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おみまい

  〜エヴァ2に「お見舞いに行く」コマンドがあったらな記念〜


 午後。
 第一脳神経外科病棟は清潔な光に満ちている。外界では耳を刺すセミの声が飽和し、ここでは吸い込まれるような静けさと同化していた。
 ずっと続いている長廊下を、長い髪の少女が通り過ぎた。薄い水色の制服に赤味のかかった金髪。アスカだった。
「ったく、シンジも目ぇ覚めるなら覚めるって、前もって言っときなさいよね!」
 大股で歩きながらひとりごとを言う。それでも、時がとまったような空気をふきとばすことはできなかった。医師を呼び出す放送が薄くBGMのように流れている。前を見ても、後ろを見ても、同じ幾何学的な風景。
 少年は目覚めてから一度でもこの廊下へ出ただろうか。怪我を負ったシンジが、前傾姿勢で胸を押さえ、手すりを磨きながら、病院のスリッパをずるぺた引きずっては少し休む姿が容易に想像できた。
 アスカは自然と早足になる。

 シンジの目が覚めたら一番にかけつけて、「あたしは貸しを作らない主義なんだから、いい気になってんじゃないわよ!」と言ってやるつもりだった。シンジはこの間の戦闘で弐号機をかばって、使徒の怪光線を浴びたのだ。
 シンジが昏睡状態の間、アスカの脳内では少しだけ―――ほんの少しだけシンジが格上げされていた。時おり前触れもなく浮かぶ少年の笑顔には、金粉をまぶしたようなフィルターがかかっていた。
 そのポジションは加持さん専用だったのに。

 病室の番号を確かめて、取手に手をかけたとき。
 がらり。
 アスカが力を込める前に引き戸が開いた。自動ドア? と思いかけたアスカの真正面に綾波レイ。アスカは言葉を失った―――こいつ、あたしより先に!
 数秒見つめあった後、綾波レイが言った。
「……あなたもお見舞いにきたの」
「ち、違うわよ!」
 アスカの大声が廊下まで響き渡る。
「あたしはっ。たまたま通りすがりっていうか? 同僚のよしみよ! バッカじゃないの」
 自分でもおかしなことを言っている自覚はある。
 綾波レイは涼しい顔でアスカの横を通り過ぎた。
 アスカは肩をいからせたまま病室の中を見まわす。個室の真ん中に大きなベッドが据えてあって、シンジが上半身を起していた。アスカと視線が合うと目をぱちぱちさせた。
 アスカは大股でベッド脇へ歩み寄り、どすんと椅子に腰掛けた。シンジを睨みつける。
「ア、あすか…。きてくれたの」
 病人服のシンジがかすれた声を出す。
「まぁね。ふたりっきりのところをお邪魔しちゃったみたいだけど?」
「そ、そんなことないよ」
 久しぶりに意志の宿ったシンジの表情を見て、アスカはほっとした。不安がひとつ溶けていく。胸に軽い感動が湧いて、アスカはシンジの顔から目をそらした。
 常夏の日差しを白い壁が反射して病室は妙に明るすぎる。正面の窓いっぱいにカーテンが揺れていた。熱い夏の風が吹き込んで、汗ばんだ肌をなでた。
 大きすぎるベッド、白い病人着にかすれた声。差し込む光がまぶしくて、ただでさえ薄いシンジの影が余計にうすくなった感じがする。―――こういうの、薄幸のなんたらっていうのかしら。
「で? 具合はどうなの」
 ちょっとだけ柔らかく言う。相手は病人なんだから、と脳内で補正をかけた結果だった。
「いま、さっき起きたところなんだ…」
 シンジはまだ自分の発音を確かめている風でもある。
「寝ぼけてんの? このアタシがわざわざ来てあげてんだから、シャキっとしなさいよ」
「しゃきっと……」
 シンジはつぶやいた。「でも、あれからどうなったんだろう」
 あれから、とはたぶん、戦闘中にシンジが気絶した後のことだろう。
「あんたが目ぇ回してる間に、あたしがこう、バッタバッタとなぎ倒したのよ!」
 アスカは目の前の空気をつかんで、あちらこちらへ大きく投げ飛ばす動作をする。シンジがちょっとだけ笑ったのを、アスカは確認した。
 そのときふと、病室で唯一の色が見えた。青リンゴだ。備え付けの小さな棚にコロンと置きざりにしてある。
「これ、誰か持ってきたの?」
 体を伸ばしてリンゴを手に取る。
「綾波がくれたんだ」
「ファーストってそんな気使う奴だっけ?」
 アスカは手ぶらだった。
「リツコさんに持ってくように言われたんだって」
 青リンゴは丸くすべすべしていて、鼻先へ持ってくると甘い香りがした。
「へえ。あたしは赤いリンゴのほうが好きだけど」
「綾波は赤が嫌いなんだ」
「……。」
 アスカは黙った。
 少しおしゃべりになったシンジに、アスカの心はわずかにざわめく。本当に綾波レイの見舞いを邪魔してしまったのかもしれない。もう帰ろうか、という考えが頭をかすめる。
「……でもやっぱアイツ、気が利かないわ! リンゴどうやって食べるのよ。丸かじり?」
「ええと、なんかないかな。そこのひきだしとか」
 シンジに言われるまま、胴をのばしてひきだしの中を探った。
 はさみやハンカチの他に、果物ナイフが手に当たる。
 果物ナイフと青リンゴがしっくりと手におさまった。
「シンジ、リンゴむいてあげよっか」
 シンジは丸めていた背をわずかに伸ばした。
「アスカが?」
「あぁ? 見くびってもらっちゃあ、困るわね! ウサギだろうがピカチュウだろうがお手のものよ!」
「……じゃあ、ピカ…」
 思い切り睨みつけてやる。
「…うさぎで」
「ウサギねっ?」
 アスカは座りなおすと左手にリンゴを握りしめ、ナイフの刃をリンゴの表面に沿わせた。ふたりの視線がアスカの手元に注がれる。
 アスカは力を込めた。
 甘酸っぱいリンゴの果汁が飛散し、アスカの指を濡らした。アスカの手にかからなかった分は秒速何メートルかで病室の空気をリンゴ色に染めた。
 爽やかで、とてもいい匂い。
 アスカが目をやると、少年も同じ感想を抱いているのがわかった。アスカは味見がしたくて、果汁のかかった手を唇へもっていった。親指のつけねの、肉がふっくらとした部分を舐めた。
「アスカ、やっぱり僕が剥くよ」
 シンジは手を伸ばして、早口で言った。
「そう?」
 何故か素直に渡してしまう。
 手渡すとき、リンゴを支えるアスカの手にシンジの指が触れた。リンゴを受けとる器の形に構えたシンジの手の中で、自分の手をよじって離すとき、一番たくさん触れた。
「ねえ」
 アスカは、果汁でべとべとになった手を拭くことも忘れていた。
「どうしてあんな無理したの。浅間山のときも」
 声が潤んでしまう。媚びたりするのは絶対嫌なのに。
「わ、わかんないよ。そ、危ないと思ったから、とっさに」
 シンジの視線は手元のシーツをさまよった。
「あんたって卑怯よね。ふだん臆病なくせにああいうときだけカッコつけるなんて! ちょっと一発殴らせなさい」
「ええっ。やだよ! むちゃくちゃじゃないか」
 シンジはベッドの上で身をのけぞって、怒るようなそぶりをする。シンジは片手で体をかばいながら、片手でリンゴと果物ナイフを棚へ避難させた。
 アスカの調子が普段どおりに戻ったので、安心したのだ。
「観念なさい。叩かせないなら一生恨んでやるから。戦闘訓練のとき後ろから刺すわよ。本気よあたしは!」
 ベッドに膝をついて身をのりだし、病人着の襟首をひっつかんだ。遠ざかろうとするシンジを思い切り引き寄せる。だぶだぶの病人着をつかんだ拳で巻き上げて、中身(シンジ)を動けなくしてしまう。
 誰かが見たらカツアゲの現場と思っただろう。
 右手を高く振り上げると、シンジは首を縮めてきゅっと目をとじた。
 手を下ろして そっとシンジの頬を包む。自分の唇をシンジの唇に押し当てた。驚いて大きく見開かれるシンジの瞳。アスカはいったん唇を離すが、シンジの視線が恥ずかしくなって目を閉じ、今度は長いキスにした。
 とがらせていた唇をやわらかくしてみる。
 すると、シンジもそれに応じてこわばりが溶けた。
―――キスって思ってたより"肉"っぽい。それに、レモンの味なんてしないんだわ。
 ヒカリに借りた少女漫画に書いてあったことは、やっぱり嘘だった。シンジのかさついた唇の感触(病人だから、仕方ないか)。自分はちゃんとリップクリームを塗っていたし、息もくさくないと思う…たぶん。
 シンジは時々身をよじるが、完全にベッドの背へ押し付けられていた。
 薄目を開けると、シンジは目をとじていて黒いまつげが時々動いていた。
 何か動いている。横目でみると、シンジの手が宙をさまよっていた。中途半端に曲げられた腕が、アスカの肩へ数センチのところまで近づいてはまた離れて、を繰り返す。その間も指がぴくぴくと小刻みに運動している。
 アスカはそれが面白くてもっと身を乗り出す。
 キスは初めてだったからやり方はよくわからない。ただ、もっとシンジを驚かせてやりたい、もっとシンジを味わいたい、その気持ちだけで唇を動かして―――
 シンジの後頭部が壁に衝突し、鈍い音をたてた。「んう」 とシンジがうなった。
 やりすぎたことに気付いて、アスカは体を離した。
 太鼓のような心臓の音を聞かれただろうか? 恥ずかしくて、今すぐ病室を逃げ出してしまいたい。はしたない子と思われた?
 でも、こういうことは後悔のないようにしておきたい。
 明日使徒が来てもいいように。明日死んでもいいように。
 シンジに顔をみられないよう、素早くシンジの右の肩にあごを乗せた。二人は"偶然"抱き合ってるような状態だった。少年の上半身は薄く、アスカより堅かった。シンジの体ってこんな形をしてるんだわ。
 アスカは唇のつばが冷えていくのを感じながら、
「また使徒が来ても、あたしがあんたを守ってあげる」
 それは自分への誓いでもあった。「だから二度とああいう危ないことすんじゃないわよ」
「う、うん…、でも」
 アスカは身を離してちゃんとシンジの顔とむかいあった。シンジは間の抜けた犬のような表情をしていた。
 アスカはシンジの唇を軽く人差し指で押さえた。
「つづきは退院してから。だから、ね?」
 何が、「だから」なのか―――? さすがのシンジもそこまで鈍くなかった。シンジの頬が一気に赤らんで、ぱくぱくと口を動かす。首ふり人形みたいにカクカク首を縦に振った。
 アスカはそれを確認して微笑んだ。シンジが可愛かったので自然に笑うことができた。
 ベッドから下りて学校鞄を掴むと、アスカは病室を出て駆け出した。



 シンジは、アスカの長い髪がひるがえるのを見送った。
 唇に手をやる。気が抜けてばったり仰向けになる。目にするのはあの、知らない天井である。
 ふたたび蝉の声だけになると、夢じゃなかったのかと思う。
 あんなふうに女の子と―――それもアスカと―――。
 ふと棚の上に目をやると、剥きかけの青リンゴとナイフ。病室に満ちていくリンゴのかおり。

つづく?


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