地図礼賛 「北方地図」


(図をクリックすると大きくなる.)



間宮海峡発見に至る,北方地図の歴史を見る.地図は全て北を上にしている.

江戸時代の日露関係については,別項の 「江戸期の日露交流」 も参照されたい.

北海道は蝦夷と呼ばれていた.

1624-28(寛永元-5)頃  松前藩,厚岸に「場所」(出先の基地)を開く.
1635(寛永12)  松前藩の佐藤嘉茂左衛門と蠣崎蔵人が樺太探検.南端のシラヌシ(白主)に近い
    ウッシャムに渡る.
1636(寛永13)  松前藩の甲道庄左衛門はウッシャムで越冬.翌春東岸を北緯 49度40分の
     タライカ湖畔まで踏査.
1639(寛永16)  幕府,鎖国令を発する.
1639  モスタヴィチン,オホーツクに到達.[CCCP]
1643年3月-12月  フリース(蘭),択捉島-ウルップ島間の択捉水道(後にフリース海峡と名づけ
     られた)を通り,択捉島をステートランド,ウルップ島をコンパニーズランドと名づける.
     樺太アニワ湾を経て,タライカ湾に至り,北緯48度54分まで達した.中知床岬をアニワ岬,
     北知床岬を忍耐岬,海豹島をロッペンアイランドと命名した.宗谷海峡は濃霧のため確認
     できず,樺太と蝦夷を一島とし国後島も蝦夷につながっているとした.帰路厚岸に立ち寄る.
     [秋月:p. 50f]


図1.Maarter Gerritsz (de) Vries
の日本・蝦夷新図
1650年
[秋月:口絵]
蝦夷と樺太は接続している.国後は蝦夷と一体で,
択捉島(ステートランド),択捉水道(フリース海峡),
右方に大きなウルップ島(コンパニーズランド)が見える.

1644(正保元)  「正保国絵図」
     幕府は,慶長(1604-),正保(1644-),元禄(1697-),天保(1835-)と,都合4回
     (寛永年間(1633-)の巡見使による収集も数えれば5回)の国絵図の収集と日本図
     の編纂を行なっている.


図2a. 正保国絵図
1644
国立歴史民族博物館
秋岡コレクション
蝦夷(今の北海道)が描かれている一番古い図.

図2b. 正保国絵図(部分)
蝦夷が小さい.一番北の小さな島は樺太.
千島の存在が初めて表示された.36島描かれている.[洞]
交易相手のアイヌの伝聞によるものであろう.


1689年  ネルチンスク平和条約.清国とロシアの長い紛争を解決するため,最終的に結ばれ,
     アルグン河・外興安嶺を国境とし,黒竜江(アムール河)流域は清国領となった.
     この頃は清の方が勢いがあり,北樺太は清に朝貢していた.
1697〜99  アトラソフ(シベリア大陸の東端ベーリング海のアナジリ湾頭のアナジリ城塞の司令官)
     によってカムチャツカは征服される.ただしアトラソフ自身はカムチャツカ半島の南端を
     極めなかった.1700年1月の報告で,クリルの名称が使われている.


この頃,浮世絵師 石川流宣 (c1661-1721) が作った美しい地図が登場する.形は必ずしも正しくないが,いろいろな情報が満載されているので大変人気があった.

図3. 日本海山潮陸圖
石川流宣
1691(元禄4)年
蘆田文庫



図4a. 元禄日本総図.
1702(元禄15)年写
縦 222 cm.
蘆田文庫

図4b. 元禄国絵図.
1700(元禄13)年
北海道大学図書館
蝦夷の図.21ヶ所の樺太地名がある.
元禄図は,将軍綱吉によって元禄10年に諸国に命じられ,同15年12月に『日本御絵図』として完成した.
原図は失われ,写図も久能文庫(静岡県立中央図書館)の『皇国沿海里程全図』と本図が伝わるのみである.
蝦夷が小さく描いてあるのに注意.


図5. Imperium Japonicum.
Adrien Reland Reiner (1676-1718)(オランダ)
1715(正徳 5)年
通称,レランド地図.流宣地図の引き写し.地名に漢字名が入っている.
右下に長崎港の図が入っている.徳川将軍家の葵の御紋も書き込まれている.


1711-1713  イヴァン・コズィレフスキーの千島探検.
     1710年カムチャツカに漂着したサニマ(三右衛門?)を案内兼通訳として用い た.
     第1島シュムシュ(占守島)から第8島シャシコタンを踏査.[洞][CCCP]
     ロシア人として初めて千島列島に進出.クリールスキー諸島と命名.
     コズィレフスキー著『海島図』(1713)(択捉島・国後島に関する初めての 記録[木村])
1726  コズィレフスキー,択捉島民シタナイの話に基づき報告提出.彼の報告に基づ き,
     ショスタコフはカムチャツカ・海島の地図を作成した(原図は失われたが,写しが現存
     している).[洞][秋月:p. 78]
     国後島で,蝦夷・択捉島の交易が行われていること,択捉・ウルップ島民 はどこの支配も
     受けていない事,クナシリに松前の支配が及んでいるか不明との記述がある.[CCCP]
     ショスタコフの地図には千島全島に名前が付いている.[洞]
1728  ベーリング
     カムチャツカを探検,アラスカに到着.ベーリング海峡の発見.

この頃ヨーロッパでケンペル作成の詳しい日本地図が発表され,評判になった.

図6. Imperium Japonicum
Engelbert Kämpfer (1651-1716)
1727年
レランド地図の焼き直し.
ケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651.9-1716.11)はドイツの博物学者で医者.1690年(元禄3)から1692年(元禄5)
にかけてオランダ館医として長崎出島に滞在,その間2度将軍徳川綱吉に謁見している.帰国後『日本志』 (一部を
訳したもの:志築忠雄訳『鎖国論』(1716(享保元) 年)を書くが,出版する前に死去してしまう.遺産は競売に付され,
イギリス人ハンス・スローンが買い取り,ケンペルの原稿を 1727 年に出版した.

1738-42  マルチン・シュバンベルク(第2次ベーリングの北方探検隊員)と
     ウィリアム・ワリトン(イギリス系),千島・日本へ航海.
     シュパンベルク隊のシェルチング,樺太東岸を探検し測量. [秋月:p. 105f][CCCP]
1745  サンクト・ペテルブルクの帝国科学アカデミー編纂『ロシア地図帳』出版.

図7. 「ロシア全図」
ロシア科学アカデミー編
1745年
ベーリング,シュパンベルグらの航海上の
発見を集大成し,はじめてオホーツク地域
がほぼ正確に認識されている.ただし,樺太
南部・蝦夷が欠落している.

1750年代  ロシアの毛皮税徴収は第15島シムシル島まで達した.[洞]
1754(宝暦4)  三代飛騨屋久兵衛倍安,北海道東岸アッケシに置いた運上所を国後島に進めた.[洞]
1771(明和8)  ポーランド人流刑囚べニョフスキー(ハンペンゴロウの名で知られる),カムチャツカを脱走し
     日本土佐・阿波・奄美大島に寄航.ロシアの南下を警告.      

18世紀後半を代表する日本地図は,水戸の長久保赤水による「新刻日本輿地路程全図」である.初めて経緯度が入り,
正確さを旨とする地図で,大変な人気を博し,1775年以後何度も改訂発行されている.しかし蝦夷は描かれていない.

図8. 「新刻日本輿地路程全図」
長久保赤水
1775(安永4)年

1779  エカチェリーナII世のイルクーツク総督への訓令.
     「征服した土地の保護を与え,不法行為を監督することは困難であるから,服属した
     毛深いクリール人たちは自由のままに放置し,彼らにいかなる貢税をも要求しては
     ならない」[木村:p. 31]
1783(天明3)  工藤平助『赤蝦夷風説考』
     林子平『三国通覧図説』
     林子平『蝦夷図全図』
1785-86(天明5-6)  田沼意次の命を受け,佐藤玄六郎・青山俊蔵他が蝦夷探検.
     これらは「蝦夷輿地之全図」として結実した.[秋月:p. 149f]
     この頃は樺太にロシア人は来ていない.

ただし,この天明の探検は,田沼意次を追い落とし,老中になった松平定信(「寛政の改革」で知られる)によって,記録から
抹殺されてしまう.詳しいことが分かってきたのは,最近のことである.詳しくは,照井壮助『天明蝦夷探検始末記』(八重岳
書房,1974年9月)を参照されたい.

1787  ラペルーズ(Jean François Laperouse, 1741-1788),西洋人として初めて日本海
     (Mer du Japonと命名)に入り,タタール海峡を探査,北緯52度5分に達する.帰りに
     宗谷海峡(後ラペルーズ海峡と命名される)を通過,カムチャツカに至る. 樺太と
     大陸は地続きであるとした.
1787-91(天明7-寛政3)  林子平『海国兵談』
     ロシアの脅威を訴えたが,禁書となり,子平は蟄居になる.
1789(寛政元年5月)  国後メナシの蜂起反乱(または寛政蝦夷の乱).
     クナシリ・メナシ(現在の標津町付近)のアイヌ達は四代飛騨屋久兵衛益郷の手代らに
     脅されて,僅かな報酬で労働を強いられ,やむなく蜂起し,和人71人を殺害.この
     事態に,松前藩は総勢約260名の大軍を派遣して,ノッカマップ(根室半島オホーツク
     海側)にアイヌを集め,蜂起の指導者37人を処刑した.反乱は戦わずして鎮圧された.
     幕府から不始末をとがめられた松前藩は,飛騨屋から全ての請負場所を取りあげた.


図9a. 林子平
(1738年(元文3年6月)-
1793年(寛政5年6月))
仙台市

林子平『三国通覧図説』の全図と付図の『蝦夷全図』

図9b. 三国通覧図説輿地路程全図
林子平
1785 (天明5)年
大英博蔵 [宮崎 他]

図9c. 蝦夷国全図.
林子平
1785(天明5)年
内閣文庫版の模写
まだ北海道の形になっていない.千島列島は国後島・択捉島・ウルップ島(当時ラッコ島と呼んだ)
以外は多数の小島に描かれている.


図10.蝦夷輿地之全図
天明5年調査隊山口鉄五郎他製作
1786(天明6)年
北海道大学図書館
ようやく北海道らしくなってきた.

林子平友直は仙台藩の人で『三国通覧図説』(1785),『海国兵談』(1787-91)を表わし,海防の必要性を喚起した.
『三国通覧図説』,『海国兵談』を自費出版するが,老中松平定信により危険な書と看做され発禁になり,蟄居処分となり死去.
蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎と号した.高山
彦九郎・蒲生君平と共に「寛政の三奇人」の一人.
後,幕府も海防の必要性を認め,北方の調査が盛んになった. 『三国通覧図説』はその後,オランダ・ドイツへと伝わり,
ヨーロッパ各国語版に翻訳された.地図の正確性には乏しく,特に本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれている
ものであったが,後にペリー提督との小笠原諸島領有における日米交渉の際に,同島の日本領有権を示す根拠となった.

1790(寛政2)  最上徳内『蝦夷国風俗人情の沙汰』付図


図11a. 最上徳内(とくない)(1754(宝暦4)年
-1836年(天保7年9月))
P.F.B. von Siebold, "Nippon" (1832-1882)
九州大学図書館蔵

図11b. 『蝦夷風俗人情之沙汰』付図.
最上徳内
1790(寛政2)年
東京大学図書館南葵文庫蔵
千島列島がほぼ正しく描かれた初めての国産地図.

図11c. 『蝦夷風俗人情之沙汰』付図.(部分)
現地アイヌからの聞き取りのよる千島列島名.
赤字は改訂された新名称.ロシア語序数を
なまったものが多い.
北より赤字名:ヱラヱード(現シムシュ), フトロイ(黒字名:ヲンネコタン,現パラムシル),
セチヲルトイ(現アライド?), ピヤトイ(現シリンキ?), セストイ(現マカンル??), デレテイ
(現??), セリモイ(ポロモシリ,現オンネコタン), 無名1(現エカルマ:方角間違い?) 無名2
(現チリンコタン:方角間違い?) シュンゲモシリ(ウーラリモシリ,現マカンル:方角間違い?),
テヱアトイ(現ハリムコタン?), テチャトイ(現シャスコタン?), ヲリンナツサトイ(現ライ
コケ), テヱナツサトイ(現マツア), デリーナツサトイ(現ラショワ), ゼテーリナツサトイ
(現ウシシル), ベツナツサトイ(現ケトイ), セスナツサトイ(シモシリ,現シムシリ), セム
サスサトイ(現チリポイ), セウセ(現ブロトン), ヲーセムナツサトイ(ウルップ), テヱツナツ
サトイ(ヱトロフ), ツァヲシャートイ(クナシリ).

最上徳内は出羽国村山郡の百姓として生まれ,青島俊蔵や後に出てくる近藤重蔵らと共に蝦夷の調査に従事した.
1798(寛政10)年,徳内7度目の蝦夷調査では,近藤重蔵の配下として択捉島に渡り,「大日本恵登呂府」の標柱を
立てる.
著書『蝦夷風俗人情之沙汰』は蝦夷に関する紹介書として有名になった.

1792(寛政4)  アダム・ラックスマン,エカチェリーナ号(ロフツォフ船長)で大黒屋光太夫らを根室に送還.
     根室で越冬し翌年通商を求め信牌を提出し帰国.
     ラックスマンの用いた地図が大黒屋によってもたらされた.

光太夫は1783年伊勢から米を江戸に運ぶ途中,嵐に遭遇して漂流,8ヶ月後に千島に到着した.1791年6月女帝
エカチェリーナ二世(1729-1796)に謁見し,日本への帰還を嘆願した.このとき大黒屋光太夫を哀れむ歌が流行
した.光太夫ロシア滞在10年後の帰還になる.
大黒屋光太夫の遭難・ロシア滞在・日本帰還については,聞き書きが1794(寛政6)年,桂川甫周著『北槎聞略』と
して纏められた. 同書は現在,亀井高孝校訂(岩波文庫,1990年10月)として入手できる.

ラックスマンは光太夫の送還と共に,日本と交易を望むロシアの態度を表明したが,松前藩によって拒絶され,
むなしく帰国する事となる.


図12a. ヲロシャ人物并小屋内図
ラックスマン一行と大黒屋光太夫.
左から3人目光太夫,5人目船長ロフツォフ,右端ラックスマン.


図12b. 地球全図
桂川甫周『北槎聞略』付図
内閣文庫
国立公文書館
光太夫の持ち帰ったロシアの地図.
原図はロシア科学アカデミー「アメリカ
北部および周辺海域におけるロシア
航行者たちの発見地図」(ca. 1773).
これはロシア科学アカデミー(ミュラー
編)同名の地図(1758)の改訂版[秋月:
p. 180] ただしこれは幕府が秘匿し,
公表されなかったようだ.


図12c. 亜細亜亜墨利加対峙図
『北槎聞略』付図
内閣文庫


図12d. 和製ロシア極東図.
蘆田文庫




図12e. 亜細亜全図
『北槎聞略』付図
内閣文庫

図12f. 魯斉亜之図
長久保赤水
蘆田文庫



図12g. Landeskarte von Japan
ドイツ・ゲッティンゲン大学蔵
大黒屋光太夫が描き,ロシアに残した日本地図.九州が本州につながっている.
手持ちの『節用集』の図を利用したと考えられている.


1798(寛政10)  近藤重蔵,最上徳内と国後島・択捉島に渡り,択捉島に「大日本恵登呂府」の
     標識を建てる.
1801(享和元)  富山元十郎と深山(みやま)宇平太はウルップ島に渡り,「天長地久大日本属島」
     の標柱を建て,ロシア人の植民地を視察.(近藤重蔵『辺要分界図考』)[洞:p. 32]


図13. 近藤重蔵(じゅうぞう)
(1771(明和8)-1829
(文政12年6月))

図14a. 樺太(離島説).
近藤重蔵
1802年
北海道大学蔵

図14b. 樺太(半島説).
近藤重蔵
1802年
北海道大学蔵
この頃は樺太が島か半島の一部かはっきりしなかった.

近藤重蔵は与力の子.1798(寛政10)年松前蝦夷地御用取扱.最上徳内らと共に蝦夷の調査に従事.国後島の
アトイヤから択捉島に渡り,タンネモイに「大日本恵登呂府」の標識を建てる.1799(寛政11)年エトロフ島掛とな
る.高田屋嘉兵衛に択捉航路の調査を依頼,嘉兵衛は1799(寛政11)年エトロフ島航路を発見,以後エトロフ漁場
の開発に尽力した.引退後長男の殺傷事件により謹慎処分になり1829年病死.死後1860(万延元)年に赦免され
た.豪胆で自信過剰な性格が災いした.著書多数あり.


図15a. 国後・択捉の潮流
1790年
北海道大学所蔵
西蝦夷から(左),オホーツク海(中)から,北海(右)
からの3本の潮流が合流して国後島と択捉島の間を
通る強い潮流となる.高田屋嘉兵衛の調査で判明した.

図15b. 高田屋嘉兵衛
(1769(明和6)-1827(文久10))
函館市
1846 (弘化3) 年 国後島・択捉島航路を開き漁業を振興し,
巨万の富を築いた.それらを全て函館の町造りに注ぎ込んだ.
後に1812年リコルドに拉致されるが,ゴロヴニンの釈放に尽力
し,函館に戻った.


1804(文化元年9月)  ニコライ・レザノフ,アレクサンドル1世の親書を持ち,長崎に来航する.
     ロシア最初の公式訪問.仙台石巻の漂流民津太夫ら4名を引き渡す.
     津太夫ららにとっては受動的ではあるが日本人として初めての世界一周となる.
     日本は親書の受け取りを拒否,レザノフは翌1805年4月に退去.

レザノフを代表とする使節団はナジェジダ号 (クルーゼンシュテルン艦長) とネヴァ号を率い,仙台藩石巻の漂流
民津太夫ら4人を同乗させ(通訳善六は津太夫の仲間だが,ロシアに帰化した.カムチャツカで下船),1803年
母港クロンシュタットを出発,デンマーク・イギリス・カナリア諸島・ブラジルに寄港,南米ホーン岬を廻り,西へ向かい
カムチャッツカに到着した.同地から,1804年(文化元年9月6日)長崎に到着した.しかし日露交渉は成功せず,
1805年(文化2年3月20日),空しくカムチャッツカに帰る.
クルーゼンシュテルンはカムチャツカから引き続き西へ航海を続け,1806年ロシア初の世界一周を完成させ母
港に戻った.

日露会談については,『通行一覧』(巻275〜283),『続長崎実録大成(長崎志 続編)』 に史料として残っている.
石巻漂流民は江戸で大槻玄沢に聞き取りをされ,その記録は後に大槻玄沢が『環海異聞』十五巻(1807,文化4年
初夏)として纏めた.
レザノフ著『日本滞在日記 1804-1805』(岩波文庫,2000年8月)(大島幹雄訳.長らくソ連により公開が禁じられ
1994年公開.)を表わす.


図16. Nikolai Petrovich
Rezanov (1764-1807).


図17. Ivan Fëdrovich Kruzenshtern
(ドイツ語表記では Adam Johann von
Krusenstern) (1770.1 Estonia-1846.8).

図18. 視聴草
(レザノフ長崎航海図)
公文書館
レザノフがもたらした世界地図.

図19a. クルーゼンシュテルン作成の地図
1804年


図19b. クルーゼンシュテルン
の改訂地図(部分)
1805年

クルーゼンシュテルンはロシア初の世界一周を成功させ,その記録を『世界周航記』(ペテルスブルグ,1810)
として発表した.この本には観察記録の図が沢山収録されている.「北方地図」とは直接関係ないが,例えば,


図19c. アイヌの男性
クルーゼンシュテルン
『世界周航記』
1810年

図19d. アイヌの女性
クルーゼンシュテルン
『世界周航記』
1810年


1806(文化3)  帰途レザノフと別れた,部下のフヴォストフとダヴィドフが樺太・千島で狼藉を働いた.

腹をたてたレザノフは部下フヴォストフとダヴィドフに(皇帝の訓令無しに)北方の島の攻撃を命じた.彼らは1806年
(文化3年9月)に樺太クシュンコタンを襲い(文化露寇), 次いで1807年(文化4年4月)に択捉島を襲撃した(丁卯
事件).丁卯事件では間宮林蔵は迎撃を主張したが,結局戦わずして国後島に撤退した.後悔したレザノフはサン
クトペテルブルグに戻る途中,攻撃命令を撤回したが,伝達は届かなかったという.この事件は後にゴロヴニンの
捕囚へとつながる.

1808(文化5)  松田伝十郎・間宮林蔵,樺太を北上し海峡を視認.
1809(文化6)  間宮林蔵,海峡を渡り大陸を往復.帰途,アムール川下流域を調査.
     ロシアの探検家ネヴェリスコイは1849年5月30日ペトロパヴロフスクを出発,
     アムール河に向かった.露暦7月22日間宮海峡を確認(間宮の業績は知られていなかった).
     タタール海峡は船舶が通行できることを発見している.[秋月:p. 317f]

クリミア戦争のとき,1855年5月英艦隊に追われて大陸のデカストリー湾に潜んだロシア艦隊はこの海峡を使い
北に逃走した.南を封鎖していた英艦隊と,応援に駆けつけた仏艦隊は,ロシア艦隊が消えたので,狐につまま
れたようになった.事情が判明するのは,1855年10月クリミア戦争休戦協定を結ぶ時であった.[秋月:p. 322]


図20a. 間宮林蔵.
松岡映丘筆
間宮記念館(つくば未来市)

図20b. 間宮林蔵銅像.






図21a. 北蝦夷島地図
1810(文化7)年頃
間宮林蔵
内閣文庫
黒竜江付近で緯度が
3度ほど狂っている.

図21b. 間宮(右)と最上徳内の比較.
シーボルト『日本陸海図帳』
九州大学蔵
最上徳内が間宮のあとを継ぎ
詳細な調査を行った.



1811-13(文化8-10)  ヴァシーリイ・ゴロヴニン国後島で松前藩に捕まる.
     ピョートル・リコルディは高田屋嘉兵衛の助けを借りて,幕府側と 交渉,
     フヴォストフ・ダヴィドフの襲撃は私的な襲撃であるとして和解,
     ゴロヴニンは解放される.
     ゴロヴニンはその捕囚の経験を1816年に『日本幽囚記 1811年から1813年』として
     出版した.翻訳は早くも1825年に出ている.最近のものでは川上満訳『日本幽囚記』
     (岩波文庫,1943年5月-10月/1996年10月)がある.
1821(文政4)  蝦夷地を幕府直轄から再び1799年のように松前藩領に戻す.
1828(文政11)年  シーボルト事件

幕末,シーボルト事件が起きる.来日していたシーボルトに高橋景保が伊能忠敬の作った日本全図(小図)を
贈った.しかしシーボルトの帰りの船が難破したため,幕府の知るところとなり,この地図は没収された.高橋
は国禁を犯す地図密輸の罪に問われ死刑を宣告されたが,獄中で病死した.


図22a. Philipp Franz Balthasar
von Siebold (1796.2-1866.10).
川原慶賀画
長崎県立図書館蔵


図22b. エドアルド・キヨソネ画.
1875年
国会図書館
ただし,キヨソネがシーボルトを
直接写生したものではない.



図23. 伊能原図・高橋編集の日本地図.
国会図書館



図24a. 高橋の日本辺界略図
1809年
九州大学蔵

図24b. 高橋の日本辺界略図
(部分:樺太付近)




図25. シーボルトの著書
に紹介された日本地図
1851年
押収をまぬがれた高橋の地図が
シーボルトの手に残っていた.

高橋作左衛門景保(かげやす,1785(天明5)年-1829年(文政12年2月))は幕府天文方として,天体観測,測量に
従事.1810(文化8)年「新訂万国全図」作成.伊能忠敬の全国測量事業を監督し,忠敬の死後『大日本沿海輿地
全図』を完成させる.(「伊能図」を参照)シーボルト事件で死罪を宣告され,翌年獄中で病死した.父は天文学者
として有名な高橋至時(よしとき).

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月-1866年10月)は ドイツ・ヴュルツブルクに生まれ.
1823 (文政6) 年6月来日,長崎の出島のオランダ商館医となる.1823年4月にはオランダ商館長の江戸参府に随行.
道中,日本の自然を研究,地理や植生,気候や天文などを調査する.1824年は出島外に鳴滝塾を開設し,高野
長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らに西洋医学を講義するかたわら,日本と文化を探索・研究した.
1826年には十一代将軍家斉に謁見.江戸においても,蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保ら
と交流した.徳内からは彼自身の樺太の詳細地図や間宮林蔵の「黒龍江中州并天度」などを手に入れており,
これらはオランダ・ライデン大学に保存されている.ただし最上は25年間公表しないという条件をつけ,シーボルト
はこれを守った.景保には,クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして,最新の日本地図
を得た.1828年に帰国する際,収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり,国外追放処分と
なった.これにより高橋が処分されたのは,運が悪かったと言うべきか.

帰国後,オランダ政府の後援で日本研究をまとめ,集大成として全7巻の『日本』を刊行し,日本学の祖となった.
同書の中で高橋の『日本辺界地図』を発表(1832年刊行),間宮海峡を「マミア・セト」と表記し,その名を世界に
知らしめた.シーボルトによると,クルーゼンシュテルンは「日本人は私を征服した」と叫んだという[洞:p. 65].
1858年には日蘭通商条約が結ばれ,シーボルトに対する追放令も解除された.オランダ貿易会社顧問として1859年
再来日し,1861年には対外交渉のための幕府顧問となる.1862年に官職を辞して帰国.1866年10月ミュンヘンで
死去した.



(2010年1月)

2011.12.06  江戸期以前の図は 「大航海時代」 に移した.
[参考]

[秋月]     秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』(北海道大学図書刊行会,[1999], 2004年8月)
[洞]      洞富雄『間宮林蔵』(吉川弘文館,1990)
[木村]     木村汎『日露国境交渉史』(中公新書,1993年9月)
[露正教会]  第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ
         http://www.orthodox-jp.com/kushiro/1_1.htm

[CCCP]    千島南部/ロシア・日本関連年表
         http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppounenpyou.htm
[宮崎 他]   宮崎克則・福岡アーカイブ研究会 編『ケンペルやシーボルトたちが見た 九州、そしてニッポン』(海鳥社,2009)

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