「ダロウ」と「デハナイカ」 〜確認要求における使用条件〜

0.はじめに

 本講義内で私が一番興味深かったのが、「ダロウ」の用法であった。最初私は「ダロウ」には推量用法と確認要求用法というものがある、なるほど、と簡単に理解していたのだが、宮崎先生が述べられているように、よく考えてみると、この二つの用法には、使用される文法的状況がまったく異なる場合もあれば、文法的な側面だけでは区別のできない場合もあり、たんに「ダロウ」についてのみ考察していただけでは解決できない問題を含んでいる事が分かった。また、確認要求の用法には、さらに下位分類があり、ひとくくりにはできない事も知った。しかし、講義では完全な理解までにはいたらず、疑問も多く残った。
 そこで、このレポートでは、私にとって納得のしにくかった、確認要求用法の聞き手誘導型である「共通認識の喚起」と「認識形成の要請」における「ダロウ」と「デハナイカ」の相違について考えてみたいと思う。

1.確認要求の用法

〔1〕聞き手依存型・聞き手誘導型
 まず、確認要求用法の下位分類について、私自身の見解を元にまとめる。
 確認要求用法は、まず大きく「聞き手依存型」と「聞き手誘導型」に分けられる。
 「聞き手依存型」は、話し手の認識が不確かな状況で、聞き手に判断を求めるもので、他方の「聞き手誘導型」は、話し手の認識は確かな状況であり、その上で聞き手にもその認識を受け入れるようはたらきかけるものである。

 (1)彼の名前は聞いたことがあるだろう?(聞き手依存型)
 (2)一緒にあそこの壁に落書きしただろう。(聞き手誘導型)

  ここで、「聞き手依存型」では「ノデハナイカ」、「聞き手誘導型」では「デハナイカ」が使用できることも分かる。(逆は成り立たない)

 (1')彼の名前は聞いたことがあるんじゃないか
 (2')一緒にあそこの壁に落書きしたじゃないか

 このように、「聞き手誘導型」には「ダロウ」と「デハナイカ」が用いられるのだが、これら二つの使用される状況は異なる。

 (3)私の服、高そう〔でしょう/×じゃない〕。
 (4)あなたの服、高そう〔×でしょうじゃない〕。

 このように、(3)では「デハナイカ」を、(4)では「ダロウ」を使う事はできない。これらの文章の違いは、「私の服」であるか「あなたの服」であるかという点にある。つまり、(3)のように話し手自身が認識している事について、聞き手の同意を求めているのか、あるいは(4)のように話し手が推量した事について、聞き手の判断を仰いでいるのかの相違点がある。

  ダロウ デハナイカ
確認の対象(不確かなもの) 聞き手の認識 話し手の認識
聞き手へのはたらきかけ 聞き手依存型
聞き手誘導型
聞き手誘導型



〔2〕聞き手誘導型の下位分類
 「聞き手誘導型」はさらに「共通認識の喚起」と「認識形成の要請」の二つに分かれる。
 「共通認識の喚起」と「認識形成の要請」は、どちらも、話し手と聞き手の認識の同一性を確保しようとする作業であるが、蓮沼(1995)によると、「共通認識の喚起」は、話し手は命題内容の成立・存在について直接認識しており、聞き手に同じ内容の認識を促す場合に用いられ、「認識形成の要請は、認識の共有があらかじめ否定されている(ように振舞う)聞き手に対して、話し手が再認識を求めるような場合に用いられる(聞き手をののしる機能のある助詞「が」が後接できる点で、相手を非難するようなニュアンスを含む可能性が考えられる。)、という相違点がある。

 (5)あの子いつも赤い服を着ているでしょう。(共通認識の喚起)
 (6)いつまで起きてるの?明日は学校でしょう。(認識形成の要請)


〔3〕「ダロウ」と「デハナイカ」の互換性
 ここで、「認識形成の要請」において「ダロウ」と「デハナイカ」には互換性が成立するように思われる。

 (6')いつまで起きてるの?明日は学校じゃない

 これらは一見互換性があるように思われるが、それは、この分の命題の内容を聞き手の認識内容とするか、話し手の認識内容とするかにあいまいさがあるからである。よって、例えば命題内容を聞き手の認識であることを明示するような形に書き換えると、「デハナイカ」が使えないことが分かる。

 (6'')いつまで起きてるの?明日は学校なの、分かってるでしょう/×じゃない〕。

 明日学校があると分かっているは話し手であり、話し手の認識が確かなものであるのは明らかであることから、話し手の認識を聞き手に押し付ける働きをもつ「ダロウ」が用いられる。分かっているかどうかの判断は聞き手にゆだねられているのである。
 しかし、(6')のように命題内容を聞き手の認識であると明示しない場合、話し手は明日学校があると分かっているが、聞き手には同様の認識がないような状況が考えられる。このため、「デハナイカ」の使用が可能に思われるのである。

 一方「共通認識の喚起」の場合は、「ダロウ」が使えず、「デハナイカ」のみ成り立つということがある。 レジュメでは以下のような例文が挙げられていた。

 (7)(ドライバーを探している相手に)道具箱の中をよく見てみろよ。ある〔だろう/×じゃないか〕。

 話し手は、道具箱の中にドライバーがあるということを知ってはいるが、今まさに道具箱の中を見ているわけではない。よって、この命題内容を話し手の認識として語ることができない、と説明されていたが、果たしてそうであろうか。実際に目にしていなくても、ドライバーが道具箱の中にあるのは少なくとも話し手にとっては確かな認識である。例えば、(5)の例文でも、話し手が今実際に目にしていないという状況は考えられるが、「デハナイカ」の使用は可能である。

 (5')あの子いつも赤い服を着ているじゃない

 ここでは、話し手の認識がどうであるか、という事よりも、話し手と聞き手との相対的な関係に注目した方がよいと思われる。(5)の例文の場合、命題内容は話し手と聞き手とに共通した認識であることは、話し手には前提として分かっている。一方、(7)の例文の場合、話し手に認識はあるが、聞き手にはない。「デハナイカ」は、話し手の認識を確認するときに用いられるが、これは、聞き手がその認識の真偽を知っていることが前提になるだろう。しかし、(7)では聞き手に認識がないという点が問題なのではないだろうか。
 「共通認識の喚起」は、話し手の認識を聞き手にも共有するよう促すものであるが、(7)の場合、聞き手は実際自分で道具箱を見ることで話し手の認識を確認することになる。



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参考文献:
蓮沼昭子 1995「対話における確認行為「だろう」「じゃないか」「よね」の確認用法」『副文の研究(下)』くろしお出版


(約2700字)



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