斉藤光悦

           この小説と同じモチーフの短歌もあります

 四十一歳になった。本厄だ。徳島生まれの妻と結婚して十年。子供は四年前に生まれた娘ひとり。そこそこ幸せだ。というか、十分に満ち足りている。妻は快活で優しい。稼ぎもある。器量だってまあまあ。気が強すぎる面はあるが許容範囲だ。娘は四歳のかわいい盛り。勤めから帰ってくると玄関にお迎えにきて、パパおかえりなさいといって抱きついてきたりする。健康に不安がないではない。少々肥満ぎみ。それに最近、胃カメラを飲む羽目になった。苦しかったが、幸いにも「問題なし。薬ですぐに直ります」。勤め先の経営が大丈夫かといえばそうでもない。だが、倒産やリストラの心配をするほど深刻な不振にあえいているわけではない。なんとかなりそうだ。つまりは、そう、幸せなのだ。とりたてて文句はない。

 でも、ちょっと待てよ。おれって、こんなんでいいんだっけ? と、口にしている時がある。こういう小市民的な幸せで満足していてよかったのか。疑問がちらつく。しかしそれは、蛍光灯がつく前のグローランプのように、あっという間の点灯だ。こういう生活がこれからも続く。続いてほしい。続かなければならない。でも、すこしだけ、昔がなつかしい。忘れてしまった青年の志、胸を焦がす恋。そんな刺激がほしいのかもしれない。だから、最近よくあの人のことを思い出すのだろうか。

 彼女の名前は伊崎芳子といった。

 デパート業界に寄生する業界紙のワンマンオーナー社長にぶん殴られて退社して数ヶ月の後に入社したのが、化学業界の業界紙。そのころ社員は三百人近くおり、業界紙としては全国でも指折りの規模の会社だった。僕は、報道局というご大層な名前の組織の整理部というところに配属され、ほぼ半年が過ぎていた。整理部は、簡単に言えば見出しを付けたりレイアウトをする部署。結構、大事な仕事だ。前の会社では、広告取りから取材、原稿書き、見出し付けやレイアウト、校正などの紙面作り、新聞発送、そして間借りした2LDKマンションの隅から隅までの掃除など何から何までやっていたから、見出しとレイアウトだけの新しい仕事は、はっきり言って楽だった。おまけに完全週休二日。それなのに、給料は格段に上がった。月々の手取りは五割増しくらいにはなった。

 経済的に余裕はできたが、学生時代から住んでいた住まいは変えなかった。京王本線の新宿駅から一つ目、笹塚駅から歩いて十分、自転車なら四分の閑静な住宅街にある日当たりと風通しとたてつけの悪い安アパートの一階。六畳の和室と三畳の板敷きのキッチン、そしてトイレ付き。風呂はなかったが、銭湯が歩いて一分のところにあった。はっきり覚えていないが三百円くらいの風呂代がもったいないのと面倒くさいのとで週に二、三度しか行かなかったけれど。

 生活の便はよかった。まず新宿が近い。日本橋にある会社にも電車で二十一分。駅とアパートの間にある商店街も充実していた。問題は日当たりだった。隣家に遮られて、昼日中から夕方のよう。風通しも悪く、掃除をほとんどしないせいもあって、部屋はかびくさい臭いがしていたらしい。いつも住んでいる自分は気づかなかったが、岩手の父が訪ねてきたとき、こんな狭い、かびくさい部屋に住んで…と、二の句が継げなかった。寿司屋で軽く飲み食いしてきたあと、そのかびくさい部屋で酒を飲みながら、父は嘆きっぱなしだった。

 こったなとこさ暮らさせるためにおめを大学にやったんじゃね、東京に出てぐのを許したんじゃね。はやぐ帰ってこ。おめの仕事ぐれ探してやっから。もう帰ってこ。彼女だっていねんだべ。隣りの浩司なんか、もう子供がふたりもいるぞ。とうちゃんが嫁さん見つけてやっから。見合いだったらなんぼでもある。おめは結構、評判えがったからな。

 最後の言葉が僕をぐらつかせた。僕は二十五歳にして、まだ女性を知らなかった。

 中学、高校を通して成績優秀。ルックスもわれながら、まあまあ。ずっと女の子にもてた。大学に入ってからもそうだった。入学してすぐ、文化系サークルの同級生といい仲になった。彼女は浪人組で一つ年上。いま思い返せば、その彼女とのつきあい方が、その後の女日照りのきっかけになったような気がする。

 僕はふたり兄弟の弟。そのためかどうか、長女に好かれる傾向があった。つきあいだしてみると、まるで姉が弟の面倒を見るような態度で接してこられることが多かった。姉というのは、弟にまとわりつかれていないと納得しないものらしい。どうして電話してこないのだの、最近手紙も書いてこないねだのと干渉がきつくなる。そして、その面倒くささから心が離れ出すと敏感に察するらしく、ますますもって干渉の度合いを強める。それがわずらわしかった。田舎に帰省しているとき、もう別れようと手紙を書いてそれっきりにした。しばらくは電話がうるさいほど鳴った。手紙も毎日のように来た。僕はそれを黙殺した。彼女との間には男女の関係はなかったから別れやすかった。だが、ここで「経験」していれば、二十五歳まで経験できず悶々とコンプレックスに悩むこともなかった。

 笹塚駅からアパートまでの十分の道のりのほぼ中間に、小料理「かず」という店があった。小料理屋というと、気の利いた季節の肴をだすしゃれた店というのが相場だろうが、その店は「お袋の味」の店だった。

 木製の引き戸の上半分がうすく曇ったガラスになっていて、客同士が楽しそうに話している姿をいつも目にしていた。仕事が終わると同僚と会社近くで遅くまで酒を飲んで帰るか、まっすぐに笹塚に帰ってきて、ラーメン屋やトンカツ屋、定食屋でビール一、二本とご飯を飲み食いして帰るかのどちらかしかない生活を送っていたから、その中間というか、地元で気安く酒を飲める店がほしかった。独り身の孤独をまぎらわす場所がほしかった。独り身の孤独― そう言ってしまうと綺麗事に過ぎる。ほんとうは、さびしくてさびしくてしょうがなかった。ただただ女が恋しかった。ふるさとに帰ろうか。山紫水明の岩手県は和賀郡和賀町。いなかのことだ、望む仕事はないかもしれない。いや、きっとないだろう。だが、父母がいる。親類がいる。友がいる。道を歩けば声をかけてくれる近所の人々がいる。この街で声をかけられたことが一度もないのと比べれば、なんという親密な共同体―

 「かず」はそんな孤独から僕を救ってくれそうだった。ただ、飲み屋に一人で入る勇気がなかった。駅を降りるときにはきょうこそ行ってみようと毎度思った。ちょっとのぞいてみて、足を一歩踏み出したこともあったが、すぐにさっきの一歩はただよろけただけだよとでもいうふうにその場を過ぎていくことを繰り返した。ずっとこのままかもなあ、とあきらめかけていた。こんなことで決意し、挫折し、自己嫌悪に陥る馬鹿馬鹿しさも感じていた頃、岩手の高校時代の友達が突然、きょう泊めてくれと電話をしてきた。出張の仕事だったという。めしはおごる、おまえの好きなところ連れて行ってくれ。僕は、迷わず「かず」を選んだ。

 引き戸は半分までスムーズに開き、それから半分は力を込めなければならなかった。かなり年季が入っている。店内も負けず劣らず古かった。タバコや焼き物の煙が天井や壁に染みついてヤニ光りしている。入口から奥に向かってカウンターが四、五人が座れるほど伸びそこで左に曲がって三人ほどが座れるL字型になっていた。そのL字に囲まれた空間が調理場であり、女将の居場所だった。客はL字の長辺に三人。うちふたりは二十代半ばの僕から見ればかなり飲み屋慣れしたお兄さんたちに見えた。もう一人は、顔の大きい人の良さそうな中年のおじさん。

 いらっしゃい。おや、初めてだね。適当に座って。女将はそう言うと、コンロの上の焼きサンマに視線を戻した。もうもうと煙が立ちのぼっている。

 こっちに座りなよと声をかけてくれたのは、よく日焼けした坊主頭のお兄さんだった。あとで知ったことだが、彼のあだ名は「12チャン」。いまのテレビ東京、昔の東京12チャンネルの旅行番組のアシスタント・ディレクターだ。年がら年中、世界中を飛び回っているらしい。残りのふたりは「おんちゃん」と菊池さん。おんちゃんの名前は恩田で、自分ではちっぽけなPR会社のしがないコピーライターだと言っている。こちらは長髪で、セルロイド眼鏡の奥の小さな目は人懐っこく、ちょっと神経質そうだ。菊池さんはタクシードライバー。ごわごわした顔の唇の右に大きなほくろがある。初めてだね。ここは、焼き魚がおいしいよ。どんな仕事してるの…。みんなやさしい。新入りを拒絶する雰囲気なんてこれっぽっちもなかった。 

 たぶん十時を過ぎていた。先客たちと気安く話をし始めていたころ、ドアががたがたいった。紺のブレザーと赤いスカーフの小柄な女性が入ってきた。雪白の丸顔で、美人というより、かわいい。

「ただいま」

 ただいま。たしかにそう言った。

 彼女はL字型の短辺の壁際に迷いもなく進んで座った。

 おかえり。きょうは遅かったね。デートでもしてきた? にいさんたちが順繰りに声をかける。みんなのアイドルなのだと分かる。

「おかあさん、きょうはなに」と彼女が聞くと、もうブリしかないよと女将は不機嫌だった。

「怒ってるの? 帰りが遅かったから」

 ここに至って僕と友人は、彼女が女将の娘だとわかった。そんなとき、黙っていられないのがこの友人のたちで、あのこは女将さんの娘さんなんですかとおんちゃんに聞いた。そうですよ。彼はおどおどしている。すると女将は、彼を見てたしなめる表情ををつくった。そうか、このことは公然の秘密なのだ。初めての客にご丁寧に教えることはない。

 ブリ焼き定食できあがり、とお盆に載せて渡すと、女将はもう娘に話しかけることはなかった。その代わりその娘は、おんちゃんや12チャン、そして彼女をとても気に入ってしまった僕の友人に話しかけ、そして話しかけられて、ふと気づくと十二時に近かった。おんちゃんが先に帰り、12チャンが続き、そしてカウンターで転寝をしていた菊池さんは、もう上がりなよと女将に言われて、トイレ脇の内階段を昇っていった。これもあとで聞いたのだが、菊池さんはこの店の二階の一間を借りている。「かず」が開店するより前から住んでいた。だから、彼女が小さい時分から知っていて、彼女に対しては父、女将に対しては用心棒、というくらいの気持ちを持っていたのではないだろうか。

 彼女にせっせと話しかけていた友人もさすがに旅の疲れが出たか、飲みすぎたか、言葉すくなになって、もう帰ろうと僕に催促した。それまで一度も彼女に話しかけられなかった僕は何か一言でも話したかった。帰るからまずトイレ行ってこいと促して、友人が席を離れたすきにやっと声をかけられた。

「女将さんと一緒に帰るんですか」

「そうですよ。店でご飯を食べたときはいつも」

 女将は店じまいをしながら、娘と若い男の会話は聞いていないそぶりだったが、僕には女将が神経を尖らせている感じが伝わってきた。だからそれ以上話せなくなって、グラスに残っていたビールを飲み干すと、ちょうど友人が戻ってきて「さようなら」と彼女の顔をじっと見た。さようなら。また来てくださいね。彼女の声とほほえみに、僕はいちころだった。

 アパートに帰って友人は、ベッド脇に敷いたせんべい布団の上でしつこく話しかけてきた。あのこ、めんこかったな。おれの好みだなあ。一目ぼれだよ。でも、おれ東京にいねしな。おめ、口数すくねがったな。俺にだげ話しさせでよ。おめも気に入ったんだべ。しょうがねえ、おめに譲るさ。いぐら気に入っても、岩手から通えねしな。がんばれよ。おめに譲る― 言葉がフェードアウトして、すぐにいびきが聞こえてきた。

 たいしたことはないと高をくくっていた新しい職場での仕事も、実は責任ある仕事を任せられるようになるとそれほど簡単でもなく、ひとつの仕事を職人仕事的に鍛え上げていくのはそれなりに努力が要ったし、当然、残業が増えた。会社を出るのはいつも九時くらいになった。そうすると、「かず」到着は十時すこし前。ビールを飲んで、話をして、ご飯を食べて、そんなこんなで帰りは十二時近くなる。いつものようにおんちゃんや12チャンが先に帰り、最後に僕が残る。彼女が店に来ていれば、たとえ女将の監視の下とはいえ、少しばかりの話をすることは期待できたはずだった。

 ところが、僕が期待しているようには彼女が店に来ているわけではなかった。母の元へきてご飯を食べて一緒に帰るという姿を見て、僕は勝手に、これはこの親子の日課のような生活パターンなのだろうと勝手に思い込んでしまったのだった。でもそれは日課でもなんでもなく、あの日彼女がこの店に来てご飯を食べて母と一緒に帰ったのはむしろ珍しいことだったのだ。

 次に彼女に会えたのは、店の中ではなく、府中にある東京競馬場だった。競馬を見に行ったわけではない。花見の宴である。「かず」の常連客を集めて女将が毎年企画しているのだという。樹下に設えられた木製の大きなテーブルを囲んで、十五人はいただろうか。常連は全員男。おんちゃんも12チャンも菊池さんもいる。女は三人。これは客ではなく、女将と若い女性がふたりだ。もちろん、テーブルの向こう側に彼女もいた。彼女の隣には、彼女によく似た女性が座っている。

 テーブルの上は買いだしてきた酒やつまみでいっぱい。女将手製のでっかいおにぎりもあった。紙コップを右から左に回して全員にいきわたると、ではビールをついでくださいと女将が言い、全員が注ぎ終わるのを見届けると右手に持ったコップを掲げて、「満開の桜とかずのみんなの幸せに乾杯」と発声した。かんぱい、かんぱい、かんぱい。あちこちで少しずつタイミングがずれて、大小さまざまな声が上がった。

 よく似た顔のふたりは、おそろいのトレーナーを着ている。彼女は黄色、もう一人は赤。本当によく似ている。双子かもしれない。一人でもかなりかわいいのに、ふたり並ぶと人の目を引かずにはいなかった。通り過ぎていく酔漢が、好奇の目を向けていく。店で何度か見かけたことのあるおじさんに聞くと、あれだけ似てるんだ、双子に決まっているじゃないかと教えてくれた。赤いほうが姉さんで「ちゃこ」、黄色いのが妹の「よっこ」さ。ちゃことよっこ? どうして。ちゃこは久子、よっこは芳子。彼女たちが小さいころに菊池さんがつけたあだ名だよ。

 馬券でも買ってくっかと菊池さんが大声で呼びかけると、菊池のおっちゃん連れてって、と双子たちが付いていったのは宴も半ばを過ぎたころだった。彼女たちの不在は、残された男たちを手持ち無沙汰にするのか、煙草と酒のピッチが上がったようだった。誰もがまだかまだかと帰りを待っているような気がしたのは、僕の思い過ごしだろうか。

 負けた、負けたと三人が上機嫌で戻ってきた。彼女たちは元の席には着かず、ちゃこはおんちゃんの、よっこは僕の隣りに座った。

「双子なんだってね。負けたくせに笑っている表情まで似てる」

「おもしろい人。そんなふうに言われたの初めて」

 彼女はそう言って、えくぼをつくった。ほほえみに緊張を解かれ僕の口も滑らかになって、一気に「かず」の近所にあるピザがおいしいイタリア料理屋で飲む約束を取りつけた。彼女の自宅の電話番号まで教えてもらった。上出来である。彼女はしばらくして最初の席に戻った。僕はその日の、それから先のことは何も覚えていない。酔っ払っていたし、極度の夢見心地だったのだろう。

 初めてのデートの日、僕は朝から舞い上がっていた。忘れかけていた恋の予感。おまけに恋焦がれている相手は、これまでに付き合った女性のなかではナンバーワンのかわいいさだ。僕は前日、小田急デパートでツイードの上下、臙脂のネクタイ、セイコーの腕時計を新調していた。それらを身に付け、約束の時間の六時にはほど遠い昼すぎからアパートの周りをうろついていた。ひさびさにおしゃれをした僕のかたわらをきょう彼女が歩く。隣りに座って酒を飲む。そんな想像をしながら住宅街を浮かれ気分で歩き回っていたのである。

 一抹の不安はあった。あんな素敵な女性が僕みたいに平凡な男を好いてくれるものだろうか。僕とおなじように恋の萌芽を感じてなどいないのではないか。そういう不安をかき消すためにも部屋でじっとしていることはできなかったのだ。

 いま振り返れば、痛恨の失敗だったと言えるのだが、待ち合わせは「かず」にした。そこで落ち合い、ピザ屋に行こうと決めていた。なぜ「かず」にしたのだったか、はっきりとは思い出せない。どちらが「かず」を指定したのかも思い出せない。ただ、もし僕からその場所を指定したのだとすれば、お兄さんたちに見せびらかしたいというさもしい根性があったかもしれない。また、一緒に飲みに行くのを女将には隠したくはない。もしこの関係がうまくいったとして、女将にはオープンにしていたいという計算があったかもしれない。女手ひとつでふたりの娘を育ててきたのだ。親子の絆はごく一般的な家庭で暮らしている者には想像できないほど強いにちがいない。母と娘の諍いの種を蒔いてはならないと考えたのかもしれない。

 客はだれもいなかった。土曜日のこの時間ではしょうがない。おんちゃんたちは土曜日は来ないよ。仕込みまだ終わってないから、ちょっとビールだけ飲んでて。女将はそう言うと、鍋の中にカレー粉を入れた。ここのカレーはとてもうまい。ブイヤベースのようにイカやホタテ、エビ、タラなど魚介類がたっぷり入った、辛くも甘くもなく、飲んだ後にかっ込むにはちょうどいい味。カレー、食べたかったな。なに、食べてけばいいじゃないか。どうせ一、二時間飲んでくんだろう。いや、きょうは予定があって、ここで待ち合わせです。誰だろね、斉藤君とここで待ち合わせるなんて。

 がらがらと戸が開いて、彼女が入ってきた。

「どうしたんだい、よっこ。まさか…」

「そうよ。斉藤さんとデート。びっくりした?」

「へえ、そうですか。勝手にすればいいさ」

 女将はそれだけ言うと押し黙った。顔が真っ赤になっていた。

「まずかったですか。芳子さんを誘ったのは」

 おそるおそる聞いたが、女将は僕ではなく芳子を見て、早く行きなさいよ、邪魔だ邪魔と言った。芳子はとくだん動揺することもなく、じゃあいきましょうと店を出て行った。僕は、では行ってまいりますというのが精一杯だった。

「お母さん、そうとう怒っていたね」

 テーブルには生ビールとシーフードピザ、モッツアレラチーズとトマトのサラダ、そしてジェノバ風パスタがところ狭しと並んでいた。

「いつもそう。私たちがお客さんと外で飲むのを嫌うの。自分の店とどこがちがうのよ。斉藤さんだから機嫌が悪かったってわけじゃないと思うよ」

「じゃあ気にしない。出入り禁止なんてことはないよね」

「ない、ない。お母さんは瞬間湯沸かし器なの。あしたになればけろっとしているはずよ」

 僕は大事な告白をするタイミングをつかめないまま、どうでもいい話をした。いざとなるとまったく意気地がない。彼女は、店のお兄さんたちのこと、母親のこと、姉のこと、そして会社や習い事のことなど、やはりあたりさわりのない話が多かった。

 彼女の心をかいま見たように思ったのは、父親が自分たちの小さいころに死んでしまったことと、その後の生活がやはり楽ではなく、六畳間のアパートに三人で住みながら、支えあって生きてきたことを語ったときだけだった。母子家庭であるということだけでなく、母親が水商売を稼業にしているいうことが、ふたりの娘にとっては、世間に対しての引け目だったと芳子は話した。別に水商売だっていいじゃないかと言うと、いまはそう思えるけれど中学生や高校生のころはなかなかね、と昔を振り返る目をした。

 ふたりが就職して、姉が看護婦に、妹は大手製薬会社のOLになってからは、生活も楽になり、家族に自信のようなものが生まれた。姉は病院の寮に住み込みなので、アパートではふたり暮らしになったが、母親は見る子供がひとりになったたことと生活の安定もあって、芳子に干渉することが多くなった。そういう話を聞いて僕は、客と娘が店以外の場所で親しくなるのを女将が嫌うわけがわかったような気がした。

 生活の基盤である店で、娘と客が好いた腫れたをやっていては、うまくいかなかったときに必ず客を失う。客を失うということは、経営的な問題であるばかりでなく、この店の客を家族のように思い、一人暮らしのさびしさを癒すために集まってくる孤独な男たち、自分にとっては息子のようにさえ思える男たちを、二度とここに寄らせてあげることができなくなってしまうと考えているのではないか。

 ふたりともいい加減に酔っていた。でも、どうもあの恋のはじめのさぐりあうような緊張感がでてこない。まあここは気分転換だな、と次の店に誘ってみた。

 そうね、もうおなかいっぱい。じゃあ、スナックに行って歌でも歌う? いいよ。

 ピザ屋を出ると、九時近かった。四月としては寒い風が吹いていた。たしかその年は、世の中が花見に浮かれたあとに大雪が降るという超異常気象も起きた年だった。

 僕は何度も通ったことのある道が、初めて歩く道ででもあるかのように周囲の景色がちがって見えるのに驚いた。よく小説などで書かれることだが、ほんとうなんだなと実感した。彼女は僕の左側を付かず離れず、時折りよろけて僕に体を寄せてきた。そのたび僕は、いまだ、いまだと勇気を奮い起こそうとしたのだったが、どうしても言い出せない。店に入れば入ったで、またなりゆきに支配される。いましかない。いまこそ告白せよ。

 だが悲しいかな、女性とのつきあいから遠ざかっていた身にとっては、失敗がとてつもなく怖かった。不安も大きくなる。彼女は、男とのつきあいに警戒感がないように見えるからだ。ぼくはその壁の低さを逆手にとって、攻勢に転じるべきだったのかもしれない。そんなとき勇気をくじくのは、例のコンプレックスだった。彼女のなかに確かな位置を占める男性がいて、所詮、僕とはお遊びですよという余裕があるようにも感じられて、僕は気が気でない。 やがて、スナックの青く光る看板が見えてきた。

 いとしのエリー、YaYaあのときを忘れない、チャコの海岸物語。サザンオールスターズのナンバーを次から次と歌う客がいて、僕らはマイクをとるチャンスなどなかったけれど、そのほうが好都合だった。カラオケにうつつを抜かしている場合ではない。いい加減に飲み、サザンのバラードを聞き続けて、僕の口からどうしても出てこなかった言葉がぽろっと出た。

「だれかとつきあってるの」

「だったらいいですけど」

「ほんとかい。じゃあ、好きな人は」

「好きな人かあ…」

 僕は期待した。いま隣りに座ってる人。そう言ってくれ。

「いるんだね」

 彼女の目は遠くを見ていた。

「広島に行っちゃった。会社の先輩。でも、私が勝手に思っているだけ。気持ちを打ち明けようと思っていたら、転勤…」

 ああ、やっぱり。どうする。それでも告白するか。それとも、なにごともなかったようにこのままやり過ごすか。

 決断は早かった。酔ったせいだろう。思い切り振られてやろうじゃないか。

「僕とつきあってほしい。好きだ。好きでたまらないんだ。こんなに人を好きになるなんて、これまでなかった」

「斉藤さんって、やっぱりおもしろい人。そのフレーズ、誰の歌だっけ」

 ぼくは暗い穴にきりもみをしながら真っ逆さまに落ち込んでいった。じゃあ、なぜふたりきりで酒を飲みにきたんだ。どうして、体をすり寄せてきたりしたんだ。どうして、どうして、ひどいじゃないか。

 いま思えば、ここで彼女をきっぱりあきらめるべきだった。同い年の僕の手に負いきれる女ではなかったのだ。育った境遇もちがいすぎる。けれども、もう一軒いきましょうと誘われたものだから、それならチャンスはまだあるぞと、性懲りもなく期待を復活させてしまったのだった。

 ママがお母さんと知り合いだという次のスナックには、だれも客がいなかった。店を閉める準備をしていたママは、芳子ちゃん、もう遅いわよ お母さんが心配してない? と注意した。いいのよママ。常連のお兄さんと一緒だから、安心なの。彼女はまだ、痛みやすい僕の心を傷つける気らしい。

 この店にきて彼女は、酔いが急に回ったようだった。僕もこの店でのその先の記憶があまり残っていない。ただ、水割りをがんがん飲んだのと、「この歌は彼との思い出の歌なの」と言って、ペドロ&カプリシャスの「五番街のマリーへ」をよく回らない舌で歌っていた彼女を覚えているくらいだ。「マリーという娘と遠い昔に暮らし…」という一節のふしまわしがオリジナルとはちがっていたことも、なぜか忘れない。

 店を出たとき、ふたりとも足がふらついていた。彼女は僕の左腕につかまった。

 どうやって帰る。あるいてよ。道はわかる? もうわからない。どうするの。斉藤さんとこに泊まる。

 午前二時はとっくに過ぎていたと思う。女将は彼女の帰りを待って起きているにちがいない。

 タクシーでアパートに帰ると、背骨がなくなったような彼女を抱きかかえて中に入った。彼女は部屋の奥のベッドを見つけるとどうっと倒れ込んだ。まず女将さんに電話をしなくては。受話器を取ると、やめてと彼女が言った。一日くらい帰らなくたって、いいじゃない。そして、目をつぶった。

「斉藤さん、一緒に寝よう」

 彼女は今、母を裏切ったことを忘れるために、僕を呼んでいる。彼女を助けたい。その一心で、隣りに身を横たえた。よこしまな気持ちはそのときなかった。

 彼女の目は再び開いて、天井を見ている。

「こんな私でいいんですか」

 僕が大きくうなずくと、彼女は唇を重ねてきた。僕は強く抱きしめた。もう絶対に離さないとかなんとか、そんなセリフを吐きながら。

 朝日の差し込むような部屋ではないから、いつもなら朝の到来を告げるのは、二階の住人のあわただしい足音だ。しかしその日は、電話がその役目を果たした。こんなときは、第六感が働く。呼び出し音がずっと鳴り続けるのを聞いて、僕は女将さんからの電話だと確信していた。彼女もいつの間にか目を開けて、呼び出し音を聞いていた。母さんからだわ。つぶやいた声は細かく震えていた。出ようか。ううん、出ないで。心配してるんだよ。出ちゃだめ。その間に何十回呼び出し音が鳴っただろう。鳴りやんだときには、僕は罪人のような気持ちにとらわれていた。大事な娘を酒飲みに引っ張り回して、しかも帰宅させないで夜を共にするなんて。

 彼女の顔は蒼白だった。呆然としていた。これからくる嵐を恐れているのだと思った。僕は、彼女を痛ましいと感じつつも、僕らはつながった、彼女はもう自分のものだ、と不安のかけらもなくなっていた。どんな事態にも立ち向かえそうだった。

 ただ、女将がどのようにして僕の電話番号を調べたのか不思議だった。名刺は渡していない。だが、おんちゃんと12チャンには、仕事でつながりができるかもしれないと名刺を渡している。女将は、ふたりのどちらかに、斉藤さんに急用があるのと話して会社の電話番号を調べて電話した。会社にいた社員にもまた適当に嘘をつき、本来なら第三者に明かされるはずのない社員の電話番号を調べ上げた。ルートはそれ一つしか考えられない。もしそうだとすると、女将はきっとこのアパートの住所も聞き出している。

 アパートのドアが強くたたかれた。来た。やっぱり、来た。ドアは次第に速く、さらに強くたたかれた。斉藤君、開けて。芳子、いるんでしょ。開けて、開けなさい。部屋の中にまで響く大声だ。女将は、ふたりはここにいると決めてかかっている。

 鍵を開けると、ドアを引っ張られた。女将は僕を見ることも何か断ることもなく、たたきから板の間にあがり、次の間に入った。

「なんて子なのあんたは。お客さんとこんなことになって」

 ベッドに座り込んでいた芳子の頬を思い切りはたいた。

「斉藤君と一緒になりたいなら、そうすりゃいい。だけど、もううちには入れないからね。もう親子じゃないからね」

 女将はもう一度、芳子の頬を張った。そして、僕を振り向いて言った。

「芳子はこんな馬鹿な子だよ。やめときな。それに私は、あんたとはつきあってもらいたくないんだ」

 僕は何も言い返せなかったが、女将の目を見返して対峙した。

「つきあうっていうのかい。勝手にしなさい。でも言っておく。あの子とあんたはうまくいかない。絶対に。芳子のことは私が一番知ってるんだ」

 女将は帰っていった。

「僕は君を離さないから。女将さんがなんと言ったって」

 芳子は何も耳に入らないようだった。僕は隣りに座り肩を抱いた。彼女は僕の胸に顔を埋めて泣いた。泣き続けた。

 どれくらい時間がたったろう。彼女がつぶやいた。

「ほんとうに私でいいの」

「君じゃなきゃ、だめだ」

「こんな私。こんな井崎芳子さんだよ」

 今度は僕がキスをした。頬に血色が戻っていた。

 芳子は何か飲もうねとキッチンに行くと、キャーと叫んだ。そうだ、思い出した。シンクには洗い物が溜まりにたまっている。

「コップにカビが生えてる。黒いのや、白い綿みたいなのがいっぱい」

「茶箪笥の中に洗ってあるのがある。それを使って」

 返事はなかった。そのかわり水音とコップが触れる音が聞こえてきた。

「あとで洗うからいいのに」

「こんなの放っておけないわよ」

 僕はこんなふうに世話を焼いてもらえることがうれしかった。彼女は僕を受け入れようとしている。広島の男を忘れようとしてくれている。

 彼女は昼近くまで僕のアパートにいた。女将は買い出しに行っている時間だから家にはいないので、一度家に帰って着替えてくるという。途中まで送っていくと、この公園で待っていてと言い置いて家に帰った。

 野球やサッカーのボールが外に飛び出さないように高い網をめぐらした公園だった。ベンチに寝転がると僕は、ミットをボールが打つキャッチボールの音を聞きながら青空を見上げた。彼女との新しい一歩。彼女の心は僕を向き始めた。さびしい生活ももう終わりだ。田舎に帰るのはやめた。それに、おれは男になった。劣等感が消えて、自信がみなぎってくる。

「こんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」

 彼女がベンチの端に腰かけている。いつのまにか眠っていた。気持ちよさそうに眠っていたので、しばらく寝顔を見ていたという。

「ねえ。信じられる。お母さんがおいなりさんを作っててくれた。斉藤さんにも持ってってやりなってメモがあった」

「おれにも?」

「おかあさんってそんな人。さっきは興奮してたからあんなこと… 斉藤さんのこと、ときどき心配していたのよ。私と同い年だから、息子のように思うこともあったんじゃない。おいなりさん、早く食べよう」

 歩き出すと僕の腕に彼女の腕がからみついてきた。素敵な小春日和だった。その朝目覚めたときに兆した、このひとは僕のものだという考えがまた浮かんだ。こんな考えなら何度浮かんでもいい。

 途中で買った缶ビールを飲みながらいなり寿司を食べた。テレビの漫才番組を見て一緒に笑った。サザンやユーミン、千春のカセットテープを聞いた。

 彼女は始終、おだやかにほほえんでいた。

 ただ、僕が彼女を見つめる視線に性欲を内に秘めた熱情のようなものがあったのに、彼女の視線には僕を求める強い何かがなかった。静穏なまなざしだった。いまはしかたない。広島の男を忘れ、母のくびきから自由になり、僕を恋の相手として認めるにはまだ時間がかかる。僕は自分にそう言い聞かせた。

 どちらからともなく寄り添い、そのままじゅうたんに寝転がった。眠いね。うん、眠い。少し頭痛がする、眠ろう。うん、眠ろう。

 目覚めたのは夕方だった。彼女は先に起きていて、本棚の本を一冊ずつ手にとり、数ページ開いてはもどし、また次の一冊を取り出すということを繰り返していた。僕に見られていたことに気づくと、難しい本ばかり… でも、この本は読んだことがある、と取り出したのは川端康成の「雪国」だった。私の好きな文章はねとページを繰り、その一節を見つけると感情を込めて読んだ。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

「このふたりは、結局結ばれなかったのよね」

「結ばれないから、美しい物語になった…」

 ばか、縁起が悪いじゃないか。もっと話したいことがあったが、そこで止めた。

 今夜はどうするのと聞くと彼女は、そうねえと首をかしげて左の手のひらに頬をのせた。

「帰ります。きょうも家にいなかったら、ほんとうに縁を切られちゃう」

「きっと許してくれるよ。僕は真剣なんだから」

「今晩、お母さんが店から帰ってきたらいろいろ話してみる。姉さんもきょうは帰ってくるって言ってたし」

 僕は唇を求めた。彼女は一歩引いて避けた。じゃあ、送っていこうと僕も靴を履きかけると、ひとりでゆっくり夜道を歩きたいの。ここでいい。

 どうしたっていうんだ。快晴だった心のなかを暗い影がよぎった。

 酔っていたときの彼女は誰でもよかった。今朝からの親愛な態度は、なりゆきに身をまかせただけの軽い気持ちだった。ところが帰り際になって、現実のなかに戻ろうというそのときになって、このひとには恋していない、きのうからのことは間違いだったと気づいた。そういうことではないか。

 考えすぎであってほしいと願った。一夜とはいえ、男に体を預けておきながら、しかもその翌る日にはかいがいしく世話さえしてくれながら、それが心の風向きしだい。そんな女性では決してない。きっと僕を愛し始めている。ただ、そのことに照れているのだ。

 だが結果から見れば、それは幼い楽観的な推測だったということになる。僕は二度と、彼女を呼び出せなくなった。電話には出ても、会ってはくれなかった。

 夏至に近づき日に日に長くなっていく夜の時間をつぶす店がなくなった。まさか「かず」には行けない。ラーメン屋や定食屋、トンカツ屋でビールとご飯という生活パターンに戻った。

 電話には出てくれた。ただ、おしだまりがちで、ええとかそうとか言うだけだった。いくら誘っても会う約束は取り付けられない。すぐにでも顔を見たかった。毎日会いたかった。長く長く一緒にいたかった。そしてなにより、彼女にふれたかった。僕は、逃げるものを追いかける焦燥感のかたまりのようになった。

 やっと会ってくれたのは、二週間後の月曜日の会社帰りだった。笹塚駅近くの喫茶店で待ち合わせた。

 店に入って見渡すと、彼女は商店街に面した窓際の席に座っていた。僕は席に着くやいなや、会いたかったと言って彼女の顔を見つめた。彼女は目をそらした。

 注文を取りにきた店員にビールがあるか尋ねると、彼女が口を挟んだ。

「きょうは早く帰らないといけないの」

「久しぶりに会えたのに。どうして」

「それはあとで… 早くオーダーしないと」

「ひとりで飲んでも…。いいよ、僕もコーヒーにする」

 店員が戻っていった。僕は水を一気に飲み干してコップをテーブルに強く置いた。

「やっと会えたと思ったら、早く帰るって。だったら今日じゃなくてもよかった」

「だって斉藤さん。あした絶対会ってくれって毎日言うじゃない」

「いつなら一緒に長くいられる」

「夜は忙しいの。お花の稽古とかあるし。仕事も忙しいの」

「じゃあ、休みの日は?」

「お姉さんが帰ってくる。家族で一緒にいたいの」

「会えないって言ってるのと同じだ。女将さんのせいか。何を言われたの」

「言われてません、なにも。お母さんは悪くないわ」

 ほとんど会話もせず店を出た。彼女は僕を呼び止め、小さな封筒を手渡した。

「あとで読んでください。じゃあ、ここで」

「ちょっと待って」

「読んでもらえばわかりますから」

「やめてくれよ、こんなの」

「さよなら」

 遠ざかっていく彼女を追いかけられなかった。からだ全体が重い石になったようだった。

 「さよなら」この言葉が、彼女の声を聞いた最後になった。

 斉藤さんへ

  広島に行ってみます。

  ごめんなさい。

           芳子

 ますます重くなった体を力の入らない足でようやく運んで、なんとかアパートにたどり着いた。

 泣かないわけがなかった。人生初めての嗚咽だった。

 これが、僕の十五年前の悲恋物語だ。

 最近三年のあいだ、つまり四十を境にして前後一、二年、僕はあの街を三度訪れている。思い出をたどるためだ。そして今なら、「かず」に戻っていけるような気がして。

 いらっしゃい。ひさしぶり。ここあいているよ。兄さんたちが声をかけてくれる。菊池さんもいる。女将が「よく戻ってきたね」と目で語る。そして芳子もいつもの席でほほえんでいる…

 だが、一度目も二度目も店の前を通り過ぎただけだった。そして三度目に行ったとき「かず」はもうなかった。三階建ての白い瀟洒なビルが建っていた。

こんなところで寝ていたら

風邪をひきますよ

 あの公園はほとんど何も変わらずにあった。僕はきっと、これからもここを訪ねてくるだろう。公園なんだから、滅多なことではなくならないはずだ。ベンチに寝ころび、「雪国」のページを繰る。彼女の幻の声を聞く。そんなことを五十になっても、六十になってもしているかもしれない。

 最近、こんなことがあった。

 彼女との初めてのデートの前日、ツイードのジャケットと一緒に買った腕時計が動かなくなった。電池を交換しても、針は動き出さない。寿命でしょうね。時計屋のおじいさんが言った。十五年ですか。たいせつに使いましたね。これ、捨てないでとっておきなさいよ。気障なことを言うようだけどね、お客さんの人生のかけがえのない時を刻んだんですから。

 ぼくはその時計を受け取ると、白い文字盤を見つめた。僕と芳子がふたりきりでいられたのは二十四時間にも充たなかった。そして、それから十五年が過ぎ去った。長短の差はあるが、そのどちらの時間も、この時計が刻んだのだ。

 家に帰ると、寄り添って昼寝をしていた妻子に「たまには昔を懐かしんでもいいよな」と心の中で詫び、腕時計を机の抽出の奥にしまった。


短歌「バイバイ青春」

俺の歌はいつか君の目にふれることを夢み顫える感傷なのさ

双子ゆえ二つの心をもつ姉妹そのいもうとと恋に陥ちたり

ボディコンの似合うスリムな肢体よりカーディガンの君のおとなしき肩

タクシーを右腕で呼び左手で yes・noをさぐる君の指から

目を閉じた君の唇むさぼりぬ 声ごと心ごと俺のものになれ

二つのものは一つになれない永遠に だからそれだけのこと セックス

子宮へと俺をみちびく肉体をもてあましている認識がある

つなぎ止める力はないと知りながら繰り出す言葉に自滅してゆく

〈終わりじゃない。まだ終わってない、追いかけろ〉されどバラバラ意志とからだは

まっすぐに進んで次第に遠ざかれその角で不意に消えたりせずに

高層ビルのレッドランプの点滅とともにつぶやく さよなら、さよなら

声を忘れ電話番号も思い出せずみんなみんな風化するのか

うす蒼いたそがれの空気を呼吸するちょっとさびしくやがてかなしく

かくのごと青春は過ぎぬ この、いくら擦っても点かない百円ライター

手のひらのぬくもりが君でない女から伝わる バイバイ青春

夏が逝くかなしさと秋が来るさびしさを比べおり午後の喫茶店の窓に

あの街へ