| 和暦 |
(西暦) |
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| 天徳 4年(960年)3月30日(4月28日) 天徳内裏歌合 二十番・右 平兼盛 |
| 文治元年(1185年)11月28日(12月21日)文治の勅許 |
| 建久 8年(1197年)9月10日(10月22日)守成(順徳)誕生 |
| 承久 4年(1222年) 2月16日(4月6日)日蓮誕生 |
| (1225年) 慶子女王誕生(守成28歳) |
| 嘉禄 2年(1226年) |
7月1日 甲寅 晴
亥の刻地震。今日、橘右馬の允公高並びに本間太郎左衛門の尉忠貞・小河左衛門の尉
・同右衛門の尉等、去る承久三年六月の勢多合戦の勧賞を蒙る。彼の輩相州の陣に加
わり軍忠を励むと雖も、未だその賞に預からざるの間、相州連々挙し申さるるの処、
猶許容無きに依って、自分の勲功の賞伊勢の国十六ヶ所の内、四ヶ所を辞し、御下文
を申し與へしめ給うと。
7月5日 天晴 [明月記]
心寂房来たり談る。河東の武士本馬左衛門の妻他行の間、竊盗その宅に入り、衣装・
資財余残無く取り尽くすと。
『吾妻鏡』
※ 相州=相模守・北條時房(1175~1240)(北条宣時の祖父) |
| 貞永 2年(1233年) |
1月1日 丙午
椀飯(相州御沙汰)。御劔(民部権の少輔)、御弓箭(近江の前司信綱)
御行騰沓(佐原三郎左衛門の尉家連)。
一の御馬(鞍を置く) 式部大夫 陸奥の五郎
二の御馬 相模の四郎 同六郎
三の御馬 上野の七郎 同五郎
四の御馬
五の御馬 本間太郎左衛門の尉 同三郎左衛門の尉
『吾妻鏡』 |
| 仁治 3年 (1242年)9月12日(10月7日)守成死去(45歳)(慶子17歳) |
| 文永6年(1269年) |
| 4月22日 |
(5月 1日) |
松前神社の下行札に、当地頭本間山城口口 の文字。佐渡に於ける本間文証の初見。
『河崎村史料編年志』
☆★ 本間太郎左衛門忠貞と本間六郎左衛門重連との血縁は? ★☆
地頭本間山城口口 は国地頭? DNAは?
佐渡での 公武二元支配とは?? |
| 文永8年(1271年) |
| 9月12日 |
(10月24日) |
午後6時頃に日蓮、御勘気を受ける(怒りにふれとがめを受ける)。『土木殿御返事』 |
結果、日蓮は武蔵守殿の預りとなる。 『土木殿御返事』
※ 武蔵守=北条宣時(ノブトキ1238~1323)(北条時房の孫)
(別名・大仏宣時オサラギ・当時の佐渡守護) |
武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでし
『種種御振舞御書』 |
| 9月13日 |
(10月25日) |
午前2時頃、依知に向けて鎌倉を出る。
当分の間、本間の領地で依智の六郎左衛門尉殿の代官・右馬太郎に預けられる。
『土木殿御返事』
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| 昼12時頃、依智の六郎左衛門の家にはいる。 『種種御振舞御書』 |
| 9月14日 |
(10月26日) |
書作 『土木殿御返事』 (宛所 土木殿御返事)(与富木常忍) |
| 10月 |
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書作 『佐渡御勘気抄』 (宛所 なし) |
| 10月 9日 |
(11月19日) |
書作 『五人土篭御書』 (宛所 五人御中)
(牢を出たら、明年の春かならず佐渡へおいでなさい。お会いしましょう) |
| 10月10日 |
(11月20日) |
依智出発。 『寺泊御書』 『種種御振舞御書』 |
| 10月21日 |
(12月 1日) |
寺泊到着。 『寺泊御書』 |
| 10月28日 |
(12月 8日) |
佐渡へ到着。 『種種御振舞御書』・松ヶ崎村に着岸。 『佐渡風土記』 |
| 11月 1日 |
(12月11日) |
塚原に入る。 『種種御振舞御書』 |
| 11月23日 |
( 1月 2日) |
書作 『富木入道殿御返事』 (宛所 富木入道殿御返事)
(連れてきた小僧を少し帰したから、島の状況や住まいの様子を聞いてくれ
詳しいことは手紙では書けない) |
| 文永9年(1272年) (日蓮50歳・慶子47歳) |
| 1月16日 |
( 2月23日) |
塚原で法門対決(塚原問答) 『種種御振舞御書』 |
| 2月18日 |
( 3月25日) |
船が着き鎌倉や京都でいくさがあり大変であるという。
六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡っていった。
『種種御振舞御書』 |
| 3月 |
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※ 二月騒動の連座として世良田頼氏・渋川義春が流罪 |
| 3月20日 |
( 4月26日) |
書作 『佐渡御書』 (宛所 日蓮弟子檀那等御中)
(書籍なども、佐渡に来る人に持たせてほしい) |
| 4月10日 |
( 5月15日) |
書作 『富木殿御返事』 (宛所 土木殿)「鵞目員数の如く給び候」
(お金は予定の額の通り受け取りました) |
| 4月13日 |
( 5月18日) |
書作 『最蓮房御返事』 作 (宛所 最蓮房御返事)
(夕方は特に用心して来てください)
(都からの数々の品物は確かに受け取りました) |
| 文永10年(1273年) |
| 4月26日 |
(5 月21日) |
書作 『富木殿御返事』 (宛所 富木殿御返事)
「帷一つ・墨三長・筆五官給び候い了んぬ」 |
| 7月 6日 |
( 8月26日) |
書作 『土木殿御返事』 (宛所 土木殿御返事) 「鵞目二貫給候い畢んぬ、」 |
| 文永11年(1274年) |
| 2月14日 |
( 3月30日) |
日蓮の赦免状が発行される。 『種種御振舞御書』 |
| 3月8日 |
( 4月23日) |
赦免状が佐渡に着く。 『種種御振舞御書』 |
| 3月13日 |
( 4月28日) |
日蓮、佐渡出発。 『種種御振舞御書』 |
| 3月26日 |
( 5月11日) |
日蓮、鎌倉帰還。 『種種御振舞御書』 |
| 文永12年(1275年) |
| 4月12日 |
( 5月16日) |
書作 『国府入道殿御返事』 (宛所 こう入道殿御返事)「あまのりのかみぶくろ~」 |
| 建治元年(1275年) |
| 4月 |
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書作 『法蓮抄』 (宛所 なし) |
| 5月 8日 |
( 6月10日) |
書作 『一谷入道御書』 (宛所 一谷入道女房) |
| 6月16日 |
( 7月17日) |
書作 『国府尼御前御書』 (宛所 さどの国のこうの尼御前) |
| 建治2年(1276年) |
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書作 『種種御振舞御書』 (宛所 なし) |
| 弘安元年(1278年) |
| 4月12日 |
( 5月12日) |
書作 『是日尼御書』 (宛所 尼是日)
「さどの国より此の甲州まで入道の来りたりしかば」 |
| 7月28日 |
( 8月24日) |
書作 『千日尼御前御返事』 (宛所 佐渡国府阿仏房尼御前)
「阿仏房にひつを・しおわせ夜中に度度・御わたりありし事 又其の故に或は所ををい或はくわれうをひき或は宅を・とられなんどせしに・ついに・とをらせ給いぬ」 |
| 9月6日 |
( 9月30日) |
『妙法比丘尼御返事』 (宛所 妙法尼御前 御かたへ) |
| 弘安 2年(1279年) |
| 11月30日 |
( 1月10日) |
書作 『中興入道消息』 (宛所 中興入道殿女房是) |
| 弘安 5年(1282年)10月13日(11月21日)日蓮死去(60歳) |
| 弘安 7年(1284年) |
8月、北条時光 流罪。
(興福寺の満実法印と陰謀を企てるが発覚し、拷問の末に佐渡国へ流罪)
『鎌倉年代記』 |
| 弘安 8年(1285年) |
6月、小木半島木浦郷の郷守護代職を兄本間宣定と弟本間重久の争いを北条宜時裁断を下す |
| 弘安 9年(1286年) |
順徳第一皇女 慶子女王死去(61歳) |
| 永仁 6年(1298年) |
京極為兼 流罪(44歳・1254年生まれ) |
| 嘉元元年(1303年) |
京極為兼 帰京 |
| 徳治 3年(1308年) |
本間左衛門十郎(雑太本間氏の祖)が熊野権現を建立『古佐渡本間系図』 |
| 正中 2年(1325年) |
中納言日野資朝が佐渡に流さる |
| 元弘 2年(1332年) |
資朝の殺害令が佐渡の守護代本間氏にくだされた。『太平記』 |
| 元弘 3年(1333年) |
5月、本間山城左衛門 鎌倉に於て北条家のため奮戦の後自尽すという。 鎌倉幕府滅亡。 |
| 貞和 4年(1348年) |
8月、本間山城六郎紀伊凶徒退治のため発向すべき下知を受く 『河崎村』 |
| 明徳 2年(1391年) |
7月、備中守義孝幕府内の訴訟の経過を本間山城弥次郎に報ず 『河崎村』 |
| 応永21年(1414年) |
2月、本間山城道昭?後家妙義尼に所領を譲る 『河崎村』 |
| 永享 6年(1434年) |
世阿弥 流刑。 |
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