「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」として佐渡金銀山がユネスコの世界遺産暫定リストに記載されたのが2011年。三度目の正直の言葉も虚しく、本年(2017年)も国内推薦から外されてしまいました‥。
今年こそはと、淡い期待を保っている中での落選の知らせは、私の四十数年前の失恋の記憶を呼び起こし、忘れていた ほろ苦い失望感と虚脱感を体感しました。
そんな中、NPO法人佐渡成長戦略政策塾の塾長兼理事長でもある小菅徹也先生が、東京オリンピックの翌年の2021年は「日蓮聖人生誕800年祭」である旨を教えてくれました。
小菅先生はご自身のFacebookで『日蓮観光復活序論』を展開し、「2021年の日蓮聖人生誕800年祭は、何が何でも佐渡観光復活の最後のチャンスとして活かしたい」 「それには歴史的評価に十分耐えられる本物の日蓮聖蹟を厳選し、コースを選定して最適なガイドブックを用意した『日蓮聖人生誕800年祭・佐渡法難750年祭向けの日蓮聖蹟巡拝ツァー事業』を展開したい」とおっしゃっております。
文化庁の平成28年版宗教年鑑によれば、日蓮系の文部科学大臣所轄の包括宗教法人が39法人で信者数11,892,539名。創価学会などの単立宗教法人を含めれば、日蓮系信者数は約2,050万名となります。
仮に、その中の5%の方々が2021年に佐渡にお越しいただけたら、年間1,025,000名!?
ホンマでっか!?St.Niciren。佐渡観光に光を! 日蓮関係の皆様、2021年 SADO KOI。 お待ちしております。
恥ずかしながら、私の知ってる日蓮聖人といえば、佐渡歴史伝説館にあるロボットぐらいでした。しかし、この度の2021年を迎えるにあたり、予習しなければならないと思い、ちょっぴり調べてみました。
日蓮遺文とか、約750年前の資料が残存すのにビックリです。
その中に佐渡市阿佛坊の妙宣寺に、国指定の重要文化財となっている、日蓮聖人筆書状が3巻あります。
是非、2021年には 妙宣寺にて、真跡を拝してみたいものです。
① 建治元年六月十六日 【国府尼御前御書】
② 弘安元年七月廿八日 【阿仏房尼御前御返事】(千日尼御前御返事)
③ 弘安三年七月二日 【故阿仏房尼御前御返事】(千日尼御返事)
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① 国府尼御前御書(第七紙)

『日蓮聖人真蹟集成』2巻252頁から転載 |
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まるっきり、何が書いてあるのか、私には わかりませんが
活字に起こしたのを見て、改めて見直すと、ひとりの漢・日蓮 が垣間見えます。 |
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とても大切な夫を、使いとして訪ねてくだされた。
あなたの御姿は見えないのに、夢か幻であろうか
あなたの心は、ここにいらっしゃるように思われる。
日蓮を恋しく思われるなら、いつでも、出る月や夕日を拝みなさい。
あなたが願えば、いつでも月影に私を感じることができます。
また、あの世でも、霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう。 |
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Oh! アメージング!こんな手紙もらったら、どんな女性も イ チ コ ロ!? まさに SADO KOI 文(ふみ)
尚、2021年。妙宣寺での【国府尼御前御書】の一般公開が、このプロジェクト最大のミッションと考えております。
当然、レプリカ(実寸大)で構いません。特に宗派・宗教を問わず、女性に見てもらいたい書といえます。躍動感溢れる日蓮聖人の筆使いから、750年の時空を超える、恋のパワーと思いやる心を感じとってください。
阿仏のご住職様、関係機関の皆様、佐渡観光の未来ため、忖度のほどよろしくお願いいたします。
日蓮遺文の現代語訳は『創価教学研究室(Tommyのブログ)』というサイトに載っており理解するのに助かりました。
あと、田中圭一先生の(2004)『新版 日蓮と佐渡』平安出版.を図書館から借りて読んでみました。すごく参考になります。しかし、だんだんと理解が進むにつれ、疑問も自ずと出てくるのであります。
なお、当サイトで参考にし、引用した書籍は、立正大學日蓮教學研究所(1988)『昭和定本 日蓮聖人遺文』總本山見延久遠寺,です。
引用部分には巻数と所在ぺーじを表記し、 のマークをつけ、その現代語訳には のマークをつけてあります。
(第二巻P.962)
【種種御振舞御書】によりますと
「故最明寺入道殿・極樂寺入道殿を無間地獄に堕チたりと申シ、建長寺・壽福寺・極樂寺・長樂寺・大佛寺等をやきはらへと申シ、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申ス(中略)奉行人の云く上のをほせかくのごとしと申せしかば、上ミ件の事一言もたがはず申ス(下略)」とあります。
現代語訳すると、
鎌倉幕府の奉行人が日蓮に尋ねた。あなたは 「故 北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)や北条重時が無間地獄に堕ちたから、禅宗の建長寺・臨済宗の寿福寺・真言律宗の極楽寺・浄土宗の長楽寺や大仏寺を焼き払え。そして建長寺の道隆上人や、祈雨対決した極楽寺の良観上人の首をはねろ」ということを本当に言いましたか?
日蓮の答えは「はい、一言一句間違いなく言いました」となります。
言葉尻を捕らえると、今の時代なら、さしずめカルト集団とみなされ、テロ等準備罪適用となりますでしょうか!?
当時の御成敗式目に照らし合わせても、第九条の謀叛人事・第十条の殺害刃傷罪科事や第三十三条の強竊二盜罪科事付放火人事に抵触し、死罪は間違いないと思われます。
しかし、本来なら死罪ですが、当時、北条時宗夫人がご懐妊したので、僧の斬首を忌み嫌った幕府が流罪にした模様です。(「又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが、守殿の御臺所の御懐妊なれば、しばらくきられず。終には一定ときく。」 (第二巻P.973)【種種御振舞御書】
それにしても、思い込んだら一直線の一途で強運な男「日蓮」である!?
【日蓮遺文】とは
日蓮が書いた手紙などのことで、紙数にして約2,700枚が現存しているみたいです。
日蓮直筆の遺文を「真蹟」と言い、かつては真蹟が存在したもの「曽存」と言うそうです。
(明治8年の身延山の火災で焼失した模様です)
このサイトで参考にした『昭和定本日蓮聖人遺文』は、昭和63年(1988年)改訂増補版で
図書館内で閲覧できました。(図書館の方、色々ありがとうございました。)
書籍は 4巻あり、ページ番号は4巻通しの番号となっています。
また、1から2巻は制作年順に収録されています。
第1巻は、第一輯正編上として、下戒體即身成佛義から法蓮鈔の175編。
第2巻は、第一輯正編下として、種種御振舞御書から波木井殿御書の259編があり、2巻併せて1から434番の通し番号が付いています。
第3巻は、第二輯続編として、1から55番までの55編と、第三輯図録として30編。第四輯断簡として179編。第五輯講記で2点。第六輯 目録目が19点あります。
第4巻は、正編新加として435番から443番の9編等、編纂後あらたに発見された真蹟の図録や断簡が収録されています。
※昭和63年改訂増補版だと、443編が正編になっているので、これ以外は真蹟ではない贋作の可能性がある作品ということになります。
ちなみに、偽物といわれる「遠藤左衛門尉御書」は第3巻P.2102にあります。
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弘長元年(1261年)の伊豆流罪から、2回目の流罪。
お金のことや、身の回りのことなど、島での生活の要領は、すでに心得ていると思われます。
(第一巻P.512)
文永8年(1271年)10月22日【寺泊御書】では
下段❶にて「鵞目一結給候畢。心ざしあらん諸人は一處にあつまりて御読聞あるべし」
本文では、(中略)「此入道佐渡國へ可キ為ス御供之由承リ申ス之ヲ。可レトモ然ル用途ト云ヒかたかた有ルノ煩ヒ之故ニ還ス之ヲ。(下略)」とあります。
「鵞目(お金)一結を頂戴しました。(中略)この入道はあなたのいいつけであるから、佐渡の国へ御供をすると云うが、なにかと面倒なことでもあるから、ここで帰すことにする。」佐渡への途中、お金も送ってもらい、「入道」という弟子は帰らすという。
ところで、日蓮が送ってもらった「鵞目一結」とは、貨幣何枚で1結びなのでしょうか? 96文? 100文? 1,000文(1貫文)?
ちなみに、当時の貨幣価値はwebサイト『国立歴史民俗博物館』のデーターベース検索でわかります。調べたところ、文永6年から文永12年の7年間で、お米取引のデーターが23件あり、お米1斗(10升)あたりの平均単価が97文でした。
また、当時は現在の容量とは異なるみたいで、延久4年(1072年)の宣旨枡が文永年間にも通用していたとしたら、現在の約4.5合が当時の1升の計算になるみたいです(石川英輔(2003)『ニッポンのサイズ』淡交社)。
お米1合が約150g。佐渡産コシヒカリ10㎏がスーパーで4,580円税別で売っております。
そうすると、「鵞目一結」を現在の貨幣価値(お米換算)でみてみると、100文だと約3,500円。1貫文だと約35,000円という計算になります!?
※文永10年(1273年)7月6日【土木殿御返事】では、「鵞目二貫」を送ってもらってます。(7万円相当?)
寺泊御書 第七紙 『日蓮聖人真蹟集成』2巻111頁から転載 |
『鵞目(がもく・ががん)』(宋銭) |
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【宋銭】(そうせん)
宋(中国)との貿易で砂金を輸出し、かわりに宋の銅銭を輸入して日本国内で使っていました。
独立行政法人 造幣局 |
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寺泊御書は、ほとんど漢字です。日蓮は宛先別に表記を変えていたみたいです。当時は字を読める人もが少なかったみたいで、配達するお弟子さんが手紙を読み聞かせ伝るするために、自分がわかるよう加筆してある書簡も結構あるみたいです。 |
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岩間徳太郎(1939)『註附 佐渡名勝誌』によれば、
「佐渡風土記「文永八年辛午十月廿八日、上下七八人にて越州寺泊より乗船にて、(中略)松ヶ崎村ニ着岸し玉へり(小名カウノ瀬)(下略)」とあり、日蓮ご一行は7~8名で佐渡に上陸したのでしょうか?
(第一巻P.790)
文永10年(1273年)【呵責謗法滅罪抄】では、
「是へ流されしには一人も訪人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少からず。」とあり、

同行者は、7~8名より、少なくはない。? つまり、8名より多い9名+日蓮で = 日蓮ご一行10名様!?
(第一巻P.517)
文永8年(1271年)11月23日 【富木入道殿御返事】によると、
「小僧達少少還ヘシ候。此國ノ爲體 在所之有様 可ク有ル御問候。難ク筆セ端ニ候。」
「小僧達を何人か帰した。この佐渡の様子や、住んでいるところの様子を聞いてください。内容は手紙には書けません。」
はたして何人帰って、何名残ったのであろうか?手紙に書きにくい内容とは?
『新版 日蓮と佐渡』P.41-42に、『諸本における「遺文」の異同』と題して、次のように記述している。
本書で引用する「日蓮遺文」は、基本的に「昭和定本 日蓮聖人遺文」(平成十二年四月二十八日改定
増補第三刷)に準じている。しかし、日蓮の「塚原配所」を考察する上で重要な、「種種御振舞書」
の「六郎左衛門が家のうしろ」についての記述は、遺文を収録する諸本によって異同が見られ
る。私の手もとにある諸本の異同は次のようなものである。
「日蓮聖人遺文講義」(浅井要麟著)、「創価学会版 日蓮大聖人御書全集」(堀日亨編)では該当箇所を、
「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に」
と記し、「昭和定本 日蓮聖人遺文」(立正大学日蓮教学研究編)、「昭和新訂 日蓮大聖人御書」(同
書編纂会編)では、「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に」
と記している。
意味はそれぞれ、
「六郎左衛門の家の後の塚原という山野の中に」
「六郎左衛門の家の世話人の家から塚原という山野の中に」
となる。
前者が、「六郎左衛門の家」と「塚原」との位置関係を表す文であるのに対し、後者は単に、日蓮
の移動の始点と終点を表すだけの文である。
どちらが正しいのかという論議はあろうが、本書ではこの。問題には立ち入らない。どちらにして
も、本書で「守護所」「本間重連の館」「塚原配所」などの場所を検討していく上で、決定的な要素と
しては採用しないからだ。
また、本書で検討した結果をもって、遺文のこの箇所を振り返ったとき、どちらの読みであったと
しても、矛盾を生じないということもある。
ただ、引用するにあたっては、どちらかを選ばなければならない。何冊か日蓮関係の論文や伝記に
目を通しみたが、「六郎左衛門が家のうしろみの家」説で書かれているものは見当たらなかった。
よって本書では、大野達之助氏の『日蓮』(吉川弘文館)、石川教張氏の『日蓮聖人の生涯』(水書房)等
と同様に「六郎左衛門が家のうしろ」説を取り、塚原と本間重連の館との位置関係を表す遺文として
使用する。 |
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田中先生は、「本書で引用する「日蓮遺文」は、基本的に「昭和定本」としているのに
なぜ、塚原表記の部分だけ、伝記を参考にして「昭和定本」の表記にしなかったのか?
塚原の場所が特定できないのに、
「塚原と本間重連の館との位置関係を表す遺文」として何故、使用したのだろうか?
「遺文のこの箇所を振り返ったとき、どちらの読みであったとしても、矛盾を生じないということもある」
とありますが‥‥。
無間地獄ならぬ矛盾地獄!? 岩生
(第二巻P.970)
【種種御振舞御書】
(上略)同十月十日に依智を立ツて、同十月二十八日に佐渡ノ國へ著キぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申ス山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の佛もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ユる事なし。かゝる所にしきがは(敷皮)打チしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし。晝は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。(中略)かくてすごす程に、庭には雪つもりて人もかよはず。堂にはあらき風より外はをとづるゝものなし。(下略)
※ 六郎左衛門
「本間六郎左衛門重連(シゲツラ)」。
佐渡での職分は、佐渡を所領地とする武蔵守・「北条宣時(ノブトキ)(大仏(オサラギ) 宣時とも称される)」の代官。本城は相模依知智郷金田。依知で日蓮を預かったのは六郎左衛門の代官、右馬太郎(右馬のじょう)。 |
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佐渡到着が10月28日、塚原に入ったのが11月1日。
(今の暦に直すと、西暦1271年12月8日佐渡着で、塚原入りが12月11日。ちなみに旧暦文永8年の10月は30日間で、1年間は355日。尚、文永7年は9月が閏9月と2回あり、10月は29日間で年間384日になる。一九年七閏法)
『新版 日蓮と佐渡』P38.によれば、「二十八日は松ヶ崎に一泊し(中略)守護所の隣に本間六郎左衛門重連の館があった。相模国の依智で日蓮が置かれた場所も本間邸である。日蓮はこの本間氏の館で二夜を過ごしたと思われる。」 とあります。
10月28日の松ヶ崎泊りは納得できますが、10月29日・30日の2日間の日蓮ご一行の宿泊先は、本当に本間六郎左衛門の館なのでしょうか?
時系列でみてみると、
| 9月12日 |
午後6時頃 |
御勘気。(怒りに触れ、罰を受ける)《評定所で流罪決定》【土木殿御返事】 |
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夜 |
北条宣時の預かりとなる。《流罪場所が佐渡に決定》 【 同 】 |
| 9月13日 |
午前2時頃 |
鎌倉を出る。《身柄を送致される》(依知の六郎左衛門邸まで)【 同 】 |
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昼12時頃 |
《六郎左衛門の代官、右馬太郎が身柄を受取る》 【 同 】 |
| 10月10日 |
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依智出発。《身柄を佐渡まで移送》(六郎左衛門の配下?)【種種御振舞御書】 |
| 10月28日 |
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佐渡到着 |
| 10月29日 |
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《身柄移送完了》(六郎左衛門が日蓮に接見?) |
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ざっくり、こんな感じです。 |
遺文によると、依知の本間六郎左衛門の館で日蓮を引取ったのは、六郎左衛門・本人ではなく、部下の代官・右馬太郎(右馬のじょう)です。
そうすると、本間六郎左衛門は依知にはいなく、佐渡にいたと思われます。
また、当時、依知郷を支配していた本間六郎左衛門重連の館(城)は、金田・中依知・上依知の3ヶ所にあったといわれております。何であれ、日蓮は罪人です。日蓮は屋敷ではなく、牢屋もしくはそれに準じた場所に収監されたと思われます。
9月12日に北条宣時が日蓮の身柄を預かってから、佐渡守護所到着まで47日間。守護代である六郎左衛門には、佐渡守護の北条宣時から、指令や、罪状などの情報もすでに、届いていたはずです。
そして、本間六郎左衛門は佐渡の実質的な管理責任者と思われます。島で起こりうる事象を管理、コントロールしなければいけない立場です。六郎左衛門は日蓮ご一行を、どのように理解し、受け止めたのでしょうか?
その答えを遺文から探ってみますと、

①「人の心は同ク禽獣二不知主師親ヲ。」
(第一巻P.516)文永8年(1271年)11月23日 【富木入道殿御返事】
②「例せば此佐渡ノ國国は畜生の如く也。」
(第一巻P.789)文永10年(1273年)【呵責謗法滅罪鈔】
③「からくして行キつきたりしかば、殺害謀叛の者よりも猶重く思はれたり。」
(第一巻P.953)建治元年(1275年)4月【法蓮鈔】
④「彼島の者ども因果の理をも辦へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申ス計なし。」
(第二巻P.989)建治元年(1275年)5月8日【一谷入道御書】
⑤「佐渡の国へ流されたりしかば彼國の守護等は國主の御計ヒらいに随ヒいて日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。」
(第二巻P.1544)弘安元年(1278年)7月28日【千日尼御前御返事】
現代語訳すると
①佐渡の人々の心は鳥やケモノのようで主君や師匠、親をわきまえない。
②例えれば佐渡の人々は畜生のようなものである。
③佐渡では殺人や謀叛の者よりも、もっと重罪の者と思われた。
④佐渡の人々は、因果の理もわきまえぬ粗暴者で、あたりが荒い。
⑤佐渡の守護等は北条宣時の指示にしたがって、日蓮を迫害した。島民はその命に従った。
となります。
つまり、本間六郎左衛門は日蓮達の行動を制約する施策をとった結果。と思われます。
日蓮の類いない話術とカリスマ性・他教徒に対する考え方が危険なことは、北条宣時から聞き及んでいたと思います。
本間六郎左衛門は、佐渡の管理を任された守護代・中間管理職の立場です。上司の意向に沿うように、佐渡を治めなければいけません。
「島の平穏無事を考え、まずは様子見のためにも、日蓮達を隔離する」本間六郎左衛門はこのように考えたと推察できます。
それでは あらためて、考えてみましょう。
日蓮ご一行は、10月29日と30日の2日間は、何処に泊まったのでしょうか?
誘導的な質問で恐縮ですが、選択肢は3つ。
①守護所の牢屋
②守護所近くにあるであろう六郎左衛門の館
③六郎左衛門の世話人の家
仮に、あなたが六郎左衛門だとしたら、何番を選ぶでしょうか?
私が六郎左衛門であるなら、②以外にします。理由は自分の館に招く(泊める)ということは、日蓮と友好関係にあると、世間に誤解されるからです。
そして、私なら10月29日は見分のため①。10月30日以降は島民から隔離するため、人里離れた野山の中の作業小屋等を借り受けるか、簡易施設を造り、そこに日蓮ご一行を住まわせます。
ガバナンスの維持・強化の論理は、いつの世も変わらないと思います!?
「野中に捨てられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみ(摘)て命をさゝえたりきり。」
(第二巻P.1063)建治元年(1275年)6月16日【国府尼御前御書】
「栖にはおばな(尾花)かるかや(刈萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、」
(第一巻P.953)建治元年(1275年)【法蓮抄】
「塚原と申ス山野の中に、洛陽の蓮臺野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ユる事なし。かゝる所に、しきがは(敷皮)打チしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし。晝は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。」
(第二巻P.971)建治2年(1276年)【種種御振舞御書】
「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」
(第二巻P.1551)弘安元年(1278年)9月6日【妙法比丘尼御返事】
上記から、ワードを抽出すると、
①「野中」 ②「山野の中」 ③「里より遥にへだたれる野と山との中間」 ④「三昧」・「死人を捨つる所」
となります。④は別にし、① ② ③ で連想される佐渡のエリアが、遺文が語る「つかはら」だと思います。
そして、そのエリアに④がある場所が、遺文の示す「塚原」だと思います。
遺文のワードをイメージして、塚原の場所を推察すると、
「人里から、だいぶ離れている山に近い、ススキやカヤが生い茂る野原に死体を遺棄する(風葬)場所がある」
その場所が塚原です。つまり 「塚原」の場所は、人里(垣ノ内)ではない と遺文が教えてる気がします。
「野邊に捨テられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざらんがために、いとまを入れ衣を重ネんとはげむ。」
(第二巻P.1441)建治4年(1278年)2月13日【松野殿御返事】
「死んで埋葬場所に捨てられたら、どんなに着飾っても、一夜で裸になってしまう。それなのに、身飾りのために多くの時間や手間をかけ、衣を着ようと努力する」
ちなみに、『中世の死体放置をめぐって』という論文内に 「一般庶民にあっては死体は遺棄すべきものであって、決して、後世に残そうとするものではなく、ましてや、尊崇すべきものではなかった事を知る事ができるのである」とあります。
当時はまだ、火葬や土葬ではなく、ご遺体は河原や野原に放置(捨てる)するのが、普通だったみたいです!?
『畑野町史 信仰編』によれば
「塚原三昧堂がどこにあるのかについては、これまで諸説がだされていて」とし、4つの説を挙げています。
A仙道説 B妙満寺説 C川西説 D根本寺の三昧堂説
そして、
「昭和11年に日蓮旧跡を追って来島した法老翁こと橘正隆が、従来の佐渡史には史実に反する点が多いことから自らの手で調査を始め、講演や新聞の投稿でそれを発表してからである。まず昭和14年に刊行された『佐渡名勝志』の附誌に、橘は塚原仙道説を出した。橘正隆の代表的な著作で最後の書でもある『河崎村史料編年志』では、のちに出される予定であった『日蓮聖人佐渡霊跡研究』に
まとめて記述するために、日蓮関係記事はいっさい省かれた。しかしこ の書は未刊のまま他界され、六冊の原稿や資料は農業高校が保管する橘鶴堂文庫に眠った。
昭和三十年前後に、当時両津高校勤務であった田中圭一氏らをはじめとする佐渡史学会の調査で、右の塚原仙道説は退けられて、目黒町妙満寺付近を塚原と推定する説が登場した。」とあります。
それでは橘 正隆氏(1892-1964)の 塚原仙道説とは どのよなものでしょうか?

橘氏は、『註附 佐渡名勝誌』の中で、(要約)
日蓮遺文に「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり」とあり、なるほど根本寺の所在地を大佐渡と小佐渡の間とでも見れば「野と山の間」と云っても差し支えないが、このような見方は観念上許されるべきではないとし、畑野村仙道こそ塚原だとする、6つの理由をあげた。
尚、この塚原仙道説は『新版 日蓮と佐渡』P.71にも記載されていますので、わかりやすいのでこちらを引用します。
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① |
仙道の付近が「なんだい野」というふうにいわれているが、それは日蓮のいう「蓮台野」の誤りか、または塚原問答の余香をとどめた「難題野」かもしれない。 |
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② |
仙道の南約三町の地点に「東海林屋敷(しょうじやしき)」と呼ぶ館跡があり、それが荘園の代官・本間重連の館跡と思われること。 |
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③ |
その証拠の一つとして、近くの栗野江集落に金立権現(かなたつ)という社があるが、これは相模国依智の金田権現の分霊であると思われる。 |
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④ |
身延山の宝蔵にある弘安4(1281)年の『佐渡奇瑞之図』(快似法師筆)は現地仙道に酷似している。 |
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⑤ |
仙道は中山道のように山道で、松ケ崎から塚原にいたる交通上の一地点が集落名として残った のであろう。 |
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⑥ |
仙道が「塚原」と呼ばれたかどうかに疑問は残るが、塚原という地名は共同墓地のようなところを指したらしく、仙道の付近が栗野江村(現・畑野町栗野江)の共同墓地に登録されていることから、やはりここが塚原であろう。 |
以上の6点が根拠とのことらしいが、『新版 日蓮と佐渡』では、
「この説に対し、私は基本的な欠陥を指摘しないわけにはいかない。というのは、橘氏は守護所や阿仏房・国府入道などを考慮に入れていないからである。また、「佐渡奇瑞之図』には、たしかに「
安四年」の文字があるが、室町期の作と考えるのが一般的のようである。」と、仙道説を一蹴しています。
また、『畑野町史 総編』によると、「仙道説はこれを説いた橘法老の死去と共に薄らいでおり、それに代わる佐渡史学会などの多数の支持者のある妙満寺説が今主流であるかの感を与えている」としている。

田中圭一先生の説で『新版 日蓮と佐渡』の記載内容。

『畑野町史 総編』によれば、宮川もしくは三宮に至る地域に塚原があったとする説らしく、P.184に「未公表ながら佐渡考古歴史学会の指導層の中にもあり、これから先の調査研究がまたれるところである」としている。
また、『畑野町史 信仰編』P.148では、日蓮遺文の「種種御振舞御書」の「家のうしろみの家より」と「家のうしろ」の違いを指摘し、《川西説》は、『「昭和定本
日蓮聖人遺文』の「が家のうしろみの家より」を採用していること、《妙満寺説》は、「家のうしろ」を採用していることに触れている。
そして、《川西説》の場所が「小倉川左岸の川西地区」とし、「うしろみ」を採用した理由として、
「立正大学日蓮教学研究所編)の「うしろみ」とは、後見人のことであるとして、重連の不在時に留守居役として田畑の管理や流人の世話を想定したものである。」と記している。
日蓮聖人がお亡くなりになったあと、お弟子様たちが分かれたこと
橘法老がお亡くなったこと と
このふたつ 同じ景色に 映るるは 世の習いとて 不思議なりけり 岩生
人を惹きつける、日蓮の魅力。ある人はマインドコントロールと云い、また帰依とも云う。
そして、佐渡での出来事は決して、洗脳ではない出来事と思われます。

「而ルに日蓮佐渡ノ國へ流されたりしかば彼の国の守護等は国主の御計ヒに随ヒて日蓮をあだむ。萬民は其の命に随う。念仏者.禅・律・眞言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計ルと申シつかわし、極樂寺の良観等は武蔵ノ前司殿の私ノ御教書を申シて、弟子に持タせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計ラヒはさてをきぬ、地頭々々等 念仏者々々々等 日蓮が庵室に晝夜に立チそいてかよ(通)う人 あるをまどわさんとせめしに、阿佛房にひつ(櫃)をしおわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡ノ國に生レかわりて有ルか。
(略)又其故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。」
(第二巻P.1544)弘安元年(1278年)7月28日【千日尼御前御返事】
「佐渡へ流されたら、国主(北条宣時)の指示で、本間六郎左衛門らは、日蓮を迫害した。また、島民も本間六郎左衛門の命令に従った。他宗の僧も、鎌倉へ帰さないよう画策した。すべての地頭・すべての念仏者等は、日蓮の住まいに昼夜見張を立て、日蓮と接触しようとする人を妨げようとしたのに、阿仏房におひつを背負わせて、夜中に度々お訪ねなったことを、いつの世になっても忘れようか。ただ亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか。
(略)また、そのために所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは家宅を取られるなどしたのに、ついに信心を貫き通された。」
塚原での話と思われます。阿仏房ご夫妻は、どの時点で日蓮の魅力に憑りつかれたのでしょうか?
いづれにしても、日蓮ご一行のため、人の目を避け、食料を運んだのでしょう。
また、食料を運んだのが原因で、罰金や家屋を没収され、追放になったみたいです。
『新版 日蓮と佐渡』では、阿仏房のことを、「預りたる名主」みょうしゅ)」としています。
日蓮配所の塚原の場所を、「一堂一社七かまど」の論理で「垣之内」の堂、もしくは阿仏房が"今で云う徒歩圏内"で食事を運べる距離に、塚原があるように設定しています。
『新版 日蓮と佐渡』P.65 3行目に
「しかし『日蓮遺文』によれば、本間重連の館のほど近く、阿仏房が徒歩で食事を運べる範囲に日蓮が置かれた配所がある。」
P.74 1行目
「日蓮は、その重連の「家のうしろ」から望める山野の三昧堂に置かれていたと消息に書いている(「種種御振舞御書」)。」
P.78 11行目で
「また、阿仏房の家も、この推定「塚原配所」から徒歩圏にある。そして、阿仏房が日黒町に居住していたという見方は、すでに近世以前に存在した。」
P.88 2行目に
「繰り返すようだが、他所の「在家」の者は、夜中に他人の「在家」の中にある「堂」に立ち入ることはできないであろうし、夜中に櫃を背負ってある程度の距離を歩いたりすれば一目にもつく。このようなことからして、阿仏房は日蓮を預かった「在家」の主であり、名主であると断定してよいだろう。」 とあります。
それでは、「徒歩圏内」とは、どのくらいの距離でしょうか?
仮に、私が阿仏房だとしたら、距離は関係ありません。「この人のために、してあげたい」と思う気持ちが原動力です。KOI(恋)と同じでトランス状態です。喜ぶ顔が見れるだけで、幸せです。(私の場合、片道5㎞位でしたら全然へっちゃらです。歩く距離に比例して、心が満たされる感覚です。)
ちなみに、【千日尼御前御返事】で日蓮は「去る文永十一年より今年弘安元年まで既に五ヵ年間、この身延の山中にあったのに、佐渡の国より三度までも夫を遣わされた。」とあります。
阿仏房は5年間で3回も佐渡~見延 間を往復しております。さすが昔の人。足腰が丈夫だったみたいです。
尚、Googleマップで寺泊港.佐渡汽船乗り場~身延山久遠寺 間の距離を調べたら311㎞でした。
当時の交通手段は何だったのでしょうか? あと、当時の照明は何を使っていたのでしょうか?
ロウソク? お皿の油に火をつける灯明? とにかく夜は、外に出ないと思います。
【千日尼御前御返事】に、阿仏房が過料と家屋没収および追放に処せられたとあります。
追放後は、新保に阿仏房元屋敷と呼ばれる場所があるので、新保に移転したと、『新版 日蓮と佐渡』に書いてあります。
処罰の決定を下したのは、やはり、本間六郎左衛門でしょうか?
気になるのは、垣之内の代表者(名主みょうしゅ)が、処罰追放された場合、残された在家の方々はどうなったのでしょうか? 垣之内とは、ただ単にコミュニティの最小単位だけでしょうか?
それとも、租税制度にかかわる古代律令制における「五保」と同じような連帯責任は、なかったのでしょうか?

阿仏房を処罰したのは、立場上、六郎左衛門で間違いないと思いますが、処罰の時期はいつ頃なのでしょうか?
また、六郎左衛門が日蓮に魅せられたのはいつ頃なのでしょうか?
建治2年(1276年)作といわれる【種種御振舞御書】が語る、文永9年(1272年)の記述には、特に日蓮の意思(意図?、誘導?作為?)が感じられるような気がします。この年は、二月騒動もあり、回顧録と位置付ければ納得できますが、「うしろみの」件もありますので、個人的にしっくりきません。
この遺文によりますと、
①1月16日の法門対決(俗にいう塚原問答)は、六郎左衛門の提案になっています。 「それよりは只法門にてせめよかしと云ヒければ、」
②法門対決が終わったあと、日蓮は帰った(帰るべく、場所を立ち去った)六郎左衛門を呼び返して、話をしている。
③2月18日の夜、六郎左衛門が鎌倉へ戻るとき日蓮に手を合わしている。「日蓮にたな心を合セて、たすけさせ給へ、」
上記のことを踏まえると、②の1月16日の法門対決終了時には、日蓮は六郎左衛門のハートをすでにワシヅカミにしているように思えます。
そして、六郎左衛門は日蓮に帰依したあと、依知にある3ヶ所の屋敷を全て寺としたとの伝承が残っていて、
居住跡は神奈川県厚木市金田295の妙純寺とされます。
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歴史とは、史実の伝承ではなく、覇者の伝記である。
また、歴史とは、色鮮やかな3次元の物体を、モノクロ画像にして、見るに等しく
同じ物体でも見る角度や方向により、色・カタチが違って見えるのは必然である。岩生 |
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| 2021年を佐渡の大観光交流年に!
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今から約10年前のNHK大河ドラマ「天地人」のとき、佐渡の城主が本間だらけで、面食らったのを憶えています。(河原田:本間佐渡守高統・雑太:本間信濃守高滋(佐太郎)・久知:本間加賀守泰亮・沢根:本間摂津守永州(佐馬助)・羽茂:本間対馬守高貞 等々)
天正17年(1589年)7月7日。河原田城陥落当時の佐渡のお殿様たちでした。
日蓮遺文によると、文永8年(1271年)当時の佐渡守護代は、相模国依智郷(現・厚木市)の本間六郎左衛門重連です。
天地人と同じ「本間」!? その年代差318年。天正時代の佐渡のお殿様「本間」の皆様は、文永8年の本間六郎左衛門のDNAを受けつぐ方々なのでしょうか?
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また、私の歴史バイブルでもある『河崎村史料編年志』p.283に、
「文永六年 1269 四月の下行札に、当地頭本間山城云々、と記されたのが、佐渡に於ける本間文証の初見である」 とあります。
つぎのP.284に木製の札2枚の画像を載せており、
「(表)正四位下行。(裏)当地頭本間山城口口入道口口」
「(表)正四位下行。(裏)文永六年巳四月廿二日」
註釈として、「これを土地の人は下行札とよんで居り、或は住吉神社の分霊が渡った時のものとも、又は公用船の標識札ともいわれている。恐らくは、公用船の家形にかけて、その標識としたものらしく、このとき北条宣時が佐渡視察に渡島した訳ではなかろうか。本間山城兵衛入道とは、(略)」 とあります。
この下行札(げぎょうふだ)のことは『畑野町史 萬都佐木』でもp.40~P.45の6ページにわたり紹介しております。
松ケ崎郷土誌資料の記載ということで、松前神社の開創年暦縁起かも知れない木札とのことで、
「当地頭本間山城口口口長政」 とあり、河崎村史料編年志は13文字。松ヶ崎郷土誌資料は12文字で、文字数も、読み方も異なります。
いづれにしても、「当地頭本間山城」までは同じですので、文永6年(1269年)には「本間山城~」と呼ばれる人がいたのは間違いないと思います。
そうすると、文永6年の「本間山城~」と、文永8年の「本間六郎左衛門」は、
同一人物?、別人なの? ホンマでっか!? 本間さん!?
ここまでくると、自分でも、訳が分からなくなってきます。 現在、依知(厚木市)に本間姓は残っているのでしょうか?
依知(厚木市)には六郎左衛門のことは、どのように伝承されているのでしょうか?
厚木市(依知)の方々に「本間」について、聞いてみたい。語り合いたい。
依知(厚木市)の方々とと交流の場を設けられたら、きっと楽しいだろうな。すなおに思う 今日この頃です。
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