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少女趣味(前編)


 下校前のホームルーム。
 教師が保護者への連絡プリントを朗々と読み上げている間、シンジの心は窓の外にあった。常夏の日差しが机の左端をまで照らしている。シンジは少し体を傾けて、自分の腕と顔に日があたるようにしていた。
 シンジはなかなか日焼けをしない体質だった。シャツは汗ばみ、照り焼きにされている気分だが、火照りがとれればすぐ元の白い顔に戻ってしまうだろう。
 シンジは自分のなまっちろい顔があまり好きではない。
 ひじをつきながら思い出すのは、大人の男の意見だ。

「優しくするばかりじゃ、飽きられてしまうよ。女性の気をひくには時々冷たくするのも手だ。他の女の影を匂わせたりね。つれなくされると追いたくなるのが女心というものさ」

 昨日ふと、話題が女の子の話になり、どもりがちに相談をもちかけたシンジに、加持はそう教えたのだ。「優しくするばかりでは飽きられる」という言葉にはドキリとした。
 アスカを見ていると飽きなかった。最初は、(確かに美人だなぁ)と景色を眺めるような気持ちで見ていただけで、炎のような激しい気性を知ったときは、(自分には合わないだろう)と気後れした。
 アスカは、強くて完璧で綺麗だ。いつも少し胸を張っているので、本当より背が高く見える。実際並ぶとシンジと同じくらいしかなかった。
 アスカがからかってきたり、プロレスと称して体を絡ませてくると、シンジの胸は唐辛子を飲み込んだみたいにカッと熱くなる。アスカがいたずらっぽく笑う瞬間、シンジは、すべて計算ずくで弄ばれているような錯覚に落ちる。
 いつか嫌われるのではないかという不安は日に日に大きくなったが、それよりも今は熱のほうが大きかった。自分以外のものにこんなに熱中したことはなかった。 
 そんな少年の心理を知ってかしらずか、アスカはシンジをうまく操縦している。
 荷物は持たされるし、食事当番はかわってあげるし、許しをもらってアスカの部屋の掃除だってする。
 ある日、アスカのパンティーをせっせと干しながら、シンジは愕然とした。
 これじゃあただの家来じゃないか。
 このままではいけない。いけない。本当の下僕になってしまう。無気力、他人任せが信条のシンジに、珍しく気力が満ちた。若さと恋が少年を駆り立てた。
 僕の男がかかっているんだ。
 "つれなくする"って実際にはどうするんだろう。自分は器用なほうではないし、難しい駆け引きはできそうにない。アスカの機嫌が悪ければ張り倒されるだろう。
 父さんは他の皆にするように、母さんにも毅然と接したのだろうか。シンジは厳格な髭づらを思い浮かべた。たぶんそうだろう。そこは見習わなくちゃなぁ。

「シンジ! 帰りましょ」
 はっと立ち上がると、ホームルームが終わっていた。教室はざわめき、級友たちはめいめい鞄をもって帰り支度をしている。
 アスカが真ん前に立っていて、
「何ぼけっとしてんの?」と青い瞳でシンジをのぞいた。
 その愛らしい仕草を見るだけで、頭に血がのぼって、胸がいっぱいになって、ガクガクとうなずいてしまいそうになる。
「馬鹿づらに磨きがかかってるわよ」
 ピンッ
 アスカは右手の中指で でこぴんをした。
「いたっ」
 シンジは思わず目をとじて、手を額に当てる。
 予想したほどの痛みはない。アスカは手加減してくれたらしい。
 目をあけると、アスカはもう歩き出していて、
「バカシンジ」
 と合図した。
 脊髄反射でついて行きそうになる。
 あわてて足を踏ん張った。
「きょ、今日は寄るとこあるから」
 アスカが立ち止まって少し振り返る。
「ふぅん。どこに行くの」
「ええと…その…、多分言ってもわからないと思うよ」
 アスカは少し意外そうな顔つきでシンジを見回した。
「わかったわ。じゃあね」
 アスカは紅い髪をひるがえして、モデルのように颯爽と教室を出て行った。
 うまくいったはずなのに、シンジはなんだか胸に穴が空いたような気持ちで鞄に教科書をつめる。そこへトウジがやってきて、行儀悪く机に尻を置いた。
「なんやセンセ、嫁はんにほっていかれたんかいな」
「ちがうよ」
 シンジは自分を鼓舞するように、「僕がほっていくんだよ」



「ただいま」
 玄関が閉まるエアー音を背で聞きながら、買い物袋を台所へ運ぶ。
 アスカはリビングで足をぶらぶらさせながら雑誌を読んでいた。
「遅かったじゃない」
 アスカはこちらを一度も見ない。
 やっぱり僕のこととかどうでもいいのかな、っていうか、あんなことで気をひけるのかな?
 とりあえず、いつまでも色事ばかり考えていられない。シンジは気持ちを切り替え、手を洗ってエプロンをかけた。夕食の準備のために冷蔵庫を開けた。
 冷気とともに暖色系の光が目の前に広がる。
「夕飯何にするの?」
 いきなり近くで声がしたので、ぎょっとした。振り向くとアスカが側へきている。
「ピラフだよ」
「ピラフ?」
 材料を出し終え、シンジはまな板の上で切り始めた。
「ピラフって何料理なの?」
「うーん、中国…? かなぁ。でもピラフって漢字じゃないし…。ロシアとかかな」
 その後も他愛のないことをばかり話しかけてきた。米を洗う段階までくると、水音がうるさくて話ができなくなり、アスカはリビングへ帰って行った。
 シンジは首をかしげる。
 その夜、向かい合わせで夕飯を食べ終えると、シンジはカレンダーを横目で見ながら、
「あの、家事の分担だけどさ」
 と切り出した。
「僕ばっかりやってるのって、ずるいと思うんだ」
 アスカは子供っぽい動作で身をよじった。
「えー? でも、ミサトだってシンジにまかせきりじゃない」
 シンジはこの仕草に弱い。体がムズムズして、むしゃぶりつきたくなってしまうので、よそではやらないで欲しい、と心から願っている。
「ミサトさんは仕事だろ。アスカは家でぶらぶらしてるじゃないか」
 シンジが本気らしいのがわかると、アスカはふざけ気味の口調をやめた。
「そんなにイヤなの?」
「僕だっていそがしいんだ」
「ふん。なーによ。バカシンジのくせに。いいわ。ちょっと押し付けすぎたかもね」
 シンジの態度がかたくななのを見てとると、アスカは意外と素直に応じた。
「でも、買い物はあんたがやってよね。重いからイヤなの」
「力ならアスカのほうが強いだろ」
 アスカは顔を渋くしてつぶやいた。
「日本語のラベルとにらめっこして買い物するの、疲れるのよ。あんたが買うか、私が買うときにあんたがついてるか、どっちかにしてよ」
 日本語が読めないのが恥ずかしいのかもしれない。アスカは怒っている。家事を押し付けられたから怒っているのではなく、こんなことを言わされるのは耐えられないといった風だ。
 シンジは気圧されたが、もう一押しだ。
「そんなの理由にならないよ。買い物も一人で出来ないの?」
 挑発的に言えばアスカはNOとはいえない。シンジなりに考えたのだ。
「……出来るわよ!」
 アスカが机を叩いた。茶のみが飛び跳ねて半分以上中身をこぼした。
「なによ、二度とあんたなんかに頼まないわよっ! ばかっ」
 アスカは肩をいからせて自室へ引き上げていった。
 ―――やっぱり、買い物くらい一緒に行ってあげると言えばよかったのかも。アスカは、二度と頼まないと言っていた―――いや、これで効果はあったんだ。僕の意見は通したんだし―――。
 シンジはこぼれたお茶を布巾で拭きながら、自分が残酷になったような、強くなったような気がした。
 それは錯覚だったが、あの、アスカの怒った顔。可哀想で、申し訳なくて―――なぜだかもっと困った顔が見たいと思った。こんな気持ちは初めてだ。
 シンジはアスカの部屋のほうを見た。
 次はもっと意地悪を言ってしまうだろうという予感がした。

*   *   *   *   *   *   *

  時計の針は、もうすぐ昼の12時をまわる。アスカは秒針を見ていた。
 そのときお腹がグググ…と音をたてて、アスカはあわてて胃のあたりを押さえた。押さえてはみたものの、音を防ぐ効果はあまりなかった。クラスの周りの席を見回す。幸い、だれもアスカの腹の虫をきかなかったようだ。
 キーンコーン…
 チャイムが鳴って、洞気ヒカリがよく通る声で、
「起立、礼!」
 とおじぎをした。
 ドイツにはこんな風習はなかった。ちょっとめんどうくさい。
 アスカは形だけおじぎすると、シンジの机へ駆け寄った。机にいきおいよく両手をつく。
「シンジ! あたしのお弁当!」
 シンジは鞄に手を入れてアスカを見た。シンジの鞄からはシンジの紺色のお弁当包みが出てきた。その次にあたしの赤い―――。
「はい」
 予想に反して、シンジは拳を握って何かを渡してきた。受け取ると、五百円玉だった。
「あたしのお弁当は?」
「ないよ」
「…なんですって!」
 アスカは思い切り身を乗りだした。
 長い髪がかぶさるように広がったので、シンジはのけぞって避ける。
「なんで持ってこなかったのよ!」
「だって今日は、アスカの食事当番の日じゃないか」
 心もち小さい声でシンジが抵抗する。
「だからってアンタ、自分の分は作ったんでしょ! 気を使って私の分くらいつめてくれたっていいじゃない!」
 事実、今までシンジはずっとそうしてきていた。だから今日もそのつもりだった。
 少し離れたところから、鈴原トウジがわざと皆に聞こえる大きな声で、
「おうおう、夫婦喧嘩かいなぁ」
 とはやした。だから男子はガキで嫌いだ!
 シンジは頬を染めてうつむくが、
「アンタはだまってなさい!」
 アスカが、トウジの2倍の音量で外野を制した。お腹が減って気が立っているのだ。
「このあたしにお弁当なしで過ごせっての!」
「購買いきなよ」
「ロクなもん売ってないじゃないの!」
 一瞬、シンジの弁当を奪い取ってやろうかと思うが…、振り上げた拳の中の、堅い500円玉の感触。
「もういいわよ!」
 言い合いをしているうちにパンが全部売り切れてしまう。アスカは教室を出た。アスカがパンを買う間、ヒカリは待っていてくれた。
 荒々しくビニールを破り、メロンパンに噛み付く瞬間、アスカは、よくシンジがお弁当にフォークを添えてくれていたことを思い出した。あれは箸に慣れないアスカへの思いやりだったのだろうか。
「もう関係ないわ。あんなケチ臭い奴」
 ヒカリは隣で苦笑いした。 



 いきつけのゲームセンターが駅前にある。アスカは(タムロしていて通行の邪魔だった罪で)他校のヤンキーから罰金をせしめ、そこで遊んでいた。
 本当はヒカリと遊ぶ約束だったのだが、ヒカリは鈴原の妹のお見舞いについていってしまった。
「あのジャージのどこがいいのかしらねぇ…。まぁいいわ」
 ヒカリが望みが叶ったのだからなによりだ。喜んであげなくちゃ。
 こういうときのために暇つぶし用のシンジがいるのに、シンジは生意気にも用事があるといいやがった。最近ずっとそうだ。超絶暇そうな顔しといて何が用事よ。
 狙っていたキーホールダーがUFOキャッチャーの手からこぼれた。
「あーっ。だーっ! きー、もうちょームカつく!」
 拳で機械を思い切り殴る。中のキーホールダーたちが揺れてアスカを挑発した。
「この機械壊れてんじゃないの!」
 もう一発お見舞いする。
 店員が「お客さん、乱暴は…」などと言いかけたが、アスカのしなやかな回し蹴りを見て口をつぐんだ。
 UFOキャッチャーはあきらめて、他の機械に移ることにする。
「どれにしよっかなあ」
 最近ひとりごとが増えた。でも、騒々しいゲームセンターでは大声で喋っても誰も気にとめない。
「大丈夫よ。さ、次はこれにしよっと」
 アスカは道路に面した格闘ゲームにコインを入れかける。ムキムキのお兄さんが赤いハチマキを巻いてる絵のやつだ。
 そのとき、歩道の向こうに見慣れた人影が見えた。
 アスカはコインを入れ損なって立ち上がる。シンジと綾波レイだった。
 壱中の制服だし、あの女の灰白色の髪は間違いない。
 一瞬シンジがこちらを見た。
 目が合った気がしたが、シンジは何事もなかったかのように隣の綾波レイと話している。
 単に気付かなかったのか、無視されたのかは解らない。
 アスカはしゃくに障ってどすんと椅子に尻を落とした。コインを入れると"READY"の文字が表示される。手が勝手にやり込んだ技を繰り出し始めた。

 ↑↓←→ ↓↑←→ ←↑↓→ →↑↓← !
 
 手の長いインディアンを倒して2試合目を放棄し、顔をあげると、シンジと綾波レイの背はずいぶん遠ざかっていた。
やっぱり無視されてしまったのだと思う。自分の髪は目立つほうだし、目に入らないはずはない。声をかけてこなかったのは、声をかけたくなかったからだ。
 あのふたりは相互交換実験をやっているから、ネルフの帰りが一緒だったのかもしれない。
 ファーストはいつものように無口なのだろう。シンジばかりが少し頭を動かして、話しかけているのがわかる。あのふたりが話すときはいつもああなのだろうか。
「ガキがみんな色気づいちゃって…」
 アスカは立ち上がって、アーケードの奥を見回した。
 ふと、スロットの景品に目がとまった。透明なケースのむこうに、ぬいぐるみやマグカップ、小物入れなんかが雑多に並んでいる。大きなクマのぬいぐるみが取り残されていた。以前きたときは周りに同じ型の小さなぬいぐるみがたくさん並んでいたのに。
 透明なケースに手をついて、ぬいぐるみの周りの空白を眺める。
―――あんただけ売れ残っちゃったのね。
 アスカは手の中の残金を確かめた。



 頭の中で話す内容を軽くおさらいする。加持に会うときのように、ダンドリを考え始めた自分に気付いて、アスカはそれを振り払った。相手はシンジだ。ふつうに、いつものように思いついたことを言えばいいのだ。
 アスカは、シンジの部屋の前で立ち止まった。
「シンジ、入るわよ」
 すぱぁん、と勢いよくふすまを開ける。
 シンジは机で勉強していた。驚いた様子でアスカを振り返った。
「な、なに? ノックくらいしてよ」
 シンジは机を腕で覆うようにしている。
「ノックったって、あんたの部屋ふすまじゃない」
「いいよもう。何?」
 シンジは机上に広げていた本を、アスカに見せないようにノートの下へすべりこませた。
「別に、用ってほどのことじゃないんだけどさ」
 勝手に入って行ってベッドへ腰掛ける。こうすると、シンジの部屋にすっぽり落ち着いた感じ。
 シンジは椅子を回転させてアスカへ向き直った。眉をひそめて落ち着きなさそうにしている。
 そんなに嫌そうな顔しなくてもいいじゃない。
 アスカはベッドから立ち上がった。もう要件を引き伸ばすことはしないでおこう。
「古文の辞書貸してよ」
「なんで? 自分のは?」
「学校に置いてきたみたい」
 しょうがないな、とシンジは机から離れ、本が積んであるところへ立っていく。
 シンジが辞書を探している間、アスカは部屋を見回した。元物置だけあって薄暗く、圧迫感がある。
 アスカは視線を漂わせた。シンジが毎日、寝たり起きたり音楽を聴いたりしたことで、部屋中に薄く飛散したシンジの気配を感じた。嫌な感じはしない。
 以前、綾波レイが初号機に乗ったとき口にした”碇くんの匂い”とはこういうものなのかもしれない。
「…ねえ、機体の交換実験って楽しい?」
「へ?」
 シンジは間の抜けた声で答えた。「楽しいも何もないよ。実験だよ」
「あたしはやらなくていいのかしら。だって、あんたよりうまく初号機を操縦できるかもしれないじゃない?」
 ちょっとおどけてみる。
「無理だよ。弐号機とは型が違うって、リツコさんも言ってただろ」
 やっぱりつまらない奴だ。シンジが投げるように辞書を渡したので、アスカはその重さに驚いて両手で受け取った。シンジは無言で突っ立っていた。アスカが出ていくのを待っているようだ。
 シンジのかたくなな態度を見ていると反発したくなる。出てってやるもんか。アスカは肩を張った。
 机の上の数学のノートを手にとる。
「まだ数学の宿題やってないの? おっそー」
 ぱらぱらとページをめくる。几帳面なシンジの字が並んでいる。
「アスカだって古文終わってないくせに」
 あたしは天才だからいいのよ…。言いかけて、アスカは机上のテラテラした雑誌に気付いた。
「あらぁ? コレ何かしら?」
 わざとらしく指でつまみあげる。
「あっ」
 シンジが叫んだ。
 思春期の少年がひたかくしにするものといったら見当はつく。表紙には裸のお姉さんが―――、というアスカの予想を裏切って、表紙は筋肉隆々のお兄さんだ。
 まさか、ホモ雑誌? 怖いもの見たさで中をめくると、写真のお兄さんはちゃんとスパッツやタンクトップを着用している。"バーベルの正しい持ち方"という字を見て、アスカはやっと筋トレの本だと気付いた。軽く安堵する。
「返せよっ」
 シンジは腕を伸ばすが、アスカは素早く背を向けて避けた。
「ふぅん、シンジ君はマッチョになりたいんだー?」
「うるさい!」
 シンジはアスカの手から雑誌を奪い取った。バサバサと破れんばかりの音を立ててまくれるページ。シンジは雑誌を腹に抱えて背を丸め、憎らしげに戸を指差した。
「出てけよ!」
 立ち尽くすふたり。
 アスカは絨毯の柄を見ていた。まだ何か言えた気がしたが、喉がつまってしまってうまく言葉が出ない。決まり悪いのを我慢して視線をあげると、シンジは机に戻って、雑誌をしまいかけていた。
 もう、前みたいに軽く、お互いの距離をはかりながら喧嘩をすることもできなくなってしまったのだろうか。
 アスカはシンジの部屋を出た。激しく音をたててふすまを閉めてやる。
「なによ、なによ。人がせっかく…」

つづく
(思ったより長くなったので分けます)


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