上司の奥さんが癌で死んだ。その通夜の日の眠りは浅く、何度も目が覚めたような気がした。だが、その眠りの間に見た夢は、断続しながらも一つのストーリーを保っていた。
逗子海岸。…だったと思う。『G線上のアリア』のバイオリンの音が、夕映えの空の高みをかすかに流れている。それが、この不思議な夢のBGMだった。
世界は、ためらう心の琴線の上を、悲哀の音楽を奏でながら、疾走していく
インドの詩人タゴールの詩が、波打ち際にびっしりと並んで座った人々に順々にうたいつがれ、その波が南から北へ際限なく伝播していくようだった。そのためbgmのアリアは、時に聞こえ時に聞こえなかった。この世に生きとし生けるものの血を混ぜ合わせたように黒ずんで赤い太陽が水平線のぎりぎり上に居すわり、浜辺に向かって黄金にきらめく道を渡している。それでいて、天の頂きにはおびただしい星がまばたいているのだった。
その人群れのなかに、肩をふれあったぼくと妻もいた。
「あとどれくらいの時間?」妻が聞いた。
「いつまでも、かもしれない。でも、いますぐにかもしれない」ぼくの答えは要領を得なかった。だが、それは当たり前のことだ。
「世界中の海岸で、人々がこうして待っているのね?」
「よくわからないけど、待っている、というのとは違うかもしれない。ただ、だれひとり例外がいないというのは確かだと思う」
「こわくない?」妻はぼくの顔をのぞいて言った。
「こわくないよ。だって、みんなが一瞬にいなくなるんだから」
「世界の終わり?」
「そう、世界の終わり。みんなが死ぬんだから、自分が死ぬのもこわくない」
「そうよね。みんなが、この世のすべてが一瞬になくなるんだからね」
「ほら、見てごらん。太陽が1センチ沈んだ」
「ほんとだ。でも、わたし、こわくない。待ち遠しいような感じさえするわ」
そう言った妻を見ると、彼女はネガフィルムの中の人物のように笑っていた。
そこで、夢は完全に断ち切れた。あまりの暑さに目が覚めたのだろう。寝室のエアコンがつけっぱなしになっている。リモコンスイッチのボタンを押すと、ピッピッと電子音が鳴った。
「なに? いまの音」半睡の妻が口を動かした。
「なんでもないよ。エアコンを消しただけだ」
「そう。おやすみ…」というと、妻はすぐに寝息をたてはじめた。
午前二時くらいだ。マンションの一キロほど北を走る高速道路から遠く響いてくる地鳴りのような音の大きさで、ぼくはだいたいの時刻がわかる。地鳴りが高まり、クラクションの高い音がかすかに混じると、それは暴走族跋扈のときで、いつも午前一時から二時くらいなのだ。カラスが夜に鳴くこともある。それはだいたい午前三時。鳴いているのは同じカラスなのだろうか。
目を閉じていても眠りはなかなか戻ってこなかった。先ほどの夢の記憶が生々しいうえに、久しぶりに人の死に顔を見たせいかもしれない。妻を起こさないように、ぼくは静かに起きあがり、寝室を出た。廊下の寒さに身震いしながら書斎に急ぎ、石油ファンヒーターのスイッチをつけた。どうせ眠れはしない。ウイスキーでもなめながら、インターネットをサーフィンしたり、電子メールを読んだりするつもりだった。ファンヒーターが稼働すると、石油の燃えるにおいが部屋に充満した。
書斎の二台のコンピュータは、夫婦それぞれの専用機だ。ぼくたちはそれを使い、一年ほど前から毎日のようにメールを交換している。一緒に住んでいる夫婦のメール交換。安っぽいテレビドラマの見すぎ、新しい用途を見つけて自社ソフトの拡販をもくろむソフトウエアメーカーの実験台。一見、そのように言われても仕方なさそうな行為だ。だが、この馬鹿げた(?)行為をぼくらは一年間継続した。
コンピュータのスイッチを入れた。ハードディスクがカリカリと鳴る。やがて画面にmicrosoftの旗が表れ、ファンファーレのような短い音楽。画面にたくさんのアイコンが姿をあらわしていく。カリカリいっていたディスクの動きが止まる。準備完了。コンピュータはここからぼくの道具となる。
電子メールソフトを立ち上げた。サーバーと呼ばれる業者のコンピュータに電話回線で接続し、自分あてのメールを受信する。文学、旅行、時事問題、哲学、グルメ、音楽、h…などの文通仲間からのメールに混じって、妻からの定期便があった。[to ryoh from your miwa
(^-^)
]これがいつものタイトルだ。
[来週の週末、友達とスキーに行きます。上越国際よ。諒さんも行く? 返事待ってます。
ps… 現在、大作メールを準備中。戦々恐々として待っていてね……美和]
このところ、こんな軽い話題や連絡だけのメールが続いていた。だが時には、真剣に職場での怒りをぼくにぶつけてくることもあって、そんなとき「疲れてるから」などと真面目に取り合わないと、必ず批判めいたことを次の日に書かれてしまう。だから、こちらも相手が納得するレベルの真剣さを持たなくてはならない。顔をつきあわせての会話なら、相手の反応を見ながら適当にごまかし、逃げ道を探ることもできる。だが、メールではそうはいかない。文章を書くというのは、ごまかしや逃げとは反対の積極的な行為である。
ぼくは返信を書いた。
[部長の奥さんの通夜があったのは、うちからも近い草加市・谷塚斎場だったよ。ぼくらもいつかあそこで焼かれるのだと思うと、急に神妙な気持ちになった。冗談ではなく、焼かれるなら自分が先のほうがいい、とも思った。君を見送って、その後にあそこに取り残されるなんて、耐えられないような気がしたから…。
それにしても、斎場の夜というのは、室内の明るさと外の闇とがくっきりと際だっていて、否が応でも生き死にを意識させるようになっているんだね。あれは少々、舞台演出過剰かもしれない]
コンピュータ画面の「いつかあそこで焼かれる」という文字が、暗唱の繰り返しをぼくに強要していた。「いつかあそこで焼かれる」…… 死はぼくの人生の可能性として、もっとも確実なものなのだ。
ぼくは連絡事項だけを書き足した。
[せっかくの誘いだけど、ぼくは家でゆっくり本を読んでいる。スキーは女だけのグループのほうが、気兼ねがなくて楽しめると思うよ]
メールを受信し終えたときに切っていた電話回線を再びつなぎ、送信ボタンを押した。準備中の大作メールとは何だろう。気に掛からないではなかったが、それどころではない。いつかあそこで焼かれる―リフレーンが止まらなかった。
* * *
東北出身のぼくと四国出身の妻は同い年で、東京での学生時代に出会った。大学は別々だったが、どちらもお茶の水にある学校だった。国鉄お茶の水駅から学生でひしめく通りを神保町方面に歩いていくと、やがて駿河台下の交差点に着く。そこは、日本一の古書店街とそのころ急に集積し始めたスポーツ店街との分岐点になっており、彼女はその角の古い喫茶店でアルバイトをしていた。
美和を目当てに通い詰めたのではない。彼女がコーヒー豆について詳しく、いろんな種類の豆を薦めてくれたことと、たまたまぼくが読んでいた小説の表紙を見て、「その小説、高校の教科書に載っていたわ」と声をかけてきたあたりから、急に接近し始めたのだった。『されど われらが日々―』。学生運動はなやかなりしころの小説だ。ぼくらの世代にはほとんど理解不能なエネルギーに満ち、だからこそ挫折感も強く深かったらしい世代の記念碑的作品。基本的な違和感は持ちつつも、その文体や行間ににじむ挫折感が、ぼくにはとても親しいものに感じられていたのだ。なかでも次の一節をぼくは暗唱できるほどに繰り返し読んだ。
――やがて私たちが本当に年老いた時、若い人たちがきくかも知れない、あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じように困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。そして、その答えをきいた若い人たちの中の誰か一人が、そういうことが昔もあった以上、いまわれわれにもそうした勇気を持つことは許されていると考えるとしたら、そこまで老いて行った私たちの生にも、それなりの意味があったと言えるのかも知れない――
結婚したのは、大学四年の時につきあい始めてから八年後、三十歳の時だった。結婚式に出席した友人は、美和の側からがほとんどで、ぼくのほうは出版社の同僚三人と、学友ふたりだけ。スタイルのよい美人で、性格も陽気な美和は、男女を問わずたくさんの友達をつくった。テニス、スキーどちらのサークルでも彼女は人気者だったらしい。それに対して、ぼくは神経質で内向的。それに本ばかり読んでいて、数えるほどしか友達はいなかったのだ。美和の友達は、高砂の席に並んだぼくと美和を見くらべて、不思議そうな表情をみせていたものだ。流行の表層をつまみ食いしながら、楽しくにぎやかに健康的に暮らしてきた彼らには、ネクラなぼくを選ぶという妻の判断をミステイクのように思っていたのかもしれない。ぼくらは、一般的な目にはそう見えて不思議のないカップルだったのだ。
挙式から半年後、美和は妊娠した。結婚したら子供をつくる。そういう世間の常識をもっていないぼくらには、当惑をもたらす出来事だった。子供がいらないというのではなく、積極的に子供を作ろうという意志がなかったのだ。けれども、できたらできたで嬉しくないわけではなかった。ぼくと美和双方の特徴を受け継いだ生命がこの世に誕生する。赤の他人に過ぎない男女に、そのふたりにしか持つことのできないものが得られる。「子はかすがい」と一般的には言われる共有感を媒介にして、ぼくらはより深い関係に入ることだろう。
だが、受精から二ヶ月を経たところで、胎児はそれ以上には育たなかった。「子宮の中で死んでいます」と、医師はこちらの目から視線を逸らさず平然として言った。妻はその診断を最初、信じなかった。「あのお医者さんはやぶかもしれない。別の病院に行きましょう」帰りの車の中で、美和は泣きながらぼくに訴えた。「うん、そうしよう」とぼくは答えた。思うようにさせてやるしかない。後悔の種を一つでも残してはならない。つられて目が充血するのを感じながら、ぼくは自分でも不思議なほど冷静に美和を思いやった。
しかし、というべきか、当然と言うべきか、草加市内で一番大きな総合病院でも、診断は同じだった。そして、「菜月」か「夏樹」になるはずだった胎児は、子宮から掻爬された。美和の両親には、彼女自身が電話した。泣きながら何度もうなづいていた。「子どもはまたできる。とにかくいまはあなたの体を大事にしなさい」母親はそう言ったという。ぼくの両親には、幸いにも妊娠を教えていなかった。「失敗することだってあり得る。ぬか喜びをさせてはならない」と明確に考えていたのではなかった。しかし、床に伏せている美和の蒼白な頬と赤く腫れ上がった瞼を見ていると、彼女のようにはこの現実を悲しんでいない自分が、冷酷な人間のように思えてきた。妻が拒否した最初の医師の診断を、ぼくはいささかの疑いもなく受け入れた。流した涙の量も、比べものにならない。ぼくはせいぜい、目のまわりを充血させただけだ。心のどこかで流産を予感していたのだろうか。そう思っていると次第に、もっと怖い自分の心の現実が見えてきた。子供の誕生を望まないぼくがいたのではないか。胎児は自分の誕生を望まない父親の意志に感づき、自死の道を選んだのではないか―と。もちろん、科学的にそんなことはあり得ないはずだが…。
* * *
翌朝目覚めたとき、妻はもうベッドにいなかった。ダイニングにいくと、朝食の用意をしていた美和が、
「おはよう。きのうは遅かったね」と言った。
「わるい。人の死に顔を見ちゃうと、誰かと酒でも飲まないとやってられないもんだよ。二次会でだいぶ飲んじゃった」ぼくは椅子に座った。
「わたしのメール、読んだ?」
「読んだよ。スキーのことだろう。ぼくは行かない、って返信を出しておいた」
「どうして? 最近どこにも行っていないし、ちょうどいいと思ったのに」
「その理由も書いておいた」
「仕方ないわね。でも、そろそろ直してね、その出不精は」
コンロの上のフライパンに向き直ると、美和は首を右に傾げた。不満なのだろう。だが彼女は、ぼくに対して強制的な物言いは絶対にしない。せいぜい勧告レベルで自分の矛を収めるのだ。ぼくもそれと同じ態度を妻に対して貫いていた。あの流産があってからずっと。
「大作を準備中だって」ぼくは話題を変えた。
「そうよ。でも中身は聞かないで」美和は照れくさそうに笑うと、コーヒーをテーブルに置いた。
「見てのお楽しみってわけか」
「そのとおりです」
「怖いメール? それくらい教えてくれてもいいだろう」
「おしえなぁい」と美和はぼくをからかう。「男は堂々として事を待つべし」
「わかった、わかった」ぼくはコーヒーを口に運んだ。
共働きで子供のいないぼくら夫婦は、家では朝食ぐらいしかとらない。朝食といっても、トーストとコーヒー、そしてゆで卵か目玉焼き。喫茶店のモーニングセットと同じだ。夜はそれぞれ職場仲間と飲んでくるか、ふたりで外食に出かけた。寿司、そば、焼肉、イタリアン、中華、お好み焼、ステーキ…。たとえ毎晩外食でも、家計は大丈夫だった。稼ぎはふたり、消費するのもふたり。安い時に買ったので、マンションのローンもそれほどの負担ではない。
「きょう友達と銀座に出かけるわ」美和は食器を持って立ち上がった。
「メールには書いてなかったけど」
「忘れてたの。結婚式でピアノの弾き語りしてくれた加代、覚えてるでしょ。彼女とイタリア料理を食べてくる」
「ぼくも帰りが遅くなるから、気にしないで楽しんでこいよ」ぼくも食器を片づけようと立ち上がった。「美和。大作はいつごろ届くんだ」
「けっこう大変。あとひと月くらいかな」
「そんなに先か。戦々恐々がひと月つづく…」
「そういうことね」
「とにかく楽しみにしているよ、その御大作を。じゃあ、行ってくる」
土曜だというのに出勤だった。冷たい北風が吹くなか、自転車で優に十五分はかかる長い道のりを駅に向かった。大作メールのことが時折り頭に浮かんだが、その朝の彼女の表情からみて、「それほど差し迫った内容ではない」とぼくは高をくくっていた。吹きさらしの駅のホームには、数えるほどの人しかいなかった。地下鉄直通の電車に乗り込むと、ぼくはスポーツ新聞を遠慮なく大きく広げた。閑散とした電車の中の暖気。やがてぼくは眠りに落ちるだろう。降車駅到着のほぼ十秒前に目覚めるようプログラムされた、浅いけれども幸福な眠りに。
その夜、いつものようにメールをチェックすると、ぼくより先に帰っていた妻がメールを残していた。
[パスタ、とってもおいしかったよ。今度は一緒に行こうね。そうそう、加代ったら、ずるいの。あのこ、母親になってたの。二ヶ月前に女の子が生まれたんだって。ひどいよね、黙ってるなんて。そう言ったら、「あなたのところ、一度失敗しているから言い出しにくかった」だって。だからわたし言ってやった。「そういう気遣いはご無用です。流産のことはもう全然気にしていないし、うちは子供がいても、いなくてもどちらでもいいの。そうやって回りから気にされていると思うと、こっちも子供がいなきゃいけないの、って意識しちゃうじゃない」ってね。そうしたら加代が「ごめん、ごめん。でも、子どもってかわいいよ。あなたたちも頑張ってね」って言うもんだから、「余計なお世話です。おかあさん」って皮肉を言ってやったけど、そんなのどこ吹く風って感じ。母は強し、は本当ね。
ps… 窓の外に雪。だんだん強くなってきました。静かな夜って、いい。どこまでも物思いに沈んでいくみたい。諒さん、このごろいつも遅いね。ちょっと、さびしいぞ。あしたはわたしと一緒にいてね]
ぼくは返事を書いた。
[雪のせいでタクシー待ちが長蛇の列だった。改札口から階段を降りて駅前のロータリーまで行列が続いていたのにはびっくりした。寒さで猫背になった一人ひとりの背中から、生活感がにじみ出ていて気圧される感じだった。
タクシーに乗れたのは一時間後。でも、雪を見ていると時間を長くは感じなかった。いろんなことを思い出した。小学校のころ、大吹雪のなかを先生に引き連れられて集団下校したこと。高校生の時分、父さんと屋根に上がって雪下ろしをしたことなんかをね。あのころは、ぼくを地元の大学に入れたい父さんと、東京に出たいぼくと、進路をめぐって冷戦中で、ほとんど口をきかなかった。だけど、黙々とスコップで雪をすくっては下に放り投げていた父さんをみて、涙が出てきたんだ。父さんは、毎冬、毎冬こうやって、わが家を押しつぶそうとする雪から家族を守ってきたのか、と思ってね。その日から、どちらからともなく声をかけるようになった。そんなことを考えていたらタクシーの順番がきた。
ps… 加代さんへの君の発言には異論なし。世間というのは、自分がある価値観の中に入っていると、その中に入っていない人を見つけるやいなや、その価値観を押しつけようとするものなんだ。そうすることで、自分の環境を居心地よくしていくんだよ。ぼくらはぼくらのやり方でいいんだ。世間の気まぐれに振り回されることはないと思う]
理屈を理屈で押し倒さなければ気が済まない。これがぼくの生来の性格だった。自分自身を窮屈にすることは充分に知ってはいたが、どうにもできない。ぼくの交友の狭さはそのへんにも原因があった。たかが妻の友達の一言も、笑ってやりすごすことができない。口には出さないとしても、相手をうち負かすまでの論理を頭で組み立て、優越感を持たないでは、ぼくは人とつきあえないのだった。だから、勝負に勝てそうにもない相手には最初から近づかないか、その相手がいない場所、たとえば居酒屋などで、第三者を通して間接的な攻撃を加えるのだった。
時計を見ると、午前二時を回っていた。寝室の妻は、軽い寝息をたて常夜灯の淡いオレンジ光を鼻梁に反射させている。この女だけが、ぼくのそういう性癖を大目に見てくれるのだ。掛け布団からはみ出した右腕をしまってやり、「おやすみ」と言った。「おかえりなさい。……」美和が目をうっすらと開けて答えた。後ろの方は聞き取れなかったが、ワインのにおいがかすかにした。
* * *
ぼくらは年に二、三度、海外に出かけた。香港に始まり、イタリア、シンガポール、インドネシア、マレーシア、トルコ、オーストリー、ハンガリー、チェコ、タイランド…と、主にアジア、ヨーロッパを交互に旅した。撮影した写真を集めたアルバムは大型の本棚の二段を占めるほどだった。いつも一週間程度のパックツアーだったが、日本以外の国をたくさん見ることは、日本とこの国に生きる人々、そして自分自身を見つめ直すのに大いに役立っていた。
ぼくら夫婦は、自己の探求、精神的自立の途上を歩いているのだという明確な意識がぼくにはあった。子供がいないから暇つぶしで海外旅行をしているという考えは毛頭ないつもりだった。ところが美和はすこし違った。行く先々で、「あのときの子どもが生まれていたら、こんなところへは来られなかったでしょうね」という言葉を不意に漏らすのだった。「子どもとこの旅は関係ない」ぼくはいつもそう言ってやりたかったが、言おうとして躊躇している自分もまた、「子どもがいないから」という観念に囚われていることに気づき、結局は黙ってうなづくだけだったのだ。
ヴェネチアでは一緒にゴンドラに乗った。古い建物の間を縫う水の迷路をゆっくりと運ばれながら、「自分は誰だろう」「隣りに座っている女は現在の女か、それとも五百年前のヴェネチアの娼婦か」と、時空の感覚が混迷していったあの一時間。灼熱のジャカルタの歩道橋に切れ目なく座っていた老若男女が、うめき声を浴びせながら金をせびってきた時の恐怖感。ぼくらは餓鬼のような彼らの黒く渇いた足を踏むのも気にせず走り去った。シンガポールやクアラルンプールのチャイナタウンは活気に満ち、炒め物や揚げ物の匂い、色とりどりのフルーツの香り、人いきれなどが渾然一体となり暑熱の中に漂っていた。
アジア側から金角湾の向こうに望んだヨーロッパ側イスタンブールの夜景は、文明と歴史をめぐる思索を喚起したし、ブルーモスクに地鳴りのように響きわたったコーランは、無信仰の自分のあり方を根幹から揺さぶった。一方、バンコクの水上マーケットでは、劇辛トムヤムクンを飲み、手に負えないほどに大量の汗を吹き出した。ブダ・ペストの往来も忘れがたい。日本人によく似た容貌と頻繁にすれ違った。ハンガリー人と日本人、そしてモンゴル人だけが、幼児期に蒙古斑をお尻に作る。つまり、人種的ルーツは同一なのだという。百塔の街といわれるプラハには夕日の沈む時刻に着いた。ホテルの窓から見た、夕空を突き刺す幾多の塔は、ドヴォルザークの『新世界より』のメロディーを自然に口ずさませた。
平凡とはいえこれらの旅の数々は、ぼくの生き方に影響を与えずにはいなかった。この世界に産み落とされた一個の人間として考えるべきことや行動すべきことが、人間ひとりの意欲と能力をはるかに超えて存在している。子どもという他者に夢や理想を託して、自分自身が世界と真剣に関わり合うことからリタイアしている場合ではないのだ。だが、他人がぼくらを見る目は違った。「子育ての苦労を拒否し、ありあまった時間と金を、贅沢に使う。それは、産み育ててもらった恩義を忘れた親不孝ではないか」「親になったことのない人間は未熟だ。人は親になって初めて大人になったと言えるのだ」云々と。だが、このようなことを得々と諭している彼らの目には、論駁されはしないかという不安が、眼球の敏捷な動きとして表れているのだった。それによってぼくは、彼らの常識の脆弱さを直観した。
* * *
仕事帰りに駅前で待ち合わせ、駅とマンションの中間にある焼鳥屋に行った。通いだして二、三年がたち、店の主人とおかみはぼくらを常連として扱ってくれる。テレビで紹介されたことや、有名人がときどき食べにくることが自慢らしく、その際の写真やサインが壁の至るところに飾られている。
カウンターがいっぱいだったので、テーブル席に着いた。
「今週の土曜日、マンション自治会のバザーがあるんだって。管理棟前広場で廃品回収品を売るらしいわ」
「いいよ、いかなくて。要らなくなったものは、ゴミに出せばいい。バザーなんかに行くと、居所がなくて落ち着かないんだ。どこでどうやってできたかわからない実行委員会が、仲間意識丸出しでやけに張り切ってるだろう。ああいうの、好きじゃないんだ。自分たちが好きでやってるのは構わないけど、すぐに仲間に入りませんか、って顔をして近づいてくるからわずらわしいんだ」
ぼくはおかみを呼ぶと、いつもと同じようにビールと焼き鳥の盛り合わせを注文した。
「その感じよくわかるけど、わたしたちって地域と全然かかわりがないよね。これでいいのかしら」美和はこの話題を中心に据えたいらしかった。最後には「理屈っぽい」とぼくを非難するようなことを言うのに、理を話題にしてくるのはいつも美和だった。
「良い悪いの問題じゃないよ」ぼくは気乗りのしない返事をして、一杯目のビールを飲み干した。美和がぼくのグラスにビールをつぎながら、
「そうね。でも、自治会にも入っていないし、子どもがいないから行事という行事に一度も出たことがないのよ。あの大きなマンションの中に諒さんとわたしだけ」と考え込むようだった。
「さびしいのか、美和は」今度はぼくがビールをついでやりながら聞いた。
「ときどきね。朝、幼稚園の送迎バス乗り場で、お母さんたちが楽しそうに話し込んでいるところを通ったりすると、ちょっと孤独、って感じにもなるわ」
「地域の集まりとか主婦の井戸端会議は、暇だからできるっていう一面もあるんだよ。極端に悪く言えば、自分の成長をほったらかしにして、子どもや地域をだしに暇つぶししているってことじゃないのか。子どもの一等賞が、自分の一等賞。それでいいのかな」
「でもね、あまりそうやって理論武装すると、子どもがいないことを無理やり正当化しているように聞こえるのよ、他人には。わたしだって、あのお母さんたちのように子ども、子どもっていうのはいや。でも、さびしいって感じる。子どもたちがいるにぎやかさが恋しいって思うときがある」
有田焼の丸い大きな皿に放射状に並べられた焼き鳥が運ばれてきた。おかみが、「きょう、まぐろのいいとこが入ってんの。食べる?」と聞いたので、ぼくはうなづき、ついでに剣菱の熱燗と、美和のためにビールをもう一本頼んだ。
「でも、十年、二十年後のことを考えてみるといいよ。もっと長くて三十年、四十年でもいい。子育てを終わったあと、彼女たちに何が残る? 子どもに反抗されたり、離れていかれたとき何が残るんだ。自分のものだと思っていたものが、自分のものでなくなる。すごい喪失感だと思うよ。きっと、自分自身のために何もなさなかったことを悔いるんだ。テレビドラマでよくある『わたしの人生、なんだったの』ってやつさ」
「つまり諒さんは、子どもを欲しくないの?」
「そうじゃない。子どもは夫婦の目的ではなくて、あくまで結果であってほしいっていうことさ。ぼくは、子どもが欲しくないわけじゃない。ずるい言い方だな、これは…」ぼくは猪口を一口であけると続けて言った。「言い直す。ぼくは、君とぼくの両方の血を引いた子どもが見たい。ただ、ぼくら自身の成長が第一だと思ってるだけだよ。自己の追求、自己実現というものをおろそかにして、その空白を子どもに埋めてもらおうとするのがいやなんだ。ごめん、また理屈っぽかったな」
「それがあなたよ。わたしは、そんな諒さん嫌いじゃないわ」美和は真剣な表情で言うと「でも、さびしいって感じはある? それとも、ない?」と聞いた。
「しょうがない、白状する。あるよ。ときどき、さびしいっていうか、物足りないって思う」
最後にお茶漬けを食べて店を出るとき、おかみが話しかけてきた。「おせっかいだけどさ、自治会の集まりはできるだけ出た方がいいよ。とくにマンション住まいの人は。いざっていう時に、困るんだから。隣り近所がないっていうのは」
ぼくはその言葉を無視するように「ごちそうさま」と言って、自転車置き場に向かった。美和がついてこないので振り返ると、のれんのすぐ外で、店内の明かりが逆光になりシルエットになった二人がまだ話していた。ぼくが呼ぶと、美和はおかみに手を振りようやくやってきて、
「春になったら、店の常連さんを集めてここで花見をするんだって。自宅の庭に立派な桜が一本あるそうよ。わたしたちにも来ないか、って」
「ぼくはやめておく。あんまり関係が近くなると、よけいな気苦労も出てくるから」
「そう言うと思った。じゃあ、花見はいいけど、せっかく誘ってくれたおかみさんをお節介だなんて言わないでね。好意で言ってくれてるんだから」
「わかった。でも、世間は放っておいてくれない、っていうことはわかったろう。いっそのこと、『二人は自足しております。そっとしておいて下さい』っていうバッジを胸にでもつけようか」
「だから、そういうことを言わないでって言ったのに…」
自転車をこぎながら、「おまえと二人でいいんだ。二人で成長していこう」と、荷台に乗りぼくの背中につかまっている美和に言った。声は聞こえなかったが、頭が縦に動くのを背中に感じた。
* * *
奥さんに先立たれた上司に酒を誘われ、その日は帰りが遅くなった。いつもならまずメールを読んでから、それに返事を書くのだったが、上司と話をするうちに心に広がった漠然としたものを整理したくて、自分のメールを書くのを先にした。
[ ―まさかわたしが死ぬなんて思いもしなかった。死にかけているいまだって信じられないのよ― 前にも話した上司の奥さんが死の前日、喉をひいひいさせながら言ったそうだ。癌末期の激痛を和らげるため投与し続けたモルヒネのせいで意識は混濁していたし、幻覚も見るようになっていたらしい。それでも彼女は、家族への感謝の気持ちをとぎれとぎれの言葉で伝えた。癌は告知されていて、普通の人が想像するところなら、癌を、癌による闘病生活を認めなかっただろう、と思われるのに、そうではなかった。闘病生活も、それ以前の健常な生活も含めて、自分の人生だったということを、「もうすでに向こうの世の人であるかのような冷徹さ」(上司がこう言っていた)をもって認めていた。その彼女でさえ、死はまだこない。あすもあさっても、ずっとその先まで。わたしが死ぬわけはない。そう言っていたというんだ(上司は、あの人にしては不つりあいに的確に「不死の幻想」と表現していた。末期患者のケアについて書かれた本でも読んだのかもしれない)。それと彼は、「この世の中でもっとも信じられないこと。それは、自分が死ぬことなんだな」ともつぶやいたよ。
その話を聞いて、何も考えていないのではないかと思われるほど、めまぐるしく色んなことを思った。気が向いたらでいい、美和には読んでほしい。
君と結婚する前、ぼくは休日の夕方が大嫌いだった。昼過ぎに起きて酒を飲みながらテレビを見たり本を読んだり。すると、いつの間にか眠っていて、目が覚めると部屋は夕闇のなか。そんなとき、子どもが家に帰るのを促す『新世界より』のチャイムが遠くから聞こえてきたりもした(♪遠き山に 日は落ちて… 知ってるだろう?あの歌。あの歌のメロディーだ)。そして、〈ああ、一日がもう終わってしまう〉この感じがなぜか、人生という長い時間に自動的にアナロジーされてしまうんだ。〈ああ、一生がもう終わってしまう〉ってね。胸をかきむしられるようだった。孤独、絶望…どんな言葉を連ねても、あの狂おしさは表現できないだろうな。
三十代に入ったときも、四十に迫ろうとしているいまも、とにかく早すぎるって感じた。美和もそうだろう? いまぼくらは三十六歳だから、だいたい人生の半分を生きたことになる。でも振り返ってみると、半分も過ぎたというのに、それほどのボリューム感があるかい? むしろ、ここ一ヶ月、ここ一週間を振り返ってみたときのほうが、分厚く感じないか。過去っていうのは、遠くなればなるほど、深ければ深いほど水圧が高い海のように、ぺしゃんこに圧縮されていくんだ。その時々では、視覚や聴覚、嗅覚などを総動員して体一杯に受け止めていた経験のディテールが、時間がたつうちに忘れられていく。そして、「七歳で小学校に入り、十二歳で卒業し中学入学、三年後に高校へ。受験勉強をして大学に入り、大学では酒を覚え恋もしてやがて社会人に。そして一気に十五年たち、いつのまにか現在」というように簡略化されたあらすじだけが残っていく。五十や六十になるときは、なおさら早く感じるはずだ。記憶力は衰え、過去に関する情報量が減る。それなのに、五十年とか六十年という言葉からは、とても長い時間という印象を受ける。そして、きっとこんな感慨をもつんだ。「自分はこれといった経験もしないで生きてきた。何十年という長い時間が過ぎたというのに…時は早すぎる、人生は短かすぎる」とね。
『邯鄲の夢』っていう中国の故事を知っているだろう。小学館の辞典にこう書いてある。
――貧乏で立身出世を望んでいた盧生という青年が、趙の都、邯鄲(かんたん)で呂翁という仙人から、栄華が意のままになるという枕を借り、うたたねをしたところ、富貴をきわめた五十余年の夢を見たが、覚めてみると炊きかけていた粟がまだ煮えないほどの短い間であったという。人の世の栄枯盛衰のはかないことのたとえにもいう――
この話とよく似たイメージをぼくは見ることがある。本当の自分はじつは老い先短い老人で、いまこうして君にメールを書いている自分というのは、老人である現実のぼくが人生を回想している夢の中の存在ではないか。その回想劇が、幼年期から始まってやっと三十六歳にまで進行した。そういうことではないのか、って感じることがあるんだ。だから、現実の老年のぼくにちょっとした外的刺激があればその夢が覚め、三十六歳のぼくはたちまちにしていなくなる。そして、意識の戻った老人たるぼくが、公園の日溜まりのベンチに座って、死ぬはずはないという幻想をなお見つつも、人生の短さ、速やかな時の流れを嘆いている。そういうイメージなんだ。もちろん、イメージにすぎないから、論理的につじつまが合わないことはあるけれども…
眠い。もうだめだ。まだ途中のような気もするけど、ある程度言いたいことは言った気もする。もし、ここまでこの堅い文章につきあってくれたのなら、心からご苦労さんという言葉を進呈します。ぼくはこれから君の隣りに眠りにいきます]
メールを打ち出してかなりの時間が過ぎていた。誰かがマンションの外階段を上る音が十秒ほどして、消えた。時計を見ると、すでに日付は変わっている。ぼくだけが一日先の世界にいるような気がした。
* * *
数日がたった。夕食を終え、ふたりで一時間の連続テレビドラマを見た。交通事故で記憶喪失になった男性主人公が、記憶喪失以前の恋人と喪失後の恋人それぞれのかいがいしい努力の結果、記憶を復活させた。彼はどちらの恋人を選ぶのか。そこで、ドラマは次回に持ち越された。ぼくは記憶喪失という精神現象への知的な好奇心から、美和は主演男優の魅力にひかれて、ずっと見続けてきたドラマだった。古い記憶と新しい記憶の衝突、その場面をどう表現するのだろうか。ぼくは次回の予告は見ずにチャンネルを変えた。ニュースは一日の動きをフラッシュで流していた。しばらくして美和がシャワーを浴びると言ったので、ぼくは書斎に入った。
コンピュータのスイッチを入れた。メールソフトを立ち上げ、ネットワークに接続。[大作メールいよいよ発信]というタイトルで美和からメールが届いていた。大作メールを準備中という知らせがあったのはいつごろだっただろう。送受信の記録を調べてみると、ほぼひと月前だ。毎日こつこつ積み上げた文章だとすれば、それはかなりの大作になっているはずだ。
メールを開封すると、[第一部 こども]と書き出されていた。
[こんなメールをどうして書くのか、まずそれから説明します]
ぼくはたばこに火をつけ煙を深く吸い込んだ。どうやら妻は本気らしい。長期戦を覚悟しなければならないようだ。ぼくはキッチンにゆきウイスキーの濃い水割をつくった。一口飲むと、焼かれるような熱さが食道から胃に伝わった。ほとんど瞬時に、絶縁していた論理回路に電気が通う。読みの準備が整ったところで、ぼくはグラスを持ち書斎に戻った。
[このメールは諒さんへのものであると同時に、わたし自身へのメッセージでもあります。というより、わたし自身の考えをまとめるために書いたと言ったほうが本当かも知れません。日々の生活の中で、心の無意識の部分に雪のように降り積もっていき、ふとしたときにぼんやりとわたしを包んでいる、なかなか言葉にはできないたくさんの何か。それを正直に言葉に書きつけてみようと思います。いまのわたしの心をできるだけありのままにすくい上げたい、諒さんに伝えたい。だから、長くなるけれど我慢して読んでください。
子どもがわたしの体の中で死んでしまってから、六年が経ちました。そして、わたしもあなたも、もう三十六歳。世間では、小学生や中学生の子どもがいる年齢ですが、わたしたちは相変わらずふたりだけです。避妊をしてきたわけでもなく、性的、肉体的に正常な男女なのに、です。わたしは、このことに不平を持ってきたわけではありません。だって、あなたがいつも言っているように、他人や世間と比べて自分の幸福があるわけではないし、子どもがいなくてもこの六年のわたしたちは十分に幸せだったから。あなたは、自分の道、文学に生き甲斐をみつけて一生懸命書いているし、わたしも、学生時代の延長でスキーやテニス、外国旅行なんかに行って結構楽しんでいる。この地域での交友はあまり広がっていないけど、去年から始めた英会話やエアロビクスで友達は少しずつ増えているわ。会社でも、それなりに責任のある仕事をさせてもらっている。それに何より、あなたがわたしの生活と心の充実を一番に考えてくれている。
でもね、わたしをときどき、ふっとよぎるものがあるの。立ち止まって考えさせるものがね。何かっていうと、やっぱりそれは子どもに関係していて、このままでいいのかな、このまま年をとっていって、たとえば十年後四十六歳になったときに、いまと同じような感想を持てるのかな、ってことなの。いまはまだ三十六歳で、一般的に女盛りって言われる年代。個人差はもちろんあるけど、世間からは女性としての魅力を認められている。だから、いまのわたしは満足できているっていう面があるんじゃないかな。でも、もし十年たち二十年たちして五十歳、六十歳になって、女として見られなくなったときでも、いまと同じような幸せの気分でいられるのかしら。子どもっていうのは、肉体的というか性的に女でなくなった女の、その後の生きる糧になっているのかも知れない。母になることで、女でいられなくなった喪失感を埋めているのじゃないかしら。女である前に人間としての存在感をさがすことが先だ。あなたはたぶん、こう言うだろうけど、それをできる人はそんなに多くないと思う。
高知の両親のことも考えるわ。とくにお母さんを。一人っ子のわたしを東京の大学に出して、せっせと仕送りしてくれた。なのに娘は卒業しても戻ってこない。それどころか、東京で結婚して近郊の埼玉にマンションも買っちゃって、おそらくもう高知に帰ってくることはない。かわいそうだよね。あとは、たぶん先に呆けてくるお父さんとふたりで、ただ年老いていくだけ。それを考えると、胸がきゅうっと締め付けられるの。わたしが小さかったころの家族写真なんか見ていると、泣けてくることもあるわ。
せめて孫を見せてあげたい。そう思っても、不思議はないでしょう? でも、勘違いしないでね。お母さんが「子どもはまだか」とか、「早く孫の顔を見せて」とかわたしに催促したことは一度もないのよ。わたしを産んでくれて、それからというもの、自分のことよりわたしのためにあるような人生を送ってきたお母さんに、わたしができる最高の親孝行って、わたしの子どもを抱かせてあげることなんじゃないかしら。お母さんのことだけ書いてきたけど、お父さんにとっても同じよ。
これまで書いてきたことをまとめて、諒さんはどんなことを考えている? たぶん、「君は子どもを何かの目的の手段として捉えている。まず、女性に必ず訪れる喪失感を埋める目的、それから両親を喜ばせるという目的。子どもはそのための手段になっている。そのような考えは、間違っている」そのようなことでしょうね。
でも、本当に想像力を働かせてみると、ふたりだけで生きていくというのはとても難しいことだと思う。だって、子どもがいれば、子どもの成長に合わせていろいろな経験ができる。小中高、大学それぞれの入学式や卒業式、運動会、学芸会や文化祭、母親・父親参観、夏のキャンプ、ptaのバーベーキュー大会…数え上げたらきりがないほど。そのたびに親は、自分の子供時代の経験を思い出すことにもなる。もしかすると永遠に失われていたかもしれない過去がよみがえる。すてきなことよ、きっと。
それに、子どもは一年ごとにステージが確実に上がっていくでしょう。小一、二、三…中一、二、三…っていうように。親にとっても長いのっぺりとした年月ではなく、めりはりがあると思うの。たとえば十年を振り返るときでも、子どもがいるといないとでは、たぶん相当違うわ。ためしにいま、十年前までを思い出してみて。長い一本の線があるだけで、なかなか時間の順序どおりには思い出が並ばないでしょう。
それにいつかも話したけど、子どもがいないと、地域のつながりを持つのは大変よ。これも想像力をたくましくしてみてね。結婚してここに越してきてからの五年間、わたしたちには近所づきあいがあまりないよね。そのうちにできると思っているかも知れないけど、これまでできなかったことが急にできるようになるわけはないんじゃないかしら。子どもがいたら、こうはならなかったと思う。共働きだから、そんなにたくさんのつきあいができたとは思わないけど、わたしたちの子どもに幼稚園や小学校の同級生がいれば、自然にその親とつきあいができていたと思う。このままだと、わたしたちはこの地域とほとんど関わりを持たないで、生きていくことになる。それって、とても心配。あなたが病気で倒れたらどうすればいい? わたしがそうなったら、諒さんどうする?
まだあるのよ。七十歳くらいになったふたりだけの様子を想像してみて。たとえば、普通だったら孫が何人かいて、その孫たちが人生の過程を順々に進んでいくのを見て、おじいさんおばあさんが退屈しないでいる。孫の成長を見て楽しんでいれば、自分の行く先の短さを考えないですむしね。でも、ふたりだけの七十歳はどう? 日常生活にドラマはあるかしら。あなたには文学があるから、それなりの老後の生活がありそうだけど、わたしは自信ない。いまなら子どもがいないという違いだけど、そのころになれば子どもも孫もいないっていう差になって、自分の家族の大きさの違いがずっと鮮明になる。世間と比較するな、って諒さんは言うでしょうけど、頭ではわかっても実際はね…、きっと比べちゃうよ。そして、子供を作らなかったことを悔やむかも知れない。老後をいまから考えるのはいやだけど、でも老後は必ずくるんだから。
それにね、ふたりだけで生きていくといっても、諒さんもわたしも、若い時分か老後かどちらになるか知らないけど、どちらかが先に死ぬんだってことを、よくは考えていないか、見ないふりをしているんじゃないかしら。たとえば、四十何歳で亡くなったあの奥さん。もしその人に子どもがいなくて、ほかに家族もいなくてという状況だったら、どんなことを考えて死んでいったと思う? もしわたしがそういう立場だったら、自分が死ぬという恐怖感はもちろんだけど、あなたのことが心配でたまらないと思うわ。『ある愛の詩』の病室でのオリバーとジェニーの別れのシーンを覚えているでしょう。先に逝くジェニーが、自分のことより残されてしまう夫や父親のことを心配していたように。もし子どもがいれば、あなたのほかに子どもがこの世に残る。一緒に生きていく相手がすくなくとも一人はいる。そして残ったあなたたちは、わたしの思い出を大切にしてくれる。そう思えば心残りにならないかも知れない…
予告したとおり長いメールになりました。最後まで読んでくれてありがとう。第二部はあしたの配信です。
ps… 感想はメールでお願いします。面と向かっては話さないでね 美和]
ぼくは残っていた水割を飲み干し、しばらく瞑想した。口で気軽に答えられるような内容のメールではなかった。「真剣に想像してみてね」という言葉のあとに続くいちいちの具体例が真に迫っていて、ぼくの時間をそのたびに止めた。自分の妻の、これまで自分とは対照的に楽観的で、感覚的だと思っていた妻の、ぼくらふたりの生活に対する慧眼には驚かざるを得なかった。
ぼくは返信メールを書き始めた。
[子どもという夫婦それぞれの分身ができるという事実が、新生のよろこびをもたらすことは当然だと思う。新たに生まれる存在の主体は子どもであるにもかかわらず、親は子の誕生を契機として、自分の人生を生き直す。そういう側面があるのをぼくは否定しない。しかも、物心がつき理性が成長を始めてから二十年もたってしまえば、近代的に考える自己が初めからあったかのように考えがちで、まるで大人の精神をもってこの世に送り込まれてきたという錯覚を抱くものだ。しかし、子どもが実際に、おぎゃあと泣き、首がすわり、寝返りを打ち、直立し、歩き出す。そして、言葉を発し、みずから考えることを始めるというプロセスを目の当たりにすれば、ぼくはきっと、最初から一個の精神であったという傲慢な幻想を砕かれるにちがいない。それに、人間の成長に生誕の時から向き合うことができるというのは、親本人の人間に対する認識を深めることは確実だろう]
ここまで書いて、美和に出すいつものメールの書き方ではないことに気づいた。けれども、話し言葉では考えを正確には伝えられそうにない。理屈っぽいとわれながら思う硬い文体をそのまま通すことにした。
[子どもが生まれるということの現実的な意義を充分に認めるにしても、ぼくにとっての第一関心事はぼく自身の成長だ。偶然だったか、必然だったかそれはわからない。しかし、一度は天恵のように自分の頭にひらめいた〈あるべき自分〉のイメージは、たとえ現実の生活からかけ離れていようと、たとえ食うや食わずの生活の中でも、自分固有の問題として、つまり、子どもがどうのこうの、妻がどうのこうのとは無関係に、追い求めなければならないというのが、ぼくの信念なのだ。とはいっても、ぼくは生身の人間だ。一人で生きていくには、弱すぎる。だから、君と一緒にいる。こう言うと、君がぼくにとっての手段のように聞こえるかも知れない。でも、ちがう。美和は美和で、自分固有の問題を追い求めるために生まれてきた。そして同じ理由で、ぼくと一緒にいる。ぼくらはそれぞれに伴走者なのだ。まず、それを認めて欲しい。血を流して痛いのは本人以外になく、おいしいものを食べてうまいと感じるのもやはり本人だけなのだということを(だからといって、エゴイズムを推奨しているのではないのはわかってくれるね)。何十億年も太陽の周囲を回り続けている地球の歴史の、ほとんど無視すべき短いある一時期に偶然に生まれた、個性と個性。さらにその個性と個性の出会いという一段深い偶然。ぼくはそのへん、つまり、そのかけがえのなさに目覚めることが、人生や愛の本質であるように感じているのだ。
子どものことは、ことさら第一目的にすることではないと思う。ぼくは美和を抱きたいときに抱く。美和は抱かれたくなったら抱かれる。その結果、子どもができるかも知れない。そんなふうに考えられないだろうか]
書き足りない気もしたが、メールを送信した。リビングに行くとテレビがつけっぱなしだった。パジャマ姿の美和がソファーで眠っている。ぼくらくらいの年齢の夫婦なら、父親が書斎にこもったりすれば、リビングでは母親と子どもがたわむれているというのが普通の情景なのかも知れない。だが、美和はこうしてひとり居眠りしている。テレビの軽薄なバラエティー番組が騒がしい音をたてていただけに、彼女がとても孤独に見えた。ぼくは美和を抱き起こし、寝室につれていった。寝息が規則正しくなるまで添い寝し、それから自分のベッドに戻った。
眠れないので考えにふけったのか、考えすぎて眠りが訪れなかったのか、わからない。とにかくその夜、ぼくは死について考えた。二度とさめない眠りという言葉を手がかりに具体的に想像してみようとしたのだ。人は眠っているとき、体は生きているけれども、自分を意識していないという意味では、死の状態にある。毎日毎日、夜になれば死の状態を迎えるというのに怖さをまったく感じないのは、明日になれば目が覚めると知っているからだ。だが、もし今日を限りにもう目が覚めることはないということを当日いきなり知らされたとしたら、ぼくの最後の夜の気持ちはどんなだろうか。明晰な意識のうちに死を目前に迎えたとき、ぼくは狂乱せずにいられるだろうか。自我という統一体は保てるだろうか。虚無のブラックホールに吸い込まれる恐怖感のほかに、それに至る過程での自己分裂、つまり、さまざまな想念に自分を乗っ取られることが、臨死の恐怖の一つであるとすれば、そのときぼくは、自己であることを維持しつつ、虚無に向かって次第に意識をフェードアウトさせることを、最後の望みとするのではないか。自己であるままに…。妄想や激痛に自分を占領されることなく…。それを支えてくれるものは何か。自己同一性を失わぬまま、自らの死を死に遂げようとする主体を支援するものは何か。これを救いというならば、救いとは、いま去っていかねばならない世界に自分の何かが残ると信じ得ること、なのではないか。
美和ひとりがぼくの最後の夜に居合わせる。この場合ぼくは、彼女の心の中に思い出としてしばらくは生きる、ということに救いを見いだすかも知れない。しばらくというのは、やがては美和も死ぬからだ。逆に、美和を先に逝かせぼくがひとり死にゆくとき、ぼくは何を救いとするだろう。縁遠くなってしまった友人や親類の気まぐれな回想に登場するかもしれないという期待はむなしすぎる。せめてぼくに信じ得るのは、著作によってぼくが考え感じたことが残ると期待することくらいなのかもしれない。そういえば、アメリカの詩人がこんなことを書いていた。《詩人はランプに火をともし 自身は去ってゆく》と。だが、そのように幸運で才能に恵まれた詩人や作家は、ほんの一握りにすぎない。
では、美和だけでなく子どもも居合わせたらどうか。自分の遺伝子を半分受け継いだ生命体が、この世に残る。死によって断念させられる、永遠に続くであろうこの世界にとどまりその変遷を見届けたいという希求を、自分の分身とさらにそれに連綿と続く分身たちが代わりに実現してくれるだろうという思いは、それまでの自分の生を意味あるものと感じさせてくれそうではある。子孫を残すことによって、永遠という歴史の一部を、ささやかながらも担ったという実感。それはきっと幻想にすぎないだろう。だが、死にゆく本人が救われているのなら、幻想であってなにも悪いことはない。それに、幻想以外のこの世の見方などあり得るのだろうか。そう考えるなら、子どもを持つということの意味は小さくない。
だが死は、臨死という、限られた短い時間だけの問題ではない。たとえ、年端のいかない子どもであろうと、ぼくらのようにまだ四、五十年は生きると思いこんでいる年代であろうと、また老人であろうと、死は常に生に寄り添う影だ。死を意識するかどうかとは関係なく、いつ死ぬか分からないのだ。最後の瞬間の救いを望んでいたところで、救い主が現れる前に、一瞬にあの世ということもありうる。そうであるなら、瞬間瞬間の生の充実を営々と積み重ねていくこと、そしてその数限りない瞬間がすべて自分のものであると確信できること―、これに人生の価値は見いだされるべきだろう。人は、なろうと思った自分になるために生まれてきた。日々新しいことに目覚め、活性化されながら後悔しない時間を積み上げる。ぼくは自分の人生をそのように捉えたい。結果として、子どもができることもあるだろう。それを拒絶しようというのでは、けっしてない。
長々と続いた死についての思索の延長ででもあるかのように、また逗子海岸の夢を見た。―世界が終わるのなら、つまり、みんな一斉に死ぬのなら怖くない― 美和はいつかと同じことを言うと、砂浜に寝転がり、ぼくにもそうするよう促した。満天の星。g線上のアリアがやはり聞こえる。彗星も数えるのを途中で止めるほどに多く現れ、流れ、そして消えていった。
「もしかしたら、死ぬってことは、それ自体としてそんなに恐ろしいことではないのかもしれないね」美和が言う。
「そうかもしれない。こうしていると、そう思う。世界が終わる。誰も生き延びない。つまり、新たな歴史、永遠に続く歴史はない。だから、だれも取り残されない。そう思うと、すこしは楽天的になれるような気がする。たとえこの世の最後に、経験したことのないどれほど強烈な肉体の苦痛が待っているとしても…」
「そうね。自分はいなくなるのに世界は永遠に続く、と勝手に思いこんでいるから、そこから投げ出される孤独を恐怖として感じているだけなのかもしれないわ」
彗星が、一定の短い間隔で、天の球面を上下左右に、そして斜交いに尾を引きずっていた。またたく無数の星のうちのいくつかは、何億年か前に最後の光を放ちすでに消滅してしまった過去の星だろう。
「宇宙空間の無限の広がりの中で、ぼくたちはとてつもなくちっぽけだ。でも、その恐るべき有限性をぼくたちは嘆かない。なのにどうして、永遠に生きられないという時間的な有限性だけが耐え難いほどに悲しいんだろう」ぼくはひとり言のように言った。
「そうね」期待していなかった美和の反応があった。「理由は分からないけど、わたしたちって、なにか大きな勘違いを知らず知らずの間に育ててきたのね」
「勘違いか。それはいい」ぼくは笑った。
「うん、われながら、それはいい」と美和も笑った。
そして急に暗くなった。と思うまもなく目が覚め、新聞配達がけたたましい反響音を残して階段を駆け下りていった。
翌日届いたメール第二部は、予想をまったく裏切るものだった。ぼくが書いた第一部への返信に関しては、それを読んだらこの第二部、そして明日配信予定の第三部が出せなくなるかも知れないから、あえて読まなかったと冒頭に記されていた。
[谷川俊太郎の詩集『女に』の中の一篇を、諒さんへ…
『ともに』
ともに生きるのが喜びだから
ともに老いるのも喜びだ
ともに死ぬのも喜びだろう
その幸運に恵まれぬかも知れないという不安に
夜ごと責めさいなまれながらも
ps… 短いけれど、わたしの心の真実です]
延々と死と生と子どもについて書き続けたぼくのメールが、むなしい言葉の羅列であるような気がした。説明しようとしても説明しきれない事柄が、たった五行の詩で刺し貫かれる。美和は本当にぼくの返信メールを読んでいなかったのだろうか。それが疑われるほど、話の成り行きと詩の内容が一致していた。
* * *
久々に休みをとれた土曜日、ぼくらは神田神保町に出かけた。古本屋でゲーテの『イタリア紀行』をさがそうと思っていたぼくに、美和がついてきたのだった。大学を卒業してからもぼくらは、月に一度はこの街にきて、よく通った店で食事をした。その日は、三省堂の地下でドイツ料理―ソーセージとポテト、キャベツの取り合わせ―を食べ、美和のバイト先だった喫茶店でキリマンジャロを飲んだ。その酸味は、ぼくにとって、美和との出会いの思い出の味だった。ブレンドと比べると百円は高かったキリマン。それでも奮発していつも注文していたのは、モカが好きだという美和と、じゃれあいの口論を楽しむためだった。見慣れた窓。あれから時間はたったけれども、数知れない人がひっきりなしに通り過ぎていくその風景には、なんの変化もない。同じ事が、手を変え品を変えて繰り返されているだけだった。
マスターともう少し話をするという美和をおいて、ぼくは古本屋街でゲーテをさがした。目的の本はなかなか見つからなかったが、ぼくは店々を歩き回るだけでも満足だった。それぞれ専門分野を持つ古本屋は、それぞれ独自の空気を持っていた。扱う本の種類が、匂いや明るさを変えるのだろう。しかし、どの店も扉を開けると共通の黴くささが鼻をついた。それは思い出の想起を加速した。
…… 美和に結婚を申し込んだのは、お茶の水駅のホームを見おろす聖橋の上だった。欄干にもたれてぼくらは、赤い色の快速電車と各駅停車の黄色い電車がすれちがったり、同じ方向に先を競い合うのを眺めていた。
「この橋の上から、赤い色の快速電車に向かってレモンを投げたっていう詞の歌があるのを知ってる?」美和が聞いた。
「知ってる。さだまさしの『檸檬』だろう」ぼくはメロディーを口ずさんだ。
「どうしてレモンなんか持ってたのかしら。不思議ね」
「梶井基次郎の『檸檬』の主人公でも気取っていたんだろう」
「京都の丸善で、自分勝手に積み上げた本の上にレモンを置いてきたっていう、あれ?」
「たぶん、そうだろうな。あのレモンは、青春の鬱屈みたいなものの象徴だった」
「そうだったわね」美和はちょっと考えたあと、「ねぇ、レモン買ってこようよ」と言った。
「まさか、ここから?」ぼくはきっと、とんでもないというような顔をしていただろう。
「そうよ。放るの」美和は真剣だった。笑顔だったが目は笑っていない。
「なぜ? 君も鬱屈か」
「ちゃかさないで。そうしてみたいだけなの、はっきりした理由はないわ」
「よし、買いに行こう。……でもその前に、ちょっと…」ぼくは口ごもった。
「なに? やっぱりバカらしいから、やめる?」
「いや、レモンは買おう。……」用意してきた言葉が血液に乗って体中を駆けめぐっていた。
「じゃあ、なに?」美和がぼくの目をのぞき込んだ。
「結婚しないか」ぼくはそう言うと、美和から視線をはずし、欄干から駅を見下ろした。恥ずかしさと不安と期待でいたたまれない気分だったのだ。
「とつぜんね。びっくりしたわ」美和も同じように駅を見下ろして言った。しばらくふたりとも、電車の行き交いを眺めた。
「待っていたわ、いつ言い出してくれるかって」美和がぽつりと言った。
「じゃあ、結婚してくれるのか、ぼくと?」
「うん。諒さん、よろしくね」美和はほほえんだ。……
こうして結婚の話がまとまってしまい、ぼくらはレモンを買いに行くことを忘れたのだった。
『イタリア紀行』は結局見つからなかった。ぼくは美和を喫茶店まで迎えに行った。
「マスターに頼んで、レモンをもらおう」
「レモンをどうするの。…あっ、もしかして、あれ?」
「そう。聖橋の檸檬だ」
マスターが気前よくくれたレモンを、美和は大事そうにハンドバッグにしまった。
十分ほどで聖橋に着いた。川というより用水、あるいは運河といったほうがふさわしい神田川。それと平行して、お茶の水駅のホームが新宿方面に延びている。
「どっちが投げる?」美和が言った。
「言い出したのはたしか君だったはずだよ」
「じゃあ、わたしが投げるね」
黄色い各駅電車が千葉方面に走り出したとき、新宿方面行きの快速電車がホームに入っていった。降りる客はほとんどいなかったが、ホームにあふれるほどいた乗客は先を急いで電車に乗り込んだ。美和は橋の上に歩行者がいないことを確かめると、電車が動き出すのを待った。出発のベルが響き、電車がゆっくり動き出した。美和は手のひらにレモンを乗せた。そしてすこし下に弾みをつけてレモンを離した。紡錘型の黄色いかたまりが、遠ざかっていく快速電車の赤い色に重なった。
「さあ、逃げよう」
ぼくは美和の手を握ると、急いで歩き出した。いとおしいという気持ちが、かつて経験したことのない強烈さでこみあげていた。
* * *
大作第三部が届く朝が来た。
目覚めたあとしばらくベッドに横たわっていた。脳だけが暗闇のなかに浮いているような、手がかりも重量感もない朝だった。蛍光塗料が目覚まし時計の長短二針の位置関係を平面的に示し、それがすなわちこの世の時刻だった。六時十五分。足先に軽いひきつりを感じ、手の指がかゆい頭を掻いて、ようやく自分の体が自分のものになった。あとは光がこの部屋に射し込み、世界がおごそかにゆっくりと形づくられていくのを見届けるだけだ。鳩が鳴いている。美和が寝返りをうつ音が聞こえる。カーテンが白みはじめ、美和の鼻さきが浮き上がる。階段を昇り降りする足音が次第に頻繁になる。きょうは、ゴミの収集日だったかも知れない。
腹筋に力を入れ、上体を起こす。妻の顔がもうはっきりと見えた。年に一度くらいは、こういう厳粛な朝があり、人生の秘密が解き明かされた気分になるものだ。時間や空間のくびきから解放された本当の自分をかいま見る瞬間…。
寝室を出て書斎のコンピュータに向かう。スイッチ・オン。ハードディスクがカリカリ鳴る。いつものようにmicrosoftの旗とファンファーレ。メールソフトを立ち上げ回線接続。
[美和より大作メール第三部]がリストに並んでいる。
[お待たせしました。大作メールのフィナーレです。でも、この先を読むのには、心の準備が必要よ。まずは、ベランダでたばこでもどうぞ…]
言われるまでもなく、それはぼくの朝の日課だった。ベランダへ出て、たばこのけむりを吸うと、肺が寒気の中に春を感じた。目が、畑の上の靄を見つけた。その中の小道を、柴犬が前傾姿勢で人間を引っ張ってゆく。電柱の前で止まり右足を上げると、時間が止まった。鳩がデーデーポッポー、あるいはクウシュウケイホウと鳴き続けている。ぼくは二本目のたばこに火をつけた。また、春がめぐってきたのだ。いつものように、速やかに。いや、いつもより早足で…
ぼくは書斎に戻った。
コンピュータ画面の左から右へゆっくりと、スクリーンセーバーの文字が電光ニュースのように流れていた。
ともに生きよう
ともに老いよう
わたしたちの子どもを育みながら。
二ヶ月よ
十月はすぐにやってきます
ベランダでの喫煙時間がおよそ五分だと知っている美和が、ぼくが書斎に戻ってくるまでにメッセージが流れだすように、昨夜のうちにセットしていたのだ。
ぼくは椅子に座り、左から右へなんども繰り返すそのメッセージを見ていた。やがて脳裏に、ドカ雪が降り始めた。雪の厚いベールの向こうに父がいる。雪下ろしをしているのだ。命綱を腹に巻き、屋根の傾斜にしっかりと足を踏み据えて。
ぼくはコンピュータから離れ、窓を開け放った。
「君たちとともに生きていく。たとえ世界が、悲哀の音楽を奏でながら疾走していくとしても…」
そうつぶやくとぼくは、すがすがしい朝の大気を大きく吸い込んだ。
(了)