HATOGAYAEKI.JPG - 208,797BYTES 斉藤光悦

 一男は日曜の朝が好きだ。目覚めるとかならず五時。真夏でも空はまだ明けきっていない。濡れ縁に出る。三軒一棟の長屋の縁側は長年の風雨のためにボロボロだ。畑が広がっている。そのうち五メートル四方が一男の借りている分である。先週まではキュウリがとれた。もうすぐナスだ。みそ汁に入れたり、焼いてショウガじょうゆをかけて食べる。浅漬けもいい。トマトもそろそろだ。

 にわとりが鳴いた。蝉もこぞって早起きだ。畑がみるみる明るくなって、育てている野菜の姿が目に見えてくる。背の高いひまわりの顔も段々に並んでいる。鳩が鳴いた。彼の耳には、クウシュウケイホウ クウシュウケイホウと聞こえる。父ちゃんにはデーデーポッポーって聞こえるんだっけな、と一男はつぶやき、ハイライトのけむりをうまそうに吸い込む。次は朝飯の準備だ。一男は独身である。米を研ぐ。研ぎ汁が透明になるまで水をかえては何度も研ぐ。水の無駄だよ。とうちゃんが言う。そんなこと知るかい、と一男は妥協しない。気がすむまで研ぎ、炊飯器のスイッチをいれた。

 ここは埼玉県鳩ヶ谷市。平和というか暢気な名前だ。実際、ついこのあいだまでは、何年たっても変わるところのない旧態依然たる気分が漂っていたのだ。ところが…

 二十一世紀が始まった途端、つまり二〇〇一年の三月二十八日に、この市というにはあまりに市らしくない鳩ヶ谷に、特筆大書して後世に伝えられるべき出来事があった。

 地下鉄開通―

 帝都高速度交通営団の南北線に乗り入れる埼玉高速鉄道という都会的な名前の鉄道が、鳩ヶ谷の地に二つの駅を設けたのである。それまでこの地は、陸の孤島と呼びならわされ、東京の足立区に接しているという地理上のメリットがあるにもかかわらず、「埼玉で一番住みたくない所」ワースト1に選ばれるという屈辱を受けたことさえあった。地下鉄にかける市民の期待が大きくならないはずはなかった。これで、東京に直接アクセスできる。駅を中心に新たな街づくりがおこなわれ、住宅がどんどん建ち若い家族が増え、街は活性化する。隣り合う川口にもひけをとらない市らしい市、シティーになっていくはずだ。と、まあこんなふうに。

 一男の生活も変わった。東京・日本橋への通勤が画期的に楽になった。それまではバス停まで十分歩き、赤羽までバスで三十分、そして電車で四十分かかっていた。そのうえバスは天候や交通事情で所要時間が大きく変化する。普段三十分のところ最悪だと一時間以上かかることもあるのだ。尿意を催して脂汗じとりということも何度かあった。それに比べて新しい出勤ルートは、駅まで徒歩十分、そこから会社の最寄り駅まで四十分。それだけだ。バスの気まぐれに悩まされることもない。おまけに、遅くまで飲んでこられる。最終電車の鳩ヶ谷着は深夜零時二十三分、つまり翌日なのだ。バスではこうはいかない。というわけで、生活上の利便の点からは一男は地下鉄開通大歓迎だったのだ。

 問題は畑と、長屋の日照だった。畑なんかにして土地を遊ばせておくのはもったいない。マンションでも建てるか。長屋の大家がそう言いふらしていると、近所の焼鳥屋の店主が教えてくれたのだ。その店主と一男はいつからともなく兄貴と舎弟といった間柄になっていて、これは兄貴がたいへん、聞き捨てならぬと、わざわざ長屋まで報告に来たのである。あの大家ならそういうことも考えるだろう、くらいには一男も想像していたからそれほど驚かなかった。いつかは現実になるが、心配はそのときにすればいい。そんな矢先、一男の長屋にのっぴきならない、大事件が持ち上がったのだった。

「一男さん、たいへん」

 長屋の隣りの家の主婦が血相を変えて濡れ縁の外に立った。一男は父と遅い朝飯を食べているところだった。

「なんだよ、やぶからぼうに」一男は鯵の開きをつつく手を止めずに言った。

「めぐみが、車にひかれた」と主婦は涙声だ。「いま、うちのひとが病院にいった。あのひとじゃ頼りにならないから、一男さんにもいってほしいと思って」

「たいした事故じゃないんだろ」一男はナスのみそ汁をすすった。

「足の骨を折ったらしいの。脳のほうは検査してみないとわかんないけど、事故の状況からいってだいじょうぶじゃないかって」

「それなら、おれがしゃしゃりでることねえよ。あとで見舞いにいくってめぐみに言っておいてくれ」

「そんなこと言わないで」と主婦は引き下がらなかった。一男の目をじっと見る瞳がうるんでいる。

「なんだよ。足の骨折ったことなら前にもあっただろう」一男はようやく立ち上がって濡れ縁に座り、主婦にも座るように目で合図した。一男の父がカルピスの入ったコップをもってきて「骨の一本や二本、たいしたことねえ」と主婦の肩をとんと叩き卓袱台にもどった。主婦の表情は暗いままだった。

 めぐみは、隣りの家の一人娘で、今年二十二歳になる。めぐみの父親は市内にある小さな生鮮食品スーパーの会計係、母は専業主婦である。地場のスーパーとはいえ正社員なのだから相応の給料はもらっていそうなものだが、その家族はおんぼろで格別に安い長屋に住んでいても、家系は火の車なのよというのが母親の口癖だった。重い借金でも抱えているのかと一男は聞いてみたことがあるが、父親はそうじゃない、会社がケチだから、と酔っぱらってはしょっちゅう愚痴っている。

 長屋は三畳ほどの板の間の食堂と六畳間が二つ。あとは風呂と便所。こんな狭い家に暮らしていることもあって家族のコミュニケーションはしっかりとれていて、経済面ではかなり窮屈そうではあるけれど、心の通いあった幸せな家族だと一男は思っていた。

 それがひと月前から一変した。めぐみが親とほとんど口を利かなくなったのだ。二つある和室のうち一間はめぐみの部屋だが、大学から帰ってくるとすぐそこに引きこもり、ごはんも親と一緒に食べなくなった。母親が聞くと、外でちゃんと食べているからとそっけないらしい。襖をノックすると、「あけないで」の一点張り。もともと気弱な性格の夫婦だから、それ以上のことはできず、そのうち元気になるよと慰めあいながら、腫れ物に触るようにわが娘を遇していたら、あっという間にひと月がたってしまった。

 最近では部屋に閉じこもると、トイレと外出のとき以外には出てこないで、こもっているときは夜中にパソコンのキーボードをかちゃかちゃ打っている音がきこえるくらい。携帯電話でだれかと話したりCDラジカセで音楽を聴くようなこともない。

「そういえば、めぐみ、最近遊びに来てねえな」と一男は思い出した。

「反抗期ってやつじゃねえのかい」と一男の父が続いた。

「おとうさん、反抗期ってもっと若い時分のことよ」

「でもあいつ、ずっといい子だったじゃねえか。反抗期どころか、あんたらに逆らっているのも見たことがねえ。子どもらしくないところがあったよ」

「それはそうだったけど」

「だから、遅まきながらの反抗期だってば」

「とうちゃん、ちゃちゃ入れるな。めぐみには恋人がいたよな。ほら、背の高いがっしりした」

「うん。でもね…」

 めぐみの恋人にはもう連絡をとったという。彼もすっかり別人のようになってしまっためぐみにお手上げの状態で、むしろこちらからご両親に相談しようと思っていたところだと語ったらしい。

「大企業に就職も決まってるし、なにをむくれてんだ、めぐみのやつは」

 一男はけむりを吸っては吐きながら、いろいろと思いをめぐらせた。一本吸い終わって灰皿でもみ消すと、よしわかったと立ち上がり、ランニングシャツの上に作務衣をはおった。

「はたであれこれ言っても始まらねえ。おれがなんとかしてやるよ。病院、どこだい」

 主婦はやっと安心してぬるいカルピスを飲み干した。

 一男が病室に入ると、めぐみだけだった。

「おいおい、個室かい。豪勢だな」

 めぐみは一男がなぜ来たか察したようだった。「わたしが決めたわけじゃないわ」と言って口をつぐんだ。

「ほんとなんだな、おまえがふさぎこんでるってのは」と一男はハイライトを取りだし火をつけた。めぐみが非難の目を向けた。一男は病室だったことを思い出しあわてて靴で踏み消すと、吸い殻を拾い左手ににぎった。

「どうだい。痛いか」一男は石膏で固められ宙づりにされためぐみの右脚をとんとんたたいた。

 それには答えずにめぐみは、「かずにいちゃん、帰って。おかあさんに言われて来たんでしょ。わたし、何も話すことないから」と壁のほうを向いた。

「相変わらず察しがいいな。まあ、そんなとこだ。おまえ、どうしてふさぎこんでんだ。にいちゃんになら話せるだろ」一男はざっくばらんに話した。

「ふさぎこんでるって、かあさんが言ったの?」

 一男はうなずいた。「引きこもってるとも言ったなあ、たしか」

「余計なことを…」

「余計だと。親が子供を心配するのはあたりまえじゃねえか」

「……」

 一男はめぐみが何か話すのを待った。五分、十分。握っている吸い殻が汗で湿っていた。二十分。気の短い一男にはもう限界だった。

「ガキじゃねえんだ。いつまでもすねてねえで、はっきり言ってみろ」一男は壁側に回ってめぐみの顔をにらみつけた。

 めぐみは目に涙をためて「帰って」と静かに言って目を閉じた。一男は心配するより頭に血がのぼって、「親をないがしろにするようなやつは、ロクなもんじゃねえんだ。めぐみ、よく考えとけ」と言い捨てると病室から大股で出ていった。するとすぐに戻ってきて、「湊屋のうなぎ、出前たのんでやるから。病院の昼飯なんか、残しとけ」と小声で言い、また来ると手を振った。

 その夜、めぐみの家で一男は酒を飲んでいた。自分でさばいた鯵のたたきとイカの塩辛を手土産に、日本酒くらいはごちそうしろよとやってきて、三十分くらいたっている。なに憚ることのない口調で夫婦をしかりつけたり、なぐさめたり、問いただしたりしている。

「けがはじきになおるけど、心の病ってのか、あのふさぎこみはひどいな。あんたら、心当たりないのか」一男はハイライトをぷかぷか吸っている。灰皿にしている小皿がもう吸い殻でいっぱいだ。

「彼氏にも分からないってほんとかい」

「かれは平気で嘘をつけるような子じゃないもの」

「それが甘いっての。『うちの子がふさぎ込んで困ってます』って親から電話がきてだよ、『ええ。ぼくが振っちゃいましたから』って答えるばかがどこの世界にいる」

「そんな子じゃないって言ったでしょ。一男さん、言葉が過ぎる。酔っぱらっちゃったんでしょ」

「おれの地だよ、しかたねえだろう。おれが乗り込んでって聞いてやろうか」

「それはやめて。ぜったいだめ」

「あんたらやさし過ぎるから。おれが聞けば一発だよ」

「やめてください、それは」主婦は顔の前で手を合わせた。「わたしがもう一度、電話してみるから。こんどはもう少しねばって聞いてみるから」

「そうそう、その調子だ。じゃあ、そっちの線は奥さんに任せてと」と一男はぐびりと酒を喉に流しこんだ。

「それで、だ。めぐみ本人はおれがまた会ってみる。そのうち一発ほっぺ張るかもしれねえけど、毎日いってみるよ」

「そんな荒っぽい。それに毎日だなんて、逆効果じゃない」

「いいんだよ。おれに任せな。強く出るときゃ強く。そしてふっとやさしく。たしか硬軟両様ってやつだ。あんたらは、洗濯物を取りにいく以外はめぐみに会うな」

「どうしてですか」と主人がおずおずと聞いた。

「おれが強く押したぶん、そのはね返りがあんたらにいく。それに耐えられるかい。だんなさん」

「そりゃ耐えられますよ。相手は自分のむすめです。そんなに自信ないですけど」

「その不安がめぐみに見透かされるとまずいんだ。毅然っていうのかい、堂々としてるの? うん、そうか。毅然として押しまくって、ときどき退くんだよ。おまえの心配はぜんぶ受け入れてやるから話せ、安心して話せ、ってな」

「じゃあやってみてください。でも、ほっぺを張るっていうのはちょっと…」

「あれは言葉のはずみだって。よっぽどのことがなけりゃ張ったりしねえ」

 野球中継を一男の父も見ているらしい。巨人の清原がホームランをかっ飛ばすと、よっしゃよっしゃと声が聞こえてきた。一男もよっしゃあとあぐらをかいた太ももを両手でぱちんとたたいた。

「そういえば、夜中にパソコンの音が聞こえるって言ってたよな」

「というか、キーボードをたたく音。かなり打ち続けているみたいなの」

「何を打っているんだろな」

「メールでも書いているんじゃないかしら」

「ほう、イーメールってやつだな。あんたんちも、そんなことできんのか」

「いまどき、どこの家だってできるわよ。電話とパソコンがあればいいんだから。一男さんちだってできるのよ」

「ほんとかい。でも、おれは手紙がいいんだ。ポストに手紙を入れる瞬間が好きだからな。手間かけなきゃ人の心なんて伝わらねえって」一男は、もう三十年以上も前になるはたちのころの恋愛を思い出した。そして照れくさそうに頭をかいた。「パソコンのメールって読めるのかい」と主婦の方を見た。

「読めますよ、もちろん。これまでのものを捨ててなければだけど」

「じゃあ、読もうぜ。善は急げだ。さあ、パソコンつけてくれ」

「それはやめたほうが…」主人が口をはさんだ。

「なんでだい。ふさぎこんだ理由がわかるかもしれねえだろう。きっと、だれかに相談してるよ。それに、パソコンって日記もつけられるんだってな。めぐみが夜中にカチャカチャやっていたのが日記だったら、それを見れば、きっとあいつの悩みがわかる」

「一男さん」主人はめずらしく毅然と言った。「それはやっちゃいけないことです。日記や手紙をのぞき見るなんて。わたしは反対です」

「わたしもよ。そんなことしなくても、ほかに方法があるはずよ」

「どんな方法だよ。言ってみな。奥さんの信用している彼氏だってなんにも知らねえんだろう」一男はふたりを見据えた。そしてやさしく言った。「あんたらの気持はわかる。けどさ、いまそんなこと言ってる時じゃねえんだ。おれがやる。おれが勝手にやったっていうから、パソコンの中身みせてくれ。めぐみにはおれが頭を下げる」

「めぐみに怒られるからってわけじゃないんです。わたしの信条というか、うちの家族の、そのなんというか…」

「そんなの糞食らえだって。正直いって、自分がかわいいだけじゃねえのか、あんた。めぐみを助けるんだ。それ以外に考えるなよ」

 ふたりは考え込んでしまった。気弱だからというだけではない何か別の理由がありそうだと一男は思った。らちが明かねえから帰る、と一男は濡れ縁から外に出かけた。一男さんと後ろから主婦の声がかかったので、それきたと思うと、主婦の両手に鯵のたたきとイカの塩辛の皿がのっていた。

「さしいれたものをもって帰れるかい。おいしいから食ってみな。気に入ったらまた作ってやるから」と言うと下駄をつっかけて隣りの部屋に帰った。

 翌日は会社だった。一男は人事課長に面談室に呼び出されていた。

 中学を卒業してすぐ、十五歳のときから三十五年も勤めてきた会社に、早期退職に応募してくれと再三再四、呼び出されているのだ。この会社ではけっしてリストラという言葉を使わず、早期退職優遇という。この制度と定年による退職で、五年前二百五十人はいた社員が、いまでは二百人を割っている。

 一男より一回りも若い大卒の人事課長は、相手が一男だけに、相当緊張している。あのひとだけはイエスと言わないだろうと社内で評判だし、あのべらんめえで反論されたらどうしようと恐怖感さえ抱いていた。

 会社は危急存亡の秋。とても全員を雇ってはいけない。高齢、つまり五十歳以上の社員にはみんなやめてもらうことになった。退職金は規定の五割増し。会社存続のためになんとか受け入れてもらいたい。人事課長は、目をしっかり見つめて話せと上司に言われたに違いない。目を丸くして一男を凝視しながら、懇願した。

「後進のために、会社をやめろだ」と一男はものすごい剣幕で人事課長の胸ぐらをつかんだ。香水の匂いが鼻についた。「おまえ、くせえな」と一男は課長を押し飛ばした。「こんな話をするときに、そんなものつけてるような了見だから、人の心がわからねえんだよ」

「す、すいません。でも、なんとか。あなただけじゃないんです」と、ずっと一男からそらさなかった目が見開いている。

「後進のためにっていうけどな、後進は大学出てんだし若いんだから、転職がきくだろう」と一男は声を荒らげた。「おれは中卒の年寄りだ。どこの誰が拾ってくれんだよ」

「しかし、このままだと会社がもちません。若い社員は人件費が安いんです。彼らに死に物狂いで働いてもらうしか…」

「泣き落とそうたって駄目だからな。おれにだって生活がある。とうちゃんだっているんだ」

「なんとか、ご応募を。この紙に署名してください」

「応募だと。応募ってのは欲しいものがあるときにするもんだ」と一男は怒鳴った。「話はそれだけか。じゃあ、仕事に戻るぜ。時間の無駄だったな」

「話はまだ…」と言ったものの人事課長は追ってこなかった。一男は情けねえやつ、と吐きすてると、左の手のひらを右拳で打った。そのとき思い出した。あっ、コンピュータ。一男は面談室に戻った。

 椅子から立ち上がっていた人事課長が後ずさりした。一男は、さっきの話じゃない。聞きたいことがあるからかけてくれと言って自分も椅子に腰をおろした。

「課長さん、あんたコンピュータの達人だって評判だけど、ほんとかい」一男はほほえみかけた。

 人事課長はさっきとは打って変わった態度の一男に驚いて、言葉が出なかった。

「そりゃそうだな。あんな態度とっておきながら、こんどは妙にやさしい。そう思ってんだろう。その通りだ。おれも虫のいい話だと思うよ。でも、公私は別だ」一男はそう言うと課長に深々と頭を下げた。「頼み事がある。ただ、リストラの話との取引じゃない。あれはあれ、別問題だ。ただ、話は聞く。そちらが筋を通してくれるなら、話だけは聞く。二度とあんな態度はとらない。だから、頼みを聞いてくれ」

 人事課長が王子に住んでいるのは好都合だった。鳩ヶ谷までは地下鉄で十分くらいしかかからない。課長は、冷静に交渉のテーブルにつくと言ってくれた一男の願いを聞き入れることにした。めぐみの事件の詳細を聞いているうちに一男の人情家ぶりがしだいに分かってきて、ただ怖い男だと思っていた一男に対する見方も変わったのである。わがまま勝手なんじゃない。曲がったことが嫌いで気が短いだけなんだ。会社のリストラの進め方を振り返って考えてみると、たしかに一男の言うように筋が通っていないこともたくさんある、とさえ思いはじめていた。

 このパソコンだと一男は指差した。めぐみの両親は結局、メールや日記に秘密がかくされているかもしれず、それを知ることでめぐみが以前のめぐみに戻ってくれるなら、と一男に下駄を預けることにしたのである。一男は即座にパソコンを自分の家に移動した。電源プラグは他の家電製品と変わらないからすぐにわかった。そこから先が問題だった。モニターと本体のスイッチをオンにし、ぐいーんと音を立てて動き出したコンピュータを見つめた。すると、パスワードを入力しろという画面が出てきた。お手上げだった。何も分からない一男はキーボードをでたらめに叩いてみたが同じ画面がなんども出てくるばかりで進展がなかった。会社の誰かに頼もう。そして御鉢が回ったのが人事課長だった。

「で、わたしは何を…」課長はパソコンの前に座った。

「まずスイッチをつけてみてくれ」

「スイッチをつける? ああ、電源を入れるんですね」

「いちいち言い直すな。ばかにしてんのか」

「そういうわけじゃ… じゃあ、スイッチをつけます」

 パソコンは起動し、パスワード入力画面になった。

「ユーザー名は『megumi』さんになっています。山田さん、パスワードは」

「それが分からねえから、あんたを呼んだんだよ」

「そ、それじゃあ、だめです」課長は思わず口にした。

 コンピュータの達人と社内で噂され、かなりオタク的に深入りしているのは事実だが、この問題は別だ。これはコンピュータの問題というより、暗号解読の問題なのだ。ユーザー名は「megumi」をそのまま利用すればいい。だが、その下のパスワード入力欄はパソコンを起動するたびに入力しなければならず、そのパスワードを知っているのはめぐみただひとりだ。

「どうしてだめなんだい? あんたは達人なんだろう。パスワードなんかなくたって、パソコンを分解したらなんとかなるんじゃないのか」

「分解したってわかりません」と課長は苦笑した。「それに達人といったって会社の連中と比べてのことで、パスワードを破るなんていうハッカーみたいなことができるわけじゃないですから」

「じゃあ、なんでここまで来たんだ」一男の顔がみるみる赤くなっていく。

「パスワードが分からなくてパソコンが使えないって聞いていたら、最初から無理ですって言っていたはずです。山田さんがわたしに頼んだのはもっと簡単なことかと…」

「おまえ、それくらいの腕前のくせに、達人ってちやほやされて有頂天になってんのか」一男は課長をどやしつけた。「そんなやつが、人事課長をやって、おれたちのリストラ考えてんのか。じょうだんじゃねえ」

「すいません。でも、できないものはできません。それに会社のリストラとこれは別問題だっていったのは、山田さんじゃ…」

「言い訳するな。てめえ、ちんちん付いてんのか」

 一男はついと立っていって縁側に座った。人事課長は怒鳴り散らされて萎縮していたが、肩を落とし、首を垂れている一男を見ると、無性になんとかしてやりたいと思った。

「パスワード、さがしましょう。山田さん」

「さがすって。どうやって」一男は振り返った。「めぐみには聞けねえぞ」

「わかってます。だからさがすんです。隣りの家にいって、めぐみさんの部屋のノートやカレンダー、本の間の紙きれなんかをさがしましょう。免許証や学生証、手帳、それに預金通帳みたいなものも」

「そんな金めのものもか」

「そんなこと言ってる場合じゃないんでしょ。さあ、いきましょう」

 課長を連れて隣りを訪ねた一男は、「おれより強引だ。こいつは犯罪者に近い」と言って課長を紹介した。めぐみの母親は「手紙や日記をみせるより、そっちのほうがずっと気が楽よ」と笑った。

「笑いたいのはこっちだよ。パスワードが見つかれば、日記やメールが読めるじゃねえか」

 課長はまず、このパソコンが彼女にとって初めてのパソコンであることを確かめた。初心のユーザーはそんなに難しいパスワードを設定しない。間違いなく入力する自信がないからだ。まず多くて六桁と仮定した。すると、パソコンの梱包箱の中に入っているマニュアル類のなかに数字や記号が書き込んであったら紙に書きうつす作業をしていた一男が、六桁の数字を発見したのである。課長は早速、一男の家に戻りパソコンに入力してみた。失敗。こんどはその数字を後ろから入力した。また失敗。課長は次に、数字のあとにめぐみのイニシャル「mk」を入れた。

「とおった。とおりましたよ」

 課長は、隣りの家に聞こえるように大声をだした。

 いとも簡単にパスワードは破られた。

「わたしが来るまでもなかったですね」課長は拍子抜けした。

「そうかもな。おれが数字を見つけたんだし。あんたはイニシャルを付け加えただけだ」一男は腕白坊主のように誇らしげだ。

「でもね…」とめぐみの母親は笑いを押しころして言った。「一男さんだけだったら、ほんとにパソコンを分解してたかも」

「してたかもだと…」一男はどすをきかせた。

「してたかもじゃねえんだよ。もうすぐ分解するところだった」と後ろのポケットからドライバーを取りだし、ふたりに見せた。三人は顔を見あわせて笑った。そのとき、めぐみの父親が帰ってきた。

 その夜はめぐみの両親、一男とその父、近くに住む妹と姪、人事課長とで、七輪バーベキューをした。イカ、タコ、キス、エボダイそれぞれの開きとトウモロコシ、ナス、そして一男特製の塩ダレにつけた名古屋コーチン。戸外のバーベキューは林間学校以来だと課長は大喜びだった。めぐみの親も心のもやもやを吹き飛ばすように陽気に振る舞った。弟分の焼鳥屋が約束もないのにやってきて「鳥も焼いてんですか。うちの店よりうまそうだ」と鼻を網に近づけた。一男はそんななかで次々と食材を焼きながらやっぱり一番饒舌だった。「人生ってのは、筋を通すってこと。それに尽きるんだ」とか「深刻ぶったってしょうがねえ。なるようにしかならねえんだから、体ごとぶち当たっていけばいいんだよ」とか、一男流人生訓のオンパレードだった。興がさらに乗ってくると、「包丁一本、さらしに巻いて…」と歌いはじめてそこから先は、北島三郎や石原裕次郎、東京ロマンチカなどなど、まるでワンマンショーのように歌いまくった。長屋のはじっこの家の小学生の子どもふたりがおいしそうな匂いとけむりにつられて出てきて「おじちゃん、イカ焼いて」と言うと「あいよ。イカいっちょう」とこたえたりして機嫌のよいことこの上なかった。人事課長は、受信したり送信したりしたメールの読み方と、意外にも堂々とデスクトップに置かれていた日記ファイルの読み方を一男に丁寧に教えて王子に帰っていった。十一時をすこしまわって、花王石鹸の月が輝いていた。

 一男はその深夜、メールと日記を丹念に読んだ。騒ぎに騒いだけれどあれは隣りの夫婦を元気づけるためで、自分はほとんど酔っていなかった。その場が楽しければ楽しいほど、めぐみがかわいそうになってきて、ほんとうはすぐにでも作業にとりかかりたかったのだ。テレビニュースは熱帯夜になるといっていたが、長屋は涼しかった。林や畑から風がわたってくる。

 それにしてもなあ…一男は首をかしげた。なぜ、最近一か月の間、日記が中断しているのか。メールも出していないし、もらってもいない。それとも、出したメールももらったメールもすぐに削除したのだろうか。それに、日記に書き込みがないのはどういうわけだろう。両親の話では夜中にかちゃかちゃキーを叩いていたというのだから、何か今回のふさぎこみに関係する大事なヒントが見つけられるはずだったのだが。一男は日記をもう一度じっくり読み直した。結果は同じだった。ヒントはない。ないのではなく見逃しているのか。

 翌日一男は、徹夜に近い作業が無駄に終わったことを人事課長に報告した。課長は「山田さん、例の件、来週の火曜日です。来てくださいよ。約束ですから」と勝ち誇ったように言ってから、「夜中にキーボードを打つ音がしていたんですね」と後頭部に両手を組んで天井を見上げた。

「チャットか掲示板の書き込みでしょうかね」

「チャット? 掲示板?」一男は課長の言葉をオウム返しした。

「山田さん、どちらも分かりませんよね。その前提でお話しします」

 チャットはインターネットを通じた「おしゃべり」だ。電話で話すようにおしゃべりできる。ただ電話と違うのは、おしゃべりに音声を使わず、文字を使うこと。たとえばキーボードで画面に「こんにちは」と入力すると「元気だった?」と相手から文字の返事が来る。相手が一人とは限らない。二人でも三人でももっと多くてもよい。めぐみはそういうおしゃべりルームで、何か相談をしていたのではないか、というわけだ。

 掲示板は、学校や公民館などの掲示板を想像すると、ちょっとわかりにくい。むしろ、書き込み板といったほうがいい。これもインターネットにつなぐのが前提。たとえば、「老人介護を考える会」という集まりがあるとする。そこの掲示板には、「あなたの住む自治体の老人介護の問題を紹介してください」とメッセージがあり、それに対して会員がいろんな意見を投稿していく。そのいちいちの意見にも反対や賛成の意見を言うことができ、もとの意見もそれに対する反応の意見もひっくるめたすべての意見が掲示されている。インターネットという広く開かれた世界で、ある問題を議論したり、情報を交換したりということができるわけだ。

「まず掲示板を攻めるべきですね。どんな掲示板を利用していたかは、調べる方法があります」人事課長は方法を一男に伝授した。そして、どうせすぐ忘れるでしょうから、と手順を紙に走り書きしてくれた。

 めぐみは、脳検査の結果も問題なく、きょうかあすには退院の運びとなった。一男は急いで病院に向かった。退院して家に帰ってくると部屋にこもってまた面倒なことになる。病室なら、たとえ相手はしてくれないにせよ、会うことに支障はない。油照りのなか旧街道の坂道を自転車でのぼった。うなぎの湊屋の前を通るとき、さしいれを思いついたが、割いて蒸して焼いてで小一時間はかかるので、やっぱりそれどころじゃねえな、とそのまま行き過ぎた。病院は坂をのぼりきってからすぐだった。

「もう退院だってな。ここが無事でよかったよ」とめぐみの頭をこづいた。

「……」

「いいよ、なにもしゃべんな」

 一男は窓を開け、ハイライトに火をつけた。めぐみはなにも言わなかった。

「やかましいな」

 蝉の鳴き声が暑気と一緒に病室に入ってきた。

「覚えてるか」と、一男は木立を見た。「おれが引っ越してきたばかりのころだ。おまえ、まだちっちゃかったな」

 めぐみは小学校に上がったばかりだった。いまの畑のまわりにはそのころほとんど家もなく、小さな林があった。夏になるとその林から蝉の声が朝から晩まで途絶えることがなかった。一男とめぐみはある夕方、蝉とりに出かけて、思いがけないものを見つけた。

 蝉の幼虫がケヤキの幹をよじのぼっていた。めぐみの目の高さくらいのところだ。鎌のような前足を交互に樹皮に引っかけて、意外にはやい速度で上にのぼってゆく。一男にとっても蝉の幼虫を見るのは初めてだった。ふたりは息をのみ瞬きも忘れて幼虫に見入った。一男の目線のあたりまで来たときだ。強い風が吹き、幼虫が吹き飛ばされて地面に堕ちた。

「おにいちゃん、どうしよう」

「だまって見てろ」

 蝉の幼虫は自分が出てきたらしい穴のほうへ一度歩き出したが、ケヤキの根本へ向きを変えた。

「どうしてわかるのかな」

「そんなこと、おれに分かるわけねえだろう」

 幼虫はまた樹幹に前足をかけた。

「こんどはだいじょうぶ?」

「うん。応援してやれ」

「風に負けるな。がんばれ、がんばれ。蝉さんの幼虫」

 樹上の暗がりまでのぼり幼虫は見えなくなった。

「きょうの夜、蝉になる。蝉になったら、たった一週間しか生きられねえってのに…」

「にいちゃん、どうして泣いてるの」

「わけなんかねえ。いいか、めぐみ。あれが、一生懸命ってことだ」

「いっしょうけんめい? どういうこと」

「いいんだ。そのうちわかる。一生懸命って言葉だけ覚えとけ。大事なことだ」

 めぐみは問わず語りの昔話を黙って聞いていた。壁を向かずに窓の外に視線を遊ばせている。

「あちっ」一男のたばこが根本まで灰になっていた。「おい、皿かなんかねえのか」

 めぐみは、目線で果物がのっていた皿を示し「禁煙だよ、ここは。もう吸わないで」と言った。

 雲間から陽が降りそそいで、木立全体が輝いた。蝉の鳴き声が勢いをました。

「親の敵をとるみてえに鳴いてやがんな。やかましいから帰るよ。じゃあな」と一男は言うと、ズボンのポケットから紙を一枚取り出してベッドサイドのテーブルに置いた。「悪いと思ったけど調べといた。首くくったりされたらおまえのとうちゃん、かあちゃんかわいそうなんでな」

 一男が病室を出ていくと、めぐみは四つ折りにされていた紙片を開いた。

 退院の翌日、めぐみは松葉杖をついて一男の家の縁側にやってきて、腰かけた。

「かずにいちゃん。ちょっといい?」

 一男の父親はゲートボールにいって留守だった。中に入るかと一男が言うと、めぐみは首を振った。めぐみの親も留守だという。一男はめぐみに並んで縁側に座った。

「怒ってるか」一男は聞いた。

「ううん。しょうがないよ」めぐみは畑のほうを見ていた。

「痛いだろう」

「こうして座っていればだいじょうぶ」

「ひゃっこいのなんか飲むかい」

「いらない」

「そうか。おれはビール飲むよ。きーんと冷えたやつ」

「じゃあ、わたしもお相伴」

 一男は缶ビールを二本持ってきた。

「いいの?」めぐみはほほえんだ。

「ああ。それは発泡酒だからな」

「へんな理屈」

「筋を通してばかりじゃ窮屈なんだよ」

 一男は喉を鳴らしてビールを飲んだ。

「にいちゃん、よく調べたね」めぐみは一男がベッドサイドに置いていった紙片を取り出した。

「たいしたことねえよ。それくらい」

「うそぉ。にいちゃんができるわけないよ、こんなこと」

「おれだってやるときゃやるんだよ」

 一男は人事課長の教えにしたがって、インターネット・ホームページの閲覧ソフトを起動した。そして「お気に入り」という欄に並んでいるリストを使って、それぞれのホームページにアクセスした。そのうち、採用トラブル掲示板というのが表れた。過去の書き込みというところを丹念に読んでいくと、「メグ」という人物の書き込みが見つかったのだ。紙片はメグの発言をピックアップして印刷したものだった。

 メグは、家電系大企業の内定を一方的に取り消されたという。会社への憤りをストレートに表現したり、今後の対処の仕方を質問したりしていた。ただ、メグならどこにでもいる。それに本名かどうかもわからない。

「わたし、メグとしか書いてなかったはずよ。どうして、わたしとメグが同一人物だって確定できたの」

「確証ってのか、そういうの。そんなもん、なかったよ。ただ、でかい電機屋に内定したっての聞いてたし、それに…」

 ほら蝉が鳴いているだろう、と一男は畑の向こうにあるケヤキの大木を指差した。

「いま鳴いてんのは一匹か二匹だけど、もっとたくさん鳴いたらどうなる」

「やかましいわよ」

「そうだな。やかましい」

「あっ、もしかしてそれ?」

「メグっていうのなら、まず女だ。女が蝉の鳴き声を『やかましい』なんて言わねえよ。あの書き込みの中に『夜中なのに蝉がやかましい』ってあるのを見つけて、こりゃめぐみだ、ってぴんときたんだ。おまえ、おれの口癖が移ってたんだな」

「そうだったのか…」めぐみは左の手のひらを右の拳でぽんとたたいた。

「それも、おれのまねだ」と一男は大笑いして、ビールを一気に飲み干した。

「でもよ…」と一男は真面目な顔つきになった。「採用が取りやめになったのは、つらいよな。だけど、おまえ。ひと月もふさぎこんで、とうちゃんやかあちゃんを心配させるほどのことかい」

 めぐみは黙って聞いていた。

「おれだったら、そりゃ、おれはデリカシーってやつねえけど、おれだったらあんなことはしねえな。取り消されちゃったよ、とうちゃん、って隠しごとなんかしねえ。まあ、一日や二日、やけ酒くらいあおるだろうけどな。それにだ、そこに振られたんなら、またさがしゃいいじゃねえか。あんな大企業は無理かもしれねえけど、高望みしなけりゃ、いくらだって勤め先はあるだろうに。おまえは、学があるんだし、美人ってほどじゃねえけどまあかわいいしな。それに親元から通えるってのは強みなんだろう」

 一男はビールをもう一本持ってきた。おまえも飲むかと言うと、めぐみはもうたくさんと断った。

「かずにいちゃんは、知ってるの」めぐみは蝉が鳴いているケヤキのほうを見ながら言った。

「何をだよ」と一男はめぐみを見た。

「わたしがもらわれっ子だってこと」

 知らなかった。一男がこの長屋に引っ越してきたときには、隣りの家族はすでに三人で暮らしていたのだ。

「もらわれっ子なのよ、わたし」

「いくつの時だい。親はもうここに住んでいたのか」

「三つのときだって。わたしをもらってから、ここに引っ越してきたらしい」

「そりゃそうだ。もらいっ子だって近所に知られたくなかったらそうするだろうな」

「わたし、どこからもらわれてきたと思う」めぐみはいつのまにか泣いている。「小樽なの。北海道の」

「おれ、いったことあるぜ。ホタテうまかったな。うまい寿司屋もいっぱいある」

「またお魚の話」とめぐみはくすっと笑った。「そこの水産関係の会社のサラリーマン夫婦がわたしの実の両親だったの」

 そこへめぐみの両親が帰ってきた。めぐみは一男に、内定取り消しの件は伝えたのと小声で聞き、一男がまだだと答えると、じゃあまたあとでと自分の家に帰った。

 めぐみの実の親は、いまの父の兄夫婦だった。めぐみが一歳の時、交通事故で他界した。その後一年は祖母の手で育てられたが、その祖母も高齢のため亡くなり、養親、つまりいまの両親に引き取られた。めぐみは、実の両親の記憶は残っていない。実の親ではないことを養親が伝えたのは、めぐみが大学に入学したときのことで、めぐみはそれ以来、ひとつの決意をもって生きてきたという。

 小樽にお墓参りにいく。就職して独り立ちしたら、今の親を連れて、実の親に伝えにいくのだ。

 知ってるでしょうけど、これがわたしのおとうさんとおかあさんよ。あなたたちから生まれて、この人たちの子どもになったの…

 めぐみは、三月になって卒業式を済ませたら小樽にいこうと両親に約束したのだった。

 だが、採用内定を出した大手家電メーカーはどう調べたのか、「養子」でありながら、履歴書にそのことが書かれていなかったのは遺憾であるということをほのめかす電話とともに内定取り消しの文書を送付してきた。めぐみは当然、承服できなかった。そんなこと、採用と全然関係ないじゃない。抗議の電話を人事部にもしたし、メールも出した。だが、内定取り消しはあなただけではない。業績不振のためやむをえず採用見送りになったのです。「養子」どうのこうのなど、あなたの聞き間違えでしょう。と白を切られた。会社側は訴訟にでもなった時に備えて、万全を期してめぐみのあらをさがしたのだ。

 めぐみは、友だちから内定取消問題に関する専門の掲示板があることを聞き、苦情や相談を書き込んだり、他人の書き込みを呼んで情報収集したりしていたのだという。

 内定が取り消されたことを話せば理由を聞かれる。養子であることを隠したのが口実にされたなどと、二十年も大切に育ててくれた親にどうして言えるものか。理由を話さずに結果だけを話すことも考えた。が、それでは、気弱にみえていざ心を決めると突拍子もないことに突き進んでしまうこともある父親が何をしでかすかわからない。めぐみは迷った。迷いぬいた。そして、あす伝えよう。できなかった。じゃあ、あしたこそは。あしたこそは…と、日を重ねるうち、あしたも言えないだろうな、きっとその次の日も、またその次も…と、しだいにあきらめの気持に変わっていった。食が細った。友だちの明るい声や彼氏の心配性の声を聞くのがいやで電話もしなかった。後頭部に円形の脱毛が見つかった。なに、わたしって? どうしてこんななのよ。自分をさげすみ攻撃するようになった。他人が見えなかった。いつのまにかできていた硬い自分の殻から、抜け出ることはもうできないかもしれないと焦った。どうしたらいいの、とうさん、かあさん。めぐみは記憶にない産みの親を呼んでいた。

 そんなとき、ぼうっとして自転車に乗っていて車にひかれ、救急車で坂の上の病院に運ばれた。

 その夜一男は隣りの家で、めぐみから聞いたことを洗いざらい両親に話して聞かせた。

「正直言って、めぐみはばかだったよな。考え過ぎ。おれに言わせんば、考え過ぎってのはばかなんだ。だけど、だけどな…」一男は感極まった。「おまえ、いいこだよ」

「なによ、泣いたりして。にいちゃんこそばかよ」めぐみも泣いた。

「たいしたことねえんだ、職のことなんて。命とられるってわけじゃねえんだから。本気でさがしゃ、またすぐに見つかる。大企業は無理かもしれねえけどな。でも、わかったろ。大企業なんて氷のように冷てえんだ。人の首なんてかんたんに切る。入社しなくてよかったと思え」

「養子だから取り消されちゃったって、はっきり言ってくれればよかったのよ。わたしたちに何も相談してくれなかったことがつらかった」

「実の親じゃないってこと、とうさんもかあさんも、いままで一度だって引け目に思ったことなんてなかった」

 めぐみがごめんなさいとしゃくりあげた。一男はうんうんとうなずいている。泣いていないものはなかった。縁側に座って話を聞いていた一男の父親がずるっと鼻水をすすった。

「おいおい。とうちゃん、きたねえな」

「すまねえ」と言うと、またずるっと音をたてた。

「あんたらさ、どっちにしても小樽にいけよ。三月なんていわねえで、今度の週末にでも」

 めぐみがほほえむと、両親がうなずいた。

「でさ、ぜったいホタテの貝殻焼き食べてこいよ。正油、かけすぎんなよ。風味づけだ。ちょっとでいいんだ」

 一男は、結局は結ばれなかった恋人といった小樽の風景を思い出し、この家族がその地に立った姿を想像した。こういう家族があってもいい。あけすけじゃなく、なんていうか、そう、あれだ、偲びあうって感じの愛情だ。なかなかいいもんだな。それにひきかえ、おれときたら… 一男は、こんな気持ち久しぶりだな、と感傷にふけった。

 朝日が畑に差し込んできた。野菜のみどりにとまった水滴がきらきら輝く。コケコッコー クウシュウケイホウ―。そして、あいつらがギーギー、ミーンミーンと鳴いている。

 月曜日、一男はいつもより早く起き、水風呂に入って身を清めた。朝食は縁起をかついでカツ丼だ。ワイシャツに皺一つ残さずアイロンをかけ、黒い背広とズボンには毛玉やゴミを一掃すべくブラシを念入りにかけた。ネクタイをきつく締め、短い髪の毛をポマードでオールバックにした。最後にエナメルの靴をぴかぴかに磨き上げ玄関に立つと、朝からカツ丼なんてじょうだんじゃねえ、と不平を言いながら飯を食べている父親に言った。

「とうちゃん、おれ、会社やめることにした。もう決めちまったから止めないでくれ」

「そうかい、好きにしろ。会社やめたって、命とられるわけじゃねえ」

「そのかわりな…」と一男は一呼吸おいて啖呵を切った。「安月給で済む若い女を、おれの代わりに会社に入れる。取引してくる。絶対に負けねえ」

 一男は敵がすぐそこにでもいるように勢い込んでドアを開け外に出た。朝陽が目を射た。くらっとして立ちすくむ。

「かずにいちゃん」松葉杖をついためぐみが鉢植えに水をやっていた。

「そんな格好でつらくねえのか」

「だいじょうぶよ。これくらい」

「にいちゃん、これから戦争だ」

「じゃあ、出陣だね。一生懸命やってきて」

「いつだって一生懸命だよ、おれは」一男は手をあげてこたえた。「きょうも暑くなるぜ」

 めぐみは、朝露に濡れた露地を歩いていく一男の後姿を見送った。このケヤキや木蓮の並木で縁どられた曲がりくねった土の道をゆるやかにのぼっていけば、駅に通ずる幹線道がある。地下鉄開通で新たに舗装された道だ。日に日に古いものが新しいものにとって代わられる。鳩ヶ谷は変わっていく。

 変わりたきゃ変われ。だけど、おれはおれだ。筋を通してこそ、おれの人生だ。嫁さんもいねえ。貯えだってたかがしれてる。でも、いいじゃねえか。見てみろ、おれの心の中。嘘偽りの曇りなんか一点もねえ。人間、これ以上なにを望みますかってんだ。まずはめぐみだ。めぐみを助ける。負けねえぞ…

 と、そのとき一男が思っていたか、いなかったか。それは読者の皆さんの判断にまかせよう。

鳩ヶ谷の寅さん