The Great Gatsby


 フィッツジェラルドの作品を読んだのは、この「グレート・ギャッツビー」が初めてだったのだが、すっかり魅了された。この小説にはむだな言葉がまったく排除されていて、まるで詩のような語り口でストーリーが進んでいく。後半はミステリアスな雰囲気が支配し、読み手を引き込ませる。ギャツビーという男が象徴するものはあまりに大きく、それゆえ彼は人間離れしているように感じさせる。
 フィッツジェラルドの代表作であるにとどまらず、アメリカ文学を代表する傑作として数えられ、アメリカン・ドリームが具現化し、東部の都会を中心に繁栄に酔いしれていたジャズ・エイジと呼ばれる1920年代のアメリカの様相を見事に描き出している作品である。主人公のギャツビーがたどる栄光から破綻への道のりは、1929年の株の大暴落に端を発する大恐慌、それに作者フィッツジェラルド自身の人生を思い起こさせる。
 物語は、故郷の中西部に埋もれて暮らすことに我慢できず、東部の都会に出て来た青年ニックの視点で語られていて、ギャツビーとデイジーを中心としてストーリーが展開する。彼らの周囲に個性的な登場人物達を配置して、ドラマ、恋愛、コメディ、それにサスペンスといった多彩な要素が盛り込まれていて、これもこの作品の魅力となっている。 ギャツビーは、三十歳を一つ、二つ超えたくらいの歳である。彼が貧乏な境遇から大金持ちに成り上がり、ロングアイランド海峡の入江を望むウエスト・エッグに建てた豪邸で、週末毎に催したパーティーは豪華なものだった。週末には、朝から晩までロールスロイスやステーションワゴンで客の送迎をし、月曜には八人の召使いが前夜の後片付けに奔走するといった具合である。
 入江の向こうのイースト・エッグには、ギャツビーがかつて愛し、今もなお愛し続けているデイジーが、彼女の夫のトムと住む邸宅があった。ギャツビーは五年前にデイジーと知り合い、互いに愛し合っていたが、軍役に就いたギャツビーがフランスから復員したとき、彼女は金持ちのトムと結婚していたのだ。しかしデイジー自身はトムとは不仲だった。
 デイジーへの想いをあきらめられなかったギャツビーは、必死の思いで富を築き、デイジーの邸宅が見える対岸に屋敷を建て、派手なパーティーを開き、彼女に再会できる機会を待っていたのだった。ギャツビーは隣に住む、デイジーのまたいとこであるニックに仲介を頼み、五年ぶりの再会を果たすことになる。
 ギャツビーの、富を得て対等の立場でデイジーと再会を果たすという夢がかない(フィッツジェラルド自身、「ギャッツビーを貫く観念は、貧乏な青年は金持の女と結婚することができないということの不当さだ」と語っている)、二人の間にはかつての愛がよみがえるかのようにみえたが、その愛ははかなく、脆いものだった。五年もの間、ひたすら夢見、待ち望んでいたデイジーとの再会が、ギャツビーにとってのひとつの夢の終り、そして悲劇の始まりであったとは、なんとも皮肉な運命の巡りあわせである。
 入り江を隔てたデイジーの邸の桟橋にともる緑の灯が何度も描写され、それがギャツビーにとって見果てぬ夢であったデイジーとアメリカン・ドリームを象徴するものとして扱われている。初めてギャツビーがデイジーを自分の屋敷に迎えたとき、二人は並んで、雨で霧の立ち込めた海峡を眺める。


「もし霧がかっていなければ、湾の向こうにあなたの家が見えたのですけどね」とギャツビー。「いつもいつも、緑色の光が一晩中桟橋の端に灯されている」  デイジーは唐突にギャツビーの体に腕を伸ばしたけれど、ギャツビーはいま自分が言ったことに気を取られていたように見えた。もしかしたら、あの灯りの巨大な意味が永遠に消滅してしまったことを思わずにいられなかったのかもしれない。彼とデイジーを隔てていた長大な距離と比べれば、その灯りとデイジーとは、近くも近く、ほとんど触れんばかりの距離にあるように思えたのだろう。星から月までの距離と同じくらいの近さに。いまふたたび、それは桟橋にある緑色の灯りにすぎなくなった。彼の心を魅了していたものが、ひとつ、減ったわけだ。
(「The Great Gatsby」翻訳:枯葉)


 結局、ギャツビーのロマンティックな夢とデイジーの現実的な打算とは相容れることはなく、夢見るギャツビーが銃弾に撃たれて息絶えるという結末を迎える。前段の華麗なるパーティーとは対照的に、ギャツビーの葬儀はニック以外にはほとんど参列しない。デイジーすら顔を出さない。
 ギャッツビーは強固たる意志を持っている。愛する女性と結婚するためだけに大金持ちになり、そして五年間の空白を埋めることはたやすいと本気で信じている。そのことを全く疑わないのだ。彼の心の中で、デイジーの占める割合が大きすぎて、ほかの人物の入る隙はない。それゆえ彼は壮絶な孤独のオーラを身にまとっている。そのことが根も葉もない噂の一因にもなっていたのだろう。もちろん、成り上がりものであったがゆえに、交友も人脈もあったものではなかったのかも知れない。
 物語の語り手であるニック・キャラウェイは、他者と不思議な距離を保っている。父に「他人のことをとやかく言いたくなったときはいつでも、この世の誰もがおまえほどに恵まれた生き方をしてるわけじゃないと思い出すことだ」と忠告されていて、それを実践している。おかげで「鼻つまみ者」からも妙に好かれてしまっている。たとえば、トム・ビュキャナンがそうである。
 ニックはそのことを自覚している。自分に対して完全な統制がとれている男、つまり、人前で泣いたり、怒りをぶちまけたりすることが考えられないような人物に描かれている。しかし彼はそんな自分に満足していたわけではない。戦争によってそんな感情を抱くことが希薄になったともいえるかもしれない。戦争に比べれば、ほとんどのことは嘆いたり怒ったりするには取るに足らないものだ。
  そんな彼がギャツビーに出会った。軍隊に入る前にもあとにも変わらぬ情熱を持ちつづけているギャッツビー。彼は自分を信じている。時には率直過ぎると思われる態度も、その情熱と自信が原因だと分かるにつれ、ニックはギャツビーに好意を抱き始める。しかしそれがはっきり形になるのは彼がなくなる直前、事態が深刻になってしまった後だった。彼は葬式の前にギャツビーの父親に「親しい友人でした」と言う。その言葉にはまったく嘘がないと思う。そしてギャッツビーの親友はニックしかなりえなかったであろうと思う。
 「ロスト・ジェネレーション」―戦争という非日常の後で、色々な意味で目的を見失った人々の世代と言われる。そしてアメリカは、世界大恐慌まで享楽的な時を過ごす事になる。それがギャツビーのパーティーに表れている。実態が見えず(パーティーにやってきた人々は誰もホストであるギャッツビーの顔を知らない)、ただ飲み、歌い、踊り、騒ぐだけのパーティーである。
 しかし、ニックは、ギャツビーによって、情熱や恋、自分自身への信頼だけでは生きていけないということを知る。そうして彼は、ジョーダンとも別れて西部に帰ることに決めたのだ。
 フィッツジェラルドの生い立ちを見るにつけ、ニックが彼自身と重なって見える部分が多い。「金持ちとそうでない連中」。このような世界の分け方にフィッツジェラルド自身大いに苦しめられた。その思いがほとんどの彼の人生を支配してしまったと言ってもいいかもしれない。彼の金持ちへの批判、捉え方は現代でも十分通用する。
  フィッツジェラルドの他の短編集も非常に興味深かったことを記しておきたい。「冬の夢」や、「金持ちの御曹司」など、やはり欠落を抱えた金持ちの人々とその周りの人を描いた作品がみられる。ただやはり現代でも通じる普遍性を持っているところが驚嘆するところだ。


(約3200字)


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