
 何気なく肩に触れると、強い力で叩かれた。
「触んないで」
 凍るような声だ。シンジは呆然として、はたかれた手の甲を撫でた。赤くなってる。
「ごめん…」
「第四条。くれぐれも調子にのらない」
「うん…」
 早足で不機嫌にタクシー乗り場へ向かうアスカの、3歩後ろをシンジがついていく。

 今ではもうシンジはアスカより5センチほど背も高いのに、力関係は全く変わらない。
 気まぐれな彼女に振り回され、とうとう結婚までさせられた。
 サードインパクトのときもアスカだけはわからなかったんだから、今さらわかりようもない。
"女性は彼岸の存在だ"といった加持の言葉を思いながら、シンジはとぼとぼとアスカの背を追いかけた。



「バカシンジ! なにちんたらやってんの!」
 シンジは慌ててダブルベッドから眼をそらした。イタリア西海岸のホテルはスイートの一室しか借りなかった。

 結局あの夜―――初夜は、何もなかった。アスカは不機嫌だったし、寝室も別だし、偽装結婚だから。
 だが、ケンスケからもらったコンドームを財布に忍ばせて新婚旅行にのぞんだシンジを、誰も責めることはできない。シンジは16歳の男子だった。

「早くビーチに行くわよ。日が暮れちゃうじゃない」
「うん」
 シンジは財布とビニールシートを探す。
 そこへ、体にバスタオルを巻きつけたアスカが跳ねるような足取りでやって来た。
「んふふ」いたずらっぽく笑うと、「じゃーん。おニューの水着っ」
 前をはだけた。
 真っ赤なビキニだ。ちょっと布地が少なすぎる気もしたが、最近Dカップになったというアスカの胸をきゅうくつそうに支えている。
「あ、あの」
 ここで何か言わないと怒られる、とわかるくらいは、シンジも成長した。
 泳ぐ視線のたどりついた先は、先刻のダブルベッドだ。十分な思考はできない。
「に、似合ってる」
 アスカの表情がつまらなさそうに曇る。
「アンタ、いつもそればっかり。ウェディングドレス選んだときも、お色直しのドレスもみんなそうだったじゃない」
「そうだっけ?」
「もういいわ。あーあ。日焼け止めどこだっけ」
 シンジが少し考えなおして、「綺麗だよ」と言おうとしたとき、アスカはもういなかった。ビーチ用のサンダルを探しに行ったようだ。
 シンジはあきらめた。たぶん、自分がどんな風に言ってもアスカを満足させることはできないだろうから。



 ビーチはあまり混雑していなかった。海は青く、浜は白い。日本の海とは違う。
 パラソルを建てようと奮闘するシンジの視界に、アスカが入った。数十メートル先で現地の人間と話している。
 アスカがそいつに手を振り、バイバイの合図をした。
「やっぱ、イタリアの男は口説き方も情熱的ねー」
 アスカは上機嫌でシンジのパラソルに近寄った。
 シンジはパラソルを建ておわって、砂浜に座った。
「今の、ナンパ?」
「そうみたい」
 アスカは亜麻色の髪を肩から後ろへやる仕草をした。
「君の輝きの前では渚の太陽もかすんでしまう、だって」
「へえ」
 たぶん、大丈夫だ。アスカはイタリア人の彼氏は作らない。
 イタリア人と結婚しても、日本国籍は手に入らないから。
 だが、シンジはあることに気付いた。
 アスカはドイツに帰りたくないだけで、日本にこだわりはないんじゃないだろうか。日本には加持さんもいないし、もうエヴァも解体された。
 イタリア人の彼氏…。
 複雑な気分だ。本当にアスカが恋人を作ったら、嫉妬を感じるだろうか。それはない気がする。今、ナンパされているアスカを見てもなんとも思わなかった。
 嫉妬するなら加持さんのときにもうしている。ただ、自分の前で他の男の話をされると、馬鹿にされている感じがするだけだ。

 結婚てなんだろう…。

 シンジが内向きのスパイラルへ突入しそうになったとき、アスカが立ち上がって、
「泳いでくるね!」
 と駆けて行った。
 しばらくして、波間を泳ぎながら「シンジ!」と手を振った。笑っている。
 シンジは手を振り返しそうになってから、慌ててひっこめた。体育すわりのままぼんやりアスカをみていた。
 ホテルへ戻って夕食を終えると、もう10時になっていた。
 アスカはシャワーを浴びている。
 シンジはダブルベッドの前で立ち止まり、ふたつ並んでいる枕のひとつをとった。ソファもあるし、温かいからどこででも寝れる。
 アスカに怒られてから移動するより自分で移動したほうがいい。シンジは初夜の決まり悪さを覚えていた。
 片手に枕をぶらさげて寝床を探していると、ふと、バルコニーが気になった。
バルコニーへ出て見上げると、月が出ていた。日本より大きい気がしたが、気のせいだろう。
 月が青白く光っている。綾波は日本でどうしているだろう。
 アスカの機嫌ばっかりとってるのは疲れた。
 もう、帰りたいよ。
 綾波…。
 いきなり衝撃が走って、シンジは枕を取りおとした。
 アスカが後ろから、勢いよく抱きついたのだ。
「あ、アス…」
「黙ってて」
 湯上りの湿った体がシャツ越しに感じられる。言われたとおり黙って、ぼんやりつったっていた。アスカがどういうつもりかまったく予想がつかない。
 アスカの体温が伝わってきて、シンジの鼓動は早くなった。
 背中を伝って、アスカのくぐもった声がした。
「ねえ、今なにしてたの」
 聞いたこともない甘ったれた声に、シンジは身震いした。
「ね、寝る場所探してたんだ…」
「そう…」シンジの脇から伸びてきている手が、シンジの胸板を這う。
「くすぐったいよ」
 シンジはアスカの手を押さえてとめた。
「あたしのこと好き?」
 シンジは黙った。どう答えるべきなんだろう。
 好きじゃないと答えたら、アスカは怒る。
「う、うん」
 アスカの手はすべすべと滑らかだ。手の甲なのに、しっとりとした肉付き。
「本当に?」
「うん」
 コンドームの入った財布は、どこに置いただろう?
「…もういいわ。やっぱりつまんない」
 いつもの突き放したような話し方に戻ると、アスカはシンジを解放した。
「アンタ、あっちで寝てよね。ベッドの半径3メートル以内に入ったら殺すから」
 アスカは逃げるようにベッドへ向かい、ダイブした。シンジはのろのろと枕を拾い、胸が静まるのを待った。
 残念なような、ほっとしたような。アスカにからかわれるのは、いつまで経っても慣れない。
 シンジは新婚旅行中、ずっとソファで眠った。


 新婚旅行先で花嫁に浮気される、という情けない自体だけは回避したシンジだったが、日本での結婚生活は甘いものではなかった。
 アスカより早く起きて食事や風呂、洗濯の用意をし、自身は第一高等高校へ行く準備をする。アスカを送り出してから(アスカはネルフで研究職についていた)、自分も学校へ行く。
 本当は管絃学部に少し興味があったのだが、家事をきちんとこなすために入部はあきらめていた。
 さすがに理不尽さを感じないではなかったが、こう考えることにした。
 僕は、住み込みで働いてるんだ。代わりに御飯を食べさせてもらってる。
アスカとは同い年なぶん、前に預けられていた家よりは精神的に気を使わないで済む。
 かなり無理のある論法に納得した彼は、下校時刻はスーパーのタイムセールに間に合うよう、早足になる。
 鶏肉の香草焼きに決めて買い物をすませ、帰宅して掃除を終わらせた頃、アスカが帰ってきた。
「ただいま」という、スーツ姿の妻にエプロン姿の夫が答える。
「おかえり。お風呂沸いてるよ」
「じゃあお風呂入る。…のぞくんじゃないわよ」
 シンジは黙って味噌汁をかきまぜる。と、洗面所からアスカが首だけ突き出した。
「あ。あたし、外で食べて来たから。晩御飯いらない」
 シンジはへなへなと脱力しそうになる。
「そういうときは電話いれてよ!」
「はいはい」
 全然こりてないアスカの声。
 シンジはため息をついて、料理を再開した。アスカが外で食べるとわかっていたら、冷蔵庫の残り物で済ませたのに。今日の夕飯は弁当にまわそう。
 こんなとき、シンジは、誰か食事を一緒に食べてくれる人が欲しいと思う。せめて美味しいと言ってくれる人がいたら。
 アスカが美味しいと褒めてくれたことはなかった。
 少々危険な思想ではあるが、結婚相手がカヲルくんだったら…、とシンジは思う。
 周りが知ったらのけぞるところだが、シンジはアスカと体の関係はない。シンジにとって結婚とセックスは直結しておらず、

 結婚相手 = 一緒にいる人。会話する人。食事を作ってあげたい人。

である。
 カヲルくんに食事を作ったら、美味しいって言ってくれそう。お風呂だって一緒に入れるし、食事の片付けをしてから、一緒に音楽の話が出来るかもしれない。
 うふふ…、と乙女チックな想像に笑みをこぼしそうになってから、ふいに沈痛な面持ちに変わる。でも、僕が殺したんだ。好きな人を殺したんだ。
 そんな僕に、幸せな結婚なんてできるはずない。

「ちょっとぉ」
 頭を軽く小突かれて、シンジは我に返った。
「なに百面相してんの。笑ったり泣いたり忙しいわね」
 いつのまにかアスカが風呂からあがっていた。
「泣いてないよ」
 シンジは顔をそむけながら焼きあがった鶏肉をテーブルへ運ぶ。
「怒ってんの?」
「別に」
 怒ってるよ。怒ってるさ。でもいいよ、もう。
 さっさと再婚でもなんでもして出て行きやがれ、と飯をかっこむシンジだが、再婚した場合追い出されるのはおそらくシンジだ。マンションはアスカ名義だった。
「あたしもサラダだけ食べよっかな〜」
 と、アスカはフォークをとってきた。シンジはさっさと食事を終えたかった。
 チェロが弾きたい。
 シンジは14のときよりずっとチェロが好きになっていた。去年、パイロットに
支払われていた給料をくずして買ったサイレントチェロ。
 要するに電子チェロで、音が漏れず、イヤホンで自分の演奏を聞けるのだ。寝る前にそれを弾くのが日課になっている。自分だけの時間。
「このサラダ、明日のお弁当にも入れてよ」
 シンジは黙っている。もう少しで食べ終わるところだ。
「ねえ、シンジ」
 目の前にポテトが突き出された。「あぁ〜ん♪」
 シンジは茶碗ごと横を向いた。
「馬鹿なことやってないで、さっさと寝なよ。明日早いだろ」
「やっぱり怒ってるんだ…」
 シンジの口元へ差し出されていたフォークが、力なくアスカのサラダボールへ
戻る。アスカがうつむき、長い髪で表情が見えなくなった。
 だまされないぞ、と身構えるシンジ。だてに2年からかわれつづけていない。
 シンジは黙っている。アスカも黙っている。シンジの箸が茶碗と触れあう音だけだ。間の悪さに耐え切れなくなって、シンジは言った。
「お、怒ってないよ」
「…」
「怒ってないから…もう」
 アスカは顔をあげるとニッコリ笑って、ふたたびフォークを突きつけた。「あーん♪」
 なんとかこの事態を回避する方法はないのか?
 シンジは戸惑い、視線を斜め上に泳がせる。―――なかった。
 覚悟を決めると、
「あ…あー」
 と口を開け、ためらいがちに少し顔を前に出した。恥ずかしさで頬が熱くなる。
 アスカが少しフォークを引く。シンジはテーブルに軽く手をつき、身を乗り出す形になる。
 前歯がポテトをとらえた、と思った瞬間、シンジは空を噛んだ。
 ガチッ。
 フォークはアスカの口元へ戻り、見せつけるようにアスカが頬張る。
「あんた、バカ? あはは」
 アスカは席を立ち、軽い足取りで奥の部屋へ去って行った。
 シンジはのろい動作でサランラップを取り出し、アスカのサラダにかぶせた。
 僕は馬鹿かもしれない…。



 シンジは食事を終え、風呂をあがってから自分の部屋へ入った。
 チェロを取り出し、電源を入れて椅子に座り、両足の間にチェロを支えた。
 深呼吸して、そっと弓を滑らせる。
 低い、張りのある音。音色に本物のチェロのような艶はないが、夜中に弾くにはこれで十分だ。バッハの曲をいくつか弾いた。
 低音から高音へのびあがるとき、シンジは恍惚を覚える。
 最後に何を弾こう、と少し考えて、シンジは楽譜なしで弾ける曲を選んだ。第九。喜びの歌だ。
 アスカが優しくなかった日は特に、渚カヲルのことを思い出す。第九はそのBGMだ。
 カヲルくん。ごめん。ごめん、と謝りながら、指は力強い旋律を生む。
 カヲルくんはこの歌そのままの人だった。自信に満ち満ちていて、僕をなぐさめてくれた。
 シンジは最後の音を長くのばして、演奏を終えた。
 一息ついて、チェロをケースにしまった。そっとベッドの脇にたてかける。寝かさずに
立てかけたのは、寝そべったときチェロが見えるようにしたかったからだ。
 シンジは朝食の献立を思いながら、眠りについた。




 耳鳴りがする。顔が痛い。何が起きたのかわからなかった。
 ぐらぐら揺れる視界いっぱいに、アスカが映った。
 また、衝撃が走る。
 アスカが頬を張ったのだ。シンジは寝ぼけた意識をなんとか引き絞って、上体を起した。
「なにすんだよ!」
 舌がもつれそうになる。
「カヲルって誰」
 アスカが真顔で言った。
「勝手に部屋に入ってくるなよな」
「カヲルって誰よ!」
 アスカがシンジのTシャツの胸を掴んだ。ようやく本格的に目が覚めたシンジが、振りほどこうとする。
「なに言ってんのさ…」
「どこの女よ! 今、寝言でカヲルって言った!」
 夜に部屋の出入りを禁じたのは、アスカの方だったはずだ。
 夕べにからかわれたことと、睡眠不足で、シンジは不機嫌だった。
「うるさいなぁ」
 渚カヲルのことを説明しようとすると、渚カヲルの最期まで話すことになる。シンジは目をそらしたまま、眠そうに目をしばたかせた。
「浮気は許さないって言ったわよね」
「浮気もなにも、男だよ。昔の友達…」
「嘘つき! この!」
 シンジはとっさに腕で頭を守って、アスカのビンタから逃げた。アスカは腕のガードの上からばしばしと叩く。
 とにかく部屋から出ようとしたシンジをアスカが追う。ふたりはチェロの近くでもつれた。
 不吉な音を立ててチェロケースが倒れた。文字であらわすと、がしゃんバィン。だ。
 シンジはアスカを押しのけてケースを開けた。
「ひどい…」
 シンジは震える声で言った。弦が切れている。普通のチェロ弦ではなく電子チェロの弦だから、素人では修理できない。下手をしたら買いなおしだ。
 再びチェロケースを閉じたシンジ。半泣きである。蒼白な顔色で立ち上がると、シンジは玄関へ向かった。
「どこ行くのよ。まだ話は済んでな」
 アスカの声が途切れた。マンションの戸を閉めたからだ。今はとても、耳にキンキン響くアスカの声を聞いていられない。
 ここじゃないどこかへ。
 気付くと、半パンにTシャツ姿の自分に気付いた。財布も持っていない。公園の時計で時間を確かめると、夜の12時すぎだった。公園のベンチに座って、気を落ちつけた。
 前にも家出したことがあった。あのときはエヴァのパイロットになるのが嫌で3日ほど歩いた。また僕は逃げるのか。
 トウジかケンスケの家に泊めてもらおう。シンジはポケットに手をやって気付いた。
 携帯を持っていない。シンジは立ち上がって、尻を払い、つっかけを引きずるように歩き出した。近所にコンビニがある。そこで夜明かしをしよう。
 朝になって、アスカが出勤したころ家へ帰る。それから荷物をまとめて、あとはなるようになるだろう。
 こんなにむなしい気分のときでも、案外きっちり考えることが出来るらしい。
 まっすぐな道に点々と街灯が灯っている。近くの街灯は大きく、奥のは小さく遠く、かすれて消えるかのように配置されている。蛾が飛び交っていた。
 ガラの悪いバイクと一台すれちがった。
 店に入ろうとしたシンジといれちがいに、人が出てきた。
 観音開きのコンビニのドアを支えたまま、シンジはつぶやいた。
「綾波…」



「おじゃまします」
 シンジは綾波レイに続いて、アパートへ入った。レイはいらっしゃいとは言わない。
 シンジはつっかけを脱いでそろえた。
 綾波レイはシンジと同じ第一高校へ通っていた。クラスが変わり、エヴァが解体されてからはあまり話さない。最後に話したのは結婚式の二次会だった。
 レイは台所に立ち、やかんを火にかけた。お茶をいれてくれる気なのか。
 2年ぶりに訪れたレイの部屋はいくらか綺麗になっていた。白い壁紙が貼ってあるのは大きな進歩だ。
 手持ち無沙汰で、部屋にひとつだけあるパイプ椅子に、腰掛けた。
 やかんのしゅうしゅうという蒸気音がふたりの空気だ。
 なぜ家に帰りたくないのかとか、夜更けに女性の部屋へあがるのはどうかとか、そういう話題を振ってこないのはありがたかった。綾波レイは、多くを話さない。
「碇くん」
 レイが初めて声を出した。「紅茶とコーヒー、どっちがいい」
「あ、おかまいなく…。じゃあ紅茶で」
 しばらくして、レイが紅茶のカップをふたつ持ってきた。椅子はひとつしかないのでレイは
ベッドへ腰掛ける。シンジは近くに座ってはじめて、レイが第一高校の紺の制服姿なのを意識した。自分の半パンの足を少し閉じる。
 以前、紅茶の煎れ方を教えたことがあった。そっとカップに口をつける。無糖でほんのりとした苦味は、あのときの味だ。
「あ、あの。今日はごめん、いきなり家に来たいなんて…」
 レイは、紅茶の水面を見守るように伏せていた視線を、シンジへ向ける。真っ赤な瞳。
 シンジはかくまってもらった家出人の義務を感じ、言い訳をつづけた。
「ちょっとね…、家で喧嘩して。はは…」
「そう」
 それきり黙った。シンジは決まり悪さを感じるが、レイは気にしなかった。
 次に話したのはレイだった。
「私、結婚てどういうものかわからなくて」
 いきなりすっとんだ話題に、シンジはついていけなかった。
「詳しく赤木博士にきいたの」
 ああ、二次会の話のつづきか。綾波の中ではきっちり続いてるんだなぁ。シンジは感心した。
「碇くんは、弐号機パイロットが好きなの?」
 シンジは紅茶をとりおとすところだった。
「な、何を言うのさ…」
 そこへ、空気を切り裂くように電話が鳴った。
 レイが立っていき、受話器をとった。受話器向かって、「知らない。いないわ、ええ」
と話していた。
 アスカからの電話だろうか。
 シンジはレイの後姿を見ていた。紅茶と綾波レイの落ち着いた態度のおかげで、チェロ破壊事件の怒りはだいぶ薄れていた。
 僕はアスカが好きか?
 結婚式のアスカはとても綺麗だった。あのときはいとおしいと思った。だが、アスカは意地悪をする。憎むほどでないにしろ、今の結婚生活が続けばいずれ嫌いになるだろう。
 アスカはたぶん、僕を小間使いかペット程度に思っているんだ。
 僕は、日本国籍のおまけなんだ。
 レイが戻って来てベッドに座った。
「彼女からだったわ」
「そう…」
 シンジはうつむいていた。
「帰りたくないの?」
「帰りたくない」
「なら、ここにいたらいいわ」
 シンジはその言葉に救いを感じる。
「ほんとはね…、僕とアスカの結婚は偽物なんだ。別にお互い好きじゃないんだよ。アスカがどういうつもりで僕と住んでるのか、僕にはわからない」
「辛いの?」
「…」
「本当に辛かったら、逃げてもいいのよ」レイはつづけた。「他に好きな人が出来たと言えばいいわ。相手は私でいい」
「そんなの、綾波に悪いよ」
 また、電話が鳴った。
 電話に出たレイが、シンジを振り返った。「彼女、今からここへ来るって」
 シンジは青ざめた。アスカが押しかけてきて、3人正座して話し合うなんて、悪夢以外のなんでもない。
「今から帰るって言って!」
「今から帰るそうよ」
 レイは口移しで受話器へ伝えた。
 受話器を置いたレイに、シンジは飲み終えたカップを渡した。
「ごめんね。もう帰るよ」
「大丈夫?」
「大丈夫。迷惑かけたね」
 シンジはつっかけに足をいれて、玄関で礼を言った。
「話したら楽になったよ。それじゃ…、ありがとう」
 シンジは実際、体が軽くなったような気さえした。レイは、シンジが見えなくなるまで見送った。



「ただいま…」
 シンジの蚊の鳴くような声は、マンションの戸が閉まる音にかき消された。
 奥からは何の反応も帰ってこない。シンジは履物をそろえて、おそるおそる足を進めた。
 アスカは、リビングにいた。
 外出でもしたのか、タンクトップから黄色いブラウスに着替えている。髪はうしろでひとつに束ねてとめ、横へ流していた。
 アスカは、シンジを見ずに言った。
「そこ、座んなさい」
 シンジはそれに従った。アスカの正面に正座すると、重苦しい空気が流れた。リビングの時計が秒を刻む音ばかり聞こえる。
「なんでいきなり出て行くのよ」とアスカが言った。「チェロが壊れたぐらいで飛び出すことないじゃない」
 シンジは、絨毯の起毛を人差し指に絡ませた。
「だって」
「だってもあさってもない。だいたい、どうしてファーストの家にいたの!」
「偶然、会ったから…」
「嘘」 アスカは目を細めた。「カヲルって女もそう。あんたって見かけより"たらし"なのよ」
 どうしてそんな風にばかりとるんだろう。シンジは、アスカが言うほどもてたことはない。結婚してからはなおさらだった。
 シンジは唇をとがらせて、上目遣いにアスカをうかがった。
「なによ。言いたいことがあるなら言ってみなさいよ」
「じゃあ、言うけど。僕もう嫌なんだ。あの、"夫婦の契約"とか…」
「あら、もっと夫婦らしくしたい?」
 アスカはからかうように言うが、シンジは構わずつづけた。
「アスカが必要なのは僕じゃなくて、国籍だろ。もう、別々に住もうよ」
「嫌」
 アスカは即答する。
「僕が出ていくからさ…」
「やだ」
 手詰まりである。なぜこんなに束縛するのか、シンジには理解できなかった。
 理想の男をつかまえたら僕を捨てる気のくせに。裏切るくせに。
 アスカは手を変えたのか、
「バカシンジ。なにすねてんの。チェロくらい、すぐ修理に出してあげる。ね?」可愛らしく言った。
 残酷な女だ、とシンジは思った。
 シンジは言った。
「僕、好きな人が出来たんだ」
「……なによそれ!」
 みるみるアスカの表情が変わる。眉を吊り上げ、三白眼でシンジをにらみつける。
 シンジは怖気づいた。
「だから、ね、別れよう。アスカならすぐ…」
「黙れ! 誰よ! 相手は誰!」
 シンジは、もう、言わなきゃよかった、と思いはじめている。
「あやなみ…」
「ファースト…!?」
 アスカの視線がシンジをえぐる。逃げたい。
「あんな人形女のどこがいいのよ! あんたなんか大っ嫌い! 絶対別れてやらない!」
 シンジは身をよじって小さくなった。
「どうして優しくされたら誰にでもついていくの! 犬とおんなじじゃない。あたしといても、他の人のことばっかり考えてる!」
 ああ、今の声はお隣までつつぬけだろう。
「アスカ、ちょっと落ち着いて…」
「わかった。人形女がヤらせてくれるからでしょう!」
 アスカの言葉はだんだん毒々しくなってくる。
「落ちつ…」
「本物の女が怖くて抱けないくせに。ほら!」
 アスカはブラウスをはだけて、ひきちぎるような勢いで、フロントホックのブラを外した。
 ぽろん、とまろびでた乳房にシンジは強張る。とっさに横を向くが、桃色の残像がシンジをとらえた。
「ア、アスカ。もういいよ。やめようよ」
「嫌!」
「そうじゃなくて、別れるのやめるから、もう」
「絶対別れない!」
 これじゃあヒステリーだ。
「お願いだから服を着てよ」
 シンジは膝でいざりよって、アスカのブラウスの前を合わせようとした。
 アスカがシンジの手首をつかんで引き倒した。ものすごい力だ。
 よつんばいになったシンジの首に、アスカがくらいついた。束ねてあったアスカの髪が解けて、床へ扇状にひろがる。
 股ぐらに太ももを押しつけられて、シンジは慌てた。
「ちょっ…」
 床へちゃんと手をつくと、アスカの髪を押さえてしまう。
 ためらっているうちにずんずん上体は重くなり、シンジは完全にアスカの真上になった。
 シンジの額、まぶた、頬、唇、耳まで、アスカの唇が押しつけられた。
 ちゅっちゅっちゅっちゅっ…。
 その熱く湿った感触にとまどい、シンジはアスカのわき腹に触れた。体を離そうとしたのだが。
 アスカはその手を掴んで自分の胸に押しあて、上から揉みしだいた。アスカの乳が、手のひらに吸い付きながらぐにぐにと形を変える。
―――と、とにかく、とシンジは思った。とにかく電気を消そう。
 キスの嵐に喘ぎながら、シンジは右手を上へ伸ばした。
 と、アスカの手がその腕を這いあがり、からめとる。巨大なタコを抱きしめているようなものだ。
 シンジは右手でスカートの中をまさぐりながら、なんとか胴をよじって左肩を伸ばす。
電灯の紐に触れた。
 暗転。


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