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史料で探る本間と佐渡守護
SADO KOIプロジェク 企画案  2019年の佐渡は、本間です年。 ホンマでっか!?St.Nichiren in Sado年表   



 2021年を佐渡の大観光交流年に!

 佐渡の史料では、「本間」の名前は1269年の松ヶ崎、松前神社の下行札から始まります。
 そして天正時代、佐渡に13あったお城のお殿様の姓も本間でした。

 「本間」の姓を辿ると相模国、現在の神奈川県厚木市に行き着きつきます。
 厚木市史編纂委員会(1271)『厚木中世史話』によりますと、その由来を「本間氏の始祖、兵衛門尉能忠が海老名氏より分家して相模国高座郡恩馬(おんま)郷に居住し、おそらくの地名を取って本間氏を姓としたのであろう。」とあります。
相模国 中世武士 分布図 
 そして、 この本間の名前は鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』で確認することができます。
 

吾妻鏡でみる 本間  
西暦  和暦  
1185年  元歴2年4月15日  馬允能忠(本間右馬充能忠)
御勘当すこし免して有るべき処、由無き任官かな。
   文治元年11月28日 (文治の勅許) 
 諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿籐中納言経房卿に謁し申すと。
※【玉葉】
 伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件 の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行 すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
   文治元年11月29日  北條殿申さるる所の諸国守護・地頭・兵粮米の事、早く申請に任せ御沙汰有るべきの由仰せ下さるの間、師中納言勅を北條殿に伝えらると。
1186年  文治2年6月25日  海老名四郎能季  地頭と称し、寺家の所堪に随わざる
1189年  文治5年7月19日  本間右馬允義忠・海老名四郎義季(季能)
二品奥州泰衡を征伐せんが為発向し給う。鎌倉出御より御共の輩
1190年  建久元年11月7日  本間右馬允・海老名四郎
二品御入洛。法皇密々御車を以て御覧す。その行列
   建久元年11月11日  本間右馬允義忠
新大納言家、六條若宮並びに石清水宮等に御参り。その行列
1191年  建久2年2月4日  本間右馬允  前の右大将家二所御参り。
1195年  建久6年3月10日  本間右馬允
将軍家東大寺供養に逢わしめ給わんが為、南都東南院に着御す。
   建久6年3月30日  将軍家御参内。殿下御参会有りと。この間門前に於いて、
本間右馬允犯人を搦め取る
1201年  建仁元年9月18日  本間源太(家忠の初名?
左金吾犬を飼わしめ給うの間、各々その飼口を定め(狩猟)
1219年  承久元年7月19日  本間兵衛尉(家忠
左大臣(道家公)賢息、関東に下向す。その行列
   承久3年6月16日  相州・武州の両刺史六波羅の舘に移住す。
1221年  承久3年6月20日  本間兵衛尉
上皇高陽院より四辻殿に御幸す。土御門院・新院(順徳)・六條宮・冷泉宮、皆本所に還御す。 主上ばかりこの御所に御座すと。
晩に及び、美濃源氏神地蔵人頼経入道・同伴類十余 人、貴船の辺に於いて本間兵衛の尉これを生虜る。また多田蔵人基綱梟首すと。
1222年  承久4年1月7日  本間四郎光忠  今日御弓始めの儀有り。
1223年  貞応2年1月5日  本間四郎  椀飯、以後御弓始め有り。射手
   貞応2年10月1日  北陸道守護の成敗條々の事、聊か違聞有るに依るの間、殊に尋ね沙汰せしむべきの由、式部の丞朝時主に仰せらると。 
1226年  嘉禄2年7月1日  本間太郎左衛門尉忠貞
去る承久三年六月の勢多合戦の勧賞を蒙る。彼の輩相州の陣に加 り軍忠を励むと雖も、未だその賞に預からざるの間、相州連々挙し申さるるの処、猶許容無きに依って、自分の勲功の賞伊勢の国十六ヶ所の内、四ヶ所を辞し、御下文を申し與へしめ給うと。
   嘉禄2年9月22日  本間太郎左衛門尉 
幕府の南庭に於いて草鹿の勝負有り。相州・武州・駿河の前司。射手
 1227年  嘉禄3年7月12日  近日伊勢の国の悪党蜂起す。而るに去る六月晦日、本間左衛門尉元忠 当国大石御厨に於いて、一人として討 ち留められずの由これを馳せ申す。この悪党は、同人本間去る四月二十二日仰せを奉り、丹生山に於いて虜らんと欲するの処、還って彼等の為、親類・郎従等多く以て討ち取られをはんぬと。

 1185年。いい箱作ろうの年ですが、この年の吾妻鏡4月15日に初登場?する本間の始祖・能忠(馬允能忠)さん。
この日は、源頼朝が内挙を得ずに官位を得た関東の御家人を追放した日です。(頼朝や鎌倉幕府の推薦無しに官職を得ることを自由任官と云って鎌倉御家人三禁止事項のひとつであった)能忠は、朝廷から何の官職を受けたのでしょうか?勘当を多少許したのに、理由がない任官とあります。このときの能忠さんは、出来の悪い若者に感じられます。
 しかし、1189年には奥州平泉の藤原泰衡を征伐する軍に加わっていますので、運も良かったのだと思います。(名簿144名中、能忠さんは116番、当時の相模守は大内惟義で5番目にあります。北条時房さんも五郎の名前で13番目にありますが、まだ10歳のはずです)

 いい箱から16年後の1201年(建仁元年9月18日)に能忠の子・家忠の初名と思われる本間源太の名が見られます。源頼家が自分の猟犬の世話係を決めた中にいますから、なかなか良いポジショニングです。

 それから20年後の承久3年(1221年) 本間忠家と忠貞の親子は、当時の相模守だった北条時房の東海道軍の陣に加わり、近江国勢多の合戦で手柄を挙げています。この承久の乱がきっかけで北条時房の家と本間が結びつきを深めていったのだと思います。
 承久4年正月の弓取り始めの儀に能忠の四男・本間四郎光忠(忠家の弟)の名がありますから、承久の乱での本間家からの出兵は能忠の子と孫の本間ファミリー総出だったとも推察できます。

 承久の乱は北条時房が46歳の出来事です。時房には北条を名乗る男系の子が6名いて、承久の乱時の各年齢が時盛24歳、時村23歳、資時22歳、朝直15歳です。時盛は父と一緒に出陣したと記録にあります。しかし、時村と資時の2名は前年の承久2年に突然、出家しているので不参加です。そうすると、第4子の朝直(ともなお)は出陣したのでしょうか?数えで16歳です。元服済ですから初陣だった可能性があります。仮にそうであれば北条時房は、本間忠家の親子に朝直の世話を指示したことが推察されます。

 そして承久3年6月16日の時房と朝時(ともとき)の六波羅探題就任。
その前後に、時房親子と朝時は勝ち戦の宴を開いたことと思われます。その中には当然本間ファミリーも参加していたことでしょう。このとき朝時28歳。加賀・能登・佐渡・越中の4国の守護も朝時です。
 また、承久の乱以降、西国の没官領(もっかんりょう)など、北条直轄地が急速に増えました。これらの要因により、北条を補佐する信頼のおける駒(部下)を時房・朝時の両名は欲っしていたはずです。このようなことから本間ファミリーへ守護代や地頭への話があったかもしれません。佐渡の本間の起源も、この六波羅での話から始まるのだと思います。
 本間系図によりますと、能忠の三男・基忠は山城守となっています。六波羅探題直轄の山城国と関係があるような雰囲気です。 さらに、山城といいますと、1269年(文永8年)佐渡・松ヶ崎の下行札に「当地頭本間山城□□」の文字があります。佐渡における「本間」の初見だそうです。

 また、1226年(嘉禄2年)7月1日に本間忠貞は時房より伊勢国の領地一部を褒美としてもらっています。その後の嘉禄3年7月12日に本間元忠という人が伊勢国で伊勢の悪党丹生を捕り逃がしていることが吾妻鏡にあります。忠貞と元忠、叔父の基忠のことでしょうか?本間忠貞は北条時房からの恩賞を身内と云え、他人にすぐ渡すような失礼なことができますでしょうか?
 それでは本間元忠とは何者か?それは、忠貞が元忠に改名したからだと思います。この改名こそが、依知の本間から北条(時房)の本間にうつった証で元忠(忠貞)の覚悟でもあります。

 いづれにせよ、六波羅探題南方となった北条時房。京都に残った本間ファミリーも複数人いたはずです。

 そして、承久の乱から50年後の1271年。時房の孫で朝直の第5子、北条宣時が33歳を迎えた文永8年、順徳院が配流された佐渡に、日蓮が流人として、やって来るのです。
 それぞれの立場は、北条宣時が佐渡守護職、本間六郎左衛門が佐渡守護代です。太郎左衛門忠貞と六郎左衛門はどういう関係であったのでしょうか?

1228年  安貞2年7月23日  本間次郎左衛門尉
将軍家駿河の前司義村の田村山庄に渡御す。御出の行列、
1229年  安貞3年1月15日  本間次郎左衛門尉 御弓始め 射手
   寛喜元年6月3日 ※【明月記】
今日聖法印説法の聴聞衆、また群集すと。この上人は関東の武士、承久三年戦場に在 り。また佐渡の御共に参る。発心出家し入洛す。また天王寺に参り、此の如き事を勧進すと。
1230年  寛喜2年1月10日  本間太郎左衛門尉 御弓始め 射手
1233年
貞永2年1月1日 丙午 (1233年)
 椀飯(相州御沙汰)。御劔は出羽(民部権少輔)、御弓箭
 (近江前司信綱)、御行騰沓(佐原三郎左衛門尉家連)。
  一の御馬(鞍を置く) 式部大夫        陸奥五郎
  二の御馬         相模四郎       同六郎
  三の御馬        上野七郎       同五郎
  四の御馬        
  五の御馬        本間左衛門尉  同三郎左衛門尉
 
 1234年  
天福2年1月1日 庚子 天霽風静まる (1234年)
 椀飯(相州御沙汰)。将軍家出御す。八條少将御簾役に候す。御劔は出羽
 前司家長、 御弓箭は佐原三郎左衛門尉、御行騰沓は式部丞朝直
  一の御馬(鞍を置く) 越後太郎      同次郎
  二の御馬        相模六郎      本間三郎左衛門尉
  三の御馬        掃部助太郎     本間次郎左衛門尉
  四の御馬        佐原四郎      同六郎兵衛尉
  五の御馬        本間左衛門尉   同四郎左衛門尉


 1233年から2年間、元旦での歳首椀飯の沙汰人(執行者)を北条時房が務めています。時房が権力の中枢にいるのがが伺えます。
 貞永2年(1233年)では2番目の馬に北条朝直と北条時定、5番目の馬に本間忠貞と本間忠久がいます。

 天福2年(1234年)では乗馬靴の献上で前年2月18日に式部少丞に遷任された時房の子・北条朝直、1頭目の馬を引くのは北条朝時の子の光時と時章でしょうか、2頭目に北条時定と本間忠久、3頭目に掃部助(かもんのすけ)の官職名と第1子を表す太郎がありますから、北条時景(時盛の子)と本間信忠、5番目の馬に本間忠貞でしょうか、あと一人の本間四郎左衛門が誰なのでしょうか?

 忠貞の兄弟の四男、弥四郎左衛門尉忠時と思われる名前は24年後の正嘉2年(1258年)に本間彌四郎左衛門尉として吾妻鏡にでてきます。通常であれば有り得ない兄弟の年齢差になります。単なる系図の間違いか、異母兄弟だったのでしょうか?

 いずれにしても、天福2年の椀飯は、北条時房の力を世間に知らしめる最大の布陣で、本間家にとっても晴れ晴れしい日で、本間が盤石の地位を得た日ともいえます。

※  天霽】(てんせい)  晴天。
   
  【椀飯】(おうばん)
    もとは椀(わん)に盛った飯(めし)の意で、鎌倉時代には、家臣が主君をもてなすさいに行われる幕府の儀式となった。おうばんぶるまい(椀飯振舞)の原語。
     
  【歳首】(さいしゅ) 年の初め、年頭。
   
  【歳首の椀飯】(さいしゅのおうばん)
     正月恒例の行事として有力な幕臣に供応の役を課したもので、鎌倉幕府では元日より数日にわたり、北条氏をはじめとする有力な御家人が将軍に対して太刀・名馬・弓矢とともに椀飯を奉(たてまつ)った。
もてなしを行うことで、主従の結びつきを再確認し、その関係をより強固にする意義があったという。
     
  御簾役】(みすやく) すだれを巻き上げる役
   
  御劔】(ぎょけん)  刀。  【御弓箭】(おんゆみや) 弓矢。
     
  御行騰沓】(おんむかばきぐつ) 
    むかばき(乗馬用の腰から足先まで覆う布また革製のもの)と乗馬用の靴。
     
     



1235年  嘉禎元年2月10日  本間次郎左衛門尉、同四郎
今日御堂を立てらる。事終わり大工等禄を賜う。大工分、馬二疋
1236年  嘉禎2年1月1日  椀飯(相州御沙汰)。御弓箭 越後太郎光時、御行騰沓 相模式部大夫朝直
   三の御馬 相模五郎 本間三郎左衛門尉
   五の御馬 相模六郎
 嘉禎2年8月4日  佐渡守(後藤基綱) ・ 本間次郎左衛門尉
戌の刻将軍家若宮大路新造の御所に御移徙なり。今日の供奉人
1237年  嘉禎3年1月1日  椀飯(匠作御沙汰)。御弓箭 相模式部大夫朝直
 一の御馬(鞍を置く)相模五郎 本間式部丞、四の御馬 本間次郎左衛門尉、五の御馬 相模六郎
 嘉禎3年1月11日  本間次郎左衛門尉  椀飯以後御弓始め有り 射手
   嘉禎3年3月8日  本間式部丞  今日主計の頭師員の奉行として、近習番
   嘉禎3年4月19日  本間式部丞元忠御調度を懸く。修理大夫・左京権大夫以下供奉す。
大倉新御堂の上棟なり、将軍家監臨せしめ給う。
   嘉禎3年4月22日  佐渡前司(後藤基綱)  佐渡帯刀左衛門尉(後藤基政)
今日、将軍家左京権大夫の亭に入御す。供奉人(49名)
   嘉禎3年6月23日  大慈寺郭内の新造の精舎 行列
本間次郎左衛門尉・佐渡前司基綱・佐渡次郎左衛門尉基親・佐渡帯刀左衛門尉基政
1238年  嘉禎4年1月1日  椀飯(匠作御沙汰)。
   一の御馬 相模式部大夫      本間式部の丞
   二の御馬 相模の六郎       橘右馬の允
   三の御馬 上総の介太郎      同次郎
   四の御馬 本間次郎左衛門の尉   同四郎
   五の御馬 越後の太郎       吉良の次郎
   嘉禎4年2月17日  本間次郎左衛門尉信忠 行列 (他22・23・28日)
   嘉禎4年6月5日  佐渡次郎左衛門尉基親・本間次郎左衛門尉信忠 行列
1239年   暦仁2年1月1日  椀飯(匠作御沙汰)例の如し。御劔は周防右馬の助光時(束帯)、御弓矢は武蔵の守
  朝直(布衣)、御行騰沓は肥前の守家連
   一の御馬(鞍を置く)相模式部大夫時直    本間次郎左衛門の尉信忠
   二の御馬      相模右近大夫将監時定  横地太郎兵衛の尉長直
   三の御馬      佐原太郎左衛門の尉家胤 同四郎左衛門の尉光連
   四の御馬      佐原七郎左衛門の尉政連 同六郎助連
   五の御馬      相模の七郎時弘     橘右馬の允公高
   暦仁2年1月1日  本間源内左衛門尉  御弓始 射手
1240年   延應2年1月1日  椀飯(匠作御沙汰)。御劔は右馬権頭(政村、布衣)、御弓箭は武蔵守朝直、御
  行騰沓は佐渡前司基綱。
   一の御馬(鞍を置く)相模式部大夫時直    佐原六郎兵衛の尉時連
   二の御馬      相模七郎時弘      本間源内左衛門尉忠直
   三の御馬      佐原太郎左衛門の尉胤家 同四郎左衛門尉光連
   四の御馬      吉良大舎人助政衡    原四郎左衛門尉泰綱
   五の御馬      相模右近大夫将監時定  山城前司元忠
   延應2年1月6日  本間源内左衛門尉  御弓始 射手
   延應2年1月15日  佐渡前司  評定始めなり。評定衆
   延應2年3月7日  前山城守元忠   未の刻将軍家若君御五十日百日なり
   延應2年5月7日  山城前司元忠京都より帰参すと
   延應2年8月2日  佐渡前司・ 佐渡五郎左衛門尉  卯の刻将軍家二所御参なり。 行列
   延應2年10月22日  人々恩沢に浴す。佐渡前司基綱奉行たりと。
1241年   仁治2年1月14日  佐渡前司・佐渡判官   今日将軍家鶴岡八幡宮に御参り。行列  
   仁治2年8月25日  佐渡前司・佐渡太夫判官  将軍家(御束帯・御車)御参堂 行列
1242年   仁治3年9月12日 ※【増鏡】 
 佐渡院(順徳)かくれさせ給ひぬ。さしも、とりたてたる御悩などは無くて、失せさせ給ふ。あはれなる御事どもなり。四十六にぞならせ給ひける。
1243年   寛元元年4月28日 ※【百錬抄】
 佐渡院の御骨、康光法師首に懸け奉り、大原に渡御すと。
   寛元元年5月13日 ※【百錬抄】
佐渡院の御骨、今日大原御墓所に納め奉る。岡崎殿に於いて中陰の御仏事を始めらる。世人三十ヶ日穢を称す。
   寛元元年7月17日 本間次郎左衛門尉 (上旬)  臨時御出の供奉人の事結番すべきの旨
   寛元元年8月16日  本間左衛門尉  将軍家の御参宮昨日の如し。今年より三箇年、馬場の儀
1244年   寛元2年1月2日  本間山城前司  北条時貞沙汰の椀飯、(四御馬)
1245年   寛元3年8月15日  本間次郎兵衛尉信忠 佐渡五郎左衛門尉基隆  鶴岡八幡宮の放生会なり
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 
 


厚木市史料


 ※ 厚木市史編纂委員会(1271)『厚木中世史話』より抜粋 
本間系図(深谷市卜部綾子氏所蔵)
長男 季久 (海老名総家)(上海老名太郎)
村上天皇
為平親王 次男 能忠 (海老名郷の南部、恩間に住し本間姓を号す)(本間右馬充能忠)(うまのじょうよしただ)
本間右馬の允義忠(吾妻鏡・文治5年7月15日、.1189年)(吾妻鏡1190、1191、1195.)
源 顕定 (源姓)
三男 有季 (海老名郷国分に住し国分姓を名乗る)(国分三郎有季)
源 資定
源 有宗 四男 季能 (下海老名姓)(下海老名四郎季能)
海老名の四郎能季地頭と称し(吾妻鏡・文治2年6月25日、1186年)(吾妻鏡1186、1190)
源 有兼 (従五位下相模守) (播磨国矢野別府の地頭職に補任)
嫡子なし (相模国高座郡海老名郷に住)
五男 季時 (愛甲郡萩野郷へ移り萩野姓)(萩野五郎季時)(萩野氏の祖)
外孫の「横山季兼」を養子にもらい 萩野五郎俊重(吾妻鏡・治承4年10月18日、1180年)
海老名姓を名乗らせる
海老名太郎基兼 六男 忍長 (僧)
海老名源八季定 (尾張守)
(季貞、権守)
(海老名郷河原口に住)
長男 忠家 長男 忠貞 (太郎左衛門尉忠貞) 為忠(兵衛尉) 貞直 忠泰 盛直 維忠
(兵衛尉従五位) 本間太郎左衛門尉忠貞(吾妻鏡・嘉禄2年7月1日、9月) (太郎左衛門尉) (次郎左衛門尉) (又三郎) (源四郎) 泰忠(弥四郎)
対馬守 又任 (吾妻鏡・1230、1233、1234) (1226年)
武蔵守護 基直(六郎左衛門尉) 宣直(長六郎) 泰七(左衛門尉)
住相模国
次男 信忠 (次郎左衛門尉)
本間次郎左衛門尉(吾妻鏡・安貞2年7月23日、1228年) 天福2年1月1日 庚子 天霽風静まる (1234年)
(吾妻鏡・1229,1234)  椀飯(相州御沙汰)。将軍家出御す。八條少将御簾役に候す。御劔は出羽
三男 忠久 (三郎左衛門尉)  の前司家長、 御弓箭は佐原三郎左衛門の尉、御行騰沓は式部の丞朝直
三郎左衛門尉(吾妻鏡・貞永2年1月1日、1233年)   一の御馬(鞍を置く) 越後の太郎    同次郎
(吾妻鏡1234)   二の御馬        相模の六郎    本間三郎左衛門の尉
  三の御馬        掃部の助太郎   本間次郎左衛門の尉
四男 忠時 (弥四郎左衛門尉)   四の御馬        佐原の四郎    同六郎兵衛の尉
本間彌四郎左衛門の尉(吾妻鏡・正嘉2年1月6日、1258年)   五の御馬        本間左衛門の尉 同四郎左衛門の尉
本間彌四郎左衛門の尉(吾妻鏡・文應2年1月9日、1261年)
本間彌四郎左衛門の尉忠時(吾妻鏡・文應2年1月14日) 国季 - 守季 - 範季 - 久季 - 宗季 - 長季
季信 -
五男 忠光 (五郎左衛門尉) - 忠茂 - 忠孝 - 資季 - 持季 - 信久
(応水元年七月内裏守護被選勤務有功又旧領相模愛甲ヲ賜ル)
資氏 - 資泰 - 忠季 - 季孝 - 季俊(甚五右衛門右馬允)
六男 重連 (六郎左衛門尉)文永8年(1271年) - 宣蓮(弥六兵衛) - 宗連 - 貞蓮
佐渡国守護職 有蓮
(左衛門尉)
次男 能久 - 忠綱 - 久綱 - 宣基 - 泰綱 - 重久 二王
播磨国住
(太郎左衛門尉) 頼綱 - 助久 - 助忠
頼久 - 朝久 - 光久 - 朝嗣 - 忠重 - 仁定 - 時兼 - 宣兼 - 定泰
資貞 - 資貞 (1333年、正慶2年2月2日河内 赤坂城にて親子にて戦死、父37歳、子18歳)
宗忠 - 泰定 - 頼直 - 泰宣 - 有直 - 直冬 - 有重 - 重直 - 泰重 - 泰直 - 泰時 - 有泰 - 泰高 - 憲泰 - 一季 - 泰季 -
青山信濃守
三男 基忠 - 忠員
(山城守) 宣義
親忠 - 大吉 -
四男 光忠 忠清 - 光時 蕃義 - 氏重
本間の四郎光忠(吾妻鏡・承久4年1月7日、1222年) 忠頼
本間の四郎(吾妻鏡・貞応2年1月5日、1223)
忠宗
五男 資義 (五郎左衛門尉)ー某六郎左衛門尉
六男 泰忠 (小五郎左午充)
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厚木市編さん委員会(1972)『厚木市史料調査報告書第二集』

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