『紫式部日記』にみられる紫式部像
紫式部とは
生没年不詳。生誕年は970年(天禄1)、973年(天延1)など諸説がある。本名も未詳であるが、香子といった可能性が高い。
父親は学者・詩人の藤原為時。母親は紫式部の幼少時に亡くなっている。 25歳前後の頃、越前守となった父とともに北陸に下り、翌々年に帰京し、父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚した。翌年賢子を出産。しかし1001年(長保3)に宣孝が死に、その秋ごろから『源氏物語』を執筆し始めた。
1005年(寛弘2)ごろの年末に、一条天皇の中宮である彰子のもとに出仕した。
一条天皇崩御の後も彰子に仕えた。その後長期間宮仕えを中断したあと、1019年(寛仁3)に再び彰子のもとに出仕しているが,それ以降は不明である。
紫式部日記とは
紫式部が一条天皇の中宮彰子の女房として宮仕えしていた頃、つまり1005(寛弘2)〜1006(寛弘3)年の間の出来事が述べられている。実際に執筆したのは1008年(寛弘5)秋から1010年(寛弘7)年正月の間で、日記形式で書かれている。
これは大きく前半と後半に分けられる。前半は宮中の生活での記録で、彰子が一条天皇の息子を出産するまでの話である。後半は消息文と言われ、宮廷にいた人々の人物評や人生観を述べている。
紫式部日記・消息文部分
このレポートでは、『紫式部日記』の後半部分、「消息文」に焦点を当てたいと思う。この消息文部分は、親しい間柄の人物にあてて書いた手紙ではないかと考えられている部分であり、紫式部の内面が色々な面から現れているといえる。
消息文部分の構成は、 正月の一日〜三日の若宮の御載餅の御まかなひの話からの展開、 人の容姿について誉めるというただし書き、 九人の女房の容姿を語る部分、
人の心立てについて意見を表明する難しさをことわる部分、 斉院の中将の君に関する部分、 和泉式部の歌に関する部分、 赤染衛門、 清少納言、
結文 となっている。
まず人の容姿について書いてある部分があり、各人とも数行だけの簡単な描写になっている。悪口は語らないとことわっているにもかかわらず、外見についての批判が書き続けられてある。このあとの、人の心立てについて語る部分では、斉院の中将に関する部分と清少納言で始まる部分とが他の人物批評と比べて格段に長い。
紫式部像
まず、同僚であった女房たちの容姿を無難に誉めていて、次に人柄の善し悪しを論ずることの難しさを述べたあと、突然斉院の中将の態度を批難する。それに関連して、斉院方と中宮方との気風を比較し、中宮方の上臈達の女房の処世術の悪さに対して、叱咤激励する。続いて和泉式部と赤染衛門の歌についての批評をしたあと、清少納言の才気や性格に対しての酷評が展開される。このあと一転して、彼女自身の心境や人生観、思い出などが語られる。
この中で、特に斎院の中将と清少納言のくだりは、批評している人物よりも、むしろ紫式部自身の性格が浮き彫りになっていると感じられる部分である。文字通り受け取れば、紫式部は執念深く陰気であるように映り、彼女があらわす相手へのあからさまな憎悪には戸惑いすら感じる。『源氏物語』という壮大で優美な作品から想像される紫式部のイメージとはかけ離れているとも言えるだろう。
そのせいか、紫式部論には、「非常に感性が鋭く優れた芸術家であったため、そのぶん他者への批評も厳しいものがあった」とし、実際に清少納言の『枕草子』に見受けられるようないかにも自信家といった語り口などを引き合いに出して、紫式部を正当化するものもある。
このように、非常に問題のある箇所なのだが、このあとのこの消息文の結びの文中には、「けしからぬ人を思ひ、聞こえさすとも、かかるべきことやは侍る」とある。つまり、「不都合なと思う人のことを念頭において、申し上げるにしても、こんなことを書いてしまってよいものでしょうか」と、紫式部自身が反省している。親しい人にさえも打ち明けて良いものかどうかと迷って、書いた内容を読み直したあとで、批判の内容を自分の判断として認知し、この受取人になら打ち明けてもよいと考えたのであろう。
あるいは、この消息文部分そのものが、紫式部自身の手によって、あたかも誰かに充てた手紙であるかのように脚色してあるのかもしれない。そうであるとしたら、その理由はこう考えられるだろう。たとえ自分自身では正当な理由で批評をしているとは思っていても、それでもやはり他人の悪口を述べたてるような姿勢は、外側から見たとき、感心な行為ではないと思われる可能性がある。よって、自分を弁護する意味で、「こんなことを書いてしまってよいものでしょうか」と、彼女自身の内にも心の葛藤があったのだということを明示したかったということである。
いずれにしても、紫式部もただただ批判していたわけではないという事が分かる。「夢にても散り侍らば、いみじからむ」、つまり「万一この消息文が人目にふれましたら、実に大変なことでしょう」と、その及ぼす悪影響を危倶している。そのため、見ばえの悪い反古に書き散らしているということを理由に「御覧じては疾うたまわらむ」と消息文の返却まで求めている。紫式部がこの様に語るとき、そこには虚飾も、虚偽もない。紫式部の考えや感情が直接的に表現されているはずである。斉院の中将や清少納言への批判が批判とすら映らず、かえって紫式部の性格や人間像が伝わってくるのもこの間である。だからと言って、この消息文部分の斉院の中将や清少納言を語る部分の字句だけを取り上げて紫式部の性格を論ずることはさけなければならない。自身を理解してくれている相手であるからこそ打ち明けたのに、それ以外の人が見たら、誤解してしまうだろう、という彼女の危倶がそのまま現実化されるだけである。また、解釈する側の好味に合った紫式部像を語りたいがためにこの部分を無視することもまた「残らず聞こえさせおかまほしう侍るぞかし」と語る紫式部の意志も反する。
従ってこの消息文部分から紫式部の性格を論ずることは彼女の意志を尊重することになるが、彼女の危倶する誤解を回避するためには、まずこの消息文部分全体を考慮し、文面の字句を取り上げるだけではなく、迷いながらも公表することを決意した紫式部の心情まで考慮に入れて解釈することが必要である。
斉院の中将に関する部分は、斎院の中将がある人に宛てた手紙盗み読みして、そこに書かれてある内容に反論するという形式をとっている。
斉院方と中宮方との気風を比較し、味方である中宮方の上臈達の子供っぽさが人に批難を受けたとして、これではいけないと叱咤激励する。この間論理は一貫しており、最後には証拠に斉院の中将の手紙がここになく見せられないのが残念であると結んでいる。ところが、清少納言こそ、で始まる部分は首尾一貫していない。
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。」
現代語訳すると「清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどく足らない点がたくさんあります。このように人より特別にと思い、またそうふるまいたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばかりなってゆくものですから、いつも風流ぶっていてそれが身についてしまった人は、まったく寂しくつまらないときでも、しみじみと感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないようにしているうちに、自然とよくない浮薄な態度にもなるのでしょう。そういう浮薄なたちになってしまった人の行く末が、どうしてよいことがありましょう。
」となる。相当な酷評である。
そしてこの後なぜか唐突に紫式部自身の思い出が語られる。そこには断層がある。それまでは、話の内容が変わる時は前置きをしているのに、ここでは批評をやめ、思い出を語るというただし書きが抜けている。さらに、清少納言への酷評自体、他の人物への批判と比較してもまったく性質が異なる。斎院の中将の批判では「歌などのをかしきからむは、わが院よりほかに誰が見しり給ふ人あらむ。世にをかしき人の生ひいでば、わが院こそ御覧じ知るべけれ」という消息文の内容を紹介し、それに対する批判が行われる。和泉式部の批判では、「おもしろう、書きかわしける」とその歌の即興性の良さを述べた上で、他人の和歌の批評が適当でないので「恥づかしげの歌よみとはおぼえ侍らず」と語る。清少納言については、「心ばせぞかたう侍らかし、それもとりどりに、いとわろきもなし」と自ら述べていることを無視して酷評している。斎院の中将や和泉式部の批評の時にしたような批判する理由の例示もなく、これこそ清少納言の本質であると言い切っている。清少納言の行く末の悲惨さに二度も言及している点にいたっては、普段は冷静な紫式部も堪忍袋の緒が切れたという感じで、一気に誹謗中傷したとしか思いようがない。
このあと内容は一転して自分の過去を振り返ったものとなり、夫亡きあとの古巣に残した厨子のこと、女房に漢籍を読んでいることをとがめられること、自分の処世術、他人の目から見た紫式部像、左衛門の内侍に「日本紀の御局」と言われたこと、幼少時に父から漢籍を学んだ思い出、隠れて中宮彰子に楽府を進講したことなどが続く。
何故この様な文章構成になったのであろうか。消息文部分のそれまでの部分は、非常に理路整然としていて、彼女の言わんとするところが伝わってくる。しかし清少納言に始まる部分は、紫式部の語らんとするところは不鮮明である。清少納言の酷評は、批判される者より批評する紫式部側の性格や人柄が前面に出てしまっている。これはどうしてなのであろうか。そして何故、そのあと紫式部は清少納言とは関係のない、自身の思い出などを語ったのであろうか。
これにはさまざまな解釈がなされているだろう。しかし、これほどに構成、内容が乱れ、感情的表現が多いことから、紫式部の非論理的な心情や無意識的自我の表れである可能性が高い。これは彼女の「漢籍」に対する異常なまでのこだわりが関係しているのではないか。
清少納言の批判部分には「真字書きちらして侍る」とあり、その後にも「なでふ女が真字書は読む」、「日本紀をこそ読み給ふ」、「書読み侍りし時聞きならひつつ」、中宮には「楽府といふ書二巻」を隠れて教えた、などと漢籍に関するエピソードがたくさん書かれている。
そして、重要なのは、彼女がそのような漢籍の学識を必死で隠そうとしていたことである。幼い頃から漢籍を学んできたのに、「一という文字をだに書」かず、宮仕えの間も、左衛門の内侍の陰口があるからと言っても、「御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をし」ていたと述べている。一という漢字すら書かないことを「いかにも無調法にして、呆れるばかりです」と自分で言っているくらいで、つまり人に馬鹿にされようとも実行しているのだから、この決意は相当固かったことが分かる。
この頃、すでに源氏物語が紫式部の執筆したものであることは知れわたっていた。このことは、紫式部日記にも書かれている。その源氏物語の桐壺の巻が玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋を謡った長恨歌を基にして作られていることは誰にでも分かることである。そのほかにも、源氏物語が漢籍の知識をどれだけ基としているかは、読む側に漢籍の知識があればあるほど、容易に気づく事実であろう。当時の貴族階級での漢籍の知識は高かったはずであるので、どんなに隠しても、源氏物語を書いた著者である紫式部が漢籍の知識が豊富であったことは周知の事実であったはずである。それでもなお、紫式部は人前では漢籍の知識をひた隠しにしていたのである。
それなのに、その反面、中宮彰子に「文集のところどころ」を読み申し上げていたり、「楽府という書二巻をぞ、しどけなくかう教へたてきこえさせて侍る」のである。たとえ、教えていることを隠していても、中宮彰子のことは、一条帝や道長には知れ渡っているはずである。このように注意を払いながらも、紫式部はわざわざ漢籍の学識を披露する場面もみずから作っていた。 この紫式部の一見矛盾する態度はどういうことを意味するのであろうか。
漢籍の学問の素養を隠すことになったのは「男だに、才がりぬる人は、はなやかならずのみ侍るめよ」と言われることを聞いたからだと紫式部は語る。「才がる」、つまり学才があるように見せることを恐れるがために、漢学の一という文字すら書かず屏風の字も読めない振りをしたとする。しかしその理由では、源氏物語の中で漢籍の学才を示し、中宮に漢籍を教授したことなどは納得できない。これらは、一という文字を書いたり読んだりする以上に学才をひけらかすことになるのではないだろうか。源氏物語を制作するにしても出来るだけ漢籍からの導入を少なくしたり、わざわざ中宮に楽府を教授しない方がもっと漢籍の学問を隠すことになったはずである。
紫式部の使った「才がる」にはもっと深い意味があると考えられる。このような彼女の漢籍に対する態度をあらわにしたのは、左衛門の内侍という人が、式部を「日本紀の御局」とあだ名したためである。では彼女はどうしてこのあだ名に釈明しなければならなかったのか。
この内侍も独断であだ名したわけではない。一条帝が、「(紫式部は)日本紀をこそ読み給ふべけれ、まことに才あるべし」つまり「日本紀をお読みになるとは、本当に(漢籍の)才があるはずでありましょう」とおっしゃったことを耳にしたからである。とすれば、「日本紀の御局」というあだ名はこの上ない名誉なことだったはずである。帝のお誉めにあずかったことが宮中全体に広がるのである。恥ずかしさはあるだろうがうれしさの方が勝ることであっただろう。それなのに、内侍に腹を立てているのである。帝のお言葉を「いみじくなん才ある」と早とちりして、殿上人などに言い触らしたと難じている。「ふと推しはかりに」と「いひちらして」とに紫式部のいらだちが表明されている。しかし、帝のお言葉「まことに才あるべし」と内侍の邪推の「いみじく才ある」とはまったく同意である。両者の差があるとすれば「漢籍の才識があるはずだ」と「漢籍の才識がある」との「推測」と「断定」の違いであって紫式部にとっては断定の方が鼻が高かったはずである。にもかかわらず、紫式部は左衛門の内侍が自分のことを「すずろによからず思」っていると言ったり、里の女房の前でも漢籍の学問のあることをおもてに出すことを惜しんでいるのだから、そのようなところで「才さかし」ことはしないと断言している。ここまで言っているのだから、帝のお言葉と内侍のおしゃべりとは決定的な違いがあるはずである。とすると、内侍のおしゃべりは「才さかし」と同じ意味を持たねばならない。
一説には「才がる」の誤写説がある。これならば帝のお言葉と内侍の伝聞とには大きな差が生まれる。「漢学の才識がある」と「漢学の才識があるごとく振るまう」との違いがある。「才がる」と「才さかし」とは同義であるから、この点からも誤写説が正しいと考える。つまり紫式部にとっては、あらぬ批難をされているわけである。帝のお誉めの言葉である「まことに才あるべし」をこの内侍が「いみじくなん才がる」と邪推して言い触らしたのだとしたら、紫式部がこれほどまで怒る理由も納得がいく。
このように紫式部は「才ある」と「才がる」との区別をはっきりと意識していたと考えられる。「才がる」と思われたり言われたりすることを極端に嫌っており、彼女にとっては皆の前で読み書きしてみせるのが「才がる」であり、源氏物語中にそっと隠されている漢籍の才識や中宮彰子にひっそりと教授したりすることは「才ある」と言うことになる。しかし、この様に、自らを「才がる」と言われることにここまでこだわる必要はあるのだろうか。事の発端は帝が「まことに才あるべし」とお誉め下さったことなのだから、まずこのことを素直に喜べばいいはずである。それがここでは「才がる」と言われたことに話の中心を持ってきている。このように、「才ある」と「才がる」との違いに以上に執着したこと自体紫式部の屈曲した心情のあらわれと考えられるのではないだろうか。本当に漢籍の知識があれば堂々としていればいいはずである。ひかえめにしていれば字を書いてもいいだろうし、たずねられれば屏風を読んでもよいはずである。その程度のことで紫式部の「才ある」のを「才がる」と誤解するような人はいないだろう。たとえ最初は誤解したとしても、積み重なってゆくうちに誤解もとれて紫式部は「才ある」とみられたはずである。
だが紫式部はそのことに対して柔軟性のある態度を取れなかったし、「才ある」と誉められても、率直に喜びを表現していない。「才ある」と「才がる」との本来の語句の意味の違い以上にそれに拘泥する紫式部の心情には、幼少期、父から言われた「口惜しう、男子にてもたらぬこそ、さいはひなかりけれ」という言葉の意味する幼少期の出来事が深く影響していると考えられる。漢学者であった父に、紫式部の弟・惟規が漢籍を習っている際、彼女は傍らで聴いているだけだったのだが、惟規よりも彼女の方がはるかに覚えが良かった。しかし、漢学が出世に必要なのは男だけであり、いくら紫式部が才能をあらわしたところで、それが彼女の将来に良い影響を与えるわけではない。肝心の惟規でなく、よりによって娘の紫式部に漢籍の学問の才能が花開いてしまったことの皮肉さに、父は「もし紫式部が男であったなら」と口にしてしまうのである。
もちろん父も、嘆きの言葉以上に賞賛の言葉をかけていたであろう。しかし紫式部にとって、より一層心に残ったのは、嘆きの言葉の方であった。この父親と惟規と彼女とのエピソードは、かえって、彼女自身才能があるが故の不幸さを間接的に表現している。父為時は、漢籍の学識を紫式部に伝えたのと同時に、紫式部の心に後年になってまでも消えずに残った傷痕をも植えつけてしまったと言える。この幼少期の体験こそ、紫式部の性格形成の重要な要因となったのである。
前述したように、帝から誉められたことは最高の栄誉であったはずである。たとえ漢籍の学問が男子の専売であったとしても、それにも比すべき力を認められたということは、喜び極まりないはずである。そのような体験ですら、とるに足らない、内侍の「才がる」の方にこだわってしまうほど、幼少時の影響が大きかったのである。そして、この傷痕は、紫式部の性格として、外面的には謙虚であり、中庸な人柄を持ったが、あくまでも意識によって統制された処世術を持ち、その裏側はきわめて複雑で批判的、反省的精神の持ち主となってゆくのである。
このような彼女の性格の二面性が、清少納言のくだりの文章の乱れに関わっていると言える。自分の才能を自身で素直に認められず、複雑な性格形成にいたった紫式部にとって、己の才知・容貌などを謙虚に隠そうとせずに出しているような人物は、一般人が感じる以上に目に付く存在だったのであろう。紫式部自身、自分の才能や学識のレベルの高さを十分認識していながらもそれを素直に受け止められず、心の内の葛藤は大きいのに、そんな彼女の苦悩を一蹴するように自由に生きる清少納言たちを、ある点ではうらやんでいたのかもしれない。
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